機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

現実認識を変えるために脳6つを要求する異星人を巡る、異色言語SF――イアン・ワトスン『エンべディング』

 

 

 バベルの塔の崩壊以来、言語の統一は人類の悲願である。だからこそ人類は、「言語」という謎めいた、しかしありふれたものについて学術的興味を抱き続けてきた。本作で下敷きにされており、他の数多の言語SFでもモチーフに使われているサピア=ウォーフ仮説もその一つの結実である。
 サピア=ウォーフ仮説とは、簡単に言えば、我々の思考・認識は使う言語に影響されているということだ。言い換えれば、言語が違えば同じものに対してであっても、異なる認識を得るということである。本作の主人公は、その考えに則り、隔離された研究所の環境内で子供たちを育てるという人権ド無視の仕事に就く言語学者である。彼を含めた研究チームは、『ロクス・ソルス』で知られるフランスのシュルレアリスム文学者レーモン・ルーセルの『新アフリカの印象』内の言語体系のみを子供たちに教育し、彼らがどういった現実認識を抱くのかを調査している。この『新アフリカの印象』というのが難物で、多重括弧内で繰り広げられる超絶技巧の韻文であり今なお邦訳はないという代物だ(英訳はかろうじてある)。こうした既存の言語体系ではあり得ない構造――自己再帰〈エンべディング〉――を持つ言語を幼児期から刷り込むことで、あらゆる言語の源である普遍文法の構造を探ろうとしている訳である。
 ところ変わってアマゾン奥地では、そうした埋め込み構造を持った言語を話す部族がいた。彼らは言語を通常時とドラッグ使用時で二種類の言語を使い分け、「現実」の概念を変容させている。そしてその言語の中では時間の概念がなく、過去も未来も全て現在のものとして表現されてしまう――だから、彼らには直線的な時間認識は存在しないという。この辺りはテッド・チャンあなたの人生の物語」を参照すると分かりやすい。
 さて、そこに現れたるは何と異星人。彼らは高度な技術を地球人に供与する見返りに、強い埋め込み構造を持った人間の脳を6つ雁首(?)揃えて持ってこい、と奇妙な注文を付ける。彼ら曰く、現実が言語に規定されている以上、〈この現実〉から〈別の現実〉へと脱出するには、通常の言語以上に埋め込みの強い言語が必要であり、その習得には稼働状態にある生きた脳が必要なのだという。脳の確保に奮闘する人々。アマゾンのダム建設を巡る政治的駆け引き。サピア=ウォーフ仮説から現実認識の変容へと飛躍する壮絶な奇想の行方は果たしていかに。
 紙幅が尽きたので詳しくは述べられないが、最終章付近での『新アフリカの印象』をブチ込まれた子供の現実認識描写は、統合失調症の発症段階の一つであるアポカリプス期(知覚されるものの意味の連続性が破綻した状態)を連想させ興味深い。この悪夢的描写は見事。はっきり言ってアマゾンの民族を巡る文化人類学的描写はカルペンティエールを思わせて面白くない(西洋文明のカウンターとしてアマゾンとか持ち出すのはもういいでしょ)し、そもそもサピア=ウォーフ仮説というのは今となってはかなり眉唾ものではある。だが、SF小説としては出発点がウソであっても、以後の論理展開が本当らしく描かれていればそれでいいのであって、本作では割合それに成功していると言えよう。

 

 

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全レビュー用。字数制限がきつい(自分が設定してるのに……?)。

アポカリプス期云々のところはいつかもう少し掘り下げたい気持ち。