機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

創作とは、一種の「悪魔祓い」である――フリオ・コルタサル『八面体』

 

 人は変わらずにはいられない。コルタサルも七〇年代以降は政治活動に身を投じ、創作への熱意をそのぶん政治へ転換した。寺尾隆吉氏の訳者解説にもある通り、政治転向以降のコルタサルの評判は芳しいものではない。そんな中で、本書『八面体』はコルタサルが文学に注力していた時期の最後の短編集とされている。

 巻末に併録されたエッセイ「短編小説とその周辺」に記されるように、コルタサルにとって創作とは、迫りくる妄想を「書く」という行為で日常から切り離す、一種の「悪魔祓い」だった。それを示すかのように、本書に収録された短編で描かれる幻想の風景には、現実との継ぎ目がない。息の詰まる緊張感と神経症的な描写が世界を支えているような、そんな印象を一読して受ける。

 例えば、子供にしか見えない謎の子供を題材にした「シルビア」。不規則に眠り、突然発汗し、家族に謎めいた数字を付していく家長を淡々と受け容れる「セベロの諸段階」。鏡に写った自分の視線と電車内の女性の視線との重なり合いを一種のゲームとして楽しむ男のストーカー譚「ポケットの中の手記」。これらの作品に共通するのは、何の変哲もない日常の中に突如現れた夢・妄想のイメージであり、まさしく短編を書く作業がコルタサルにとっての「悪魔祓い」であったのだろうと思わせる。

 また、詩人についての自伝を記すことで名声を手に入れる伝記作家を描く「手掛りを辿ると」は、収録作の中では珍しくリアリズム調の話で、バルガス=リョサ『マイタの物語』を短編に圧縮したような形の作品であり、枠物語の使い方という意味でもすこぶる面白い作品だ。

 ここまでに紹介した以外の作品は、前衛的な文体が過ぎて大層読み辛く、正直薦めにくいのだが、そうした文体が最大限に活きた作品として、そして本書で最も評者が推す作品として、最後に「そこ、でも、どこ、どんなふうに」を紹介したい。  殴り書きのように書き連ねられた語り手の断片的なモノローグ。そこに描き出されるのは、夭折した友人の在りし日の姿と、今現在夢に見る友人の姿だ。現実と妄想と夢の継ぎ目のないこの文体で描かれる、既に夢でしか会えなくなった友人への切実な追慕と哀悼の念。「こちら側」にいる以上何をすることもできない自らへのもどかしさ。そうした複雑な思いを読者の脳に直接インプットするような、乱暴で、しかし繊細な文体が、読む者の心を打つ。コルタサルに夢を題材にした作品は多いが、その中でも白眉と言えるのではないだろうか。

 政治活動に身を投じて以降のコルタサルを惜しむ声は少なくない。倒錯した文学青年の純真さとキューバへの盲信から、噴飯ものとすら言える幼稚な政治理念だけを盾に政治参加を続けたコルタサルの姿は、多くの読者や友人には理解不能なものだった。だが、彼が目指したのは、あくまでも「現実」へのコミット――幻想的要素を持ち込み、「現実」のままでは見えない「現実」の秘められた諸相を明らかにする――であった。「悪魔祓い」をしてまでも「現実」を直視しようとした誠実さこそが、コルタサルを貫いている。