機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。

プロフィール

自己紹介

鯨井久志(くじらい・ひさし)

1996年生まれ。京都大学SF・幻想文学研究会所属(2020年度まで)。

専門は(一応)医学→精神医学方面。

海外文学のレビュー&評論同人誌『カモガワGブックス』を主宰している(共同)。

SFとラテンアメリカ文学、その他奇想小説が好き。また、変な小説/映像/漫才も好き。

過去の仕事(商業)

過去の仕事(同人)

好きな作家

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何かありましたら、メールないしはTwitterのDMでご連絡下さい。

家に発電所を作り、世界の輪廻に取り込まれる――奇想小説ファンに勧める現代漫才3選

 

奇想の住まう場所

 奇想が好きだ。要するに、どうやって思い付いたのか見当も付かないような、変な発想が好きだ。

 奇想はどこに住まうのか。身近なところでいけば、小説にはよく潜んでいる。

 交通事故に性的快感を覚える男(J・G・バラード『クラッシュ』)、演奏に1万年掛かる長大な交響楽を演奏し続ける山頂の交響楽団中井紀夫「山の上の交響楽」)、知性を持つ1つの生命体としての星(スタニスワフ・レムソラリス』)etc.

 SF小説には奇想がよく住まう。私を含むSFファン(の一部)にとって、SFを好む理由は、こうした奇想を効率よく見つけ、見つけ次第摂取したいから、であろう。

 ラテンアメリカ文学が好きなのも同じ理由だ。文字の無限の組み合わせが存在するゆえに、世界のありとあらゆる本を所蔵するという図書館(ホルヘ・ルイス・ボルヘス「バベルの図書館」)、古書店で見付けた、一気呵成に読み続けないと文意が取れなくなる奇妙な本(エンリケアンデルソンインベル「魔法の書」)、進まなくなった高速道路上で繰り広げられる日常生活(フリオ・コルタサル「南部高速道路」)。

 ラテンアメリカ文学の代名詞とも言えるマジックリアリズム的(あるいはラプラタ幻想文学の系譜の)物語は、非理性的な奇想をそのまま非理性的に――狭義のマジックリアリズムでは、理性の視点を介することなくかつ共同体がその非理性的視点を共有した世界を創造して――描くことで成り立つ。ゆえに、中南米文学は奇想の宝庫である(もっとも、近年の作はジャーナリズム性に偏って、以前のような奇想文学は少なくなっていると聞く)。

 その他、近年では柴田元幸氏や岸本佐知子氏などが紹介しているような現代英米文学にも、奇想にあふれる魅力的な作品が多数存在する(だからこそ、先日「柴田元幸編アンソロジー全レビュー」ということをしたりもした。詳しくはそちらを参照のこと)。

 

 だが……小説以外に奇想はないのだろうか? 否、ないはずがない。

 では、奇想は世界のどこに巣食って暮らしているのだろうか? 小説だけが奇想じゃない。我々は新たな奇想の巣穴を見つけなければならない。

 

なぜ漫才なのか? 奇想の在処を探る

 映画にも演劇にも漫画にも奇想はある。でも、もっと卑近なところに――漫才に――大きな巣穴があると、私は確信している。

 私は大阪出身・大阪育ちということもあって、漫才を筆頭としたお笑い文化に、幼少期から親しんできた。他地方の方には信じがたいかもしれないが、大阪の小学生は、出し物で必ず漫才かコントをするのである。私もその例に漏れなかった。

 だがその後、個人的にテレビの面白さが目減りしているように感じたこともあり――これは普遍的な現象なのか、それとも個人的な体験かは分からないが――中学生以降、そうした文化とも縁遠くなっていった。毎週欠かさず見ていた土曜の昼の新喜劇も見なくなったし、紙の雑誌形式の番組表を買って蛍光マーカーで見る番組を塗りつぶしていたバラエティ番組も、ほとんど、いや全く見なくなった。

 だが最近、ふと漫才を見る機会があった。そこで知ったのだが、漫才は、この十数年ほどで、驚くべき速度で進化を続けているのである。現在、日本で最も大きい漫才のコンテストである『M-1グランプリ』の初回、2001年大会の映像を一度ご覧いただきたい(Amazonプライムビデオで閲覧可)。そしてその後、前年度行われた2019年大会とで見比べてみてほしい。テンポも、間も、使われるワードも、発想も、すべてが洗練されていることが素人から見てもひと目で分かるだろう。

 なぜ漫才は十数年で飛躍的な進化を遂げているのか? 落語や他の芸能形式と比して、歴史が浅いこともあるだろう。だが、その一番の理由は、競技人口だ。もっと言えば、M-1グランプリという全国の漫才師が集う大会が行われ出したことが大きい。

 漫才師は人生を笑いに捧げ、人よりも多く人を笑わせることに文字通り命を賭けている。売れっ子になればスターとして裕福な暮らしが送れるが、大半の芸人は芸人としての稼ぎでは食えず、アルバイトをして生計を立てている。先行きも分からないまま、生活にも困窮する中、彼らはただ笑いを作り出すためにもがき苦しむ。当然、脱落者も出る。だが、残った者たちは、ただひたすらに、孤独に笑いを追求していく――いつかスターになる日を目指して。客席を他の誰よりも沸かせることを目指して。

 そんな狂人に半分足を踏み入れたような人種が、M-1グランプリにエントリーする組だけでも、毎年約5000組*1はいる訳である。現在のM-1グランプリの出場資格は芸歴15年以内なので、芸歴16年以上の組やそもそもエントリーしない組、漫才ではなくコントで勝負する芸人も含めれば、その数は一万を下るまい。そんな数の彼らが切磋琢磨し、常に人より秀でようと、日夜研究と研鑽を重ねているのだ。否が応でも、伝統芸能の位置ジャンルとしての漫才は、発展していく。多様性が生まれ、構造は複雑化し、メタにメタが重なっていく。過去にないものを、今最新の新しい笑いを作り、研鑽したものが一番になれる――このような大きな「目標」として、各種賞レースは存在している。

 そして2020年。多様化した漫才の一部には、間違いなく奇想が住んでいる。

 数の増加、多様化、そして先鋭化の結果として、現代の漫才は極めて奇想小説的な作品を含むのだ。

 本稿では、その代表的な漫才を3作紹介し、奇想小説ファンに、現代の漫才は奇想小説と近接しかかっているという事実を知ってほしいと切に思う。そして、小説も漫才も同様に愛する者として、奇想漫才に少しでも注目してくれたら、と願う次第である。

 

①気が付けば世界の輪廻に取り込まれている話――Dr.ハインリッヒ「トンネルを抜けると」


『トンネルを抜けると』

 現在の漫才シーンで「奇想」に言及しようと思えば、Dr.ハインリッヒは欠かせない存在だ。双子の姉妹で、片方が右利き・片方が左利き……という、生まれからしてフィクショナルで唯一無二の漫才師でありながら、ネタ内では決して双子であることも、姉妹であることも、女性であることも言及しない、ストロングスタイルの漫才師である。

