機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

トマス・ピンチョン『ヴァインランド』

 

 

 

 どこから説明してよいのやら。まず言っておきたいのは、ピンチョンは変な作家であるということだ。ノーベル文学賞候補でありながらも覆面作家を貫き通していることとか、受賞スピーチにコメディアンを替え玉で送り込んだこととか、そのくせにアニメのシンプソンズには本人役で声優として出演したりとか、そういう周辺の話をしたいわけではない。まずもって、小説の発想が変なのだ。

 本作『ヴァインランド』は、一九七三年に大作『重力の虹』を発表したのち、十七年間の沈黙を経て刊行された作品だ。筋書きとしては、元ヒッピーの主人公ゾイドと、その元妻フレネシ・ゲイツ、そして彼らの娘であるプレーリーの三人を巡る物語、と一旦は言えるだろう。だが、主人公であるはずのゾイドは最初と最後の何割かにしか登場せず、主にページはプレーリーによる母フレネシ探しに割かれる。その構成の時点でもかなり変なのだが、輪をかけて奇妙になっていくのは中盤以降。母フレネシ探しの途中で登場する、金髪くの一のDL・チェインステインである。彼女は北カリフォルニアに存在する「霧隠の館」にある「くの一求道会」所属の優秀な女忍者(つまり殺し屋)であるのだ。そして登場する忍者の師匠、微妙に合ってるんだか間違ってるんだか分からない誇張された日本描写、殺しの呪いの術「震える拳」、巨大な足跡として登場するゴジラ……。頭に「?」が浮かんだ人は正しい。あまりにもスラップスティックでコミックノベル的な展開が進む一方で、終盤では突然新キャラの不良チェが登場したり、悪役の目論見がレーガン大統領の予算カットの判断で突然崩壊したり、もはややりたい放題の様相を呈する。そして最後は家族大集合でほっこりオチ……と、さすがピンチョンと言わざるをえない怒涛の展開が続く。

 もちろんピンチョンなので、テーマは「パラノイアアメリカ」であり、舞台の時代に設定されている「一九八四年」であり、当時在任していたレーガン大統領に関するものではある。冒頭のゾイドが奇妙な服装で食堂の窓ガラスに飛び込み、それをパフォーマンスとして自らの狂気を証明し、政府から受給している精神障害者のための手当の期限を更新するシーンからして、意味深長ではある。アメリカ文学者の三浦玲一は、この描写を「ポストモダンのパロディ戦略の見事な比喩」と評する(三浦玲一「ピンチョンにみるポストモダン小説の変遷――『ヴァインランド』の必然」)。パフォーマンスはもはや恒例行事と化しており、一連の様子はテレビ中継までされ、ガラスはいつのまにか映画撮影用の偽物にすり替えられている。六〇年代に成立したパフォーマンスも、八〇年代にはそのパロディにしかなりえないのだ、と。

 そこからレーガンへの批判、あるいはポストモダン文学のその先について論じることもできるだろう。その辺りは先行研究を読めばよい。ただ、本書はそうした論点も数多く抱える作品ながら、コミック・ノベルとしても一級品の作品であることは申し添えておきたい。また、本全集にはP・K・ディックの短編「小さな黒い箱」(『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の原型となった作品)も収められている。同じく「パラノイアとしてのアメリカ」を描いた作家として、両者の両作品を読み比べてみるのも面白いだろう。個人的にはディックのモノホンっぷりが圧倒的ですごいと思います。