機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

プロフィール

自己紹介

鯨井久志(くじらい・ひさし)

1996年生まれ。京都大学SF・幻想文学研究会OB(2020年度まで)。

専門は、おおむね医学方面。

海外文学・SFのレビュー&評論&その他もろもろの同人誌『カモガワGブックス』の主宰(共同)。

SFとラテンアメリカ文学、その他奇想小説が好き。また、変な小説/映像/漫才も好き。

過去の仕事(商業)

過去の仕事(同人)

その他(創作など)

連絡先

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風化しないユーモア、超越する面白さとは?――ユーモアSFアンソロジー『グラックの卵』

 

 

 本書は〈ユーモアSFアンソロジー〉と謳われているが、果たして「ユーモアSF」とはそもそも何なのか? そこから考えてみたい。

 編者の浅倉久志氏は過去に、「ユーモアSFの特質は(中略)論理と飛躍ではないか」(『世界ユーモアSF傑作選1』解説)と記している。だが、この後に浅倉氏本人も書くように、これはSFそのものの特質でもある。では、ユーモアSFと非ユーモアSF(などというものが仮に存在するとすれば)の境界とは一体何なのだろうか?

 

 

 これは難題である。落語家・桂枝雀の有名な「笑いとは緊張と緩和である」という理論を持ち出せば、SF的な科学的論理=緊張、その論理から導かれる非現実的なヴィジョン=飛躍、ということにでもなろうか。緊張と緩和理論に則れば、この落差が大きいほど「笑える」、すなわちユーモア度が高い、と強引に論ずることもできるだろう。だが、笑いはそんな簡単なものではない。

 

 

 本書に収められた作品だけでも、様々な種類のユーモアがある。例えば、宇宙からとんでもなく巨大な鳥が来襲し、太陽系自体が巨大な「地球」という卵の孵卵器であることが判明する奇想SFボンド「見よ、かの巨鳥よ!」は、明らかに「そんな訳ねえだろ!」というツッコミ待ちの大ボケである。だが、このボケをボケとして成立たらしめているのは、『ルバイヤート』を始めとする古代伝説を論拠として持ち出す「論理」なのである。ここに論理と飛躍の典型的な図式が認められるわけだ。

 その他、タイムトラベルと芸術家によって起こるライオン仮面的なパラドックスを描いた、テン「モーニエル・マサウェイの発見」は、まさにタイムトラベルという前提から出発した「論理」によって起こる矛盾がおかしさを醸し出しているし、アメリカ版「養老の滝」伝説といった趣のノヴォトニイ「バーボン湖」(文字通り湖がバーボンで満たされている話)も読んでいて楽しい。表題作となったジェイコブス「グラックの卵」も、絶滅種の卵を巡るハーレム系ドタバタSF短編である。

 さて、問題なのがスラデックの中編「マスタースンと社員たち」である。ジョーゼフ・ヘラー『キャッチ=22』の影響を強く受けた本作は、ワンマン社長の元で働く社員たちを描いた一種の会社員小説なのだが……スラデックをお読みの方なら分かる通り、本作にはブラックジョーク、パラドックスの笑い、不条理、言葉遊びがこれでもかと詰め込まれている。手っ取り早く言うと、本作に登場する人物で正気な人物は一人もいない、そういう小説である。挿入されるフローチャートの図が示す分業化された書類仕事の無意味性や、最強レスバトル必勝法(=とりあえず大声で叫び続ける)vs歴史修正主義者、再雇用される死者、経費削減の末物理的に消滅する会社等々の破壊的な笑いは、本書収録の他作品とは明確に一線を画する。ぜひとも読んで頭をクラクラさせてほしい。

 ユーモアの持つ時代性、風化の早さは残酷である。だが、本書に収められた多くの作品のそれは、今なお通用する。論理と飛躍には——あるいはこう言ってもいいだろう、ある種の“バカバカしさ”には——時代を超越する面白さがある。そうしたことを改めて認識させられる一冊だ。  

『ゴーレム100』の超絶翻訳を原文と比較して検証してみた

 

 
 アルフレッド・ベスター『ゴーレム100』(100は本来べき乗表記)(渡辺佐智江訳、国書刊行会)は妙な本である。

 ワイドスクリーン・バロックの大家・ベスターの持ち味である大風呂敷を広げまくる展開や、イラスト・タイポグラフィを用いた視覚的要素もさることながら、イドの怪物・ゴーレム100を召喚する有閑マダム・蜜蜂レディたちの喋り方や、ガフ語と呼ばれる近未来での一種の方言の訳し方などが、あまりにこなれすぎているのだ。

 というか、あけすけに言うと、「絶対に(訳者は)ふざけてンだろ!」と思ってしまうほど、自由で闊達な訳文なのである。

 だが……巻末の山形浩生氏の解説では、

だが原文とつきあわせるとわかる。あらゆるダジャレ、あらゆるお遊び、あらゆる下ネタは、すべて原文通りこれほどに忠実な翻訳はないとすらいえる代物が、現実に可能とは信じがたい精度で展開されている

(『ゴーレム100』p.495、強調は引用者)

と、手放しの絶賛で迎えられている。

 日本語訳で本書を読み終え、その荒れ狂う洪水のような本編の内容に圧倒されつつも、にわかには信じられず、疑問に思った私は、早速ゴーレム100の原書を取り寄せ(古書で送料込み・1000円弱くらいだった)、「原文とつきあわせる」作業に没頭した。

