筒井御大のお誕生日記念企画第2弾。
京大SF研では1回生に自分の好きな作品のレビューを書いてもらって、それを会誌(『WORKBOOK』)に載せる……という文化があったのだが、当時激尖りしていた僕は、みんなが1000字くらいに収めるところを以下のように6000字以上書いて、ろくでもない悦に浸っていたというわけである。全くろくでもない。しかしまあ、最後の方を読むと、今と言ってることの根幹は全然変わってないですな。
『虚人たち』はメタフィクション小説である。
私はいま、レビューを書き出した。書き出したは良いが、そもそもメタフィクションとは何だろうか。本論に入る前にしばし立ち止まって考えてみたい。
「メタ」という接頭辞そのものは「高次な‐」「超‐」といった意味のギリシア語である。だが「高次な作り話」「超虚構」と換言しても感覚的理解にはなかなか結び付かない。
メタフィクションの定義付けはパトリシア・ウォーや巽孝之、由良君美などにより試みられているが、正直に言ってどれも厳密かつ専門的で、序論に掲げるにはふさわしくない。できるだけ平易な定義として、過去のWikipediaにて「典型的なメタフィクション的仕掛け」として記載されていたものを引用すると、以下のようになる。
一 小説を書く人物に関する小説。
二 小説を読む人物に関する小説。
三 表題、文章の区切り、プロットといったストーリーの約束事に抵触するストーリー。
四 通常と異なる順序で読むことができる非線形小説。
五 ストーリーに注釈を入れつつストーリーを進める叙述的脚注。
六 著者が登場する小説、監督が登場する映画やドラマ。
七 ストーリーに対する読者の反応を予想するストーリー。
八 ストーリーの登場人物に期待される行動であるがゆえにその行動をとる登場人物。
九 自分がフィクションの中にいる自覚を表明する登場人物(第四の壁を破る、とも言う)。
一〇 フィクション内フィクション。
六などはしばしばマンガで見られる表現であるし、一〇は夢野久作『ドグラ・マグラ』内に登場する『ドグラ・マグラ』という書物や、竹本健治『匣の中の失楽』でナイルズが書く推理小説などを連想していただければお分かりになるだろう。いわゆる「枠小説」もこれに該当する。
九はベルトルト・ブレヒトの戯曲で頻繁に用いられた技法で、舞台の両脇とその三面の壁に対して、舞台と観客との間の壁としての「第四の壁」を意識的に破壊し、観客に自らが観ているこの劇が虚構であることを絶えず意識させる、すなわち異化効果を与えることを意図して書かれたものが多い。裏を返せば、観客を虚構内へ嵌入させる行為とも言える。
このまま逐一例を挙げると瑣末になる。先ほどの十項目の共通項を分析してみよう。
そもそも本というメディアは、読者と作者の暗黙の了解の上に成立している。例えば、小説ならふつう表紙から裏表紙まで順に読むことに「なっていて」その通りに読めば展開を追うことができるとか、更に根本的なところでは、印刷された文字は上から下へ、右から左へ読み進めることになっているといった至極当たり前のルールである。
だが、そのようなルールは一日にして諒解されるものではない。かつて出版の萌芽が生じ、「本」という媒体が読み手に十分かつ継続的に供給されるようになって初めて、暗黙ゆえに確固たる規則が成立していったのである。
メタフィクションとは本来、読み手と書き手の間に存在する空気のような規則を打ち破るためのもう一つの「規則」であった。その観点から見ると、先ほどの10項目から浮かび上がってくるものがないだろうか?