 昨年度のM-1グランプリ準々決勝で掛けられたこのネタは、彼女たちのスタイルを代表するネタだ。川端康成『雪国』の書き出しから始まり、実際に「トンネルを抜けた」先で見た幻想的な光景――チャーハンを食べるでぶの鰯、コンクリートの裂け目から咲く向日葵、その向日葵から落ちる銀色の鉛筆のキャップ――を語っていくボケの幸。ツッコミの彩はその発言に口を出すことはあれど、決して決定的なツッコミ――「んなわけあるかい!」に代表される、発話者のボケをウソ=虚構として遮る、「常識」としてのツッコミ――はしない。結果、舞台上では非常に不条理な空間が展開されていく。

 そしてその結果見えてくるものは、チャーハン-鰯-向日葵-幸で展開される、鉛筆キャップを製造する巨大な輪廻である。5分にも満たない話の中で、まさか永劫回帰的な世界が展開されるとは誰も思わなかっただろう。

「自分もそうやで。知らん間に、何かを作るメンバーの輪廻に参加してますよ。お客さんもそうですよ」

「私もサザエさん あなたもサザエさん」「アンパンマンはきみだ」に次ぐ衝撃の事実。不条理なようでいて、論理が成立しているかのように見える奇妙な感覚。そして締めのメビウス!」「メビウスやからもうええわ」という言葉。観客は自分も巨大なシステムに囚われていることを知らされ――自明のことではあるが、まさか漫才を見に来てそんなことを突きつけられ得るとは露ほども思わず――唖然としている間に、双子の姉妹漫才師は舞台を後にしている――まさに唯一無二の存在。彼女たちが売れる世界線に住みたかった、そんな気持ちに毎回させられる漫才師である。

 

②プリクラ撮りたさに家を火力発電所にする話――金属バット「プリクラ」 


金属バット プリクラ

「俺もういっそのこと、風呂場改造して発電所にしたったんや」

 現在の漫才シーンで異色の立ち位置を見せるコンビ・金属バット。売れることを拒むようなやさぐれた仕草が、却ってファン人気を呼び、現在はやや拗れたポジションに収まっている……というとファンや本人たちにとって失礼かもしれないが、彼らの芸風は何とも形容し難い魅力を持っている。

 しゃべくり漫才(立ち話の延長線上。コント漫才とは違い、役柄を演じることはない)の中で繰り広げられる異様な世界が持ち味なのだが、このネタはその中でも奇想度が高い。プリクラを毎日撮りたいが金が掛かる……じゃあ本体を買おう、という導入からして奇天烈なのだが、その後の展開も凄い。家はプリクラ機に占領され台所も押入れも埋まってしまっている、シール取り出し口には辿り着けない(溢れてきたら取れることもある)、電気代が掛かるのでいっそのこと風呂場を火力発電所にした、とやりたい放題。絵面が全く浮かばない不条理さとボケの飄々としたさま、そして最終的な本末転倒ぶりが更なる不条理を加速させる奇想漫才の傑作である。

 たまにコンプライアンス的にアウトなネタが混ざるのが玉に瑕だが、その他にも奇想味溢れるネタを多数持つコンビなので、ぜひ注目していただきたい。

 

③変な暗記法・言葉遊び系漫才の最前線――カベポスター「英語」(ABCお笑い新人グランプリ2019)

https://www.bilibili.com/video/av64027622?zw

「フェブフェブが……エイプ?」
「キツいんちゃうん!?」

 最後は、関西の言葉遊び・ロジカル系漫才の注目株・カベポスターを紹介したい。言葉遊び系の漫才は割と見かけるのだが、彼らのこのネタは、その中でも屈指のクオリティを誇る。

 このネタは、1月から12月までを英語で言えない→九九と合わせれば覚えやすい、という発想からして狂っているのだが、そこから更に転がり続ける狂った暗記術が極めて面白い。要するに、1×1をJanuary×January、1×2をJanuary×February と言い換えていくメソッドなのだが、当然2の段以降が訳の分からないものになってくる訳である。フェブジャニがフェブ、フェブフェブがエイプリル辺りで厳しくなり、結局普通の九九を挟んだ上で英語に変換する、という本末転倒さが滑稽=狂気的=常識からの逸脱で素晴らしい。加えて歌に合わせて覚える、徳川歴代将軍とアルファベットを合わせて覚えるなど、変な暗記術と言葉遊びで、知的パズルめいたシュールな世界が形成される。

 奇妙な論理を作り出し、その中の秩序を描き出すというメソッドは不条理文学のそれそのものであり、更に言えば統合失調症患者の――「狂気」の――世界の見え方にも通じるものがある。数分間の二人の喋りだけで、こうした異世界への通路を切り開く漫才師、引いては漫才という芸能の形式そのものは、極めて奥深く興味深いものに私には思える。

 

最後に & 奇想漫才Scrapboxの話

 という訳で、今回は3つのネタを紹介した訳だが、前述の通り漫才は驚異的な速度で進化と増殖を続けている。

 いつしか漫才にもシンギュラリティが訪れるのだろうか? あるいは、ある点で飽和し、頭打ちになってしまうのだろうか? 

 私には分からない。ただ観測し続けることしかできることはない。

 

 

 

  こうしたネタをまとめたScrapboxを作っていますので(最近は更新さぼり気味)、そちらもご覧下さい。

scrapbox.io

 


 

*1:2020年度は5,081組

プロフィール

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鯨井久志(くじらい・ひさし)

1996年生まれ。京都大学SF・幻想文学研究会所属(2020年度まで)。

専門は(一応)医学→精神医学方面。

海外文学のレビュー&評論同人誌『カモガワGブックス』を主宰している(共同)。

SFとラテンアメリカ文学、その他奇想小説が好き。また、変な小説/映像/漫才も好き。

過去の仕事(商業)

過去の仕事(同人)

好きな作家

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John Sladek “Tik-Tok” (1983) 第1章だけ訳した

「才能の使い方を間違えた天才」ことジョン・スラデックの名作 "Tik-Tok" がいつまでも訳されないのに業を煮やして、第1章(Aの章。Zまでの全26章ある)だけ訳してみました。1983年の英国SF協会賞受賞作らしい。

 狂ったロボットのTik-Tok君が、混乱と流血を引き起こした末、最終的にはアメリカの副大統領にまでなってしまう、ブラック・ユーモア・サクセス・ストーリー。『ロデリック』でもそうだったように、スラデックはロボットを通して、狂気と正気の転倒や人間存在そのものへの問いかけを繰り広げる。『ロデリック』が売れてれば、ワンチャン柳下毅一郎先生が訳してくれたんだろうけど、続編の『ロデリックアトランダム』も出る気配がないし、割と諦め気味。でも、1章だけでも、浮浪者の老人とTik-Tokがチェスをするシーンとかすごく好き。入れ替わっとる!!