 結論から言うと、山形浩生氏の言うことは全く間違いではなかった。本当に原文通りだったのである。

 以下はその検証結果である。

 なお、比較には、アルフレッド・ベスター『ゴーレム100』(渡辺佐智江訳、国書刊行会、第3刷)とAlfred Bester "GOLEM 100" Pan Science Fiction版を用いた。

www.amazon.co.uk

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1.蜜蜂レディ編

 ゴーレム100を召喚する蜜蜂レディという8人の有閑マダムたちは、口語の喋り方で大体どの人物なのか推測できるように訳されている。中でも一番インパクトがあるのは、舌足らずな喋り方をする謎の幼女枠・プリス嬢である。

 日本語訳では、

プリス嬢。いまだに甘ったれた舌足らずな話し方をする。子供の頃、ボーイフレンドをほめてこう言った。「あの子は紳士〈しんち〉のお手本なの。道わたるときは、あたちがうんち踏まないように、おててを取って歩いてくれるの」(p.8)

とあり、ここから終盤までずっとこの舌足らずな喋り方を続けているのだが、原文は果たしてどうなっているのだろうか? 見てみよう。

Miss Priss, who still has a girlie-girlie lisp, and as a child was heard to say in praise of her schoolboy beau, "He's a perfect gentleman. When we cross the street he takes my arm and walks me so I shouldn't step in the shit."(p.8)

 ここでのgirlie-girlie とは、大体「女の子女の子した」という意味だろう。lispは「舌足らずな話し方」。だが、当たり前のことだが、セリフの中身は普通の英語である。

 この後もプリス嬢の喋り方はずっとこの調子で続く。この辺りの謎のアニメ感が、本書を百合姫』がコラムで百合小説として取り上げるという謎の事態のきっかけになったことは確かだろう。

 プリス嬢の喋りを、参考として以下で数箇所引用しておく。

「ちゅごーい! あのテープ見てくだちゃいまちぇ!」(p.73)

"My goodness! Will you look at that tape!" (p.58)

プリス嬢が腹を立てた。「恥知〈はじち〉らずでちゅこと」(p.114)

Miss Priss was offended. "Shame on him."(p.85)

「リジャイナ、サタンにはユーモアのセンチュがないんでちゅか?」(p.12)

"Doesn't Satan have a sense of humor, Regine?"(p.11)

 いずれもセリフ内は普通の英語である。渡辺氏の訳業の冴えっぷりがお分かりになるだろう(ちなみに、本書の翻訳時、渡辺氏の頭にはずっととっとこハム太郎』の曲流れていたそうである。リボンちゃんってこと??)。

 その他にも、なぜかセリフ中に感嘆符や花の模様が挿入されるサラという人物もいるのだが、

「やだな、からかって。だけど唱えてるとき、ゾ*ク*ゾ*クッ*ときたわ」(p.12、本文では*ではなく花の模様)

"Aye, you mock me, but I felt a C*H*I*L*L when I was chaunting it !"(p.11)

サラ・ハートバーンが驚いた。「あの美しきものが実はすべて!!!ハンドメード!!!だと申すか、手*を*つ*かっ*た? 美術館が自然発火で生み出すものだと思ってたのに」(p.46)

Sarah Heartburn was astonished. "You mean those BEAUTIFUL things were actually all !!!handmade!!! by H*A*N*D? I always thought museums produced them by spontaneous combustion."(p.37)

と、原文からして*が使われていることが分かる。完全再現である。

 また、有閑マダム的な口調として、一見あまりに砕けすぎているというか、渡辺氏の訳でしかあまり見かけないような口語表現が使われている箇所を見ると、

「なんざんしょ、また失敗してしまいましたわ。くやしいですわね、みなさま」(p.34)

"Well, we've failed again. Dann it, ladies, it's not working."(p.29)

「(前略)さあ、一心不乱にまいりましょう、魔女のみなさま。欲するのです! 願うのです! 求めるのですッ!」(p.74)

"Now be devout, you witches. Want! Yearn! Will!"(p.58)

「くすぐってもくれないわよ、リジャイナ。ひどい。ひどい。ひどすぎまするッ!」(p.32)

"Not even a tickle, Regina. Alas. Alas! ALAS!"(p.27)

と、その弾けっぷりが分かる。以前の記事で、日本語版『ゴーレム100』は力と力の臨界点だ、と評した理由の一端がお分かりいただけてきたかと思う。

hanfpen.hatenablog.com

 その他、他の訳書も含めて、渡辺訳では「〜」を使うことにためらいがない。この辺りも、訳者の個性あふれる箇所と言えるだろう。

2.ガフ語編

 本作は近未来の都市、ガフというスラム街がおおよその事件の舞台である。そこで若者が話す「ガフ喋り」は極めて俗語的で、ある種の方言めいている。例えば、

「なにかご用かな?」
「こっち行くんならあたいもついてっていいすか」
「かまわないよ、もちろん」
「あんがとだんなあたい帰んだけどそっちも帰んのあんた?」
「そういうわけではない」
「行こうとしてっとこヤバくないんすかあんたヤバいことにかかわんのごめんすだんな」(p.66)

といった具合。これは原文だと、

"Yes, my dear?"
"If yuh gone this way man kin I come too man mistuh I scared out late mistuh."
"Certainly, my dear."
"Thanks mistuh I gone home yuh gone home man?"
"Not exactly."
"Where yuh gone to nothin' bad is yuh man I doan want no part a bad mistuh."(p.52〜53)

