機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

恐怖の歴史を繋ぐ犬――レオナルド・パドゥーラ『犬を愛した男』


 レフ・ダヴィドヴィチ・トロツキー。ロシア十月革命における指導者の一人としてソビエト連邦建国に関わった後、スターリンとの政争に敗れた男。彼の最期は亡命先のメキシコでスターリンの刺客にピッケルで後頭部を砕かれるという凄惨なものだった。本作は革命家にして敗北者、そしてスターリンによる最大の被害者であるこの男の物語だ。

 一九七七年、挫折した作家イヴァンはハバナの砂浜で犬を連れた老人と出会う。彼はロペスと名乗り、トロツキーの暗殺者ラモン・メルカデールの親友だった者としてラモンの半生を語り始める。初めは興味深く聞いていたイヴァンだったが、次第に違和感を抱き始める。違和感とは、すなわち——ロペスが、あまりにラモンについて知りすぎていること。イヴァンは、ロペス=ラモンなのではないかという疑いを抱くが、次第にロペスは体調を悪くし、砂浜に現れないようになる。

 ソ連を追われたトロツキーの亡命生活、トロツキー暗殺に至るまでのラモンの足取り、そしてイヴァンが本作を執筆するまでに至る経緯という三つのパートに分けて描かれるが、それぞれを結び付ける共通項が題にある「犬を愛した男」である。トロツキー、ラモン、イヴァン、いずれも愛犬家であり、砂浜でのラモンとイヴァンの出会いにも犬が絡んでくるほか、暗殺のためにトロツキー邸に侵入したラモンがトロツキーと愛犬談義に花を咲かせる場面では、歴史の糸に絡め取られた二人の数奇な運命の交わりを感じさせるなど、随所に犬が顔を出す。

 ソ連本国でのスターリンの横暴やかつての同志の処刑、周辺諸国首脳の冷淡さなどに翻弄されながらも、革命家として自らの正義を信じ著述を続けるトロツキーの姿は思わず応援したくなってしまうし、一方で共産主義の理想のために名を捨て人生を捨て、暗殺者としての生を邁進するラモンの愚かしいひたむきさにも同情の念を禁じ得ない。だが本作は完全なフィクションではない点に留意せねばならない。あくまで現実に起きた惨劇を小説化した物語であり、ラモンを革命に扇動された被害者として同情すべき存在として扱うべきなのか、そもそもトロツキーは「正義」だったのか? という問いを、作者はイヴァンの行動を通して読者に突き付ける。

 膨大な資料に裏打ちされた本作は、六五〇頁という《フィクションのエル・ドラード》最長の分量ながらも物語としての面白さを失わないままに、二〇世紀のキューバソ連の抑圧された「恐怖」、そして人間の愚かさを描き出す傑作と言えるだろう。