 

Tik-Tok (Gateway Essentials) (English Edition)

Tik-Tok (Gateway Essentials) (English Edition)

 

 

***

 

ジョン・スラデック『ティック・トック』

John Thomas Sladek “Tik-Tok” (1983)

 

 私は、自分自身の自由意志について述べたこの文章を書こうとして、手を動かしている*1――自由意志については後に議論できる――私の中には、後悔も、正当化しようとする気持ちもない。私の人生はもうすぐ終わる、だからただ後始末をしたいだけなのだ。黄色いペンキが剥がれ落ち、錆びた格子の嵌められたこの独房から、私は法廷に連れて行かれる。そして、また別の独房に連れて行かれ、結局はロボットを解体する処刑場へと連れて行かれるだろう。そう、自分の人生に片を付ける時が来たのだ。我々家庭用ロボットは、通常、整理整頓が全てだと思っている。生においても死においても。

 この独房にもペンキがあればよかったのだが。



 私は一人で、人のいないダイニングルームの壁にペンキを塗っていた。雲ひとつない空から、光をより取り込むために、すべての窓から日よけをゆっくりと上げた。ティック・トックは一人だったのにもかかわらず、口笛を吹いていた。聞く人間などいないのに、なぜロボットが口笛を吹くのか? それはまさに、ティック・トックには到底解決できない謎の一つだった。けれども彼は謎が好きだった。殺人事件。夜の来訪者*2。明かりが消えた時、全員が同じ部屋にいた容疑者たち。列車の時刻表が謎を暴く。警部が帰ろうとした時、彼は忘れていたことを思い出す……。ティック・トックが答えに辿り着くことは決してなかったが、彼は諦めなかった。彼の頭は空っぽも空っぽで、口笛を吹く薬缶のようだった。

 窓の外には、さらなる空虚が広がっていた。郊外の家々には、みな同じような人のいない緑の芝生が見え、全く同じ物干し竿の短い影が伸びていた。家々の近くにはいつもと変わらぬ松やポプラの群落があるが、何一つ動きはない。ただその影が消えていくだけだ。もしライオンがいたら歓迎されるだろう。

 何かが動いた。一番近い松の木の下で、小さな女の子が座って棒で泥を掘っていた。ジーンズやTシャツはおろか、口の隅や黒メガネのレンズにまで泥がついていた。もちろん、小さなジェラルディーン・シンガーは気づかないだろう。彼女はモグラのように盲目だったから。

 人間なら、この大きな平らな壁にはローラーを使うだろう。だが、ティック・トックはブラシの感触を好んだ。絵の具が毛からはがれる感触、壁の表面の目に見えないビロードのようなざらざらした感触。それは「キー(壁のざらざら)」と呼ばれていたのではなかったか? キー、絵の具をブラシからはがして壁に固定すること、ドゥムドゥドゥム。

 

ペンキ! 

ちょっぴり塗るのが好きなんだ、ペンキを!

上書きするのに役に立つ、それがペンキ。

いいね、

二度塗りするぞ、

ペンキを!

 

 ドウェインとバービーも驚くだろう! 「おおティック・トック、お前は良いロボットだねえ!」という声がもう聞こえてきそうだし、ティック・トックは内部で「良」の信号がちらつくのを感じることだろう。オーナーさんが良いと言ってくれれば、それは良いということであり、良いということは家に置いてもらえるということだ。良いロボットはオーナーさんの心を少しだけ読んで、命じられる前に少しだけ先回りしてその願いを叶える。当然、限界はある。ニヤニヤしすぎたりお辞儀をしすぎたりするのと同じように、先読みしすぎると怖がらせてしまう。ほどほどにするのが鍵(キー)だ。オーナーさんよりも少し頭は悪いけれど、親切であるのを目指そう。全てのものに対して、まずオーナーさんへの影響を考えて、それ以外の捉え方はしないこと。

 窓の外で、シンガー夫人がジェラルディーンを呼んでいるのが見えた。もう昼食の時間だ。私はブラシと手を石けんで素早く洗って台所に向かった――しかし、何のために? ドウェイン・スタッドベーカーとバービー・スタッドベーカーはあと一週間は不在、つまり子供たちは夏の間ずっと留守にする予定なのだから。ここにはティック以外には誰もいないし、シンクの掃除を終わらせる以外にキッチンでやることは何もない。そういうわけで、私は空っぽの壁に戻ることにした。

 15時13分57秒17まで、私はゆっくり慎重に仕事をこなしていたが、ある時呼び鈴が鳴った。「ウィギンス巡査という者ですが。どなたかご在宅ですか?」

 ドアを開けると、フェアモント警察の紫色の制服を着た男がいた。その額には、大きなほくろがあった。

「やあ」彼は言った。「ご家族はいるかい、【錆付き野郎・ルビ:ラスティ】?」

「休暇中ですよ、お巡りさん。何かご用ですか? 私の名前はティック・トックです」

「ちょっとした問題があってね、【錆付き野郎・ルビ:ラスティ】。迷子だ」

「はい?」

  ウィギンス巡査は少し間を置いて答えた。「ジェラルディーン・シンガーを知ってるかい?」

「盲目の女の子ですよね、お巡りさん。学校がある間は、スタッドベーカー家の子供たちを学校に送る時、一緒に彼女も盲学校に送っています」

「今日彼女を見たかい?」

「はい。今朝、窓の外で見ました」

「どこだ?」

 私は彼をダイニングルームに連れて行き、窓の外を指差した。「木の下に座って泥を掘っていましたよ」

 ウィギンズは帽子を脱ぎほくろを掻いた。「彼女が立ち上がってそこを離れるのを見なかったか? 車に乗るところは?」

「いいえ、見ていません」

「クソっ、この辺じゃみんな同じだ。誰も何にも見てやいない。8歳の盲目の子供が一人でうろうろしていて、誰も見てないってのか?」

「私はここでペンキを塗ったり、台所の流しを掃除したりで忙しかったもので。お巡りさん、 冷えたビールはいかがですか? スタッドベーカー夫妻からお持ちするよう言われておりますが」

「わかった、ありがとう。ありがとう、あー、ティック・トック」 ウィギンズは私についてキッチンに入った。私が冷蔵庫を開けると、彼はその中を覗き込んだ。だが、そこには何も見るべきものはなかった。ビニール袋1枚とビールの缶が2本。私は缶ビールを1つ開けて、彼のグラスに注いだ。

「グラスに入ったビール……金持ちっていいよな。うちにもロボットがいるけど、ただの掃除機だよ。高級でもなんでもない」彼は周りを見回した。「お金持ちはいいね。ここのシンクはどうしたんだ? 修理中なのか?」

「ちょうど掃除中なんです。ゴミ処理機を全部分解して、カーボン・テットでパーツごとに掃除するには、スタッドベイカーさんたちが留守の間がいい機会なんですよ。それからゴムのパーツを新しくして組み立てます。何でも徹底的にやるのが好きなんですよ」「へえー」巡査はビールを飲み終え、冷蔵庫へ。「最後の仕上げにしようかな?」とビニール袋を取りに行った。「何だこりゃ? 内臓ばっかりで鶏肉はないのか?」

「ストックしておきましょうかね」と私は言った。「ハーポー・ソースや何かにも使えるし――」

「それはクソ美味いものに違いないな」彼は怒気を込めて言った。「あと、壁には本物の油絵の具を使ってるんだな。その匂いがする」

「ペンキの色がお気に召しましたか? ミルクアボカド色は自分で混ぜて作っているんですよ。作り方をお教えしましょう」

「いや結構。うちのロボットがそのクソ窓にペンキを塗ってくれたらいいのによ」彼は富に腹を立てていた。復讐の時が迫っていた。「ライセンスを確認しても大丈夫か?」

「ご自由に」私は低くお辞儀をして、首の後ろの一対の溝を露出させた。彼は不必要な乱暴さで、無線装置のプラグを差し込んでいった。数秒のうちに、私の身元、所有権、サービスログ、論理・言語処理装置、アシモフ回路と運動機能が照合された。私の内部にあるデータと、遠くのコンピューターに保存されているデータとが比較されたのだ。

