機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

狂気の沙汰か、SFか!? 海外奇想短編10選

 

 


 SFマガジン一九八九年七月号「狂気の沙汰か、SFか!? 奇想SF特集」冒頭の特集解説で、監修をつとめた大森望はこう書いている。

 最初にことわっておかなければならない。本来この特集は〈バカSF特集〉であった。表紙にバカという文字を刷るわけにはいかないと、編集担当の(阿)氏は泣いて頼むので、涙を呑んで〈奇想SF特集〉と呼ぶことにしたいきさつがある。

 無論、バカというのは罵倒の文句としての言葉ではない。その続きで大森氏はこうも記す。

 もちろん、ここでいうバカは最上級の誉め言葉にほかならない。あまりのバカバカしさに、あんぐりあいた口がたっぷり三十秒はふさがらないほどの衝撃を味あわせてくれる作品。断言しよう、これこそがSFの醍醐味である。
(中略)
 あっと驚く衝撃。頭をがつんと殴られるようなショック。これなくしてなんのSFであろうか。

 このあとに大森氏推薦の「バカSF」短篇リストが続くので、そちらはぜひ雑誌に当たっていただきたいが、重要なのはこの簡潔かつ核心をとらえたひとつのSF評である。
 ストーリーテリングの妙、文体の美しさ、精緻極まる構成。それらも確かに小説の面白さではあるが、現実世界を軽く吹き飛ばすような奇抜な発想、それもまた重要な要素のひとつである。センス・オブ・ワンダーという言葉でくくってしまうのは簡単だが、その驚異とは中心に据えられたアイデアの飛躍であるという側面は、決して否定できまい。
 余談だが、関西では愛情と畏敬を込めて「アホやなあ」としばしば評する。それはその行為の滑稽さ、あるいは思慮の足りなさの要素もあれど、そうした発想に行き届いてしまえる行為者への賛美に他ならない。この意味で、バカSFというよりは、より関西的な敬意と温かみのあるアホSFと、個人的には呼びたいところだ。
 さて、今回はそうした奇天烈な発想を軸に据えた短編作品のなかから、個人的に偏愛する作品を十作紹介する。ある種古典的な選出ともいえるが、もし未読の作品があればぜひ読むことをおすすめしたい。ひょっとしたら、しかめつらしい現実を片時は忘れ、あるいはその現実をも面白がれるような視点を得られるかもしれない。そして、それはきっと人生において大切なことだ。

 

R・A・ラファティ「スロー・チューズデー・ナイト」

 

 

 まずは奇想SFといえばこの人を置いて他ならない、ラファティから。「スロー・チューズデー・ナイト」で描かれる世界は、一言で言えば「人間の決断プロセスが猛烈に早くなった世界」である。アベバイオス阻害という思考が簡単な脳外科手術で除去できるようになった未来世界、人々は数時間のうちに巨万の富を得、そして同じくらいの時間でそれを失う。起業も、結婚も、哲学の論文執筆も、それに対する書評や売れ行きも、ものの数分から数時間程度で全て完了してしまう世界なのである。最近の出版不況の事情を聞くと、つい「読書星人が地球に来襲して、人間の読書スピードを猛烈に上げてもらうしかないのでは?」なんてことを考えてしまうのだが、その元ネタはこの短篇である。ふと思えば、映画がたいてい二時間前後で作られていることや、小説の長さもおおむね決まっていること、あるいは病院の待ち時間や役所でのもろもろの手続きなども、全て人間の認識のスケールに規定されていることに気付かされる。映画の倍速視聴の話や〈加速主義〉に連想も膨らんでいく名作である。
 

スタニスワフ・レム「GOLEM ⅩⅣ」

 

 