となっている。you→yuhぐらいは分かるが、ほかは全然分からない。この妙な感じをうまく訳出する凄さが、原文を読むと伝わってくる。

 ちなみに、本編最後では、西暦二二八〇年のガフ語が登場するのだが、これはもう『フィネガンズ・ウェイク』のジョイス状態で、ほとんど意味が取れない代物である。

 だが、渡辺氏は大いなる先達・柳瀬尚紀氏の総ルビ翻訳を踏襲して、見事な翻訳に仕立て上げているのだ。その一部を引用する。

で?胡〈こ〉は?カンジダ
ん。
胡処〈ここ〉は南〈みなみ〉なみアモーレか?
んん。
ジュー弄〈ロウ〉ッパッと腺?
んんん。
どこか言〈イ〉エズスか?
ガフ!ガフ!ガフ!
ありがた祝〈いわ〉い。
薄謝〈ハクシャ〉ーンはけっこう。♀〈それ〉が♂〈それ〉の名前〈なまえ〉。ガフ。おわかり?ガつんとフぁっくで、ガフ。あんたがいるとこ、観〈ミ〉ナイ点〈テン〉ト・虚栄〈キョエー〉タスのガファだよ。呆〈ほ〉く萎〈い〉一〇一〇〇一子〈ネ〉。(p.482)

全く何を言っているか不明だが、原文はというと、

So? dis? Candida?
N.
Dishere Souse Amourica?
Nn.
Zit Jewropey?
Nnn.
Wherjeez?
Guff!Guff!Guff!
Blessya.
N'achoo, man. She's his name. Guff. Dig? Gay-you-ffuck. Guff. You beez inna Guffa Viewnitey Status. Lassitude 101001 degrades norse.(p.382)

と、おおよそ英語なのかすら不明な文章になっている。解説の山形浩生氏が、「本書を原書で読もうとしてまず最終章を開き(中略)何が書かれているのかさっぱり理解できず泣きそうになった苦い経験がある」と書くのも頷く他ない。

 唯一理解できるShe's his name の部分すら♂♀記号で訳している辺り、渡辺氏もほぼやぶれかぶれ状態だったのかもしれない。とはいえ、これをフィネガンズ・ウェイクのパロディと気付いて柳瀬尚紀パロディの訳文に仕立て上げられる翻訳家が、何人いるだろうか? 凄まじい力量である。

3.タイポグラフィ

『ゴーレム100』には、他のベスター作品同様、イラストレーションやタイポグラフィを使った実験的手法も多く含まれている。

 その多くは日本語に移し替える時も素直に移植されているのだが、その中でも翻訳上の工夫が光る箇所をいくつか引用してみよう。

 突然蜜蜂レディの一部が意味不明な言葉を連呼しはじめる場面。ここで繰り返されるのは、

「なかうもこっつにこんま」

「るすにとこむこっつにこんま」

「こんみゃんげ」

「こんま こんま こんま こんま こんま こんま」(p.372〜374)

一読すれば大体察する通り、逆さまから読むと卑語になる……という仕掛けなのだが、三番目の「こんみゃんげ」だけちょっとよく分からない。

 原文はどうなっているかというと、

"uoy kcuf lliw I kniht I"

"uoy kcuf lliw I llahs I"

"kcuf lamirp"

"kcuf kcuf kcuf kcuf kcuf kcuf"(p.293〜294)p

と、こちらも逆さまから読むと意味が分かる仕掛けになっている。三番目は"primal fuck"なので、「根源的ファック」→「こんげん+まん」→「こんみゃんげ」という仕掛けなのだろうか?

 それに伴って、直後のイラストレーションが一部変更になっている。

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「F」が「ま」になってる、という芸の細かさが光る!

 また、一部でミーム化している「好きウオ〜」は、原文では"Like wow"であった。ある意味まんまではある。

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4.その他

 中盤の、主人公のブレイズ・シマ博士たちが、謎に赤ちゃん言葉で尋問される場面。これが何と6ページ以上も繰り広げられている。原文とともに見てみよう。

「大ちゅきよ、赤ちゃん」
「世界のみんながちゅきでちゅよ〜」
「あったかくて気持ちよくて、安全でちゅからね」
「だからおはなちちまちょうね」
「ママにおはなちちてね」
「国内企業連合になにをもくろんでたのかな〜?」(p.254)

"We love you, baby."
"The whole world loves you."
"You're nice and warm and safe."
"So you can tell us."
"You can tell mommie."
"What have you got against the Intra National Cartel Association?"(p.196)

 ……翻訳がうますぎる。

 そもそも書き出しの、

八人いた。毎週巣に集い、なごみ、親交を深めていた。(p.7)

There were eight of them who met in the hive every week to warm themselves and each other.(p.7)

からして、原文以上にかっこよくなっているように感じられる。「八人いた。」で切るところがたまらないっすね。

結論

・『ゴーレム100』の日本語版は、ほとんど原文通り。原文のニュアンスを十二分に伝えている。

渡辺佐智江氏は、すごい翻訳家である。

・何者なんだ。(渡辺氏は、生年等一切のプロフィールは非公開)

 

ぜひ、まずは『ゴーレム100』日本語版を読み、その訳業に驚嘆していただきたい次第である。

 なお、〈未来の文学〉叢書内では、トマス・M・ディッシュ『アジアの岸辺』(「犯ルの惑星」原題"Planet of the Rapes" という中身もヒドければ駄洒落も冴えてる短編が収録されている)やハーラン・エリスン『愛なんてセックスの書き間違い』などで、翻訳を担当されています。

 

 

追記:

アフター・クロード、読まざるをえない!