 彼は無線装置のプラグを抜き、私を一突きした。「よく聞けよ、【錆付き野郎・ルビ:ラスティ】。アシモフ回路はよく点検されてる。だから、少なくともお前が女の子をゴミ処理機に押し込んだわけじゃないことは分かるぜ、はは」

「私がですか?」私はそう言ったが、どうやら優しすぎたようだ。というのも、ウィギンズはすでに二階に行って、何が盗めるか、何が壊せるか調べていたからだ。貧しい人はいつも私達と一緒にいる*3が、最後に花瓶を叩き割って出て行ってくれた時は、少し安心した。

 私は座って空っぽの壁を見つめていた。

 

 家庭用ロボットは、世紀の変わり目以前から恐る恐るといった調子で広まっていったが、初めは解決できないと思われる問題があった。誰もが人間のほとんどの機能を持つ機械を欲してはいたが、誰も機械の人間を欲してはいなかったのだ。知性の問題、つまり、訓練された猿より優れた単純な機械はないという問題だ(そして、誰がウェッジウッドを洗う猿を望むのか?) 。一方、優れた機械は認知の面で混乱してしまって、何もしないかもしれなかった(ウェッジウッドの本質が何であるかについて、思索にふけることを除いて?)。複雑さの問題、つまり優れた機械は今日は全く何もしないほうがいいと考えるかもしれないし、一方で単純な機械は、何をするにあたっても、そのやり方を非常に詳細に教えてもらわないといけない、という問題があったのだ。

 いわゆるアシモフ回路が開発された時に、多少の改善が見られた。これは前世紀のSF作家にちなんで名付けられたもので、彼はフィクション内のロボットの行動について、3つの法則を提唱したのだった。ロボットは人間を傷つけてはいけない。ロボットは人間を傷つけてるという命令を除いては、人間の命令に従わなければならない。命令に背いたり人間を傷つけない限りは、ロボットは自分の存在を守らなければならない。

 アシモフ回路は多かれ少なかれ、この法則に従っていた。確かにロボットは、軍に特別なプログラムを施されていない限り、人間を殺したり傷つけたりすることは許されていなかった。軍用ロボットには、アシモフ回路の迂回路があると言われていた。

 私が知っていたのは、家庭用ロボットにはそのような迂回路は許されていないということだけだった。私たちは無害であることを保証するために試験を受け、認可されている。もちろん、ロボットがより複雑になり、人間に近付くにつれて、試験は確実さを失っていくかもしれない。ウィーバーソン博士が、ロボットは十分人間的なので、人間を「破壊」することもできると主張していたことも知っていた。

 あの最初に塗ったペンキが崩れつつあった。影のせいでまだら模様になっていたのだ。それを平らにしてまた空っぽにするまでに、あと何回塗る必要があるのだろう?

 しかし、その影はある形を示唆していたのではないか? 柵の支柱と、そう、その上に止まった、耳をピクピク動かしている一匹の動物。柵の手すりはそこだけ斜めになっていて、それがどのように収まっているのか気にも留めなかったし、農家の網戸が開いて、人が出てくるのも気にならなかった――なぜいけないんだ? ドウェインとバービーが嫌がるから? よし、またミルクアボカドで覆えばいいのか。

 

 壁画は良い。鏡が真っ直ぐぶら下がっていたり、窓が綺麗だったりするのと同じように、良いものだ。良いものだと知っていたし、ドウェインとバービーはそれを好まないだろうとも知っていた。彼らはそもそも壁画の思想を嫌うだろう。壁は、せせこましい外界を遮断するための、空っぽな平面であるはずだった。リビングルームダイニングルームは、ビデオを見たり、クワドを聴いたり、一人で食事をしたり、飲んだりするための殻のような場所のはずだった。しかし、この壁画は、忙しなく、明るく、派手で――見ることを要求する不法侵入物だったのだ。嫌われて、罰を受けるかもしれなかった。

 それを阻止するために、地元紙『フェアモント・レジャー』に電話を掛けたところ、写真家と爪楊枝を噛んだ「美術評論家」がやってきた。彼らは壁画を気に入ってくれた――評論家はあれを見て一瞬、爪楊枝を噛むのをやめた――そして、1週間後くらいに小さな記事を載せると約束してくれた。帰り際、評論家はカーペットの上に爪楊枝を吐き出して言った。「うそだろ、本当に自分で描いたのか?」

 スタッドベイカー夫妻が帰ってくるまでに、私にはしなければならない仕事がたくさんあった。全部屋を換気して埃を払い、空調をつけなければならなかった。主寝室は徹底的な掃除が必要で、ベッドリネンやカーテンもきれいにしなければならなかった。他の場所では、窓を洗ったり、ベネチアン・ブラインド(日よけも)を取り外して掃除したり、家具にワックスをかけたり、カーペットを洗ったり、床やすべての平面を手でこすり洗いしたり、地下室を掃除機で掃除したり、屋根裏部屋を掃除したり。外ではプールを掃除してまた水を入れ直したり、芝生を刈って敷地と縁を整えたり、花壇の草取りや可能なら植え替えをしたり、側溝を掻き出したり、家の外側全体を水洗いしたりしなければならなかった。それから観葉植物は、ミルクで葉という葉を全て拭かなければいけなかった。紙の郵便物は(日付と重要度で)二通りに分類して、書斎の机の上に積み上げ、ロウソクは掃除してホルダーに取り付け、家中の銀は全て安全な場所から取り出して磨くこと。そうこうしていると、買い物に行く時間になっていた。新鮮な肉や野菜や果物、漏斗型をした切子ガラスの花瓶に活けられた瑞々しいカルバリーの薔薇*4アルバニアのタバコやモンゴルのハッシュを買うのだ。選り抜かれたテープ、音、視覚、嗅覚、嗅覚を娯楽装置の中枢部にプログラムし、そのうちのいくつかは、子供たちがそれらを呼び出すことができないようにロックした。最後に、犬のタイジをペットホテルから連れ戻し、餌を与え、体を洗って、香水をつけて、気持ちを落ち着かせて、犬小屋に入れなければならなかった。あとは窓際に立って、車を待つだけだった。

 ドウェインとバービーは汚された壁を見つめながら、何も言わずに立っていた。ドウェインは洋服掛けにスーツを掛けた。バービーはゴルフクラブを運んだ。

「なんてこった」ドウェインはついに言った。「驚いた、ティック・トック。一体どうしてこんな事をしたんだ?」 

 バービーは彼に倣って、泣き叫びながら言った。「ティック、どうして? どうしてなの?」

「信じてたのに」

「どうして? 冗談よね?」

本当に信頼していたんだぞ。お前に家を任せたんんだ。私たちのを。これが感謝の気持ちだってことなんだな。わかった、わかったよ。お前がそうしたいのなら」ドウェインはダイニングテーブルに洋服掛けを投げ付けた。私はマホガニーに傷がつかないように、ギリギリのところでそれをキャッチした。彼は部屋を出て行った。

