機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

Jorge Luis Borges "La memoria de Shakespeare" 解説

 

 

ホルヘ・ルイス・ボルヘス唯一の未訳短篇「シェイクスピアの記憶」邦訳という嬉しい知らせを聞いたので公開。某所で書いた「シェイクスピアの記憶」解説原稿である。

短編の書誌情報的な話に関しては、過去記事を参照のこと。

hanfpen.hatenablog.com

 

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 さて、本作は、Jorge Luis Borges "La memoria de Shakespeare"の邦訳……と言いたいのだが、実際にはその英訳である"Shakespeare's Memory" の邦訳である。つまり、英語からの重訳であることに留意されたい。

 ただし、そもそも本作の初出媒体は『タイムズ』紙であり、世に出た時既に英訳された状態であったことは、特筆しておくべき事柄であろう(当時の翻訳者はディ=ジョヴァンニ)。

 その後、一九八六年にロンドンのコンスタブル社から出版された "Winter's Tales 2"なるシェイクスピアテーマ(と思しき)アンソロジーに収録されたのち、一九八九年刊行のボルヘス全集に収録され、云々……といった入り組んだ経緯については、『カモガワGブックスVol.2 英米文学特集』(カモガワ編集室)所収の論考を参照のこと。

 今回の翻訳の底本には、Penguin Classicsシリーズの中の"The Book of Sand and Shakespeare's Memory"を使用している。翻訳者はアンドリュー・ハーレィ。

 翻訳の雰囲気については、既存の鼓直訳や年代の近い篠田一士訳(『砂の本』)を参考にした、と翻訳担当者から聞いている。ボルヘス自身は自作の翻訳についてどう思っていたのかというと、

 

G・C——あなたの作品が訳された国語のすべてにわたって、幸いにして翻訳がうまくなされているとお思いですか?

J・L・B——いつもそうだというわけではありません。英語やドイツ語の翻訳を読んでおりまして、ちょっとした困難、困惑とでも言うべきものを感じました。英語は二つの音域をそなえています。ゲルマン系の言葉とラテン系の言葉を含んでいるのです。スペイン語のテキストを英語に翻訳なさる方は、敬意を表して、ラテン系の言葉を用いて訳そうとするのです。そのため翻訳がいくぶんペダンチックになることがあるのです。

 

と、一九六五年のラジオインタビューで語っている。自身で翻訳を手掛けることもあったボルヘス(何しろ、弱冠十歳の時にワイルド「幸福な王子」をスペイン語に訳し、新聞に掲載された人である)からすれば、英訳からの重訳などナンセンスかもしれないが、ここは「異本」の一つとしてご寛恕願おう。

 さて、本作はボルヘス最晩年の作であり、既に視力を失った後の作品であるため、『伝奇集』『アレフ』の時代のような濃密な文体でもないし、ある種力の抜けた、理解の易い作品ではないか……と思うのだが、そこはボルヘスのことなので油断できない。

 最近ボルヘスの新訳に取り組んでいる西崎憲のnote「ホルヘ・ルイス・ボルヘスをほどく われわれはどのように読みそこねてきたか」https://note.com/kioku_to_onsoku/n/n92cbb72b702eでは、既存の訳の比較および語源や本来の文意を尊重した新訳の提案がなされているのだが、それを読んでいると、原語で読んでいても汲み損ねるニュアンスがちりばめられていることを改めて思い知らされる。

 また、『エル・アレフ』『ボルヘス・エッセイ集』などの訳者である木村榮一は、ボルヘスの短編「アレフ」について「いろいろといじっていると、どこをどう押しても何か出てくるんですよ」と語り、ボルヘス作品の形而上学幻想文学としての読解を否定し、聖性の追求を描いたコスモロジーとして捉える解釈を試みている(『幻想文学』59号 特集=ボルヘスラテンアメリカ幻想)。身も蓋もないが、やはり、ボルヘスを真に読み解こうとするには、英訳からの重訳では足りないのではないか。

 今回、解説の執筆にあたって、ボルヘスの著作からシェイクスピア関連の記述を探して付箋を貼る、ということをしてみたのだが、探せば探すだけ出てくるわ、記憶テーマにまで範囲を広げるともっと出てくるわで、木村氏の「どこをどう押しても何か出てくる」という言葉を、黄色い付箋の山に埋もれながら、しかも日本語を通してではあるものの、改めて実感した次第である。

 とはいえ、その中でも、『創造者』所収の「Everything and Nothing——全と無」は相当怪しいと思うのだが、これについて真面目に論じ始めると日が暮れても暮れ切らないので、できれば本職の文学者、ボルヘス研究者ならびにシェイクスピア研究者に任せたいところではある。一応、怪しいところの引用だけはしておく。

 

(引用者注・シェイクスピアの台詞)「わたくしは、これまで空しく多くの人間を演じてきましたが、今やただ一人の人間、わたくし自身でありたいと思っております」。すると、つむじ巻く風のなかから神の御声が答えたという。「わたしもまた、わたしではない。シェイクスピアよ、お前がその作品を夢見たように、わたしも世界を夢みた。わたしの夢に現われるさまざまな形象のなかに、確かにお前もある。お前はわたしと同様、多くの人間でありながら何者でもないのだ」

 

 ちなみに、この下りは旧約聖書中の神とモーセのやりとりが下敷きになっているとのこと。

 その他、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」内の「交合のめくるめく瞬間にあるすべての男は、おなじ男である、シェイクスピアの一行をくりかえすすべての男は、まさにウィリアム・シェイクスピアである、と。」という一節と、「永遠の歴史」内の一節「永遠は時間という実体によって作られた似像である」を組み合わせることで、あるいは「アル・ムターシムを求めて」で描かれる探索者と被探索者の循環・自己増殖性から、ボルヘス的な迷宮、永遠と自己増殖による連続的時間の否定へと、論を進めることもできるだろう。だがそれは別の機会に譲ることとする。 

 何はともあれ、ボルヘス生涯最後の作品が日本語で読めないという現在の事態は、アルゼンチンが生んだ20世紀最大の作家にはおおよそ相応しくないものと感じていたため、今回かなりグレーな形とはいえ、訳出の機会を設けられたことは、ボルヘス・ファンの一人として喜ばしい限りだ。

 読者諸賢にあたっては、本作の読解を通してボルヘスのさらなる魅力を感じて頂くとともに、本作の原語からの翻訳の機会を何卒望んで頂けると、我々としても幸いである。

 

(解説文責:桃山千里&鯨井久志)