機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

プロフィール

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自己紹介

鯨井久志(くじらい・ひさし)

1996年生まれ。京都大学SF・幻想文学研究会OB(2020年度まで)。

海外文学やSFにまつわる同人誌『カモガワGブックス』の主宰をしている(共同)。本業は研修医。

SFやラテンアメリカ文学、その他奇想小説が好き。また、変な小説/映像/漫才も好き。

書評など

作った同人誌

その他創作など

翻訳

連絡先

スクラップ&スクラップな精神に溢れた実験文学の金字塔――筒井康隆『虚人たち』

 筒井御大のお誕生日記念企画第2弾。

 京大SF研では1回生に自分の好きな作品のレビューを書いてもらって、それを会誌(『WORKBOOK』)に載せる……という文化があったのだが、当時激尖りしていた僕は、みんなが1000字くらいに収めるところを以下のように6000字以上書いて、ろくでもない悦に浸っていたというわけである。全くろくでもない。しかしまあ、最後の方を読むと、今と言ってることの根幹は全然変わってないですな。

 

 

 

 

 『虚人たち』はメタフィクション小説である。
 私はいま、レビューを書き出した。書き出したは良いが、そもそもメタフィクションとは何だろうか。本論に入る前にしばし立ち止まって考えてみたい。
 「メタ」という接頭辞そのものは「高次な‐」「超‐」といった意味のギリシア語である。だが「高次な作り話」「超虚構」と換言しても感覚的理解にはなかなか結び付かない。
 メタフィクションの定義付けはパトリシア・ウォーや巽孝之由良君美などにより試みられているが、正直に言ってどれも厳密かつ専門的で、序論に掲げるにはふさわしくない。できるだけ平易な定義として、過去のWikipediaにて「典型的なメタフィクション的仕掛け」として記載されていたものを引用すると、以下のようになる。

一 小説を書く人物に関する小説。
二 小説を読む人物に関する小説。
三 表題、文章の区切り、プロットといったストーリーの約束事に抵触するストーリー。
四 通常と異なる順序で読むことができる非線形小説。
五 ストーリーに注釈を入れつつストーリーを進める叙述的脚注。
六 著者が登場する小説、監督が登場する映画やドラマ。
七 ストーリーに対する読者の反応を予想するストーリー。
八 ストーリーの登場人物に期待される行動であるがゆえにその行動をとる登場人物。
九 自分がフィクションの中にいる自覚を表明する登場人物(第四の壁を破る、とも言う)。
一〇 フィクション内フィクション。

  六などはしばしばマンガで見られる表現であるし、一〇は夢野久作ドグラ・マグラ』内に登場する『ドグラ・マグラ』という書物や、竹本健治匣の中の失楽』でナイルズが書く推理小説などを連想していただければお分かりになるだろう。いわゆる「枠小説」もこれに該当する。
 九はベルトルト・ブレヒトの戯曲で頻繁に用いられた技法で、舞台の両脇とその三面の壁に対して、舞台と観客との間の壁としての「第四の壁」を意識的に破壊し、観客に自らが観ているこの劇が虚構であることを絶えず意識させる、すなわち異化効果を与えることを意図して書かれたものが多い。裏を返せば、観客を虚構内へ嵌入させる行為とも言える。
 このまま逐一例を挙げると瑣末になる。先ほどの十項目の共通項を分析してみよう。
 そもそも本というメディアは、読者と作者の暗黙の了解の上に成立している。例えば、小説ならふつう表紙から裏表紙まで順に読むことに「なっていて」その通りに読めば展開を追うことができるとか、更に根本的なところでは、印刷された文字は上から下へ、右から左へ読み進めることになっているといった至極当たり前のルールである。
 だが、そのようなルールは一日にして諒解されるものではない。かつて出版の萌芽が生じ、「本」という媒体が読み手に十分かつ継続的に供給されるようになって初めて、暗黙ゆえに確固たる規則が成立していったのである。
 メタフィクションとは本来、読み手と書き手の間に存在する空気のような規則を打ち破るためのもう一つの「規則」であった。その観点から見ると、先ほどの10項目から浮かび上がってくるものがないだろうか?
 だがここで重要なのが、同時に規則を破る規則である以上、メタフィクション自体もある種の「お約束」的な読者・作者間の戯れという枠に囚われざるを得ないという、代え難い事実である。
 先に挙げた評論家・巽孝之は著書『メタフィクションの思想』冒頭にて「かつてメタフィクションは二〇世紀後半を彩るアンチ・リアリズム文学の最尖端と見られていた。それは「文学は現実を模倣する」という古典主義的前提に則るフィクションの諸条件を根底から問い直し、最終的にはわたしたちのくらす現実世界の虚構性を暴きたてる絶好の手段だった」と述べている。全て過去形であることにご注目いただきたい。メタフィクションがいくら虚構の虚構性を高め、極限にまで達したとしても、虚構の外部に鎮座する「作者」それ自体の存在を浮き彫りにする機能をも同時に強化してしまう哀しきパラドックスは決して解消されることはない。フィクションの前提条件を切り崩すスリルを味わうメタフィクションの構造が、メタフィクションを人畜無害な読者・作者間の遊戯にしてしまう矛盾は、目を背けることは簡単だが、道に横たわる巨大な礫として切り崩されることなく存在し続ける。
 では文学は何もしてこなかったのだろうか? いや、決してそうではない。
 筒井康隆自身も『虚人たち』執筆後初の長編として『虚航船団』を上梓し、メタフィクションの読者を虚構外へ連れ出し感情移入を阻害する機能を更に推し進め、フィクションがフィクションとしてできることを濃縮し、文房具への感情移入を読者に要請している。また近年では、石原慎太郎に「言葉の綾とりみたいなできの悪いゲーム」などと酷評された第一四六回芥川賞受賞作「道化師の蝶」の作者たる円城塔はメタフィクショナルな実験(本人曰く「ただ見たままを書いている」のだが)を行っている。
 少々筆が滑ったようだ。イントロダクションはここまでにして、『虚人たち』のレビューに入ることにしよう。
 本作には作者がそれまで暖めてきた実験的手法が数多く内包されている。