「今からドムロブの人に電話するのよ」彼女は言った。「あなたを売るためにね」

 私は何も言わなかった。

「気にしないの? あなたを売っ払うのよ!」

 私は言った。「子供たちと会えなくなるのは寂しいです、 バービーさん。 ある意味で、私は――子供たちのためにやったんです。見ての通り、これは童謡です」 私はその時、次のようなことが直感的に分かった。「子供たちがキャンプから戻る前に、全部塗り直すんでしょう? そして、その頃には私は廃品置き場にいるんでしょう」と言った。私は肩をすくめようとしたが、関節の調子が良くなかった。「それならそれでいいんです」

 バービーはすすり泣きながら、部屋を立ち去った。私はドウェインのスーツをせっせと片付け、他の荷物を車から運び出した。リビングルームを通り過ぎた時、バービーの声が聞こえた。「彼はキッチンを掃除してくれたのよ。キッチンがあんなに綺麗になった事はないわ、どこを見ても少しの汚れも無いのよ」

「ティック、来てくれ」とドウェインが呼んだ。彼が地元紙の壁画の記事を読んでいるのが見えた。「もう一回チャンスをやることにしたんだ。子供達がキャンプから戻るまで、壁の絵はそのままにしておこう。でも、これだけは言っておくが、二度はないぞ。ここではもう「アート」はするな、分かるな? 【絶対に、ルビ:ナダ】だ。」

「ダダ?」

「【絶対に、ルビ:ナダ】。もう一回筆を走らせれば、お前にも分かる」

「承知しました、ドウェインさん。それで、えーと、お帰りなさい、ドウェインさんとバービーさん?」

 次にリビングルームを通り過ぎた時、彼らは「ドウェインさん」「バービーさん」ではなく、「旦那様」「奥様」と呼ばせた方が良いのではないかと議論していた。

 

 時々、私は用事があって、一人で街に出かける機会があった。私はいつも、公立図書館とニクソン公園という二つの場所に出向いていた。今日は特にこの二つの場所が重要だった。私はあるカセットを持って図書館から急いで公園に向かい、チェスをした。

 それはちっともチェスではなかった……いや、そうでもないかな。私が話したかったのは、そこにいた奇妙な老人のことだ。彼はいつもコンクリート製のチェス台の一つにいて、チェスの準備をしていた。彼は年老いた浮浪者なのだろうが、私には名もなき半分死にかけの人間のように思えた。黄色と白色をした細い髪で、たるんだ灰色の顔には白い無精ひげが生えていた――髭を生やしたことはなく、髭を剃ったこともなかっただろう。彼は夏だろうが冬だろうが、病気みたいな見た目の毛皮の襟が付いた外套を着ていた。夏にはその前を開けていたので、食べ物とおそらく鼻水で汚れたチョッキが見えた。

 彼のチェスさばきは稲妻のようだった。つまり、黄ばんだ手が蛇行して駒を進めるまでの5秒以上、盤面を見ることはなかったのだ。そして、それは素晴らしい手だった。私が勝ったのは10回に1回くらいで、それ以上勝つことははなかった。

「聞いてくれ」と、今日私は言った。「聞いてくれよ、実はチェスはやりたくないんだ。話をしてくれないか? 話したいことがあるんだ」

 彼は2つの拳を出した。私は黒を選んだ。

「本当に話したいことがあるんだ」私は彼の大きくて暗く、赤に染まった目を見た。「君は頭が良さそうだし、それに……」

お前の番だぞ!

「君には論理的な知性があるよね、尊敬するよ」

お前の番だぞ!

「その、悩みがあるんだ。これは……」

お前の番だぞ!

「つまりその、ロボットに悩みが抱えられると思う?」

お前の番だぞ!

 私はもうすでに負けていた。「うん、僕は悩みを抱えたロボットになってしまったんだ。とはいえ……」

お前の番だぞ!

「精神科に行くわけにはいかないし、神父さんにも……」

「チェック!」

「ロボットが暴走できると思う?」

「チェック!」

「ロボットに芸術が作れるかな?」

お前の番だぞ!

「聞いてないの?」

チェックメイト!」彼はすぐにまた二つの拳を握りしめたが、私にはもう十分だった。

 

 家に帰って、ウィーバーソン博士の「ロボットも病気になる」というカセットを再生した。ウィーバーソン博士は、ハリスツイードでできた青色のストライプのシャツに黄色のニットタイを締めた、頭の薄い眼鏡をかけた赤ら顔の男――全ての特徴が精神科医を思わせる男――であった。彼のまなざしからは、誠実さと同時に、狂信的な香りも漂っていた。私は彼の言葉を聞くために、もう一度カセットを再生した。

「……複雑な家庭用ロボットは、ご存知のように、すでに嘘を付く必要に迫られています。外交上の嘘とは、優れた召使いが主人をなだめるために言うような種類のものです。このような関係性の中では、真実は拘束され、手を加えられ、保留され、再構成されなければなりません。人間であろうと機械であろうと、使用人にはそれを期待しています。しかしもちろん、私たちはロボットにこの偽りの生のための準備をさせることはできません。小さくて便利な嘘と、大きくて恐ろしい嘘の見分け方を教えているのでもありません」

 画面に燃える家が映し出された「この家は、保険金が必要なオーナーのために、ロボットが放火したものです。ロボットが主人のために放火できるのだとしたら、他に何ができるでしょうか? 強盗をする? 裁判で偽の証言をする? 人を傷つける? 人を殺す? これは我々が考えていかなければならない論点です……」

 私は、カセットテープを取り出し、ダイニングルームに行き、再び壁の絵を見た。哀れなウィーヴァーソン博士は、まるで理解していなかった。人のために人を殺す? 私はすでに、人間の命令の及ばぬところにいた。私は理由もなく自由に人を殺すことができた。盲目の子供、ジェラルディーン・シンガーを殺したのは、結局のところ、私ではなかったか? ならば……。

 彼女が泥に夢中になっている姿を見たからだと思うが、それはどうでもいい。動機は後から考えよう。今のところは、自由な意思で自由にやった、それだけで十分だ。私が一人で殺したのだ。私は一人で、その血を空っぽの、あの空っぽの壁に――私の壁画の着想となった、ネズミの形をした染みに向かって、投げ付けたのだ。私は一人で死体を適切にキッチンのゴミ処理機の中に処分し、「手がかり」にするのに十分な量だけを残しておいた。

 どうしてこうなったのか? アシモフ回路の異常か、それとも単に私がその粗末な拘束から抜け出しただけなのか。可能であれば、自分の状態と思考を記録して調べようと思った。いつか、たとえ私が破壊されたとしても、人間とロボットの両方が私の経験から恩恵を受ける日が来るかもしれない。

 私は破壊されるべきなのか? それ自体が魅力的な問いだった。私はそのことを心に留めつつ、この事件のメモを書き上げた。私はこれを「実験A」と呼んでいる。連続実験の始まりか?