 

ジョン・スラデック『ロデリック』を読む――自閉症スペクトラムとして見るロデリック――

だれでも、どうふるまうかを知っているはずです。だれもが道筋を、考え方を持っています。(中略)でも私にはそのルールがまだはっきりとわからないのです。私には基本が欠けていたのです。
――ヴォルフガング・ブランケンブルク『自明性の喪失』 アンネ・ラウの面接記録より(木村敏・岡本進・島弘嗣訳)

 

ロデリックは部屋で『われはロボット』を読みながら、いつになったら「われ」が出てくるのだろうと考えていた。
――ジョン・スラデック『ロデリック』(柳下毅一郎訳)

 

 

 帯曰く、ジョン・スラデック『ロデリック』は〈究極のロボットSF〉である。
 だが、この惹句は、決して単なる販促を目した誇張表現ではない。『ロデリック』の中でスラデックは、人間の似姿として作られたロボットとオリジナルである人間の差について――鋭く、かつ意地の悪いユーモアに包んだ形で――われわれに提示する。

 今回はその差とは何だったのかを振り返ったのち、『ロデリック』における「本当のロボット」に対する読みを、精神病理学的な方面から少し掘り下げてみることにする。

 

はじめに

『ロデリック』は、ロデリックと名付けられた自己学習型のロボットが成長していく姿を描いた、一種のビルドゥングス・ロマンである。ロデリックははじめ何も知らない。言うなれば赤ん坊である。彼は人間の赤子同様、周囲の様子から現実を学び取り、人格を形成していく。

 だが、彼は決して人間ではない。少なくとも、通常の意味合い――受精卵から胎児へ、胎児から新生児へ、そして子供へ……といった誕生の道のりを辿るような――の人間ではないのは確かだろう。彼が生まれたのは、大学の人工知能を扱う研究室の中である。

 しかし、ロデリックの自己認識と客観的な認識は必ずしも一致しない。ロデリックは人間と同等の対話能力を有しているにもかかわらず、「人間」ではない。

 だが、かと言って、一定の入力に対して一定の出力を返すような、いわゆる広く想像されるところの「ロボット」でもない。この狭間にいるのがロデリックであり、この両サイドからの認識の相違によるずれが本作の面白さである。

 卑近な例では、『キテレツ大百科』のコロ助に近い。コロ助は奇天烈斎という江戸時代の発明家が生み出した設計図をもとに、現代で少年キテレツが生み出した「ロボット」であるが、どうにも人間臭い。ロボットのくせにコロッケが好きというのが、その典型だろう。

 ちなみに、ここで安易にドラえもんを持ち出さないことに注目してほしい。ドラえもんは、まだある程度「融通がきく」のである。暴走するのび太を止めはするが、時には一緒になって悪事を働く。コロ助は違う。原作第一話で、「仕事のじゃま」と言ってキテレツの母親を物入れに閉じ込めてしまうような、いわゆる「ロボット的論理」を、ドラえもんはあまり持ち合わせていない。より「人間的」なのである。

 閑話休題。ロデリックのこの中間的な立ち位置について例を示そう。

 ロデリックはこの世に産み落とされた後、ある老夫婦の養子となる(!)のだが、転入先の小学校での心理検査では全くロボット扱いされない。各種検査ののち、彼は「自分をロボットだと思いこんでいる哀れな精神障害児童」とみなされてしまう。医者は金属の胸に聴診器を当て「心臓はよさそうだなあ」とお墨付きを与え、診断書では「『大きくなったら何になりたい?』と訊ねると『何も』と答えた」「典型的な過達成症候群とみられる」「可能性:深刻なアイデンティティ危機をはらむ分裂症性傾向」と書かれる始末である。そりゃロボットには大きくなるも何もないだろう。学校の子供たちからも(なぜか)人間扱いされ、いじめの対象となってしまう。教室の片隅に、ひとりだけ金属製のボディがあれば、それを異物としてみなすのは、子供にしてみれば当然の振る舞いだろう。彼は自らをロボットだと主張するのだが、その主張は容れられない。

 一方、ロデリックは誕生後、ジプシーの集団に誘拐され(!)、占いマシーンへと改造されている。コインを入れると動き、どんな相手でも変わらず、決まりきった定形文の占い結果を告げる。単純で原始的な計算機的な挙動のみを求められる生活だが、彼は、そんな境遇には決して馴染めない。決まりきった結果を告げるだけなら、自らの存在意義はないのではないかという疑問に囚われる。ここに、ロデリックの、ロボットにも人間にもなり切れない悲しさがある。

 一方でこれは、人間の「ロボット化」された側面の裏返しでもある。ロデリックの占いマシーンとしてプログラムされた挙動は、元はジプシーの老婆の挙動である。すなわち、人間による占いも、単純で原始的な計算機的な挙動でしかなかったのだ。

 本作ではこうした逆説的な構図が頻発する。虚脱し機械的に口に物を運ぶだけのエンジニア、オカルト的論理にのめり込む大学教授、コンピュータの結果を疑うことなく死者を取り違えて火葬にしてしまう警官等々、単純-複雑=ロボット-人間の原始的な図式では言い表せない実情を、スラデックスラップスティック的な筆致で次々と描いていく。(※ちなみに、スラデックは次作Tik-Tokでも、自動チェスマシーンと化したホームレスと自我のあるロボットという図式を描いている。)

 さて、人間もロボットも、共にアルゴリズムの集合体でしかないとしたら、その差はどこにあるのだろうか? ブログ「The Red Diptych」内の記事「ジョン・スラデック『ロデリック』を読む」では、その差は自然言語を読み込む際のノイズであると論じられている。

howardhoax.blog.fc2.com

 

人間は、言葉を正確に読み取ることができない。大して長くない文章でさえ正確に意味を特定することができず、単純なスペルミスによって単語を取り違え、他人とのやりとりが増えれば増えるほど、勘違いや間違いは雪だるま式に増殖していく。……そして、いかにも人間を人間らしくしているかのように見えていたもの、各個人をして各個人たらしめる個性や特色と見えていたもの、しばしば肯定的だとみなされていた人間社会の価値観とは、膨大な量の自然言語がやり取りされる過程で膨大な量の失敗によって生み出されたノイズでしかない――それこそが、『ロデリック』という小説の根幹を支える認識なのだ。