 今のところまだ何でもない彼は何もしていない。何もしないことをしているという言い回しを除いて何もしていない。(『虚人たち』)

 この書き出しから既に、作者から読者へ、この物語の特殊性の宣言がなされている。佐々木敦は『あなたは今、この文章を読んでいる。』の中で、この二文には三つの次元が存在していると指摘する。すなわち、
 一:「である」
 二:「『Aである』と書かれた/読まれた」
 三:「「『Aである』と書かれた/読まれた」ということはXである」
の三つである。メタフィクションは三によって一から二を切り出すことで生成される。だが、この事実は読者の意識内に常に存在するものであり、自明であるからこそ、ふだん意識上に登ってはこない事実である。そうしたあらゆる小説の前提の強調、つまり虚構性の前面化とそれを主題とする小説であることが、物語が叙述されると同時にそれが批判されてゆくという『虚人たち』全編に通底する文体で早くも提示されている。
 筒井康隆が『虚人たち』へ持ち込んだ手法は演劇由来のものが多い。筒井自身の学生時代に演者として舞台へ立った経歴が作用した側面も多分にあろうが、そもそも小説とは虚構の表現形式として最後に確立されたものであることは、その形式的自由度が雄弁に物語る。原始の祭式儀礼をベースメントに演劇、戯曲が生まれ、その末裔として現在の小説は成立する。すなわち小説には現実との間に演劇という便利な手本が介している。演劇とはそもそも演じられるドラマと演じることそれ自体のドキュメントが重ね合わされる特殊な虚構の形態であり、「そろそろ演劇の美学の呪縛を逃れて現実そのものに立ち返る必要がある」と述べる筒井は自身の演劇・戯曲経験を還元し小説に応用したのであろう。
 先に引用した文は、執筆中に『野性時代』に連載された、『虚人たち』創作ノートの様相を呈するエッセイ「虚構と現実」(『着想の技術』新潮文庫)による。この中で筒井は、自身の目指すフィクションの様相を「時間」「社会」「人物」「事件」「場所」「性格」などの要素に分類し、手法の原点・意図について記しており、以下ではその分類に従いつつ手法を紹介していく。
 まず時間について。エッセイ「虚構と現実」内で「時間の均質性・恒常性を表現した小説がないのはむしろ不思議」と述べ、今までの小説が省略してきた時間の中に小説の美学を発見=「忘れられた時間の復権」を目指すと記されている通り、この小説は厳格に定時法に則って書かれている。具体的には「原稿用紙一枚=一分」というルールに則り、物語は進行していく。普段あまり意識することはないが、通常の小説では現実の時間の流れの直線性・恒常性は失われている。時間の流れは必ずしも一定ではないし、主人公が移動している時間や寝ている時間などの描写は省かれる。ストーリーに不要な場面では省略が行われるし、逆にほんの一刹那を描くのにも必要とあれば字数を割いて濃密な描写がなされることもある。他にも唐突に(通常それは唐突ではないのだが)登場人物の回想が入るなど、作中時間の伸張及び往復は自由に行われるのが普通である。
 だがこの小説では時間の流れが描写される時間(=主人公の意識の流れ)と完全に等質化されている。車で移動するのであればその風景が描写されるし(P.57「あなたはなぜそんなにまるで描写するように町並みの店店を眺めるのですか」、以降頁数はすべて中公文庫版『虚人たち』準拠)食事中であればその味やら歯応えやらの描写(P.69「なぜそんなに描写するような食べかたをするのです」)に字数を費やす。極端な例では主人公が気絶している間は真っ白なページが数ページ続き、それがさも当然かのように物語は続く。そして時間の流れと描写との一致を目すゆえ、文体は過去形ではなく現在形で貫かれており、鉤括弧付きの台詞が入る箇所以外改行はなく、更に読点に至っては一つ足りとも存在しない。
 また、この小説では「現在の意識を持ちつつ時間を移動する」ことが可能である。これは我々が入眠中の夢において現在の意識を持ち得るままに幼少期に回帰するような時間体験を小説で描写する試みである。これにより、主人公は事件が終了した後の出来事などを知ることができ、モザイク状の時間を自由に往来する。カート・ヴォネガット・ジュニアスローターハウス5』にて主人公ビリーやトラルファマドール星人が、決定された運命への介入は不可能だが、自分が思う人生の瞬間を選んで焦点を合わせある種の「時間移動」を行う描写を思い描いて頂ければよい。
 場所について。三人称の小説では作者がいわゆる「神の視点」から出来事を描写し、読者は神の視点から描かれる同時性を驚くほど素直に受け入れている。だが一方で、作者は同時性を謳いつつも任意の場面展開で時間の均質性を破ることができるのだから、これは読者・作者間の取り決めに過ぎず、読者は神の視点=作者の視点という取り決めに諾々と従っているに過ぎない。相互の諒解に依存する以上、付随する他の約束事は更なる馴れ合いを生み出すばかりであり、そもそもの諒解を瓦解させるところから始めなければならない。しかし瓦解させ新たな諒解を取り決めたところで、結局諒解は諒解に過ぎず、馴れ合いの再生産が進むのみである。
 では一人称ではどうか。一人称小説では、主人公がある事件の発生を知覚する瞬間と作中で事件が発生する時刻は字面上=読者の認識上同時であると言える。これを発展させたのが読者の認識と主人公の経験の同化、つまり過去の事件を「現在知り得た事件」としてではなく、その事件が発生した時刻においては別の場所で別の行動をしていた主人公に、同時にその事件をも経験させる手法である。「同場性」とでも言うべきこの手法は「遍在性」とも換言可能である。例えば、Aの場所でB行為をしている人物が場所CでD行為をしていてもよく、これは一種の遍在である。
 人物について。この小説における登場人物は、我々が自らを現実内存在であることを自覚しているのと同様にして、己が「虚構中の登場人物」であることを意識している、すなわち筒井の言葉で言う「虚構内存在」である。現実世界で我々は現実に虚構を重ね合わせ、自他を問わず「主人公」「脇役」の配役を振り分けたり、卑近に「もしこれが小説であったなら」に類する問いかけを成したりする。だが現実世界に「主人公」は存在せず、単に現実を虚構視しているに過ぎない。
 ただこの虚構視が自らの現実的存在を前提としている以上、虚構内でそれを徹底するには登場人物が自らが虚構的存在であるという前提を認識せねばならない。「新しい虚構的存在の創造ひいては新しい虚構の形式の発見」を目する筒井は、演劇的人物造形、すなわち現実の人間が演ずる人物としての登場人物を「擬似現実的存在」とし、「真の虚構内存在」を試作する。現実から峻別された「完全な真空」を構築する試みであるにも関わらず、筒井はその目標について「読者がその小説を読んで現実存在である自分を虚構内存在ではないかと疑うか、そこまでに及ばなくとも少くとも作中人物が悩む非存在感に似たものを少しでも抱くかどうかにかかっている」と述べ、最終目標が読者=現実への波及であるとし、パフォーマティヴに読む行為を捉えているのは興味深い。
 具体的には、この小説の主人公であるとされる「木村」はこの小説を描写する役割を与えられてはいるものの、自らの置かれた状況を全く知らないまま物語は開始される。鏡を覗いて自分が中年の男性であることを知り、玄関の表札を見て自分の名前を知るといった具合である。こういう場面ならば登場人物はどのように行動すべきか、相手の出方によって小説的にはどのように反応すべきか、これは作者の張った伏線ではないか、などということを随時自己言及的に考えながら行動する。
 事件について。デビュー直後は「疑似イベントSF」作家として名の売れた筒井は、現実を疑似虚構に堕したとして、現実を描く虚構は「現実の疑似虚構性を強調したいわゆる疑似イベントもの」あるいは「虚構こそが真の現実という逆説」の二択を迫られているとした。だが前者は現実の疑似虚構性を強調した虚構を現実が模倣するいたちごっこにしかならないとして、後者を追求することとなる。社会に大きな事件が起きることを描くだけでは前者と代わり映えしない。故に個人の身に同時にいくつもの事件がふりかかる物語として虚構性を高めることに成功している。
 物語の終盤、『虚人たち』は筒井の過去作『脱走と追跡のサンバ』との連続性をあけすけに示す。誘拐された妻と娘を助けられず全てを失った主人公の悲しみは、既に書き終えられた『虚人たち』という小説において、自らを虚構内存在と知る主人公だからこその諦観であろう。読まれることによって何度でも起動するものの書き終えられた『虚人たち』は実体的な変化を起こさない。逃れられぬ定めを知りつつも物語を進行する主人公、そしてその「純然たる虚構」であるものの内面にまで踏み込み、通常の小説における登場人物同様の感情移入を抱かせる不可思議さこそが、『虚人たち』がメタフィクションマイルストーンとして認められる所以である。
 そして本作は、テレビ画面に始まりテレビ画面に終わる。スクリーン上に展開されるドラマはテレビ局から電波で送られてくるのであって、テレビをかち割ってみたとしても決してその中に実体など存在しない。虚構とは何か。裏返して、現実とは何か。余韻を残しつつ『虚人たち』は終わる。