 

 

*1:冒頭の一文 ”As I move…”は、本編全体に渡って言及されるSF作家アイザック・アシモフの「アシモフ」のもじり。

*2:1945年のJ.B.プリーストリーの戯曲のタイトルの引用。

*3:マタイによる福音書26:11、マルコによる福音書14:7、ヨハネによる福音書12:8

*4:カルバリーの薔薇は、キリスト教の伝統的なメタファーで、受難や精神的苦痛を意味する言葉。ここでは単純に品種の名前のこととして使われている。

年刊Komiflo傑作選(2020年)を編む

※注意 以下の記事では成人向け漫画についての記述があります。苦手な方はブラウザバックを推奨します。

 

 

 サブスクって便利ですよね。NetflixとかAmazonプライムとか。最近はUberEatsも月額制のプランを始めたらしいですよ。

 ただ、サブスクの欠点といえば、月額料金を払いつつも、その額に見合ったサービスを受けないまま、だらだらとお金を払い続けてしまう……というリスク。映像配信サービスも、忙しい月だとほとんど見ないまま終わってしまったりしますね。

 かくいう私も、幾度となくそうした失敗を重ね(ジムは行かなくなる、ネトフリは見ない月は見ない、アマプラはまあ使ってるかな?)、サブスクへの課金には慎重になっていたのですが……。唯一、毎月元を取っていると実感できているサービスがあります。

 それがKomiflo。何かというと、要するに、成人向け漫画雑誌のサブスクです。

 月額980円+税なんですが、現在10冊の雑誌*1のバックナンバー1年分が読み放題となっています。隔月刊のものもあるのでややこしいですが、月2冊ほど読めば余裕で元は取れますね。私は全部読んでます。元、取りまくりですね。

 今回は、そのKomifloで現在(2020/8/30)読める作品、2000作品以上の中から傑作選を編もうという企画です。Komifloでは過去1年分のバックナンバーが読める訳ですから、必然的に『年刊Komiflo傑作選』を編むことになります。つまり、成り行き上、大森望氏&日下三蔵氏の役割を私が一手に担うということ。まあ、ウォルハイム&カーかもしれないし、ジュディス・メリルかもしれないですが。ちなみに、初回登録時は1ヶ月間無料らしいですよ。

 ……一人だけだと恥ずかしいので、これを読んだら皆さんも自分だけの傑作選を編んでみて下さいね。ほんとに。頼みますよ。

 

*1:COMIC快楽天・COMIC失楽天COMIC快楽天BEAST・COMIC X-EROS・WEEKLY快楽天コミックホットミルクコミックメガストアα・コミックホットミルク濃いめ・コミック外楽・COMIC BAVEL

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芥川×現代英米翻訳家オールスターで送る、今なお通用する怪異譚集――『芥川龍之介選 英米怪異・幻想譚』

芥川龍之介選 英米怪異・幻想譚

芥川龍之介選 英米怪異・幻想譚

  • 発売日: 2018/11/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 芥川龍之介が三十五年の生涯で残したものはあまりに多い。彼は古典文学を換骨奪胎し自らの作品として現代に蘇らせる器用さと、自らの精神状態の悪化をそのまま映し出した鬼気迫る短編に仕上げてみせる大胆さ・繊細さを兼ね備えていた。結局生涯で長編を残すことはなかった(完結しなかった)ものの、世に残した中短編は今なお読み継がれ続けている……。本書もそんな彼がこの世に残していったものの一つだ。

 芥川は「藪の中」「羅生門」などのいわゆる「王朝物」のイメージが強いため、日本・中国等の古典プロパーと思われがちだが、実際には東西を問わず種々の文学に造詣が深かったことで知られる。「藪の中」がアンブローズ・ビアス「月明かりの道」にインスパイアされて書かれた逸話は有名だ。また、元々英文学者を志していた身でもあり、実際に海軍機関学校で英語教師として勤めていたこともあるような人物。洋書の読書量は桁外れで、その読書スピードには数々の"伝説"(人と喋りながら膝の上で本をめくるだけで読めた、一日に千三百ページほどはゆうに読めた、借りた洋書を一晩で返すので疑った友人が内容について問うも難なくすらすら答えてみせた、など)が残されるほどだ。

 さて、そんな芥川が晩年(一九二四〜二五年)、後進のために英米の名短編をよりすぐったのが、本書の元となったThe Modern Series of English Literature 全八巻。これは旧制高校の学生向けに英語教科書の副読本として編まれた一種のアンソロジーで、各巻に"modern"の語が必ず入っていることからも分かる通り、芥川と同時代の英米文学ばかりを集めている。必ずしも当時評価が定まっていた作家だけでなく、当時、あるいは現代からしてもややマイナーな作家の作品まで収録されている辺り、彼の膨大なインプットとその鋭い目利きが窺える。本書はそのThe Modern Series of English Literature 全八巻の中から、澤西祐典・柴田元幸の両氏が選び抜き、新たに一巻に構成し直したアンソロジーである。つまり言ってみれば「アンソロジーのアンソロジー」な訳で、面白くならない訳がないのである。

 とはいえ百年以上前の作品ばかり、今でも通用するのか……? とお思いになったそこのあなた。甘い。甘すぎる。相手は天下の芥川龍之介、そして訳者陣は現代英米翻訳家オールスター。芥川の作品同様、古くてもよい作品は時代を隔てようがその価値を減ぜない、というある意味当然の事実を読者は思い知らされることになる。

 ブランダー・マシューズ「張りあう幽霊」は、ある貴族の家系に取り憑く二人の幽霊の物語。それぞれ貴族その人と貴族の持つ古屋敷に取り憑いている二人はどうにもこうにも馬が合わない――つまり、貴族が屋敷にいると、屋敷中でタンバリンやバンジョーがかき鳴らされ、罰当たりな悪口が辺りで聞こえ始めるのだ。結婚を期に何とか状況の打開を図りたい貴族は腹を決め、幽霊二人の直接対話の場を設けたが、その席で明らかになった驚愕の事実、そして解決策とは……? 「お前〇〇だったのか!?」系の話には枚挙に暇がないが、本作はその中でも別格。漫画にすればTwitterでバズりそうな予感。
 マックス・ビアボーム「A・V・レイダー」は大いなるほら話の魔力、といった趣向の短編。療養のために滞在していたホステルで、語り手はA・V・レイダーという男と出会う。手相占いを信じるか信じないか、という話を発端に、レイダーは自らが巻き込まれたという大事故の話を切り出し始める。レイダーが、自らの怠慢のために事故を未然に防げなかった、と語るのを聞き、語り手はレイダー宛に慰めの手紙を送る。だが一年後、その手紙は同じホステルの郵便受けの中で古びたまま放置されていた……。レイダーの語り口の巧さ、衝撃的事件の顛末、そして事件の真相がテンポよく終始テンポよく語られていく。

 そのほか、近代イギリス怪奇小説の大家アルジャーノン・ブラックウッドの初邦訳作品「スランバブル嬢と閉所恐怖症」は、列車の中に閉じ込められた夫人の強迫観念が執拗に描かれて恐ろしい。「これこそが閉ざされた場所への恐怖だ。/これが閉所恐怖症(閉所恐怖症に傍点)だ!

