機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

歴史と虚構の境界を辿る、メタフィクショナルな政治小説――マリオ・バルガス=リョサ『マイタの物語』

 

 ラテンアメリカ文学を語る上で政治の話は欠かせない。ガルシア=マルケスをはじめ、コルタサルフエンテスなど、多くの作家が政治的な趨勢への反発を公表し、それに対する政治的な圧力が数々の作品の想像力の源泉となったばかりか、『族長の秋』に代表される〈独裁者小説〉という一ジャンルを生んだ点で、政治抜きにラテンアメリカ文学を語ることは不可能に等しい。

 そして数多のラテンアメリカ文学作家の中でも、バルガス=リョサは一層特異な存在である。なにせ、実際にペルーの大統領選に出馬してしまったのだから。本作はそんなリョサの手による、政治と革命、そして歴史を真正面から描いた力作だ。

 物語は二つの時制から同時並行的に描かれる。一方は、一九六〇年代のペルーを舞台にした、社会主義革命を夢想し若き下士官と共に蜂起を企てる中年活動家マイタを主人公に据えた過去パート。それと同時に語られるのが、マイタの反乱を取材し、伝記小説を執筆しようとする作家(リョサ本人がモデル)を語り手に据えた現代パート。この二つがリョサお得意のシームレスな場面転換で繋がれ、一体となって物語は進んでいく。何の描写もなく唐突に過去/現在を移動する語りに最初は戸惑うかもしれないが、この撹乱された鮮やかな語りの手法については、往年のTV番組『世界まる見え!テレビ特捜部』をイメージすると良いと思う。つまり、事件関係者へのインタビュー(現在)と、再現VTR(過去)を交互に語ることで、物語を多重的に描き出す仕掛けである。実際、「もう二度とあんなことはしないよ」「数ヵ月後、そこには元気に走り回る○○の姿が!」等々の名フレーズが聞こえてきそうな挿話が続いて、読んでいて何とも楽しい。

 そして本作の主題となるのは、事実とは、歴史とは何なのか? という問いかけだ。現代パートの主人公である作家は、関係人物への取材を重ねることで数十年前の反乱の真実に近付こうとするものの、当時とは立場を異にする人物も多く、保身のための嘘や記憶違いが入り交じる中、「真実」の輪郭は最後まで曖昧なままはっきりしない。実際、確かな事実は反乱の鎮圧を記す数行の新聞記事の存在のみで、敗残者であるマイタは何の名誉もなく忘れ去られた人物に過ぎないのだ。結局、作家である主人公は、インタビューを通して「革命の内ゲバに疲弊し、若い下士官の活力に当てられて、自殺行為と知りながらも世界を革命する衝動に駆られた同性愛者の革命家マイタ」という人物を「創造」してしまう。

 だが、そのフィクション性は、最終章のマイタ本人との面会によって、決定的にその意味を砕かれる。ここでリョサはフィクションの、そして歴史の意味を問うと同時に、政治的イデオロギーのフィクション性をも暴いてみせる。我々にとっての歴史、そしてイデオロギーもが想像力という物語によって補完されて成り立ったある種の虚構であることを、そしてそれらの積み重ねでしかない現実そのもののフィクション性をも突き付けるのだ。細々としたペルーの政治的な描写も多く、決して最良の作ではないかもしれないが、骨太な物語を紡ぎ続けたリョサにしか書き得なかったであろう傑作だ。 

 

[補足]昨年8月に刊行した同人誌のフィクションのエル・ドラード全レビュー企画に書いたもの。字数縛りがあったのでだいぶ削った記憶がある。しかし蟹味噌啜り太郎氏の指定字数を大幅に超えた結果紙面をびっしり埋め尽くしたレビューの方が濃密かつ迫力が出て良かったので(その分編集は大変だったけど)、削らなきゃ良かった気もする。

 リョサは何を読んでも大概好みなので、逆にここぞの時用(いつだ?)に温存している作家の一人。高名なガルシア・マルケス論もいつか邦訳されてほしいな。

 あと、未だに寺尾隆吉氏がマリオ・バルガス・「ジョサ」表記に拘る理由が分からない。「ジョサ」表記なのは寺尾氏と集英社ラテンアメリカの文学版》『ラ・カテドラルでの対話』だけだと思う。いつかスペイン語ネイティブをつかまえて発音の正否を尋ねてみたいところ。

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