 私が『虚人たち』に、ひいてはメタフィクションに心惹かれるのは、結局「普通の小説」とは違う楽しみを、『虚人たち』に限ればラディカルな楽しみをもたらしてくれるからである。あまりに自明な前提を眼下に引きずり出し、ぶち壊し、新たな世界を構築する。そのスクラップ&スクラップな精神にノックアウトされているのである。
 確かにメタフィクションは構造自体に矛盾、哀しきパラドックスを抱えている。しかしそれを指摘し改善する読み手もいれば、その場に甘んじて、自動ピアノのような不確定性、デフォルメされた虚構による不条理、そして現実へのゆらぎ、そんなものを享受する読み手もいて良いのではないか。作者の手の内にいようがいまいが、分かっていようが知らないままであろうが、作品はそこに存在する。
 「なぜこの作品が好きなのか?」という問いに鮮やかな解答を提出できることは稀である。よいですねー、すごいですねーに類する淀長言語で語るのが関の山である場合が圧倒的に多い。そんな中、割合まっとうな答えを用意できる作品に出会えた者は幸せである。用意できなくとも、せめてもの解答を求め、もがけるだけの意欲を、活力を得られたならば、それだけで十二分に恵まれている。
 無論私もその一人だ。

実験文学、そして奇想SFの到達点――筒井康隆『残像に口紅を』

 御大のお誕生日ということで、過去(学生時代)に書いた書評を再掲します。

『虚航船団』『虚人たち』『残像に口紅を』の3部作には、読書体験の根幹を形作ってもらいました。今読んでもきっとその大胆さは健在なはず。

 

 


 断言しよう。「この本、テレビでカズレーザーがおすすめしたとやらで本屋で平積みにされてたけど、そういう流行りには乗りたくねえんだよな」などと思っているひねくれ者よ、今すぐ猛省して本書を読むべきだ。きっと損しないから。とりあえずレビューだけでも読んでくれ。

 さて、バカSFに必要不可欠で重要な要素には「奇想」と「エスカレーション」というふたつが挙げられると思うが、本作はその極地とも言うべき作品だ。一章ごとに使用可能な音が一音ずつ消えていき、それにともなって小説内の世界ではその音が使われたものが消えていく――例えば、「あ」という音が消えれば、午前中の時間を指す「朝」という概念も、妻が夫に呼びかける「あなた」という代名詞も、世界からは消えてしまう――という設定だけを軸に、じりじりと消えゆく文字と戦いながら、主人公は物語を進めていく。妻と娘が目の前で消え失せ、周囲のあらゆるものが消滅し、徐々に崩壊していく世界に翻弄される主人公の目を通して、読者は今までにないスリリングな読書体験を味わうことになる。このような小説内での文字の仕様に制限を掛ける文学上の実験を「リポグラム」といい、フランスではジョルジュ・ペレックによる全編eを使わずに書かれた『煙滅』という作品もあるのだが、本作はその日本語での応用の成果として評価されるべきだろう。