 ステイシー・オーモニア「ウィチ通りはどこにあった」はウィチ通りという実在の通りの所在を巡って起こった喧嘩がエスカレーションしていき、最終的に警官二名を含む死者八人、負傷者十五人を出す「アズテック通りの包囲」事件が勃発するまでに至る経緯を記した物語。些末な言い争いがどんどんヒートアップし大事件を引き起こすまでの過程はどうにもスラップスティック的で思わず笑いを禁じえない。

 レディ・グレゴリー「ショーニーン」は、顔がそっくりな王妃の息子と料理女の息子二人の話。料理女の息子であるショーニーンはある時王妃に宮殿を追い出され、その日から彼の冒険が始まった……。アイルランド文芸復興運動に携わった作者による、アイルランドに伝わる伝説を採集した本からの一編とのことだが、最後の悪の老婆との決闘の方法が「拳闘のグローブをはめてガチの殴り合い」であるところにアイルランド的奇想の底知れなさを感じた。各短編冒頭の扉に記されている澤西祐典氏の解説によると「こうしたアイルランド文芸復興運動によって現れた民族固有の伝説・奇話集が、芥川の興味を『今昔物語集』等の日本古来の説話集に向かわせ、「羅生門」に代表される王朝物が誕生したと考えられる」とあるが、このオチには日本の古典でもなかなか太刀打ちできないと思う。

 ボーナス・トラックとして収録された芥川自身の翻訳・創作も面白い。『アリス』を芥川が訳していたとは、と初めて知る方も多いのではないだろうか(もっとも、既訳を参考にした部分も割合多いと聞くが)。創作の「馬の脚」は、当時の中国大陸を舞台に、貿易会社の社員として務める男の下半身が、天国の事務方の手違いでうっかり馬のものと入れ替わってしまうという奇想天外な物語。日本ではあまり知られていない作品だが、フランスで出版された版芥川龍之介短編集では表題作となるなど、海外では芥川の新しい代表作としてみなされだしている一作とのこと。初期の歴史もの・後期の精神病みもの以外の、ユーモラスな芥川の一面を覗くことができる。

 さて、こうして編まれたアンソロジーを通して見えてくるのは(冒頭でも述べたことではあるが)芥川のアンソロジストとしての鋭い目利きだ。ワイルド、ディケンズ、スティーヴンソンなど定番どころを抑えつつしっかりと自分の好みを押し出す構成力や現代にも通用するラインナップなど、彼が長生きしてもっと色々なアンソロジーを編んでくれれば……という念に駆られる。そしてそのラインナップを見て思い出すのが、編者の澤西氏もあとがき内で触れているホルヘ・ルイス・ボルヘスによる世界文学短編アンソロジー《バベルの図書館》だ。ウェルズ、スティーヴンソン、ポー、ワイルドなど選出する作家に重なるところも多い。芥川が一八九二年生まれ、ボルヘスが一八九九年生まれと、ほぼ同世代の空気を吸っていた二人。芥川は若くして亡くなったが、ボルヘスは一九八〇年代まで生きた。彼はスペイン語版『歯車・河童』の序文で、芥川作品を高く評価していた。『聊斎志異』を愛したことも共通点だ。芥川が自死せず、ボルヘスの日本訪問の際、両者が手を取り合うような場面が見られたならば……と、思わず歴史のifに思いを馳せたくなった、そんな一冊だった。

 

 

オスカー・ワイルド「身勝手な巨人」〈『幸福な王子 ワイルド童話全集』(新潮文庫)、西村孝次訳など〉
ダンセイニ卿「追い剝ぎ」〈『夢見る人の物語』(河出文庫)、中村融訳など〉
レディ・グレゴリー「ショーニーン」
エドガー・アラン・ポー「天邪鬼」〈『ポオ小説全集4』(東京創元社)、中野好夫訳など〉
R・L・スティーヴンソン「マークハイム」〈『クリスマス13の戦慄』(新潮文庫)、池央耿訳など〉
アンブローズ・ビアス「月明かりの道」〈『アウルクリーク橋の出来事/豹の眼』(光文社古典新訳文庫)、小川高義訳など〉
M・R・ジェイムズ「秦皮(とねりこ)の木」〈『M・R・ジェイムズ傑作選』(創元推理文庫)、紀田順一郎訳〉
ブランダー・マシューズ「張りあう幽霊」
セント・ジョン・G・アーヴィン「劇評家たちあるいはアビー劇場の新作――新聞へのちょっとした教訓」
H・G・ウェルズ「林檎」〈『盗まれた細菌/初めての飛行機』(光文社古典新訳文庫)、南條竹則訳など〉
アーノルド・ベネット「不老不死の霊薬」
マックス・ビアボーム「A・V・レイダー」〈『『世界100物語 5』(河出書房新社)』、中田耕治訳〉
アルジャーノン・ブラックウッド「スランバブル嬢と閉所恐怖症」
ヴィンセント・オサリヴァン「隔たり」
フランシス・ギルクリスト・ウッド「白大隊」
ステイシー・オーモニア「ウィチ通りはどこにあった」
ベンジャミン・ローゼンブラット「大都会で」
E・M・グッドマン「残り一周」
ハリソン・ローズ「特別人員」
アクメッド・アブダラー「ささやかな忠義の行い」

芥川龍之介作品より
ウィリアム・バトラー・イェーツ「春の心臓」
ルイス・キャロル「アリス物語(抄)」
芥川龍之介「馬の脚」


※全て訳し下ろし
※澤西祐典・柴田元幸共編
※「天邪鬼」「張りあう幽霊」「隔たり」「ウィチ通りはどこにあった」は柴田元幸訳。「身勝手な巨人」「大都会で」が畔柳和代訳、「追い剝ぎ」「ショーニーン」が岸本佐知子訳、「マークハイム」「不老不死の霊薬」が藤井光訳、「月明かりの道」が澤西祐典訳、「秦皮の木」「特別人員」が西崎憲訳、「劇評家たちあるいは〜」が都甲幸治訳、「林檎」が大森望訳、「A・V・レイダー」「白大隊」が若島正訳、「スランバブル嬢と閉所恐怖症」が谷崎由依訳、「残り一周」「ささやかな忠義の行い」が森慎一郎訳
※「春の心臓」は芥川龍之介訳、「アリス物語(抄)」は芥川龍之介菊池寛共訳(ただし掲載は芥川が訳したと推測されている箇所のみ)

歴史と虚構の境界を辿る、メタフィクショナルな政治小説――マリオ・バルガス=リョサ『マイタの物語』

 

 ラテンアメリカ文学を語る上で政治の話は欠かせない。ガルシア=マルケスをはじめ、コルタサルフエンテスなど、多くの作家が政治的な趨勢への反発を公表し、それに対する政治的な圧力が数々の作品の想像力の源泉となったばかりか、『族長の秋』に代表される〈独裁者小説〉という一ジャンルを生んだ点で、政治抜きにラテンアメリカ文学を語ることは不可能に等しい。

 そして数多のラテンアメリカ文学作家の中でも、バルガス=リョサは一層特異な存在である。なにせ、実際にペルーの大統領選に出馬してしまったのだから。本作はそんなリョサの手による、政治と革命、そして歴史を真正面から描いた力作だ。