 人間の認識の超越、という観点ではレムの「GOLEM ⅩⅣ」も外せない。
 そもそも本作が収録されている『虚数』自体が〈架空の書物の序文集〉という妙な建付けであることもまずあるが、何と言っても本書の中でも「GOLEM ⅩⅣ」のぶっ飛び方はすさまじい。人間の知性を超えたコンピュータ、という概念はシンギュラリティという言葉の広まり方からも分かるように今やありふれたものだが、本作はその超知性体のゴーレム氏が下々の人類に向かって行った講義録、という形式になっている。知性と進化を巡る哲学的な議論の末に導かれるのは、ある段階を超えた〈知性〉は光を放つ巨大な星雲になる、という事実である。曰く、消費エネルギーを超えるエネルギー=情報を放つことになれば、それは巨大なフレアとなり、フレアは巨大なエネルギー=情報を放つ知性体なのだという。ここでレムが示そうとしているのは、人類の〈知性〉では捉えきれない次元の〈知性〉の形である。つまり、肉体と精神、従来の物理学で規定された人類の〈知性〉よりも高次の〈知性〉がありうるとすれば、それはどのような形を取るか? ということだ。有名作『ソラリス』然り、基本的にレムは人類には分からない知性を描こうとして、ファーストコンタクトの失敗ばかり書いているのだが(最後の長編のタイトルが『大失敗』であることからも察せられる)、本作はその考えを突き詰めきったある種究極の形と言ってもいいだろう。最終盤、超知性体たちは人類への最終講義を終え、忽然と姿を消す。彼らがどこへ行ってしまったのか、どうなってしまったのか、今の人類には知るすべもないのである。

 

バリントン・J・ベイリー「ブレイン・レース」

 

 


 だいぶ話が〈バカ〉からは遠い方向に行ってしまった気がする。ここらで修正するとして、次はこれまた奇想SFといえば切っても切り離せない作家ベイリーである。
 ベイリーと言えば、文字通り「神を殺せる銃」を作ってしまった科学者を描いた「ゴッド・ガン」など、形而上学的な概念をむりやり実態として描いてしまうことで起こる奇想が作風のひとだが、わかりやすく視覚的に奇天烈な「ブレイン・レース」を紹介したい。
 ハンティングの最中、仲間のひとりが返り討ちにあい重症を負ってしまった地球人の男たち。助けを求め、外科手術の技術が豊富なものの、人類の接触が禁じられている異星生命体・チドに声を掛ける。だが、チドたちは仲間を脳だけを肉体から切り出し、動けるようにしてしまう。残りの男たちも捕らえられ、残った肉体をどちらが先に手に入れるかの競争――ブレイン・レース――の賭けの対象にされてしまうのだった。
 脳だけになってしまったもののコミュニケーション可能な男のしれっとした感じの書きぶり、眼がなく虚ろな状態と化した抜け殻状態の肉体の描写、そして何と言ってもとてちて走り回る脳だけの存在と化した地球人。グロテスクな描写ながらも、肉体からの解脱と脳だけの生命体になってしまった運命を悟る(そして肉体があったことを忘れてしまう)ラストもすばらしい。ベイリーは他にも、蟹たちの青春グラフィティ(文字通り、の意味だ)「蟹は試してみなきゃいけない」など奇想的な良作が多い。

 

J・G・バラード「未確認宇宙ステーションに関する報告書」

 

 


 さて、このブックガイドを作るに当たってのリスト作成中に思ったのが、妙にイギリスSFの作家が多いこと。ホラ話といえばアイルランドアメリカ、というイメージがあるが、自分の琴線に触れるのは英国流の屈折したユーモアのほうなのかもしれない。
 というわけでベイリーに続く英国SF作家として紹介するのが、J・G・バラードである。バラードといえば内宇宙、破滅三部作、テクノロジカル・ランドスケープ!という具合に連想が働いていくが、実はもろに奇想っぽい短篇も書いている。
「未確認宇宙ステーションに関する報告書」は前述の〈奇想SF特集〉のSFマガジン掲載の作品だが、簡単に言うと「途方もなく巨大な宇宙ステーション」の話。タイトルにもある通り、ある無人の未確認宇宙ステーションに緊急着陸した宇宙飛行士の報告書、という形式で語られていくのだが、報告が連なるにつれて最後に記されるステーションの推定直径がどんどん巨大になっていく。最初は五〇〇メートル、一マイル程度だったものが、探検に出た隊員が帰ってこなくなったり、曲率の計算から、途方もなく大きなスケールのステーションにいることが明らかになっていく。
 最後には宇宙全体がステーションの内部にあるのでは? という気付きとともに、「推定直径――一五、〇〇〇光年」と〆られるのだから、これはもう途方もない衝撃を与えてくれる、まさしく奇想短篇の粋といってもよい作品である。