 使える音が半分以下になる中盤を過ぎると、世界は空中分解すれすれの曲芸飛行めいた、一種異様な様相を呈し始める。助詞や文末表現すらも使用を封じられた結果、体言止めや省略を多用しながら何とか小説としての成立を目指す主人公と作者の奮闘は、不条理コントめいたスラップスティックな笑いと同時に、本作でしか体感し得ない感動を同時にもたらす。

 そして最終盤、単行本では袋とじになっていた第三部では、エスカレーションの末に使える音が十音以下という極限状態にまで陥ってしまう。ページをめくる誰もが「小説として成立させるのは不可能では……」と思わずにはいられないこの状態においても、筒井康隆は小説に挑み続けた。その結果――実際に読んで確かめて頂きたいのだが――本作のような「縛り」が存在しない限り到達できないであろう、ある種の小説の到達点が、読者の眼前に現れる。不可能を可能にした作者の筆力と執念、そして日本語という言語の可能性に拍手を送りたくなることうけあいの、実験文学の大傑作である。(くじらい)

 

作者紹介
一九三四年、大阪府生まれ。小松左京星新一らと並んで「SF御三家」と称される日本SF第一世代の作家で、代表作に『時をかける少女』『虚航船団』『旅のラゴス』など。

Podcastをはじめました

こんなん読みましたけど • A podcast on Anchor

 

Podcastをはじめた。

これからいろいろ活動していくなかで、人と雑談する場が必要なんじゃないかという気がして、その強制的な枠組みとして導入してみようと思ったのだ。

今のところ週1更新で、最近読んだ本の話などをしている。

相棒のからふね氏とは、同人誌の『カモガワGブックス』も一緒にやっているし、もうかれこれ10年以上の付き合いなのに、改めて録音される場で話すと気恥ずかしい感じがちょっとする。散々教室とか部室とかで喋ってきたのに、不思議なもんだ(その辺りの二人のこれまでの経緯は、第1回配信を聞いてみてください)。

まだ掘りつくせてなかった鉱脈を改めて点検する、という意味でもいい機会かもしれない。

 

anchor.fm

 

あとは、だんだん年を重ねるにつれて、自分がどうしようもない固定化された偏見にまみれた中年になるんじゃないか、というおそれがして仕方がなくなってきていたのも、理由のひとつにはある。中和するために、やはり定期的な人との交流の場を持ちたいなという気持ちになったのだ。そういう意味では、今後は少しずつ、外部ゲストなんかも呼べたらいいなと思っている。

それに、同人誌を作るにしても何をするにしても、土台となるものがないと無理だと思ったので。全レビューにしても何にしても、自分のモチベーションのための目標設定としての手段、という面がずっとあった。今回もそれの一環と言えるのかもしれない。

 

おたより、随時募集中です。

トークテーマ、質問、海外文学の相談等々何でもOK。下記マシュマロに投稿してみてください。

marshmallow-qa.com

 

海外ユーモアSFアンソロジー(仮)を編む 架空アンソロジーの試み

 笑える話が好きだ。

 変な発想(=奇想)を繰り出して、「そんなアホな」と言いたくなるような、そんな話がジャンルを問わず好きだ。

 特にSFというジャンルでは、その自由な想像力を「笑かし」の方向に振った名作がちらほらと存在する。過去にも「ユーモアSF」という括りでアンソロジーが何冊か編まれたり、雑誌の特集号になっているほどだ。

 

 

 そういうわけで、自分でもそうした笑えるSF短編を集めてアンソロジーを編みたくなった。いわば架空アンソロジー企画である。このために国会図書館に行って過去の雑誌のコピーを散々取ってきて、検討したりした。折角なので本当に商業出版できることを想定して、編集方針を決めて編んでみた。

 

☆編集方針

 海外SFでユーモア色の強い、笑える短編の傑作選を作る。

 雑誌掲載のみなど現在入手困難な作品で固めて、初訳作品も数作混ぜることで、購買希求力を上げる。古い作品の再録が多くはなるが、初訳作品を入れることで、オールドSFファンからも買ってもらえるようにする。また、若いSFファンには、なかなか手に入れづらい作品を1冊にまとめることで、効率的に良作を読めるという点で、また単純にユーモアSFの傑作集であるという点で、買いたくなる本にする。

 全部で十数作くらいの想定。10年留保の作品を混ぜることで、コストを下げる。

 

☆収録作品(著者名/タイトル/評価/原稿用紙換算枚数)

 全13作、10年留保が5作、初訳が5作 ※は10年留保

全部で545枚。よく分からないが、文庫本だと300〜400ページには収まるはず。

 

***

ジョン・スラデックトマス・M・ディッシュ ”The Incredible Giant Hot Dog” 「超巨大ホットドッグ」(1969) 未訳 20枚  ※10年留保

 ある日、父親が子供たちに料理していたホットドッグが逃げ出した。「それ」は台所のネズミなどを食べながら少しずつ巨大化していき、とうとう夜中に子どもたちを腹に収めたしまう。最終的に、異形の怪物と化した超巨大ホットドッグは警察官たちをなぎ倒し、都市を破壊していく……。ホラー味もありながら、モチーフがなんとも脱力な一作。スラデックなら『蒸気駆動の少年』収録作を含め取りたい短編は山ほどあるのだが、未訳で盟友ディッシュとの合作のこれを。

 

○マイクル・ビショップ「ジョージア州クズ・ヴァレー、ユキオ・ミシマ文化協会」 30枚 

The Yukio Mishima Cultural Association of Kudzu Valley, Georgia (1980) SFマガジン1990年4月号 嶋田洋一訳 

 テキサス州の片田舎で、突如三島由紀夫の大ブームが巻き起こる。街には半裸のミシマポスターが溢れ、子供たちはケンドーに励み、大人たちはセップクの儀に臨む。狂乱の街を描くなかで、〈文化的侵略〉の恐怖を描いた……と言えなくもない?怪作。ビショップには他にもあのP・K・ディックが巨大なトマト型惑星になって回転する(??)という心底謎な「はぐれトマト」という短編もある。