だがここで重要なのが、同時に規則を破る規則である以上、メタフィクション自体もある種の「お約束」的な読者・作者間の戯れという枠に囚われざるを得ないという、代え難い事実である。
先に挙げた評論家・巽孝之は著書『メタフィクションの思想』冒頭にて「かつてメタフィクションは二〇世紀後半を彩るアンチ・リアリズム文学の最尖端と見られていた。それは「文学は現実を模倣する」という古典主義的前提に則るフィクションの諸条件を根底から問い直し、最終的にはわたしたちのくらす現実世界の虚構性を暴きたてる絶好の手段だった」と述べている。全て過去形であることにご注目いただきたい。メタフィクションがいくら虚構の虚構性を高め、極限にまで達したとしても、虚構の外部に鎮座する「作者」それ自体の存在を浮き彫りにする機能をも同時に強化してしまう哀しきパラドックスは決して解消されることはない。フィクションの前提条件を切り崩すスリルを味わうメタフィクションの構造が、メタフィクションを人畜無害な読者・作者間の遊戯にしてしまう矛盾は、目を背けることは簡単だが、道に横たわる巨大な礫として切り崩されることなく存在し続ける。
では文学は何もしてこなかったのだろうか? いや、決してそうではない。
筒井康隆自身も『虚人たち』執筆後初の長編として『虚航船団』を上梓し、メタフィクションの読者を虚構外へ連れ出し感情移入を阻害する機能を更に推し進め、フィクションがフィクションとしてできることを濃縮し、文房具への感情移入を読者に要請している。また近年では、石原慎太郎に「言葉の綾とりみたいなできの悪いゲーム」などと酷評された第一四六回芥川賞受賞作「道化師の蝶」の作者たる円城塔はメタフィクショナルな実験(本人曰く「ただ見たままを書いている」のだが)を行っている。
少々筆が滑ったようだ。イントロダクションはここまでにして、『虚人たち』のレビューに入ることにしよう。
本作には作者がそれまで暖めてきた実験的手法が数多く内包されている。
今のところまだ何でもない彼は何もしていない。何もしないことをしているという言い回しを除いて何もしていない。(『虚人たち』)
この書き出しから既に、作者から読者へ、この物語の特殊性の宣言がなされている。佐々木敦は『あなたは今、この文章を読んでいる。』の中で、この二文には三つの次元が存在していると指摘する。すなわち、
一:「である」
二:「『Aである』と書かれた/読まれた」
三:「「『Aである』と書かれた/読まれた」ということはXである」
の三つである。メタフィクションは三によって一から二を切り出すことで生成される。だが、この事実は読者の意識内に常に存在するものであり、自明であるからこそ、ふだん意識上に登ってはこない事実である。そうしたあらゆる小説の前提の強調、つまり虚構性の前面化とそれを主題とする小説であることが、物語が叙述されると同時にそれが批判されてゆくという『虚人たち』全編に通底する文体で早くも提示されている。
筒井康隆が『虚人たち』へ持ち込んだ手法は演劇由来のものが多い。筒井自身の学生時代に演者として舞台へ立った経歴が作用した側面も多分にあろうが、そもそも小説とは虚構の表現形式として最後に確立されたものであることは、その形式的自由度が雄弁に物語る。原始の祭式儀礼をベースメントに演劇、戯曲が生まれ、その末裔として現在の小説は成立する。すなわち小説には現実との間に演劇という便利な手本が介している。演劇とはそもそも演じられるドラマと演じることそれ自体のドキュメントが重ね合わされる特殊な虚構の形態であり、「そろそろ演劇の美学の呪縛を逃れて現実そのものに立ち返る必要がある」と述べる筒井は自身の演劇・戯曲経験を還元し小説に応用したのであろう。
先に引用した文は、執筆中に『野性時代』に連載された、『虚人たち』創作ノートの様相を呈するエッセイ「虚構と現実」(『着想の技術』新潮文庫)による。この中で筒井は、自身の目指すフィクションの様相を「時間」「社会」「人物」「事件」「場所」「性格」などの要素に分類し、手法の原点・意図について記しており、以下ではその分類に従いつつ手法を紹介していく。
