機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

「異人」としての老人を描いた特異なアンソロジー――『いまどきの老人』

 

 

 

 現実における「老い」の問題はたいてい悲観的だ。肉体的な衰え、介護問題、子や孫との確執、安楽死問題……。少年には無限の可能性がある(かもしれない。そうとも限らない)が、老人には「死」という歴然とした結末が可視範囲内に存在する以上、致し方ないことなのかもしれない。

 その一方で、「少年小説は往々にして老人小説であり、逆もまた真である」と、柴田元幸氏は本書のあとがきの冒頭で述べる。確かに、世間を構成する「大人」たちの世界からはみだした身、生産・効率的行動から比較的自由な身である点で、少年と老人は共通する。軛から逃れた特権階級的存在として両者を捉え、「死」の苦痛から遠ざかろうとするこの考え方は、ある意味でポジティブな捉え方と言えるかもしれない。本書はそうした「異人」としての老人を描いた作品を集めたアンソロジーである。

 また、もう一つ特徴を挙げるとするならば、本書収録作は、老人は老人でも老婆が中心となった作品が多い。そして、そのほとんどが「老婆が若い男や生き物を嬲る」筋書きになっている。理由は何だかよくわからないが、確かに老婆が出てくる小説だと、大抵何らかのものが嬲られている気がする。ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』もある意味でそれに該当する作品だし……等々。

 

 

 閑話休題。例えばシャーリイ・ジャクスン「おばあちゃんと猫たち」。猫とおばあちゃんの激しい、けれどもほほえましい戦いの様子が描かれる小品で、おどろおどろしい作風で知られるシャーリイ・ジャクスンもこんな話を書いていたんだ! と少し驚かされる。なお、本作はジャクスンの死後にヴァーモント州某家の納屋から発見された未発表原稿に含まれていた作品の一つであるとのこと。原稿はその後遺族の手で一冊にまとめられて出版され、後に日本では『なんでもない一日 シャーリイ・ジャクスン短編集』として東京創元社より刊行されている。

 また、ジェームズ・パーディ「ミスター・イヴニング」は、富豪の夫人姉妹が美術商の男を幻の陶器をダシに家に呼び、駆け引きを重ねてじわじわと男を嬲っていくという奇怪で不可解な物語。お喋り好きな姑と、幼い娘にだけ見えるという空想上の友達の関係性がホラーテイストで描かれる「プール・ピープル」も老女が中心となった作品だ。

 一方、男性の老人がテーマとなった話では、ジュリアン・バーンズによる某ロシア人作家弄り短編リバイバルがある。『フロベールの鸚鵡』の作者らしい、実際の作品と作者の実人生をリンクさせた虚実入り交じる語りが魅力。

 そして本書最大の目玉は柴田アンソロジーの常連、スチュアート・ダイベックによる「冬のショパンだ。元風来坊の祖父が娘夫婦の家に帰ってくるところから物語は始まる。ちょうどその頃、同じアパートに住む大家の娘で、ニューヨークの音楽大学に通っていたものの、父親の分からない子を妊娠した女性が帰ってきた。放浪癖があり、家で厄介者扱いを受ける祖父は、台所でひとりバケツにお湯を入れ、しもやけだらけの足を暖めながら、じっとしている。孫である少年はその側で書き取りの宿題をする。そんな中聞こえてくる大家の娘が弾くピアノの音——それが人々の様々な記憶を呼び覚ましていく。ダクトや窓を通して聞こえたショパンの響きが、人々の記憶や歴史を掘り返し、そして残響とともに消えていく儚さと美しさが大変叙情的で素晴らしく、少年小説と老人小説の融合としても楽しめる。

 いかにもな「老人小説」らしい老いの肯定ではなく、かといって辛く厳しい「老い」への問題提起的なものでもなく、あくまで世から外れた異物としての老人を描いた作品が集まっている点で、特異なアンソロジーと言えるだろう。

 

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下記同人誌に収録。

hanfpen.booth.pm