機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

フランツ・カフカ『失踪者』

※本稿は鯨井の執筆のものではなく、桃山千里氏によるものですが、特別な許可を得て掲載しています。

 

 

 

 

 はっきり言って、カフカというのは自分にとってよく分からん存在なのである。不条理なのは、うん。理屈じゃ考えられない変な事態が起こって、困惑させられて、孤独になる。つらい。それはよく分かる。でも、現代ではそれがむしろ普通になっている。変なことばかりが世界で起こる。戯画化されたようなお役所仕事のカタブツさを目の当たりにして、「これがカフカか」とつぶやくことはあれど、そこに起こる逆転現象にはさして気も止めない。あまりにも古典すぎて、みんなが模倣するあまり、その魅力が伝わりにくくなっているんじゃないか、という気もする。というか、かなりそう思う。だって、同じ不条理ものという括りなら、全盛期の松本人志(『ビジュアルバム』なんて、二十年以上も前の作品だけど、未だに通用するからすごい)とか、今ならバイオレンス&不条理&天丼の美学を守り続けているニッポンの社長のコントなんかを見たほうが面白いんだもの(知らない人はYouTubeで「ゴルフセンター」のコントでも見ておきなさい)。まあ、その源流にはひょっとしたらベケットとかイヨネスコがいるのかもしれず、そのご先祖といえばやっぱりカフカなのかもしれない。そう考えると、当然無視しちゃいけないんだけど。ボルヘスが「カフカとその先駆者たち」で述べたように、そうした系譜が作れるということ自体が、カフカの偉大なところである、という言い方もできる。

 さて、カフカにはユーモアがあるという。この『失踪者』でもそれを感じさせるところはある。旧題を『アメリカ』というくらいだから、当然舞台はアメリカなのだけれど、冒頭からし自由の女神が剣を持っている。松明ではなくて。カフカ自身はアメリカを訪れたことが一度もなかったというから、これは天然の間違いなのかもしれない。ただ、識者に言わせると、主人公(女中を妊娠させてアメリカに体よく追放された)の「罪の誘惑にのったあとの判決と追放」の「予告」であり、「その入口に立つ女神は自由の火ではなく、『裁きの剣』をもたなくてはならない」(いずれも池内紀の解説より)なのだという。ふーん。そうなのかな。天然ボケだった方が何なら面白いけどね、なんて思ったりもする。それ以外にも、人の良い主人公が、ちゃらんぽらんな二人組に言葉巧みに騙されて身ぐるみ剥がれたり、レストランの食事を全部奢らされたりする辺りのドタバタっぷりは結構いい。だがまあ、話全体として見ると、何だかよく分からないというのが実感だ。そもそも未完だし。解説にあるように、アメリカという未知で混沌としていて、産業革命後の効率化を体現するような舞台に、無垢なる魂が迷い込み放浪していく物語、として捉えるのが、まあ筋なのだろう。しかし、それにしてはフワフワした話ではある。人生そのものが不条理で、オチも笑いどころもなく、筋といった筋もない孤独な遍歴なのだ、ということを示したかった、というのならまだ分かる。にしても、それを読んでいる時間も、読者にとっては人生の一部なのだから、読書の中でくらいオチや笑いどころがある話を読みたいなあ、と思うわたしは、すでに効率化を体現する現代社会の一員、歯車の一部となりさがっているのだろう。まったく、なんてオチだ。 (桃山千里)

 

 

 


www.youtube.com