まず時間について。エッセイ「虚構と現実」内で「時間の均質性・恒常性を表現した小説がないのはむしろ不思議」と述べ、今までの小説が省略してきた時間の中に小説の美学を発見=「忘れられた時間の復権」を目指すと記されている通り、この小説は厳格に定時法に則って書かれている。具体的には「原稿用紙一枚=一分」というルールに則り、物語は進行していく。普段あまり意識することはないが、通常の小説では現実の時間の流れの直線性・恒常性は失われている。時間の流れは必ずしも一定ではないし、主人公が移動している時間や寝ている時間などの描写は省かれる。ストーリーに不要な場面では省略が行われるし、逆にほんの一刹那を描くのにも必要とあれば字数を割いて濃密な描写がなされることもある。他にも唐突に(通常それは唐突ではないのだが)登場人物の回想が入るなど、作中時間の伸張及び往復は自由に行われるのが普通である。
だがこの小説では時間の流れが描写される時間(=主人公の意識の流れ)と完全に等質化されている。車で移動するのであればその風景が描写されるし(P.57「あなたはなぜそんなにまるで描写するように町並みの店店を眺めるのですか」、以降頁数はすべて中公文庫版『虚人たち』準拠)食事中であればその味やら歯応えやらの描写(P.69「なぜそんなに描写するような食べかたをするのです」)に字数を費やす。極端な例では主人公が気絶している間は真っ白なページが数ページ続き、それがさも当然かのように物語は続く。そして時間の流れと描写との一致を目すゆえ、文体は過去形ではなく現在形で貫かれており、鉤括弧付きの台詞が入る箇所以外改行はなく、更に読点に至っては一つ足りとも存在しない。
また、この小説では「現在の意識を持ちつつ時間を移動する」ことが可能である。これは我々が入眠中の夢において現在の意識を持ち得るままに幼少期に回帰するような時間体験を小説で描写する試みである。これにより、主人公は事件が終了した後の出来事などを知ることができ、モザイク状の時間を自由に往来する。カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』にて主人公ビリーやトラルファマドール星人が、決定された運命への介入は不可能だが、自分が思う人生の瞬間を選んで焦点を合わせある種の「時間移動」を行う描写を思い描いて頂ければよい。
場所について。三人称の小説では作者がいわゆる「神の視点」から出来事を描写し、読者は神の視点から描かれる同時性を驚くほど素直に受け入れている。だが一方で、作者は同時性を謳いつつも任意の場面展開で時間の均質性を破ることができるのだから、これは読者・作者間の取り決めに過ぎず、読者は神の視点=作者の視点という取り決めに諾々と従っているに過ぎない。相互の諒解に依存する以上、付随する他の約束事は更なる馴れ合いを生み出すばかりであり、そもそもの諒解を瓦解させるところから始めなければならない。しかし瓦解させ新たな諒解を取り決めたところで、結局諒解は諒解に過ぎず、馴れ合いの再生産が進むのみである。
では一人称ではどうか。一人称小説では、主人公がある事件の発生を知覚する瞬間と作中で事件が発生する時刻は字面上=読者の認識上同時であると言える。これを発展させたのが読者の認識と主人公の経験の同化、つまり過去の事件を「現在知り得た事件」としてではなく、その事件が発生した時刻においては別の場所で別の行動をしていた主人公に、同時にその事件をも経験させる手法である。「同場性」とでも言うべきこの手法は「遍在性」とも換言可能である。例えば、Aの場所でB行為をしている人物が場所CでD行為をしていてもよく、これは一種の遍在である。
人物について。この小説における登場人物は、我々が自らを現実内存在であることを自覚しているのと同様にして、己が「虚構中の登場人物」であることを意識している、すなわち筒井の言葉で言う「虚構内存在」である。現実世界で我々は現実に虚構を重ね合わせ、自他を問わず「主人公」「脇役」の配役を振り分けたり、卑近に「もしこれが小説であったなら」に類する問いかけを成したりする。だが現実世界に「主人公」は存在せず、単に現実を虚構視しているに過ぎない。