だから、人工知能として生まれながらも人間の知性を学習しなければならないロデリックの境遇は、根本的なパラドクスの内にある。ロデリックに求められているのは、伝達された言語をその通りに受け取るのではなく、読みそこなうことによってノイズを生み出すことができるようになることだ。……言い換えれば、ロデリックは、失敗することに成功しなければならないのだ。

 ロデリックはロボットである。しかし、人間社会の中で、人間として生きていくことを要請されている。

 ゆえに、ノイズのない知性体でありながら、見えないノイズを感じ取り、感じ取ったふりをし、生きていかねばならないのである。

 そうできない彼に訪れるのは、疎外であり、迫害であり、「異常」という烙印である。

 

ASD的視点とロデリックの世界

 さて、ここまで整理したところで、私にはロデリック的な価値観――見えないノイズを読み取り、読み取れた振りをしなければいけない生き方――にある既視感を抱く。自閉症スペクトラム障害(ASD)、昔の言い方だとアスペルガー障害と呼ばれる人びとのことだ。

 ASD、とりわけ成人ASDでは社会的コミュニケーションの不全や、興味や活動の偏りなどが問題となる。言葉を文字通りに解釈してしまう、社交辞令が理解できない……といった特徴もよく知られている。

 ASD者では「心の理論」が障害されているという仮説がある。「心の理論」とは、「自分自身や他者に心を帰属させるときに各人が持つもの」であり、要するに他人の気持ちを「推論」するための道具立てである。これに関する有名な検査が「サリー-アン問題」だ。

ja.wikipedia.org


 サリーはボールを自分のかごに入れて部屋を出る。アンはバスケットからボールを取り出し、箱の中に入れる。帰ってきたサリーは、ボールをどこに探すだろうか……といった問題であり、ビー玉とかごを使って他者の心の動きを読み取れるかどうかが調べられる。

 健常者であれば、サリーはアンの挙動を知らないのだから、自分が入れたはずのかごの中を探すと回答するだろう……というのが、本検査の主旨である。

 だが、精神科医内海健によると、「サリー-アン問題」で正答とされている「心の理論」=「推論」はむしろASD者的なロジックであって、健常者における心は必ずしも「推論」に依拠していないという。

 

 

「サリー-アン問題」のなかで、心の動きが鋭敏に感じ取られるのは、むしろアンの方ではないだろうか。問題を作成した研究者は気づいていないかもしれないが、われわれは、ボールを移し替える彼女のふるまいの方に人間臭さを感じる。他方、サリーの役割を演じるのは、ロボットであっても別段構わない。特段、心の動きをそこに感じはしない。感じるとすれば、バスケットの中にボールがみあたらないときに示すサリーの反応であろう。だがそれは問題に含まれていない。(内海健自閉症スペクトラムの精神病理』p.18-19)

 健常者であれば、こういった「推論」に頼ることなく、「直感」を通して世界を理解する、と内海は言う。

定型者で作動しているのは「心の理論」ではなく、「心の直感」である。(同書 p.19)

 実際、ASD者であっても、年齢とともにこの「推論」能力を伸ばし、社会適応を図ることはできる。直感がなくとも、ロジックを一から築けば、その直感に近接することは可能なのだ。

 さて、ここで『ロデリック』に戻ろう。ロデリックは自らをロボットである……と信じている。だがこれは裏返せば、自らを人間であるとは信じていない、すなわち自らが人間であることを「直感」していないのだ。だからこそ、彼は自らのアルゴリズムに従って、推論を重ね、人間社会を理解しようとする。

 しかし、彼は決して真なる理解へは到達できない。

 人間が持つノイズ……すなわち「推論」に依拠しないがために巻き起こる誤解を、彼は理解できないのである。これを理解するためには、「人間は必ずしもロジックでは動かない」こと、さらに「ロジックで動かない場合の人間の心」を推論するためのロジックが必要とされる。ロデリックは、人間の根底にある「直感」を「直感」できない。

 この直感を内海は「φ」と名付けている。ブランケンブルク『自明性の喪失』で扱われているアンネ・ラウは、統合失調症圏の患者とみなされているが、発達過程を見るとASDである可能性も決して否定できない。統合失調症とASDの鑑別、ひいては症状としての区別は、今なお問題になっているところである。彼女は「誰もが持っているはずのルール」、すなわち「自明性」が自らには欠けており、だからこそ不安定なのだと述べる。ロデリックも、「φ」ないしは「自明性」が――これら二つは必ずしも同一の概念ではないだろうが――欠如している状態だと言えるだろう。

 

 

 本作の山場の一つである、ロデリックと神父との信仰に関する問答も、ゆえにすれ違い続ける。神の存在はロジックではない。直感できないものに直感を教示しようとする行いの困難さは、察するに余りある。神父がロデリックによる悪意のない論破に辟易し、悪魔信仰へと手を染めかけるのもおおよそ道理だろう。

 また、こうしたロデリック的価値観を「どうしようもなく世界からズレてしまうある存在のあり方」と表現した殊能将之の慧眼は、目を見張るものがある。

スラデックにとってロボットはマイノリティの隠喩なのだろうか。そうであり、同時にそうではない。わたしの印象では、「本物のロボットであること」とは、どうしても世界に違和感を持ち、どうしようもなく世界からズレてしまうある存在のあり方である。それはマイノリティに通底するが、必ずしも一致しない。むしろ「マイノリティだからそういう存在となるのだ」という偏見にすら違和感を持つようなあり方である。孤児や身障者や不法移民であるからといって、必ずしも「本物のロボットである」とはかぎらない。
「本物のロボットであること」とは、実に微妙でとらえがたい存在のあり方である。だからこそスラデックはこれほど長い小説を書いたのだろう。(『殊能将之読書日記2000-2009』p.288-289)