 

○デーモン・ナイト「バベル2」 80枚

Babel II (Beyond Fantasy Fiction 1953/ 7) SFマガジン1983年3月号 冬川亘訳

 ある日、男は突如現れた妖怪に謎の術を掛けられてしまい、世界は言語の構造を失ってしまう。滅裂な言葉しか話せなくなった人々は混乱の極みに達していくが……。

主人公の最後の選択(=話し言葉は滅裂なまま、書き言葉だけもとに戻す)で得られた静寂が皮肉。

 

○ロバート・ブロック「再臨」 

Second Coming! (1964) 『世界ショートショート傑作選2』 伊藤典夫訳 10枚 

 現代のニューヨークに復活したイエス・キリスト。しかし時代の波の揉まれ、ありとあらゆるゴシップ、政治の駆け引き、乱痴気騒ぎに巻き込まれていく。最終的にイエスは映画の出演のデマを打ち消した直後に失踪し、再び世界は乱れていく……という、年表と見出しだけで構成されたショートショート。短さの割にキレがすごい。

 

○ラヴィ・ティドハー ”Whaliens”「ホエイリアンたち」(2014) 未訳 40枚

 地球を訪れたクジラ型宇宙人が要求したのは、なぜかモルモン教の指導者との面会だった。その後ユダヤ教への改宗を迫る宇宙人とアメリカ大統領たちの宗教を巡るドタバタ劇と、危機に瀕して知恵を寄せ合う主人公らSF作家集団、そして全てを統べて暗躍する高知能猫たち。猫SFでありながら、作者のSF愛(そしてヒューゴー賞を獲りたいという気持ち)を表現した一種のメタSFでもある。「再臨」と並べて宗教ネタで揃えたい。

 

○トマス・M・スコーシア「浴槽の中の爆弾」 

The Bomb in the Bathtub(Galaxy 1957/ 2) 『別冊・奇想天外 ドタバタSF大全集』宮脇孝雄訳 45枚

 ――「浴槽には、いま水爆が入っているんです」

 ロボット型爆弾が出現したある日。浴槽に現れたそれは、ポピュラーソングを歌い、蛇口をにらみつけるだけで何もしない……。調査に訪れた私立探偵と爆弾とのやり取りがユーモラスかつナンセンスで面白い。別次元から宇宙を破壊しようとするパラノイド集団に、別次元から宇宙を救済しようとするパラノイド集団をぶつけて解決を図るというやり口が狂っていて楽しい。

 

○ノーマン・ケーガン「数理飛行士」 55枚 

The Mathenauts (If 1964/ 7) SFマガジン2002年7月号 浅倉久志

 空間の生の数学的構造を,物質の介在なしに見ることができる」数理飛行士たちによる、数学空間内の冒険を描いた数学SFの古典的傑作。早すぎたグレッグ・イーガンといった趣もあり、数学の抽象的な空間を宇宙空間のように行き来するハッタリだけで乗り切るすごい話。数学SF枠。

 

アヴラム・デイヴィッドスン “Full Chicken Richness”  (1983)  未訳 30枚

 チキン・スープの缶の原料表示にあった「その他鶏肉」の表示を疑問に思った男が原料を調べると、そこに書かれていたのは謎の住所。訪れると、ある種のタイムマシン的な装置を使うことで、古代からドードー鳥を連れ出し、原料にしていたことが判明。最後には「需要が供給を上回って」ドードー鳥は絶滅してしまうのだった。一種のタイムパラドックスものでもある。ウォルドロップ「みっともないニワトリ」とならぶ2大ドードー鳥SF(そんなのあるか?)の1作。

 

○韓松 ”废厕”(2021) 未訳 50枚

 トイレがいろいろな宇宙と繋がっているというトイレSFらしい。途中に数年前日本で流行った植村花菜の楽曲『トイレの神様』が引用される。わたしは中国語ができないので詳細は分からないが、大恵和実氏が紹介されていた。

 

 韓松は「我々は書き続けよう!」(上原かおり訳、SFマガジン2022年6月号)が有史以来の高名な文学者は全員宇宙人だ!わたしが小説を書けないのは非宇宙人だからだ!……というほとんど悪ふざけみたいな発想から出発しながら、最後は文学の持つ根源的意味にも辿り着く怪作であったので、何とか1作ねじこみたい。

 

○ハワード・ウォルドロップ “Heirs of the Perisphere” (1985)  未訳 50枚

 文明崩壊後の世界で、ある日ディズニーのキャラクターたちが復活する。彼らはかつて自分たちが活躍していた時代について知るため、手がかりを探そうとするが……。「みっともないニワトリ」の作者によるシュールで切ない情景の短編。

 

フラン・オブライエン「機関車になった男」15枚 

John Duffy's Brother (Stories and Plays 1947) 『別冊・奇想天外 SFファンタジイ大全集』赤井敏夫

 ダッフィー氏はある朝突然、自分が機関車だという揺るぎのない確信を得る。周りの人は適当にあしらうが、本人は本気だった。結局、昼食を食べ終える頃には正気を取り戻し、機関車の痕跡は日常のちょっとした気配にしか残っていない。果たして本当に男は機関車になったと言えるのか? 日常と非日常のあわいをごく短い枚数で描き出した名作。

 

ジョージ・アレック・エフィンジャー「標的はベルリン! -空軍フォードア・ハードトップの役割-」 80枚

Target: Berlin! -The Role of the Air Force Four-Door Hardtop (editor:(Robert Silverberg) New Dimensions 6 1976) SFマガジン1990年4月号 中村融

 七〇年代の原油危機を受け、主力軍備を航空機から自動車へと転換する各国軍。その結果まきおこる、トヨタ"零戦"による特攻やキャデラックによる原爆投下など、「車」によるもう一つのWWⅡが描かれる。各種インタビューや書籍の引用などから構成されており、原爆投下の意義など真面目なテーマを扱っているようで、絵面が異様でふざけているようにしか見えない一種の怪作である。改変歴史もの枠として。