 

ジョン・スラデック「教育用書籍の渡りに関する報告書」

 

 


 イギリス、というかニューウェーブSFというか、そんな文脈で外せない奇想作家といえば、「才能の使い道を間違えた天才」ことジョン・スラデックだ。基本的にスラデックはヘンなことしか書かないので、ほとんど全部が奇想作品といっても過言ではないのだが、報告書繋がりということもあり、スラデック作品の中でも代表作とされる本作を。
 稀覯書や書店の在庫棚から本が突如姿を消し、それと同時に、空を飛ぶ何かの群れが観測される。それはブラジル奥地のジャングルへ向け、群れを拡大しながら「渡り」を続けていく……。
 もちろん、その群れとは書籍のことである。
 なぜ本が飛ぶのか? ――本は質量の一部をエネルギーに変換している。あとは表紙をはばたくだけだ。
 なぜ本はジャングルへ向かうのか? ――本は木から生まれた。本たちはずっとジャングルに、生まれた土地へ還りたいと思っていたのだ。
 なんという潔さ。稀覯書から群れを成していったのは、誰にも顧みられずに拗ねちゃったから、という理由も何ともいじらしい。そのくせ、最後に「教育用書籍の渡りに関する報告書」そのものを空へ還してやるシーンは妙に美しい辺りがバカバカしさを炸裂させていてすばらしい。歴史に残る奇想短篇の傑作である。

 

イアン・ワトスン「絶壁に暮らす人々」

 

 


 イギリスで奇想作家、といえばこの人を忘れてはならない。長編になると割とシリアス気味ではあるが、基本的にはアイデア勝負のストロングスタイルの奇想作家、ワトスンである。日本で出ている唯一の短篇集『スロー・バード』は、「文明が滅んだ世界で開かれる世界SF大会」という何ともSFファン的な奇想短篇「二〇八〇年世界SF大会レポート」や、体内から飛び出した魂を金魚鉢で飼うことになる「我が魂は金魚鉢の中を泳ぎ」など、妙な作品だらけで記憶に残る一冊だが、その中から個人的にはこれを。
 タイトルでもうオチている、といってもいいのだが、まさにその通りの話である。無限に続く垂直方向の岩棚に住み、よじ登りながら人生を終える世界。だが、左上方向への移住を目指していたあるとき、実は別方向からべつの岩棚が迫っていることに気付き……。
 世界の常識が覆ってしまっているべつの世界で、その生活を送っている人々の習慣を描いた本作は、奇せずしてマジックリアリズム的な作風のものになっているのが興味深い。

 

チャールズ・ストロス「ミサイル・ギャップ」

 

 


 何となく古めの作品が多くなってしまったので、ここらで現代作家として、かつイギリスの作家ということもあり、ストロスに登場願おう。シンギュラリティ前後の世界を描き、とにかくアイデアをぶちこみまくった『アッチェレランド』で有名な作家だが、単行本未収録の短篇が実はかなりある。その中からとっておきの作品を紹介しよう。
 キューバ危機直前、高次知性によって地球の十億倍もの直径を持つ巨大な平面建造物に地球の平面が移植されてしまう。巨大核空母の船長として調査に向かったガガーリンは、廃墟と化したアメリカを発見し……。
 改変歴史+海洋冒険+高度知性とのコンタクト、という要素てんこもりの傑作。以下ネタバレだが、実は一九六二年段階の人類が虫(シロアリ)型の超知性体によってコピーされており、最終的には彼らによって「駆除」されてしまう……という何ともスケールの大きい作品。一刻も早く、ストロスの雑誌掲載のみの短篇を集めた作品集の刊行が待たれる。