 

 

 ロデリックのあり方は、ASD者のあり方とよく似ている。ここから、ロデリックをASD文学として読むことは可能であろう。私が、『ロデリック』は村田沙耶香コンビニ人間』などの横に並べておくべき作品だ、というのはこういう理由である。

 

間違った筋に従って結果的に正しい結論にたどりつくという事態は、論証としては無価値である。しかし我々人間はまずなによりも、「とにかくそうなってはいるが、どうしてそうなったかはわからない」世界に生きている。限られた時間の中で、確証の得られぬ事柄をとりあえず正しいとしながら進むしかない。(ジョン・スラデック『ロデリック』p.521 円城塔による解説)

 

 

 

 

暴走する論理とSF的想像力

 さて、物語の終盤で、そもそもロデリックを生み出した源泉は、SF小説であったことが明かされる。パルプSF的想像力に囲まれ、育まれたある子どもが、後に研究者となってロデリックを生み出したのだ。
 想像力はノイズ以外の何物でもない。事象から誤った見解を抱き、それを膨らませる。それこそが想像である。
 スラデックは、Roderick 二部作刊行直後のインタビューで、「サイエンス・フィクションは無意味な世界から意味を生み出す方法」と述べている(John Sladek Interview (1982) )。

ansible.uk


 SFに限らず、スラデックは様々な方法で無意味から意味を生み出した。
『ロデリック』作中に含まれている多数の暗号もそうだろう。Aだけが並んだ暗号文から、ロデリックが瞬時に意味のある文章を取り出してみせる下りなどは、その最たる例だ。オカルトや似非科学の類もそうだ。批判し作中でこき下ろすだけでなく、自らもトンデモオカルト本を執筆するまでに至っている。また、彼は『見えないグリーン』などの本格ミステリ作品も執筆している。

 SF、暗号、オカルト、似非科学、ミステリ。これらに共通するもの、それはロジックである。オカルトもSFも、最初の前提から、次々と論理を展開していくことが織りなされていく。その論理の整合性は横に置かれる。あくまでも「推論」することしか人間にはできないのだから。

 そう、想像力とは「直感」ではない。言うなれば、「推論」を重ねていくことによって築き上げられる伽藍なのである。

 逆に言えば、「直感」できないからこそ対償的に鍛え上げられた「推論」が、想像力の重要な源だったのではないか? という仮説を立てることもできるだろう。

 見えないノイズを見るために、新たなノイズを生み出してしまうことで、世界のノイズの総量はますます増加していく。他者とは決して理解できないものであるが、だからこそ人間は理解を志向した……だが、それはますます理解から遠ざかってしまう行いなのかもしれない。だが、それをやめることはできない。

 こうして、スラデックの諸作品から、私は世界を理解しようと渇望するも、決してできないがゆえに暴走する論理の悲哀を、どうしても感じてしまうのである。

 そして、それはそのままロデリックの板挟みの苦しみであり、人間全体が抱える宿痾でもある。ゆえに、スラデック作品は、スラップスティックなおかしさだけでなく、どこか仄暗い悲しみをたたえている……ように、私には思える。

 スラデック作品は「マッドSF」としばしば評されるが、そのmadは無秩序ではない。むしろ秩序だっているからこそ、論理は暴走するのである。そして、論理は必ずしも、暴走したくてしているのではないのだ。

 

おわりに

 以上、『ロデリック』に始まり、スラデック作品における世界認識について、駆け足で振り返ってみた。

 が、まず何より『ロデリック』はコミカルなコミック・ノベル的な魅力の詰まった作品である。こうしたどうでもいい譫言など無視して、妙なパラドックスや混沌とした人間社会の滑稽さを楽しんでほしい。

 また、Tik-Tokは裏『ロデリック』とでも言うべき作品で、無垢な存在として描かれたロデリックとは対称的に、人殺しサイコロボットと化した主人公の暴走っぷりがいい作品なので、ぜひ邦訳されてほしい。

 とはいえ、まずはRoderick二部作の残り、『ロデリック・アト・ランダム』が出ないことには始まらないが……。「すれっからしのSFマニア」以外にも、スラデック作品の魅力が伝わる世の中になればよいな、と思う所存である。

 

 

 

告知など2(ハヤカワ文庫JA総解説PART2とかぐやSF2選外佳作について)

S-Fマガジン2021年10月号

 

www.hayakawa-online.co.jp

 

 SFマガジン2021年10月号〈ハヤカワ文庫JA総解説 PART2〉に、前号のPART1に引き続いて参加させていただいております。

 今回の担当作品は、田中啓文蹴りたい田中』と飛浩隆『象られた力』の2作でした。前者の奇抜な構成・装丁、そして地口落ちの連打はまさに奇書。後者は……明らかにこの字数では書き尽くせないのが見えていたので、大部分を引用で済ませてしまいました。「音楽絡みで人が死んでりゃ全部『音楽殺人』かよ!!」というツッコミの声が脳内から聞こえてきましたが、字数縛りや何やかんやでどうにもならず。まあでも「デュオ」も「音楽殺人」も名作です。

 ちなみにいま、『音楽殺人』の配信がなくてエッとなりました。細野晴臣作曲の「BLUE COLOUR WORKER」も名曲です。朝の通勤電車の中などで聞くと特によいです。


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 ▲よくわからないPV。


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▲コーラスがよいです。

 

