機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

ミルチャ・エリアーデ『マイトレイ』

 

 

 

 ミルチャ・エリアーデといえば、ルーマニア出身の二〇世紀を代表する宗教学者にして、傑作『ムントゥリャサ通りで』(法政大学出版局)に代表される幻想小説の優れた書き手でもある。そんな彼の作品を収録するにあたって、幻想文学じゃなくて恋愛ものの『マイトレイ』だなんてどういう訳だい池澤なっちゃんよォ、と思わなくもなかった。が、読み終わった後、平伏した。傑作である。

 舞台はインド・カルカッタ。留学で訪れたルーマニア人の青年は、寄宿先の技師の娘であるベンガル人のマイトレイと出会う。娘からベンガル語を、青年からは英語を教え合うなかで、彼らは惹かれ合う。だが宗教的な価値観や西欧とインドとの文化の差異が彼らは引き裂く。結局この恋は父親である技師の知るところとなり、青年は寄宿先を追い出され、娘は断ち切れぬ思いを心に秘めかね、自ら家を放逐されんとして無謀な行いに出る。手引きしてくれた親類の自殺、マイトレイ自身の破滅が示唆され、悲劇とともに物語は終わる。

 身分違いの恋愛からの破局といえば『ロミオとジュリエット』然り、いまやありふれた筋書きである。だが、要約すればこうした単なる悲哀の恋物語の類型となってしまう本作を傑作たらしめているのは、主人公の一貫した西欧的知性だ。一人称で語られ続ける主人公の経歴は、エリアーデ自身のそれとも重なる。カースト制度に縛られたインドの家庭では、西洋人との婚姻には大きな障害がある。だけれども、それから逃れようとするマイトレイ自身の思いと、当初は植民地を訪れる西洋人的な価値観に縛られていた青年の価値観が恋愛とともに変容していくさまが、知的かつ繊細な筆致で描かれていく。ここに旧来の価値観と新しい価値観、そして西洋的価値観と第三世界的な価値観の融合と乗り越え、そしてその挫折がある。それを若き知性エリアーデの明晰かつそれでも抑制できない情熱的な筆致で描かれた本作は、二〇世紀初頭のインドでしか生まれ得なかった歴史と文化の証明でもあり、変容を遂げていった現代の価値観の変遷を反映した世界文学でもある。

 二〇〇ページあまりの短さでもありながら濃厚な性愛と引き裂かれる若き男女の悲哀に満ちた本作は、ある意味日本の私小説的な文学でもあるが、普遍性と歴史的な重みとをともに携えた傑作であると言えよう。

 なお、本作には後年、マイトレイ側から見た顛末を描いた作品が、マイトレイのモデルとなった女性(後年詩人となった)によって後年執筆されている(『愛は死なず』、未訳)。このことからも分かる通り、男性側から/西洋側からの一人称で描かれていることから覆い隠されてしまっている事実も多々あることは予想される。できればこのマイトレイ側からの作品も邦訳されて、カップリングされた形で真の『マイトレイ』を読みたいところはある。河出書房新社さん、よろしくお願いいたします。