機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

削ぎ落とされた影の歴史の回復――フアン・ガブリエル・バスケス『コスタグアナ秘史』

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 小説を書く上で必要なリアリティを、小説家はどこから得るのか。最も手っ取り早いのは、自らの経験をそのまま小説に落とし込むことだろう。だがそれにも限界はあり、文豪ジョゼフ・コンラッドもそれに悩んだ一人であった。本作は彼が著した『ノストローモ』(架空の中南米の国「コスタグアナ」を舞台にした作品)の成立を巡る物語である。

 『闇の奥』などの作品で知られるコンラッドは、元々船乗りだった。出身地ポーランドを脱出し、フランス商船の船員として世界各国を回った彼は、その経験を活かして冒険小説の執筆を始める。そうしてコロンビア周辺を舞台にした作品に着手するも、自らの経験だけでは目の前の作品を書き上げるに到底至らないことに気付き、結果として、『ノストローモ』の序文にある通り、彼は「ドン・ホセ・アベリャノス」なる人物の著書『失政五十年史』という本から、大きく着想を得ることになる。

 だが――ここが重要なのだが――実際には『失政五十年史』という本は存在しない。そればかりか、「ドン・ホセ・アベリャノス」という人物も存在しない。つまりコンラッドは、自作の序文にて虚構の存在への謝辞を記しているのだ。

 コンラッド研究者の間では「ドン・ホセ・アベリャノス」という人物は、その経歴などから、コロンビア人「サンティアゴ・ペレス・トゥリアナ」だったと推測されている。

 では、なぜコンラッドは真の情報提供元を隠すような書き方をしたのか? その点に着目したバスケスが著したのが、本作『コスタグアナ秘史』である。

 バスケスは、サンティアゴ・ペレス・トゥリアナという人物にも更に情報提供元があったとして、語り手であるホセ・アルタミラーノという人物を新たに創造する。アルタミラーノの饒舌な語りから述べられるのは、文化盗用的なコンラッドへの糾弾と、歴史に翻弄される家族の無力、そしてパナマ運河建設を巡るコロンビア史——コンラッドが『ノストローモ』で語らなかった、「コスタグアナ」という架空の国家へ置き換える際に削ぎ落とされた、パナマ独立を巡るコロンビアの影の歴史——だ。

 語り手は、『ノストローモ』から零れ落ちた部分、すなわち真のコロンビアの姿とそこに生きたホセ・アルタミラーノ=「自分」という存在を再び復活させようとして、物語を懸命に語る。国家と個人とをオーバーラップさせつつ、『ノストローモ』成立の逸話を語るこの物語は、国家という集合体に押し潰される個人と、現実を写し取った小説が抹消した個人という二つの存在をも同時に示し、途方もない哀切さとひたむきさに満ちている。

 

 作者であるフアン・ガブリエル・バスケスは一九七三年生まれ。「ラテンアメリカ文学魔術的リアリズム」という十字架を背負わされた新しい世代の作家である彼は、「ラテンアメリカ文学」の伝統を受け継ぎつつも、新たな領域へ挑み、ラテンアメリカ文学の拡張と再建を試みている、とのこと。今後の活躍に目が離せない新進気鋭の作家だ。