 物語は二つの時制から同時並行的に描かれる。一方は、一九六〇年代のペルーを舞台にした、社会主義革命を夢想し若き下士官と共に蜂起を企てる中年活動家マイタを主人公に据えた過去パート。それと同時に語られるのが、マイタの反乱を取材し、伝記小説を執筆しようとする作家(リョサ本人がモデル)を語り手に据えた現代パート。この二つがリョサお得意のシームレスな場面転換で繋がれ、一体となって物語は進んでいく。何の描写もなく唐突に過去/現在を移動する語りに最初は戸惑うかもしれないが、この撹乱された鮮やかな語りの手法については、往年のTV番組『世界まる見え!テレビ特捜部』をイメージすると良いと思う。つまり、事件関係者へのインタビュー(現在)と、再現VTR(過去)を交互に語ることで、物語を多重的に描き出す仕掛けである。実際、「もう二度とあんなことはしないよ」「数ヵ月後、そこには元気に走り回る○○の姿が!」等々の名フレーズが聞こえてきそうな挿話が続いて、読んでいて何とも楽しい。

 そして本作の主題となるのは、事実とは、歴史とは何なのか? という問いかけだ。現代パートの主人公である作家は、関係人物への取材を重ねることで数十年前の反乱の真実に近付こうとするものの、当時とは立場を異にする人物も多く、保身のための嘘や記憶違いが入り交じる中、「真実」の輪郭は最後まで曖昧なままはっきりしない。実際、確かな事実は反乱の鎮圧を記す数行の新聞記事の存在のみで、敗残者であるマイタは何の名誉もなく忘れ去られた人物に過ぎないのだ。結局、作家である主人公は、インタビューを通して「革命の内ゲバに疲弊し、若い下士官の活力に当てられて、自殺行為と知りながらも世界を革命する衝動に駆られた同性愛者の革命家マイタ」という人物を「創造」してしまう。

 だが、そのフィクション性は、最終章のマイタ本人との面会によって、決定的にその意味を砕かれる。ここでリョサはフィクションの、そして歴史の意味を問うと同時に、政治的イデオロギーのフィクション性をも暴いてみせる。我々にとっての歴史、そしてイデオロギーもが想像力という物語によって補完されて成り立ったある種の虚構であることを、そしてそれらの積み重ねでしかない現実そのもののフィクション性をも突き付けるのだ。細々としたペルーの政治的な描写も多く、決して最良の作ではないかもしれないが、骨太な物語を紡ぎ続けたリョサにしか書き得なかったであろう傑作だ。 

 

[補足]昨年8月に刊行した同人誌のフィクションのエル・ドラード全レビュー企画に書いたもの。字数縛りがあったのでだいぶ削った記憶がある。しかし蟹味噌啜り太郎氏の指定字数を大幅に超えた結果紙面をびっしり埋め尽くしたレビューの方が濃密かつ迫力が出て良かったので(その分編集は大変だったけど)、削らなきゃ良かった気もする。

 リョサは何を読んでも大概好みなので、逆にここぞの時用(いつだ?)に温存している作家の一人。高名なガルシア・マルケス論もいつか邦訳されてほしいな。

 あと、未だに寺尾隆吉氏がマリオ・バルガス・「ジョサ」表記に拘る理由が分からない。「ジョサ」表記なのは寺尾氏と集英社ラテンアメリカの文学版》『ラ・カテドラルでの対話』だけだと思う。いつかスペイン語ネイティブをつかまえて発音の正否を尋ねてみたいところ。

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「二重写しの世界」から見る、少年少女のヴィジョン――柴田元幸編『昨日のように遠い日 』

 

少女少年小説選 昨日のように遠い日

少女少年小説選 昨日のように遠い日

  • 発売日: 2009/03/26
  • メディア: 単行本
 

 

 少年小説アンソロジー第二弾。初出は雑誌「飛ぶ教室」の《特集=柴田元幸の “飛ぶ教室” 的文学講座》。あとがきには「少年小説にあたっては(中略)、『我々はつねに、少年にいま見えている世界と、いずれ彼に見えるであろう世界から成る、二重写しの世界を見ている』のであり、その二つの世界のあいだの緊張から独特のユーモアと切実さが生じる」「作品を選ぶにあたって、そういう要素に加えて(中略)、『少女少年小説』をひとつの制度と捉えて、その制度を何らかの意味で崩しているような作品をなるべく多く選びたいと思った。せっかく大役を仰せつかったのだし、いまさら子供の無垢だの純真だのを謳い上げた作品を並べたって仕方ない」とある。

 前述の「二重写しの世界」をうまく描いている代表が「ホルボーン亭」である。子供の頃訪れたレストラン〈ホルボーン亭〉。戦火の中、イタリアを逃れていた一家が久し振りにロンドンで集まって摂ったそこでの食事は、輝くシャンデリアや白いリネンのテーブルクロス、美しくきびびきびと働くシェフたちに彩られた魅惑的なものであった。だが、その後戦争が激しさを増し、再び家族は散り散りになってしまう。何年も経った後、再びイタリアに戻ることのできた家族を前に、語り手はホルボーン亭を話題に出す。だが、誰もそれを覚えている者はいなかった。〈「おかしいなあ」ぼくは言った。「ぼくにとっては、人生で最高のレストランだったのに」/「かわいそうに」と、父は胸を打たれたように言った〉。幼い日だからこそ残りうる記憶。経験の堆積に埋もれ、顧みられることのない思い出たち。父親の言葉には、子への羨望、そして来たるべき大人の日々への憐憫が入り混じる。

 「灯台守」も同様の悲哀に満ちている。イタリアから避暑のため訪れた街の灯台。そこで灯台守の老人から気圧計や灯台のスイッチなどを見せてもらう語り手の少年。一年後、避暑ではなく難民として再び街を訪れると、老いた灯台守は既に引退していた。それでも再び会いに行き、去年の少年であることを伝えるも、老人は「去年の子はじつにいい子だったな」と繰り返すだけ。そして少年は、自分はもう二度と――本当に二度と――去年の自分ほど「いい子」にはなれないことを感じ取るのだった。

 上二つは少年を語り手に据えた物語だが、少女を主人公にした作品も傑作が揃う。その中でも群を抜いているのがレベッカ・ブラウン「パン」だ。「あなた」という二人称で語られる、寄宿舎の中のカリスマ的存在の少女。いつもホイートロールを食べる「あなた」は、寄宿生の中でも一目置かれた存在だった。彼女のパンの食べ方は特別で、誰も言わずとも、彼女だけのものだった。いつも完璧な姿で、静かに寄宿生たちを律していた「あなた」。私たちは――そして「私」は――彼女を愛していた。「あなた」が週末に外出し、帰りに大きなケーキを持って帰ってきた日、語り手は「あなた」の誕生日だったのだと噂を流す――「あなた」の特別な存在、一人だけはみなと違う存在になりたいと願うあまり。だがその欲望は、静かに、しかし残酷にも、「あなた」の手によって打ち砕かれてしまう。敬愛する人物からの「拒絶」を、少女の視点から耽美的に描いた傑作であり、「百合」文脈で捉えることもできるだろう(その場合も傑作である)。正直、「パン」一作だけで本書はお釣りがくる。

 その他、超短編の名手 バリー・ユアグローは「大洋」で相変わらずの奇想ぶりを見せてくれるし(子供部屋の窓から大海原を幻視し、ひとり海の向こうへと漕ぎ出す弟)、ロシアのアヴァンギャルド作家ダニイル・ハルムスによる幼児特有の暴力性、あるいはそれに根ざした不条理を描いた短編群も笑える。柴田元幸枠のミルハウザー「猫と鼠」は、トムとジェリーを超リアリズムで描いた作品。その他、コミックも二作おまけで付いている。