 

コニー・ウィリス「魂はみずからの社会を選ぶ」

The Soul Selects Her Own Society: Invasion and Repulsion: A Chronological Reinterpretation of Two of Emily Dickinson's Poems: A Wellsian Perspective (IASFM 1996/ 4) 『混沌ホテル -ザ・ベスト・オブ・コニー・ウィリス大森望訳  ※個人短編集収録 40枚

 名高い大詩人エミリー・ディキンソンの詩の読解から、過去に起こっていた火星人襲来の事実を暴く! 論文形式で語られるいけしゃあしゃあとしたボケっぷりがたまらない一作。個人短編集収録済みだが、これだけはどうしても入れたい。

 

***

 という訳で編んでみた。架空アンソロジーを編むのは楽しいし、色々変わった角度から短編をまとめて読む機会にもなっていいのでおすすめです。今回選ぶにあたって泣く泣く落とした作品も数多くあるのだが、これを読んで「これが入ってない!」などの意見があれば教えてもらえるとありがたいです。ラファティはこの間ベスト集が出たし、分かる/分からないが個人的に大きい作家なので入れられなかったが、なにかいいのがあれば入れたいし……ベイリーも……等々。思いながらもそうこうしているといつまでたっても終わらないので一旦公開。

 

諦念と哀しみ、そしてユーモア――『いずれは死ぬ身』

 

 

 雑誌『エスクァイア 日本版』に翻訳連載された作品群の後半(前半は『夜の姉妹団』としてまとまっている)と、その他別の雑誌等に単発的に訳された作品を集めたアンソロジーである。こう聞くと「どうせ寄せ集めなんでしょ? 実際どうなのよ?」などといった印象を不遜にも抱いてしまいがちだが(私ははじめ思った)、編者本人があとがきで語るように、「全ての作品があるべき所に収まっているかのような調和」が取れているから不思議である。死、喪失、別離、崩壊等がいずれの作品にも通底する要素として存在し、一種の諦念と、その境地に達したからこそ繰り出せるユーモア、そしてその哀しみに満ちているから、そしてそれこそが編者・柴田元幸の色であるからだろうか。

 例えばトム・ジョーンズ「スリ」は、そうした“向こう側”に達してしまった者だけが感じ取れる奇妙な明るさを、重度の糖尿病で足を切断した元スリの男による一人語りで描いた作品。傍から見れば悲惨なはずの境遇も、彼の饒舌でポップな口調で語られると妙に清々しく感じられるのが魅力だ。なお、これとは別に舞城王太郎氏による別訳もあり河出書房新社『コールド・スナップ』に「ピック・ポケット」として収録)、この闊達な口語文体を二人はどう訳したのか、読み比べてみるのもまた一興だろう。

 

 

 アルフ・マクロフラン「自転車スワッピング」は、二台の自動車を坂で走らせながら途中で乗員同士が互いの自転車に飛び移るという、サーカスめいた芸を楽しむ二人の男の物語。芸の失敗の結果、頭を強打し、一連の始末の記憶を失ってしまった語り手は、相方の男との交友を通して当時の記憶を取り戻そうとするが、そんな中相方は末期癌の宣告を受けてしまう。そんな悲しむべき境遇の筈が、語り手の男は「末期癌患者が話す言葉からは、未来を示す語句が減っているのではないか?」との妙な仮説を立て、実際に相方と病院で話しながら、その語の数をカウントしていく。一見奇妙なユーモアを醸し出しながら、自らにも着実に迫りつつある死を友人の姿から冷静に分析し、「その時」——自転車同士がすれ違う瞬間——を静かに待つ語り手の諦念が素晴らしい。この作者の作品はこれ以外訳出されていないようだが、もう何作か読んでみたくなった。また、死亡記事を自分で出し、自分で新聞社まで苦情を言いに行く男を描いた表題作「いずれは死ぬ身」も、男の孤独さと止められない自己顕示欲を皮肉に描いた面白みと哀しみが両立した佳品である。

 奇想面ではケン・スミス「イモ掘りの日々」がとりわけ光る。イモ畑を舞台に繰り広げられる歴史パロディで、イモ畑創世記に始まり、戦争、資本主義の台頭、イモ・ディストピア、そして革命に至るまでの軌跡を断片的に描いた、奇想天外な物語である。金属片が植わったイモ(磁石を向けるとくっついてそのまま収穫できる)、水素を内部に発生させ自ら浮かび上がるイモ、小さな手足を生やしテクテクと収穫袋に歩き出すイモなど、イモ掘り人の繰り出す奇想に痺れる。

 その他、ビートニクを代表する作家バロウズの心和むドラッグ・クリスマス・ストーリー「ジャンキーのクリスマス」も、筋だけ辿ればほとんど浪花節みたいなものだが、色んな意味でバロウズにしか書き得ないであろう小品。また「女は他人の亭主だって盗むんだから、他人の赤ん坊を盗んで何が悪い?」という鮮烈なパンチラインで始まる、子を持つ女性に対してアンビバレンツな感情を抱く独身女性の物語「盗んだ子供」は、本書の中で最も刺激的な作品の一つ。女性は母親の隙を突き、盗んだ赤ん坊と共に暮らし始めるのだが……。皮肉な結末、ちりばめられた警句が読者の心に波紋を広げる。

 グレゴール・ザムザ×チャーリー・ブラウンなコミック「みんなの友だちグレーゴル・ブラウン」チャーリー・ブラウンがある朝目覚めると虫になっている『ピーナッツ』パロディ)、戯曲版『幽霊たち』である「ブラックアウツ」など、変化球も揃う。

 

