機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

ウラジミール・ナボコフ『賜物』

 

 

 

 ナボコフを読む時はいつも敗北主義的というか、負け腰になってしまう。凝りに凝った文体、さりげないほのめかし、言葉の魔術師の異名をひけらかすかのような言葉遊び……。そして、一読しただけでは決して分からないような、文と文の間に織り込まれた、タペストリーのような豊潤な詩的言語。凡人たる自分の読みではたどり着けない知的迷宮をナボコフは、挑むでもなし、そっとテキストという形で目の前に置いていく。そこにはもはや分からなくて悔しい、という気持ちはない。抜群の腕を持つ奇術師の業を目前にして、タネも分からぬまま驚嘆の声を上げることしかできないのだ。いや、悔しくないわけではない。しかし、どうすることもできないのだ。それを乗り越えるためには再読を試みるしかなく、それすらもナボコフの手の内だということにすぐ気付かされ、苦笑と無力感とを引き起こす。ナボコフは罪深い男だ。

『賜物』はナボコフがロシア語で書いた最後の作品であり、彼のロシア時代を総決算するような大作に仕上がっている。筋書きとしてはそう難しくはない。舞台は二〇世紀初頭のベルリン。詩人である主人公は処女詩集を出したばかりの新人で、彼が詩作をこなすなかである女性と出会い、偶然見つけた資料から十九世紀のロシア人思想家の伝記を書くことを思い付き、実際に執筆、発表に至るまでの顛末が描かれる。

 だが、他のナボコフ作品と同様、あらすじをまとめることに本質はさほど宿らない。探検家であり、鱗翅類(蝶や蛾)を専門とする学者でありながら、中央アジアへの探検で消息を絶った父親との思い出の回想。第四章をそのまま主人公が執筆した伝記の記述に当てる大胆な構成(非実在の人物の伝記を実在の人物が書く、あるいは非実在の人物の伝記を非実在の人物が書く、実在の人物の伝記を実在の人物が書く(これは単なる伝記文学)という三パターンはあり得ても、本作のように「実在の人物の伝記を非実在の人物が書く」という構造はなかなかないものだろう)。ロシア文学、特に詩の韻律についてのおびただしい言及。そしてナボコフ本人は後年否定しているものの、亡命ロシア人である主人公とナボコフ本人との重ね合わせ。こうした多層的な断片を織り交ぜながら、あの例の記憶のひだを撫でるようなナボコフの文体で、物語は語られていく。主人公は作中でこう語る。自伝を書くための準備として、翻訳をしようと思っている。言葉たちを完全に隷属させるために……。ロシア語と英語を自在に操ったナボコフは、言葉を完全に隷属させていたからこそ、かのような絢爛たるタペストリーを織ってみせたのだ。また、別の箇所ではこうも語る。「もしもぼくが素晴らしい作品を書いたとしたら、ぼくが感謝すべきはあなた(=批評家)ではなくて、僕自身でしょう」。題名にもなっている「賜物〈ギフト〉」とは、天から賦与された才能のことであり、たびたび主人公が詩人との会話を幻視するそのある種の「能力」のことでもある。本書はナボコフの芸術家小説であると同時に、芸術の称揚、現実をも凌駕しうる虚構への讃歌でもある。

 最後に翻訳について一言。本書は大津栄一郎氏による英訳からの翻訳があったが、今回収録されたのは沼野充義氏によるロシア語からの翻訳である。大津訳は若島正氏に批判され、その後論争を引き起こした曰く付きのものだが、今回の沼野訳では若島氏が指摘した箇所が見事に綺麗に処理されている。その辺りの違いを読み解くのも面白いだろう。詳しくは若島正ナボコフと翻訳」(『乱視読者の冒険』、自由国民社)を参照のこと。

 

※『乱視読者の新冒険』の方には入ってないので要注意。