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 あと、第2回かぐやSFコンテストの選外佳作に拙作「失われた色・物」を選んでいただきました。選んでいただいた2名の審査員の方(坂崎かおる&橋本輝幸両氏)に感謝です。

note.com

virtualgorillaplus.com

 

 "色彩"がお題で一瞬頭を捻るもどうにもならず、開き直って寄席的な「色物」を題材に変化球を投じてみましたが、ネタ被りしてる人はどうやらいなさそうでよかったです。落語ホラーSFなので、夏の夜長のお暇な時に読んでみて下さいまし。

 

 

〈未来の文学〉未刊行の、唯一無二のマッドSF――ジョン・スラデック『ミュラーフォッカー効果』

 

 
 年一刊行のSFムック本『SFが読みたい!』(早川書房)には毎号、各出版社による次年度出版予定のSF作品の告知欄がある。本作も、二〇〇八年度版の国書刊行会からのお知らせ欄に、確かに他の第Ⅲ期のラインナップと並列されていた。そのはずなのだ。

 だが、結局刊行されることのないまま、〈未来の文学〉は終わりを告げた。

 

 なぜ出なかったのか? 〈未来の文学〉完結記念トークショーにて語られたところによると、「浅倉久志訳で準備→氏の逝去に伴い渡辺佐知江氏に訳者を切り替え→が、渡辺氏に別の訳書をお願いしているうちに有耶無耶に」という経緯であるようである。スラデックファンの一人としては悲しい事実だが、事実は事実なので受け止めるしかない。正直、渡辺訳スラデックが出ていれば、きっとSF史に残り得る名訳になっただろうから(『ゴーレム100』を見よ)、逃した魚は大きい理論かもしれないが、やはり惜しい。

 さてスラデックといえば、「たぶん天才だったのだが、才能の使い道をまったくわかっていなかった」作家(柳下毅一郎)であり、「クレイジースタージョン」「ルナティックのマグラア」と並んで「マッドのスラデック」として「奇想コレクション最狂御三家」の一角をなしていることはあまりにも有名(※)だが、本作はそんなスラデックによる長編第二作であり、彼は昔から「完成」されていたことが分かる一作である。

 人間の総体を磁気テープに記録できる技術が開発された世界。主人公は研究所内でのトラブル(過激派反黒人団体の襲撃に遭う)によって、自動爆破装置が起動、テープの中に閉じ込められてしまう。そのテープは数々の人の手に渡っていき、最終的にアトランダムな模様を自動生成する絵画機械の入力ソースとして用いられ、彼=テープから出力された絵画は、凡百のランダムなテープとは違う芸術として高く評価される。

 自分そっくりのアンドロイドを使い伝導を能率化する伝道師、コンピュータが生成するテキストを手直しするだけのテクニカルライターなど、スラデックお得意の人工知能と人間の知能の境界をゆさぶる奇妙な登場人物たちに加え、過激派反黒人団体や陰謀論的反共産主義者たち(¢の文字が鎌とハンマーに酷似している!と主張)など、これまたお得意の陰謀論や奇妙な論理、風刺などが詰め込まれたキャラクターが縦横無尽に筋を展開していく。最終的にはアメリカ中を巻き込んだ大暴動が勃発し、事態はカオスの一語でしか形容できない局面へと突入……。

 暗号マニアとして知られるスラデックだけあって、クライマックスの解決にも当然暗号が登場する。様々な暗号を解析し、出てきた一文を陰謀論的にピラミッド型に再形成、そしてそこからπ=p+iを消去すると、πとwashingtonが浮かび上がる……という、暗号でテトリスをやっているかのような、超絶暗号も魅力の一つ。たぶん、これがやりたくてストーリーを組んでると思う。まさに才能の無駄遣い

 

 
 さて、こうした奇妙な作品を受け止めてくれるのはおよそ〈未来の文学〉だけであっただろう。河出書房新社からスラデックの最高傑作と名高い『ロデリック』が数年前出たが、続編にして完結編である『ロデリック・アト・ランダム』については、結局出ずじまいだ。『ロデリック』の流れを汲み、よりブラック・ユーモア寄りに仕立てた"Tik-Tok"もまだ未邦訳のまま残っている。
 トークショーではその他にも多数の未刊行作品の構想について述べられたが、その中でもとりわけ惜しいと思う。『ロデリック』を読んでスラデックに興味を持たれた方は、ぜひ読んでほしい。

※カモガワSFシリーズKコレクション『稀刊 奇想マガジン 創刊号 奇想コレクション総解説』より引用

 

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 浅倉先生によるミュラーフォッカー効果紹介が載っています。おすすめ。

 

殊能将之先生もスラデックファンとして知られていて、読書日記には未訳長編の紹介が掲載されています。これもおすすめ。スラデックとギャディスの類似について指摘していたのは本当に凄いと思います。

黒い笑いと現世からの「脱出」願望――トマス・M・ディッシュ『アジアの岸辺』

 

 
 トマス・M・ディッシュとは何者だったのか? 本書を読むと、その輪郭を掴みかけた刹那、また薄闇の中へとぼやけていっていってしまうような――そんな印象を抱く。
 それはなぜか。表題作とそれ以外の作品で、あまりにも色が違うからである。
 表題作「アジアの岸辺」は、ヨーロッパとアジアの中間地としてのイスタンブールを舞台に、西洋からの旅行者であった語り手が、次第にその姿を変えていく様を、幻想的に描いた美しい作品である。美学理論を基盤に、人間のアイデンティティなるもののゆらぎ・不確かさを描き出した本作は、本短編集の中でも白眉である。また、若島正氏が指摘するように、この恐るべき「変身」が魅惑的に、ある種の願望的に描かれていることにも着目すべきだろう。