スチュアート・ダイベック「ペーパー・ランタン」 『エスクァイア 日本版』1997年12月号

◆ウィリアム・S・バロウズ「ジャンキーのクリスマス」 『〃』1997年1月号

◆ジェーン・ガーダム「青いケシ」 『新潮』1998年7月号

◆ブリース・D'J・パンケーク「冬のはじまる日」 『〃』2007年7月号

トム・ジョーンズ「スリ」 『エスクァイア 日本版』1996年11月号[→『コールド・スナップ』(河出書房新社)、舞城王太郎訳]

◆ケン・スミス「イモ掘りの日々」 『〃』1997年3月号

◆クレア・ボイラン「盗んだ子供」 『〃』1997年9月号

◆R・シコーリャック「みんなの友だちグレーゴル・ブラウン」 『鳩よ!』2001年8月号

◆トバイアス・ウルフ「いずれは死ぬ身」 『小説現代』2004年3月号

◆ウイリアムトレヴァー「遠い過去」 『エスクァイア 日本版』1996年8月号

◆エレン・カリー「強盗に遭った」 『〃』1997年2月号

ポール・オースター「ブラックアウツ」 『〃』1996年10月号

◆メルヴィン・ジュールズ・ビュキート「同郷人会」 『新潮』1998年7月号

ベン・カッチャー「Cheap novelties」 訳し下ろし

◆アルフ・マクロフラン「自転車スワッピング」 『新潮』1998年7月号

◆リック・バス「準備、ほぼ完了」 『すばる』1989年5月号

◆アンドルー・ショーン・グリア「フリン家の未来」 『エスクァイア 日本版』1998年1月号

 

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下記同人誌に収録。

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旅にまつわる海外短編アンソロジー――『紙の空から』

 

 

「地上で読む機内誌」をコンセプトに、世界各地の自然や文化を紹介する雑誌〈PAPER SKY〉に翻訳連載された短編を集めたもの。旅にまつわる小説を、との編集部の提案で始まった連載だが、「その都度その都度面白いと思った作品を選んできた」こともあり、やや旅というテーマからは逸れたものも散見される。とはいえ、鉄板のミルハウザーダイベックに加え、カズオ・イシグロの貴重な短編も読めるので、それはそれでよいのかもしれない。とはいえ、ミルハウザーダイベックに関しては少年小説アンソロジーに、カズオ・イシグロについては老人小説アンソロジーに収録できなかった余り物の再利用といった感が否めないのは私だけだろうか。

 ジュディ・バドニッツ「道順」はさまざまな人たちがそれぞれの道を探す物語。都市に住む娘を初めて訪ねた老夫婦。余命を告げられたひとりやもめの男。妻帯者と不倫する少女……。彼らは地図を求め、正しい道順を探し、目的地を目指す。「……『あなたのための地図はあります』と地図製作者は言う。『でもここにはありません。あなたが自分で見つけなくちゃいけないんです』……」「……でも君は考える。地図製作者の店には、あらゆる人間の一生がきっちり消しがたく描き出されたマスターマップがあるんじゃないだろうか?……」断章形式で視点を都度変えながら綴られる、種々の人生。それはそれぞれの道筋を辿り、彼らの意向に関わりなく、終着を迎える。なお、後に『空中スキップ』に「道案内」として岸本佐知子訳で収録されている。

 

 

 ピーター・ケアリーアメリカンドリームズ」は精巧なミニチュアを作られてしまった町に住む人々を、少年の視点から描いた話。当然、ミニチュアを見て「本物」の「聖地巡礼」に訪れる観光客で町は溢れるわけだが、人々はミニチュアに写し取られたときよりも老けるし、建物も古びる。そのギャップにがっかりされながらも、一ドルで写真撮影に応じ、懸命に当時の無垢で明るい姿を演じようとする少年のやりきれなさが切なく、観光客のこれまた無垢で不躾な視線が不快で面白い。

 GO TOキャンペーン絡みでこの本が再販されたらちょっと面白いな、とは思ったが、内容に関してはさほどだと思う。素直に『空中スキップ』と『ナイフ投げ師』を買って読む方がいい。

 

 

◆ガイ・ダヴェンポート「プレシアの飛行機」 訳し下ろし

ジュディ・バドニッツ「道順」 PAPER SKY no.7(Autumn 2003)[→『空中スキップ』(マガジンハウス、岸本佐知子訳]

◆ジェーン・ガーダム「すすり泣く子供」 PAPER SKY no.5(Spring 2003)

スティーヴン・ミルハウザー「空飛ぶ絨毯」 PAPER SKY no.6(Summer 2003)[→『ナイフ投げ師』(白水社白水Uブックス)]

◆V・S・プリチェット「がっかりする人は多い PAPER SKY no.10(Summer 2004)

チャールズ・シミック「恐ろしい楽園」 PAPER SKY no.13(Spring 2005)

◆ロジャー・パルバーズ「ヨナ」 PAPER SKY no.11(Autumn 2004)[→『新バイブル・ストーリーズ』(集英社)]

スチュアート・ダイベック「パラツキーマン」 訳し下ろし[→『路地裏の子供たち』(白水社)]

バリー・ユアグロー「ツリーハウス」「僕の友だちビル」 PAPER SKY no.16(Winter 2006)[→『たちの悪い話』(新潮社)]

◆マグナス・ミルズ「夜走る人々」 PAPER SKY no.14(Summer 2005)

ピーター・ケアリーアメリカンドリームズ」 PAPER SKY no.12(Winter 2005)〈『現代オーストラリア短編小説集』(評論社)、東海林郁子訳〉

ロバート・クーヴァー「グランドホテル夜の旅」「グランドホテル・ペニーアーケード」 PAPER SKY no.15(Autumn 2005)

◆ハワード・ネメロフ「夢博物館」 PAPER SKY no.17(Spring 2006)、PAPER SKY no.18(Summer 2006)

カズオ・イシグロ「日の暮れた村」 PAPER SKY no.9(Spring 2004)[→『短篇コレクションⅡ』(河出書房新社池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第Ⅲ集6巻》)]

 

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下記同人誌に収録。

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不思議な浮遊感漂う現代アメリカ幻想小説傑作集――『どこにもない国 現代アメリカ幻想小説集』

 

 