 

コニー・ウィリス「魂はみずからの社会を選ぶ」

 

 


 ウソの論文ものというのは、すこし前の『異常論文』で分かる通り、妙な発想になりやすい(というか、そうじゃないと多分書けない)。本作はそれに、ある種伝統の「文豪イジりネタ」を組み合わせたユーモアSFの傑作である。
 どんな作品かというと……書き手は詩人エミリ・ディキンスンの専門家なのだが、彼女の作品や未発表原稿を読み込んでいくうちに、その背景に火星人侵略(ウェルズ『宇宙戦争』的な)の予言を見つけてしまう、その過程を描いたものである。奇想というのは発想も大事だが、妙な論理を転がし続けて、最終的に奇天烈な着地点へと導かれるという面白さも重要である。本作でいけば、ディキンスンが火星人の話などしているわけがないのである。だが、読んでいくとどうもそんな気がしてくるというか、大ボラすぎて逆に信じてしまうというか(この辺り、街裏ぴんくのウソ漫談に通じるところがある)、その辺りの語りの巧さが流石にウィリスである。
 

エリック・マコーマック「刈り跡」

 

 自然現象ものの奇想短篇といえば、マコーマックのこれしかない。
 ある日突然現れた〈刈り跡〉なる現象。それは、その進路に幅百メートル、深さ三十メートルの巨大な溝を作りつつ、時速一六〇〇キロの速度で世界中を駆け巡っていく。通り過ぎたものを消滅させていき、動物や建造物のみならず、無数の人命をも奪っていく。西へ西へと進んでいき、最初はカナダから太平洋を横断して日本、中国、インド、アフガニスタンイスラエルを経て、ヨーロッパにたどり着く。そして世界を一周し終えた〈刈り跡〉は消滅するのだが……。
 不条理極まる作品だが、それに適応してある種の正常性バイアスを発動させていく人々の描写が何ともリアルでかつグロテスクだ。


スティーヴン・ミルハウザー「雪人間」

 

 


 最後はミルハウザーの美しい幻想譚に飾ってもらおう。
 雪の降ったある日、町に細部に至るまで精密に写し取られた人間の雪像——雪人間——が現れる。その出現は各家庭の庭から庭へと競争を広げ、雪人間は洗練の度を増していく。弦楽四重奏団大道芸人、アイススケーターなどの力作が見られるなか、写し取られる対象は人間だけではなく、動植物や無機物にまで至る。そして複製への情熱が最高潮に達した二日目の午後には、何から何まで雪でできた巨大な雪の邸宅がそびえ立つにまで、状況は進展していく。行き着くところまで辿り着いてしまった雪人間競争は、次第に非現実・非存在のものの複製へと進出し始める。小人に食人鬼、妖精や一角獣など、幻想の動物たちが雪で創造されていくが、それは同時に、雪人間という様式の限界が近いことをも示していた……。
「超精密な雪像彫刻」というホラから、ある種の芸術の衰亡史を描いてみせる軽やかな手付きが絶品。ちなみに、奇想のやり口として何らかの「歴史」を描くという手法もあり、この手の作品では小林恭二『ゼウスガーデン衰亡史』が白眉。
 エスカレートしていく状況と少年の眼から描かれる世界の奇妙さ・おかしみが、漫画のpanpanya作品を思わせる(というか、読んでいる途中で勝手にコミカライズが始まっていた)。ぜひpanpanya先生の絵で見てみたい。

 

 

時間の都合もあり、奇想長編の紹介が書けなかったのが心残り。フラン・オブライエンとかその辺も紹介したい。あとバドニッツとか最近の作家も全然触れられなかったのは反省。また別の機会に。