機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

読者の"愛"の概念を拡張するアンソロジー――『むずかしい愛 現代英米愛の小説集』

 

 

「○○ってなんだろう」と、ある概念について考える時の一つの方法として、「極端な具体例を考えてみる」というものがある。例えば「SFってなんだろう」と考える時に、妙な科学技術が出てこないにもかかわらず「SF」だと感じられる作品とは一体どんなものなのか考えてみる(津原泰水「土の枕」とか?)。あるいは「本ってなんだろう」と考える時に、物理的存在がない本(電子書籍のデータそのものは「本」なのか?)や一ページに満たない紙っぺら、あるいは逆にとんでもなく巨大なビル、あるいは惑星規模の大きさの本、到底人間サイズでは読めない本も「本」なのか? などと考えてみる(円城塔『文字渦』『エピローグ』参照)。そうした思考実験から、その概念の輪郭線を辿ってみことが、理解へ近付く第一歩として有効なのではないか。

 そうした意味で、本書は「愛ってなんだろう」と考えたときにまず思い浮かべてみるべき、極端な例としての「愛」の形を集めたものだと言える。具体的に列挙すると、目と耳を潰し合うカップル、後妻と盲目の夫、想像上の彼氏/彼女、父娘相姦、電子データとして遺された妻等々。奇妙な愛の有様を読む中で、読者の「愛」の概念は徐々に拡張されていく。結果、本書を読み終えた後の読者の脳内では「これも愛/あれも愛/たぶん愛/きっと愛」と、例の歌(松坂慶子の)がきっと流れていることであろう。


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 さて、柴田編アンソロジーの常連レベッカ・ブラウンによる「私たちがやったこと」は、本書の中でもとりわけややこしい愛の物語だ。音楽家の夫と画家の妻は、それぞれ相手の目と耳を潰し合った——いつも一緒にいるために。足りない部分を相互に補い合えば何も不自由はない、そしてお互いのことは完璧に分かり合っているのだから、何の問題もない……。一見狂気じみて思える発想だが、彼らにとっては何ら不合理な行為ではなかったのだ。耳の聞こえなくなった妻は夫の唇の動きを完璧に読めるようになり、目の見えなくなった夫は暗闇の世界に順応していく。だが、五感のうち一つを欠いた影響は他の感覚の変容をもたらす。耳の聞こえなくなった妻は自らの声量を調節できなくなり、目の見えなくなった夫はメモ帳に文字を収めることができなくなる。変わりゆくパートナーを前に、彼らは変わらず互いを愛し合えるのだろうか……? 谷崎潤一郎春琴抄』では、二人共が同じ感覚(視覚)を失った中での愛が描かれたが、彼らは共通して失ったものがあったからこそ、強固な絆を結べたのかもしれない。

 ウィリアム・トレヴァーピアノ調律師の妻たち」は、盲目のピアノ調律師と後妻として招かれた女性の物語。前妻の痕跡が辺りに立ち込める屋敷の中で、彼女は夫の中の前妻を上書きしようと試みる……。トレヴァーは絶対にそんなことを考えてはいなかっただろうが、いわゆる「負けヒロイン」の老後の物語、として捉えると、また違った妙な感傷が湧く。

 ヘレン・シンプソン「完璧な花婿」スティーヴン・ミルハウザー「ロバート・ヘレンディーンの発明」は、それぞれ想像上の彼氏/彼女を創造してしまう物語。前者はスラップスティック的なおかしさに溢れた短編だが、後者は執拗なまでの濃密な想像力で実際に一人の人間を存在させてしまう(一人称の語りがそれに拍車を掛ける)ところに薄気味悪さを感じる。現実から逃れるために別の現実を作り上げてしまう狂気は共通するものの、その捉え方の違いによってここまで差が出るのかと思わされる二作。

 トリを飾るジョン・クロウリー「雪」は、彼の代表作『エンジン・サマー』でも見られた概念のSFガジェット的具現化が中心に据えられた作品。というハチ状の小型ガジェットにて記録された生前の妻の姿を見るために、男は「パーク」を訪れる。だがアクセスできるのはランダムで、特定の瞬間を選んで再生することはできない。だが、何度となく繰り返される瞬間が一つだけあり……。SFガジェット的にはやや設定の説明に乏しい気もするが、「記憶」という概念の不思議さを登場人物の行動でもって示すことに成功した良作だ。

 何はともあれ、これも愛だしあれも愛なのである。とかくこの世はむずかしい。

 

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下記同人誌に収録。

hanfpen.booth.pm