機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

短篇コレクションⅠ

 

 

 

 実に周到なアンソロジーである。マジックリアリズムも、ポストコロニアリズムも、フェミニズムも、あるいはジャンルSFも、おおよそ「世界文学全集」を名乗る叢書に対して不足を投げかけられうるパッケージングの作品を、そんな反応を予期していたかのように本書は収録している。詩がないのでは? という声に対しても、ブローティガンの家のものを詩に置き換えていくという奇想短編で応えているあたり、池澤夏樹アンソロジストとしての腕は冴え渡っている。

 そんな計算も垣間見えながらも、一冊を通して浮かび上がるのは「死」を描いた作品の多さだ。昔、あるホラー作家が自作中で「人が死ねばどうやったってドラマは生まれる」と自嘲的に書いていたけれど、生まれるドラマをどう処理するかが作家の技量であり、作品の評価を左右する点であることは間違いない。例えば、病気の夫と、それを看病する妻と弟が教会へ向かう巡礼を描いたフアン・ルルフォ「タルパ」。結局夫は死んでしまうのだけれど、そこに描かれる死の残酷さと直視しがたい、しかし誰にでも訪れる汚さのリアリティ、そしてその死を悼む肉親の心情の描き方が本作を傑作たらしめている。ガッサーン・カナファーニー「ラムレの証言」もそうだ。イスラエル軍に妻と娘を殺された老人、そしてそれを目撃した少年。老人の最期と、そこで起こった一瞬の視線の逡巡が、悲劇と復讐の連鎖を示唆して物語は終わる。パレスチナ出身の作家・ジャーナリストであり、自らも爆殺されてしまった作者による作品であることを考えると、本作が呼び起こす感傷の飛距離は並大抵の長編よりもずっと遠い。レイモンド・カーヴァー「ささやかだけれど、役にたつこと」では、危篤に陥った息子とその回復を信じる夫婦の姿が描かれる。一方、ケーキの予約を反故にされた独り身のパン屋のおやじも、同じ現実を生きている。対立を経て、暖かな和解を遂げる両者のあいだには、死ぬこと、先立たれること、そういったすべての人間に等しく起こりうる悲しさと、それでも人生は続くこと、生きていくことへのある種の諦念がある。

 一方で、人以外の生き物の死も描かれる。オクタビオ・パス「波との生活」は波を恋人とする異類婚姻譚の名作だが、最後に描かれるのは波の「死」だ。アリステア・マクラウド「冬の犬」では、少年が流氷遊びのさなか溺れ死にかけるのを、まるで言葉が通じるかのように救う犬の姿が描かれるが、彼も最後には隣人の手によって射殺されてしまう。

 そんな死の匂いを濃厚に感じさせる本書において、目取真俊「面影と連れて」が末尾に置かれているのは、ある種の救いなのかもしれない。琉球弁のひとり語りで描かれる、ある女の人生。死者の魂が見える語り手は、社会から疎外されながらも生きていく。そんななか、恋人になった青年はある日姿を消す。政治犯として検挙され、沖縄へ来たのも犯行現場の下見だったことが判明するも、女は官憲の取り調べに口を割らない。強姦された語り手は、青年の凄惨な死体を幻視し、自らも魂となることを選ぶ。政治に翻弄される戦後の沖縄を隠喩として潜ませながらも、死者との交流を描く幻想小説しても読める本作は、まぎれもない傑作と言えよう。