機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

実験文学、そして奇想SFの到達点――筒井康隆『残像に口紅を』

 御大のお誕生日ということで、過去(学生時代)に書いた書評を再掲します。

『虚航船団』『虚人たち』『残像に口紅を』の3部作には、読書体験の根幹を形作ってもらいました。今読んでもきっとその大胆さは健在なはず。

 

 


 断言しよう。「この本、テレビでカズレーザーがおすすめしたとやらで本屋で平積みにされてたけど、そういう流行りには乗りたくねえんだよな」などと思っているひねくれ者よ、今すぐ猛省して本書を読むべきだ。きっと損しないから。とりあえずレビューだけでも読んでくれ。

 さて、バカSFに必要不可欠で重要な要素には「奇想」と「エスカレーション」というふたつが挙げられると思うが、本作はその極地とも言うべき作品だ。一章ごとに使用可能な音が一音ずつ消えていき、それにともなって小説内の世界ではその音が使われたものが消えていく――例えば、「あ」という音が消えれば、午前中の時間を指す「朝」という概念も、妻が夫に呼びかける「あなた」という代名詞も、世界からは消えてしまう――という設定だけを軸に、じりじりと消えゆく文字と戦いながら、主人公は物語を進めていく。妻と娘が目の前で消え失せ、周囲のあらゆるものが消滅し、徐々に崩壊していく世界に翻弄される主人公の目を通して、読者は今までにないスリリングな読書体験を味わうことになる。このような小説内での文字の仕様に制限を掛ける文学上の実験を「リポグラム」といい、フランスではジョルジュ・ペレックによる全編eを使わずに書かれた『煙滅』という作品もあるのだが、本作はその日本語での応用の成果として評価されるべきだろう。

 使える音が半分以下になる中盤を過ぎると、世界は空中分解すれすれの曲芸飛行めいた、一種異様な様相を呈し始める。助詞や文末表現すらも使用を封じられた結果、体言止めや省略を多用しながら何とか小説としての成立を目指す主人公と作者の奮闘は、不条理コントめいたスラップスティックな笑いと同時に、本作でしか体感し得ない感動を同時にもたらす。

 そして最終盤、単行本では袋とじになっていた第三部では、エスカレーションの末に使える音が十音以下という極限状態にまで陥ってしまう。ページをめくる誰もが「小説として成立させるのは不可能では……」と思わずにはいられないこの状態においても、筒井康隆は小説に挑み続けた。その結果――実際に読んで確かめて頂きたいのだが――本作のような「縛り」が存在しない限り到達できないであろう、ある種の小説の到達点が、読者の眼前に現れる。不可能を可能にした作者の筆力と執念、そして日本語という言語の可能性に拍手を送りたくなることうけあいの、実験文学の大傑作である。(くじらい)

 

作者紹介
一九三四年、大阪府生まれ。小松左京星新一らと並んで「SF御三家」と称される日本SF第一世代の作家で、代表作に『時をかける少女』『虚航船団』『旅のラゴス』など。