ただこの虚構視が自らの現実的存在を前提としている以上、虚構内でそれを徹底するには登場人物が自らが虚構的存在であるという前提を認識せねばならない。「新しい虚構的存在の創造ひいては新しい虚構の形式の発見」を目する筒井は、演劇的人物造形、すなわち現実の人間が演ずる人物としての登場人物を「擬似現実的存在」とし、「真の虚構内存在」を試作する。現実から峻別された「完全な真空」を構築する試みであるにも関わらず、筒井はその目標について「読者がその小説を読んで現実存在である自分を虚構内存在ではないかと疑うか、そこまでに及ばなくとも少くとも作中人物が悩む非存在感に似たものを少しでも抱くかどうかにかかっている」と述べ、最終目標が読者=現実への波及であるとし、パフォーマティヴに読む行為を捉えているのは興味深い。
具体的には、この小説の主人公であるとされる「木村」はこの小説を描写する役割を与えられてはいるものの、自らの置かれた状況を全く知らないまま物語は開始される。鏡を覗いて自分が中年の男性であることを知り、玄関の表札を見て自分の名前を知るといった具合である。こういう場面ならば登場人物はどのように行動すべきか、相手の出方によって小説的にはどのように反応すべきか、これは作者の張った伏線ではないか、などということを随時自己言及的に考えながら行動する。
事件について。デビュー直後は「疑似イベントSF」作家として名の売れた筒井は、現実を疑似虚構に堕したとして、現実を描く虚構は「現実の疑似虚構性を強調したいわゆる疑似イベントもの」あるいは「虚構こそが真の現実という逆説」の二択を迫られているとした。だが前者は現実の疑似虚構性を強調した虚構を現実が模倣するいたちごっこにしかならないとして、後者を追求することとなる。社会に大きな事件が起きることを描くだけでは前者と代わり映えしない。故に個人の身に同時にいくつもの事件がふりかかる物語として虚構性を高めることに成功している。
物語の終盤、『虚人たち』は筒井の過去作『脱走と追跡のサンバ』との連続性をあけすけに示す。誘拐された妻と娘を助けられず全てを失った主人公の悲しみは、既に書き終えられた『虚人たち』という小説において、自らを虚構内存在と知る主人公だからこその諦観であろう。読まれることによって何度でも起動するものの書き終えられた『虚人たち』は実体的な変化を起こさない。逃れられぬ定めを知りつつも物語を進行する主人公、そしてその「純然たる虚構」であるものの内面にまで踏み込み、通常の小説における登場人物同様の感情移入を抱かせる不可思議さこそが、『虚人たち』がメタフィクションのマイルストーンとして認められる所以である。
そして本作は、テレビ画面に始まりテレビ画面に終わる。スクリーン上に展開されるドラマはテレビ局から電波で送られてくるのであって、テレビをかち割ってみたとしても決してその中に実体など存在しない。虚構とは何か。裏返して、現実とは何か。余韻を残しつつ『虚人たち』は終わる。
私が『虚人たち』に、ひいてはメタフィクションに心惹かれるのは、結局「普通の小説」とは違う楽しみを、『虚人たち』に限ればラディカルな楽しみをもたらしてくれるからである。あまりに自明な前提を眼下に引きずり出し、ぶち壊し、新たな世界を構築する。そのスクラップ&スクラップな精神にノックアウトされているのである。
確かにメタフィクションは構造自体に矛盾、哀しきパラドックスを抱えている。しかしそれを指摘し改善する読み手もいれば、その場に甘んじて、自動ピアノのような不確定性、デフォルメされた虚構による不条理、そして現実へのゆらぎ、そんなものを享受する読み手もいて良いのではないか。作者の手の内にいようがいまいが、分かっていようが知らないままであろうが、作品はそこに存在する。
「なぜこの作品が好きなのか?」という問いに鮮やかな解答を提出できることは稀である。よいですねー、すごいですねーに類する淀長言語で語るのが関の山である場合が圧倒的に多い。そんな中、割合まっとうな答えを用意できる作品に出会えた者は幸せである。用意できなくとも、せめてもの解答を求め、もがけるだけの意欲を、活力を得られたならば、それだけで十二分に恵まれている。
無論私もその一人だ。