機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

面白いSFが読みたい人に――『中国SF女性作家アンソロジー 走る赤』

 

 近年、中国SFが盛り上がっていることを否定するSFファンはいないだろう。『三体』大ヒットに牽引されるような形で続く各種作家の作品刊行の波はいまなお収まるところを知らず、その魅力もあってか、むしろ加速しているような感さえある。本書もそんな波の中で刊行された一冊なのだが、その唯一無二といってもよいであろうコンセプトが目を引く。

 〈中国女性SF作家アンソロジー〉。添えられた副題を見て、読者は何を思うだろうか。はっきり言って、わたしは「ニッチだな」とはじめ思った。中国SF作家だけでもまだまだ本邦未紹介レベルの作家がたくさんいるのに、そのうえで女性作家縛りでアンソロジーを編むなんて……。コンセプト先行の、クオリティは犠牲にされた、いびつなアンソロジーになるんじゃないのかなあ。そんなことを思い描きながら手に取った。
 違った。本書で紹介された14作品はいずれも独自の視点を持った輝きを放つ作品であり、全体を通して見ると総じてクオリティとコンセプトのバランスが取れた一冊の本に仕上がっていた。

 例を挙げよう。王侃瑜「語膜」は、架空の希少言語・コモ語をめぐる物語だ。言語教師である母は、従来の自動翻訳AIでは埋められない自然な語と出力される語との差を埋めるなにか――「語膜」――を打ち立てるべく、ひとりマイクの前でコモ語を一日七時間話しつづける。その一人語りで描き出されるのは、不貞を働き破局した夫への復讐の念、そして子への執着である。英語を武器に貿易ビジネスで成功した夫、そして不貞を知り泣いていた母を慰めるべく「泣かないで」と英語で(コモ語ではなく)言葉をかけた子……。その瞬間、彼女にとって英語は敵となった。子のインターナショナルスクールでのキャリアを潰し、コモ語を母語として一から学ばせなおすのに、何の躊躇もなかった。「語膜」を通して、あらゆる言語利用の機会に「母」をこだまさせようと企む母親に対して、子はどう立ち向かうのか? 言語すらも束縛しようとする毒親の執着のおそろしさを、自動翻訳AIというガジェットを使って描き出した傑作である。

 蘇民「ポスト意識時代」は、あるときから自分では制止不能な被支配妄想にとらえられた人々が出現するようになった世界の物語。妄想にかられる人々は、無意識のうちに自らの専門分野の話を延々としてしまうようになる。爆発的に患者が増加するなか、その変化は人類の進化であり、人類は意識のつぎの概念、ポスト意識を手に入れたのだ! とする学会発表が行われるのだった……。バロウズの「言語は宇宙から来たウィルスである」という概念を意識に置き換え、際限なく繁殖していく「ミーム」とそれに知らず知らずのうちに侵食されていく恐怖を描く。人類の意識の消失とその後、というテーマからはどうしても伊藤計劃『ハーモニー』を連想してしまうし、バロウズの概念は円城塔×伊藤計劃屍者の帝国』でも展開されたところだ。現実の認識がいつのまにか変わってしまっている恐怖というのは、SFでいえばまさしくP・K・ディックの作風であり、煎じ詰めれば本作は、ディック×伊藤計劃以後を描いたSF……なんていうふうに形容できるかもしれない。

 今回紹介した二作品以外にも、内宇宙と外界を行き来しているとメビウスの輪を結ぶようになる、とかコンタクトレンズ型ガジェットで色彩感覚が強化された世界と美の概念、とか各種興味深い作品が揃っている。本書こそ、面白さにあって、性別も国も関係ないことを知らしめるよき一冊であろう。

 ラベル付けに関係なく、面白いSFが読みたい人にいまいちばん勧めたい作品集だ。

 

(ここから先は余談)

 敢えて「女性作家」という枠組みでアンソロジーが編まれたことには、いろいろと異論もあるだろう。今さら性別で区別するの? なんて声もあるだろう。だがしかし、現代は過渡期であり、過渡期には過渡期なりのやり方が必要なのではないか、とわたしは考える。

 読みながら連想していたのが、二〇一七年から開催されている女性芸人専門のお笑い賞レース「the W」である。「the W」も開始当初は散々な言われようであった。決勝進出者でもこんな低レベルか、やっぱり女性に笑いは無理なんだよ……そんな声が多数聞かれたように記憶している。いちばん恐ろしかったのは「結局パラリンピックみたいなもんだから」という意見を見た時だ。確かに自分の感覚から言っても、他の性別不問の賞レースに比べるとレベルは数段落ちるものではあったが……。この世界に根付く色濃い偏見を体感した瞬間であった。

 だが近年では、その格差はぐいぐいと縮まってきていて、昨年の上位三組などはほぼ遜色なく面白いと堂々と言えるメンツだったと思う。Dr.ハインリッヒやAマッソなど、従来の女性芸人の扱われ方を拒否し、自ら枠を破っていくような芸人の出現も大きいが、やはりこの近年の急激なレベルアップには、「the W」という、敢えて「女性」という縛りを設けて行われた大会が大きいのではないか。フックアップのための手段がひとつ増えたことで、演者は目指すべき目標ができ、作り手は企画制作上の名目ができた。この良質なサイクルの形成が、ネタの全体的なレベルアップに繋がったのではないか、というのがわたしの仮説だ。

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 SFにも同じことが言えるだろう。女性SF作家はこれまでにもいても、やはり多数派は男性であった。巻末の橋本輝幸氏の解説でも述べられている、現状のジェンダーバイアスを破壊していくためにも、本書のようなフックアップの形は望ましいといえるだろう。

 コンセプトを立案し、それに沿ったアンソロジーを編まれた編者の方々に感謝&リスペクトを捧げたい。