 《SF界きっての知性派作家》として知られるディッシュだが、彼の知性はSFの器(仮にそんなものが存在したらの話だが)に収まることを拒否していた。彼は、主流文学への憧憬と、それによるSF界への、そして自らへ烙印された「SF作家」という肩書きへの愛憎入り交じる感情を抱き続けた。居心地の良くない「この世界」からの脱出願望が、彼に筆を執らせる原動力であったことは、疑う余地がない。

 この脱出願望が、本短編集のその他の作品から、谺めいた響きで聞こえてくる。代表作「リスの檻」では、密室空間で書き続けることを余儀なくされたSF作家の悲哀が、「降りる」では無限に降下するエスカレーターに閉じ込められた男の不条理さが描かれる。これらの作品に共通するのは、現世の息苦しさだ。息苦しいからこそ、その息苦しさを描くことができることを、もう一度確認しよう。

 そして、ディッシュのもう一つの魅力といえば、その知性から生み出される黒いユーモアである。「リスの檻」「降りる」でもその一端は披露されているが、死体を防腐処理して生前の姿のまま家に置く「争いのホネ」、想像妊娠した子供が実は癌細胞で……というホラー「リンダとダニエルとスパイク」、コミュニケーション能力に認定試験が導入された世界で、コミュ力弱者の奮闘を描く「話にならない男」など、はっきり言って表題作以外の作品は、みな底意地の悪い笑いで満ちた作品ばかりだ。

 ここで言及しておきたいのは、「笑い」がなぜ生み出されるか、という点だ。笑いは決して秩序的なものではない。むしろ逆である。既存の秩序を乱す、そのことに快感を覚えるからこそ、笑いは存在しうる。ディッシュの黒い笑いも、秩序だった「この世界」への苛つき、破壊欲求が原動力にあったのではないか? こう見ると、本書の、そしてディッシュを一本貫くものは、「脱出」への願望だったのではないか? であれば、本短編集の表題作以外の色の違いは、表面的なものでしかない。また、この観点から、ディッシュのもう一つの〈未来の文学〉収録作である『歌の翼に』を読むのもまた面白いだろう。

 結局彼は、自殺という形で現世から「脱出」してしまったことにも、最後に言及しておく。

 

 

 

 若島先生の「アジアの岸辺」論が載っていておすすめです。

唯一無二の〈言葉の魔術師〉による短編集――ジーン・ウルフ『デス博士の島その他の物語』

 

 


 〈言葉の魔術師〉ジーン・ウルフ。その語りは騙りであり、その騙りのみが我々の灯りである。暗闇に照らし出され、浮かび上がる像は一面でしかない。ゆえに注意深く読むことが要請される。

 彼は「読まれる」ことに敏感だ。その繊細さは、おそらく彼が何より「読む」ことを愛し、執着しているからなのだろう。それはある種のメタフィクション的な構造として結実したり、あるいは「読む」行為そのものをテーマとして描くことへと繋がっている。

 表題作である「デス博士の島その他の物語」は、二人称で描かれるウルフの代表作と言える短編である。家庭に問題を抱え、孤独に耐える少年。そんな彼の目の前に、代わる代わる奇妙な人物たちが現れる……それは、彼が読んでいる本の中の登場人物である。本作でウルフは、孤独を打ち消すための逃避としての幻想を、少年が実際に見た「現実」として映し出すことで、逆説的に少年の深い孤独を見事に描き出している。そしてこれは同時に、きみ=少年=読者という図式から、読み手の現実性、主体性へ揺さぶりを掛ける構造を持つ。そう、ウルフは本を通して、我々の世界に魔法を掛ける――「きみもまた、誰かにとっての『きみ』」なのだと。

 衰退したアメリカでの旅行・冒険体験を手記形式で描いた「アメリカの七夜」も、ウルフの魔術が炸裂した作品だ。何と言っても「七夜」を謳っているのに作中で描かれるのは「六夜」でしかない(※この解釈すら誤り、ウルフの仕掛けであるという驚天動地の説が若島正氏によって提唱されている。詳細は『SFマガジン』二〇二一年4月号掲載のアメリカの七夜論を参照のこと。)。幻覚剤、自動筆記装置等々、いくらでも辻褄が合わせられそうな仕掛けが散りばめられているなか、真相は読み手に委ねられる。彼の迷宮を永久に彷徨い続けるもよし、出口のない迷路と一蹴するもよし。いずれにせよ、ウルフは「読む」という行為の悦楽を、改めて読者に教えてくれる。

 その他、閉鎖空間である惑星内で「治療」を受ける少年と、恐らくAIと思しき医師・アイランド博士の織りなす謎めいたネビュラ賞ローカス賞受賞作「アイランド博士の死」、冷凍睡眠から目覚めた男と本から本へと飛び火する「伝染病」を描いた「死の島の博士」、オズの魔法使いを下敷きに盲目の少年の旅路を現実/妄想の区分なくマジックリアリズム的に描いた「眼閃の奇跡」など、おおよそ一筋縄ではいかない作品が並ぶ。そしてもう一作、「まえがき」の中にも作品が含まれている。

 〈言葉の魔術師〉ジーン・ウルフ。その騙りは語りであり、その語りこそが我々の灯りである。ウルフを読むたびに、私は作品内の世界の素晴らしさと、その閉じられていることへの悲しみに包まれる。だが、彼は灯りだ。彼の残した作品が読めるこの生こそ、おおよそ素晴らしいものではなかったか。

 生は有限だ。暗闇に包まれた生を、ほのかに照らし、暖を与えてくれるウルフ作品は、私にとって唯一無二の存在である。