 柴田元幸が紹介する作品には、大まかに二通りの類型がある。スチュアート・ダイベックに代表される地味ながらしっとりとした叙情に満ちたリアリズム小説と、スティーヴン・ミルハウザーに代表される幻想的でシュールな非リアリズム小説の二通りだ。副題に示される通り、本書は現代アメリカで書かれた幻想小説集であり、ゆえに本書に収録された作品は前述の後者の類型に当てはまるものばかりである。訳者あとがき曰く「過去二十年くらいにアメリカで書かれた幻想小説のなかでとりわけ面白いと思うものを選んで訳した」という。確かにその言葉通り、柴田編アンソロジーの中でもかなりの高打率を誇るラインナップとなっている。それぞれを見ていこう。

 エリック・マコーマック「地下堂の査察」 は、ある入植地に作られた「地下堂」に住む——「地下牢」ではないものの、“収監”という言葉が相応しいかもしれない——人々のエピソード集だ。査察官である語り手の目を通して描かれる彼らの過去は奇想天外にして荒唐無稽、そして仄暗い残虐性に満ちている。飼い犬を過労死させた、全自動ボール投げ器の発明家。私有の模造森の中に、未知の怪物を住まわせる名家の末裔の男。精密な等身大のガリオン船の模型を作り、船室で姿の見えない男たちと航海計画を練る農夫……。彼らの悲嘆の叫びを背に、査察官は当局への報告書をしたためる。陳列される奇想・幻想の奇抜さ、そしてまぶされるグロテスクさが読者を狂気と不条理の世界へと誘う。

 スティーヴン・ミルハウザー「雪人間」は、エスカレートしていく状況と少年の眼から描かれる世界の奇妙さ・おかしみが、漫画のpanpanya作品を思わせる出来の一作。雪の降ったある日、町に細部に至るまで精密に写し取られた人間の雪像——雪人間——が現れる。その出現は各家庭の庭から庭へと競争を広げ、雪人間は洗練の度を増していく。弦楽四重奏団大道芸人、アイススケーターなどの力作が見られるなか、写し取られる対象は人間だけではなく、動植物や無機物にまで至る。そして複製への情熱が最高潮に達した二日目の午後には、何から何まで雪でできた巨大な雪の邸宅がそびえ立つにまで、状況は進展していく。行き着くところまで辿り着いてしまった雪人間競争は、次第に非現実・非存在のものの複製へと進出し始める。小人に食人鬼、妖精や一角獣など、幻想の動物たちが雪で創造されていくが、それは同時に、雪人間という様式の限界が近いことをも示していた……。「超精密な雪像彫刻」というホラから、ある種の芸術の衰亡史を描いてみせる軽やかな手付きが絶品。ぜひpanpanya先生の絵で見てみたい。MONKEYとかでコラボして下さい。

 

 

 ニコルソン・ベイカー「下層土」は、イモ屋敷に迷い込んだ植物史学者の男がモンスター・イモの群れに寝込みを襲われてポテトヘッド人形にされてしまう、大変愉快なバカホラー(そんなんあるのか?)。スティーブン・キングばりの恐怖小説を! との狙いで書かれた作品とのことだが、それがなぜこうなるんだ? と思わず(いい意味で)首を捻らざるを得ない。なお、プロット自体はバカホラーだが、イモに襲われる描写(茎が尿道や涙管にまで入っていく!)は結構怖い。映画『アタック・オブ・ザ・キラートマト』(怪物トマトに街が襲われるB級ホラー)が好きな方にオススメ。

 

 

 その他「魔法」は、常に鎧越しでしか姿を確認できない女王と、彼女に拾われた女(おそらく)の物語。非対称的で、DVをも連想させるような二人の関係性から「見る」ことそのものへの暴力性が示唆されるレベッカ・ブラウンらしい作品。「見えないショッピング・モール」イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』のショッピング・モール版で、ちゃんと書いたらある種のアメリカ文明批評になりそうな予感を醸し出す。にしても、『見えない都市』オマージュって何でこんなに多いんでしょうね。未邦訳作品も含めると、『見えない都市アンソロジー』が余裕で一冊編めるレベルで存在するような気がする。

 そして掉尾を飾るのは、現代アメリカを代表する奇想作家の一人ケリー・リンクによる「ザ・ホルトラクラテンアメリカ文学的な魔術的リアリズムを彷彿とさせる現実感と非現実の同居(ゾンビが平然と存在するアメリカ)と、そこで描かれる妙な青春小説風な物語がマッチしているのかしていないのか、あまり釈然としないことが、不思議な浮遊感と地に足のついた感覚という真逆の印象を同時に与える。『どこにもない国』という本書の題名が最も顕著に当てはまる作品ではないだろうか。

 

エリック・マコーマック「地下堂の査察」  訳し下ろし 〈『隠し部屋を査察して』(東京創元社創元推理文庫)、増田まもる訳〉

ピーター・ケアリー「Do you love me?」 エスクァイア 日本版』1996年9月号

ジョイス・キャロル・オーツ「どこへ行くの、どこ行ってたの?」 訳し下ろし 〈『マドモアゼル短編集Ⅰ』(新書館)、武富義夫訳→『愛の車輪』(角川書店)、村上博基訳〉

◆ウイリアム・T・ヴォルマン「失われた物語たちの墓」 『Positive 01 ポストモダン文学、ピンチョン以後の作家たち』(書肆風の薔薇)→『幻想展覧会』(福武書店

◆ケン・カルファス「見えないショッピング・モール」 『鳩よ!』2001年8月号

レベッカ・ブラウン「魔法」 訳し下ろし

スティーヴン・ミルハウザー「雪人間」 『イン・ザ・ペニー・アーケード』(白水社

ニコルソン・ベイカー「下層土」 訳し下ろし 〈『ミステリ・マガジン』1997年8月号、岸本佐知子訳〉

ケリー・リンク「ザ・ホルトラク」  『S-Fマガジン』2006年6月号[→『マジック・フォー・ビギナーズ』(早川書房、ハヤカワepi文庫)]

 

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下記同人誌に収録。

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