機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

逃避としての幻想が牙を剥く瞬間――ドゾワ「海の鎖」とウルフ「デス博士の島その他の物語」

 

 


 〈未来の文学〉叢書の最後を飾るのは、名翻訳家にして名紹介者である伊藤典夫編アンソロジーである。

 人間に擬態した異星人を巡るサスペンス「擬態」、全世界向けの広告としてヒロシマに一〇〇年ぶり二回目の原子爆弾を投下するオールディスの問題作「リトルボーイふたたび」、映画『キングコング』と現実とを祖父から孫への思い出語りという形式で虚実入り交えて描く「キングコング堕ちてのち」など、伊藤訳・セレクトにして単行本未収録だった名作がずらりと並ぶ。

 だが今回は、表題作である「海の鎖」について紙幅を割こう。

 「海の鎖」のあらすじは以下のようなものである。家庭に問題を抱える孤独な少年。彼には"違う人たち"という人間以外の存在が感じられ、彼らと対話することができた。だが、教師や医者からは妄想として一蹴され、彼は問題児としてより孤独を深めていく。その一方、地球には異星人が来襲。AIとの協議の結果、彼らは"違う人たち"を優先すべき知性体とみなし、人類を滅ぼしてしまう……。この経緯を、破滅を予感させる冷たい筆致で描いたのが本作である。
 さて、本作の中心に据えられているのは「孤独な少年の、現実逃避としての幻想」というテーマである。このテーマを見れば、〈未来の文学〉シリーズの愛読者ならば、きっとピンとくるはずだ。そう、〈未来の文学〉の看板作家・ジーン・ウルフによる「デス博士の島その他の物語」である。

 だが、「海の鎖」は「デス博士の島」と、ある点で明らかに異なっている。

 「デス博士の島」においては、少年の幻想=読書体験は、あくまで辛い現実からの逃避として機能する。

「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ」

「きみだってそうなんだ、タッキー」 

 この印象的な最終盤の一節が明示するように、本作の中では、幻想は幻想としていつまでも存在する。われわれ読者がページをめくれば、いつだってまた蘇り、生を再び得るのである。ここに幻想の温かさがある。ウルフは、過酷な状況から生まれるからこそ甘美な(そして脆弱な)幻想の魅力を、短編「デス博士の島その他の物語」という一種の閉鎖空間(=島)に閉じ込めたと言えよう。

 一方、「海の鎖」では、第三者として外挿された異星人によって、”幻想”は単なる少年の一人称的な幻想ではなく、人を滅ぼすれっきとした三人称の”現実”として顕現してしまう。そこに逃避としての救いはない。

 そして、少年の”幻想”は最終的に”治療” ”矯正”の対象となってしまうが、それと同時に、夢見ていた土台である現実そのものが消滅してしまう。

 つまり――本を最初から読み始めても、「みんな」は帰ってきても、「きみ」は帰ってこないのだ。

 さて、この一見陰惨たる結果を、幻想=読書体験=みんな、夢見る者=読者=きみという図式に当てはめると、何が浮かび上がってくるだろうか。

 幻想を観測する人間(=本を読む読者)が消えたとしても、幻想は残り続ける。つまり、本は、幻想は、人を滅ぼした後も、いつまでも存在し続ける……このような図式になるだろう。つまり、本作はウルフとはまた違った形の、だが結論としては同じく、フィクション讃歌なのである。

 本作が〈未来の文学〉最終巻である『海の鎖』の巻末に置かれたのには、編者伊藤氏の意向があったという。六〇年代〜八〇年代の未訳SFを発掘し続けてきた叢書の最後となる作品として、創作物の尊さ、かけがえのなさ、あるいは野蛮な力、人類をも消滅させうる威力を持った存在としての創作を描いた本作を置くという意図が、ひょっとしたらあったのではないか。

 

 人は死ぬ。いずれ死ぬ。死は避けがたい営みだ。

 だが本は死なない、観測者はいなくなろうとも。

 

 こうした、終末SFめいたビジョンを幻視することも可能だろう。私には、伊藤氏からの虚無的ながらもフィクションの力を信じるという、力強い声が聞こえたような気がした。

 

 取り上げた二作以外にも、孤独な少年と逃避としての幻想を描いた作品は多数存在する。〈未来の文学〉内で、例えばハーラン・エリスン「第四戒なし」(『愛なんてセックスの書き間違い』所収)と並べてみるのはどうか。そこから、「SF=毒親文学」であるとか、想像/創造することは、すなわち現実からの解離である、などと考えることもできるだろう。肉体の滅びが全てではない、という考え方から、宗教的萌芽を嗅ぎ取ることも可能だろう。

 物語は誰かによって紡がれる。その物語を読み、また何かを想像することもまた、誰かの自由であり、それこそが読み語り継がれるということなのだ。