機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

鉄とコンクリートの匂い立つ、現代の神話――J・G・バラード『クラッシュ』

 

 

 

 J・G・バラードとは一体何者だったのか?

 従来のSFへ反旗を翻し、「内宇宙」をキーワードにSF界にニューウェーブ運動を起こした張本人。いわゆる《破滅三部作》で外世界のカタストロフを待ちわびていたかのように受容する人々を描き、七〇年代には本作『クラッシュ』に始まり『コンクリート・アイランド』『ハイ・ライズ』の三作、すなわち《テクノロジー三部作》を通して、メディアとテクノロジーに支配された現代社会の病理を描いた二〇世紀最大のSF作家。

 彼の最高傑作とも名高い本作だが、執筆されたのは一九七三年、もう四〇年以上も前のことだ。そんな時代に提示された現代社会のヴィジョンなど、当時の憧憬を掻き立てるだけの錆びついたカビ臭いガラクタ以下の代物に成り下がっているのではないか? そんな疑問が現代の読者の頭にはもたげることだろう。

 だが決してそんなことはない。バラードが本作において指摘した病理や欲望のメカニズムは、現代においても十二分に通用するものだ。

『クラッシュ』は、バラード自身の言を借りると、「世界最初のテクノロジーに基づくポルノグラフィー」だという。確かに、全編を通して氾濫する性的なイメージとグロテスクな身体損傷描写の重ね合わせは、倒錯的という言葉の範疇では収まらないほどに異常な性愛の形を浮かび上がらせている。自動車事故と性交の間に異常な執着を抱き、自らの人工的な死を設計するテレビ解説者のヴォーンと、交通事故をきっかけにヴォーンの思想に共鳴していく主人公・バラードが繰り広げる夜毎の死のリハーサルが示すのは、まさしく現代社会の病理であり、テクノロジーを媒介とした悪夢だ。そこにあるのは、テクノロジーがもたらした新しい性の形であると同時に、死への希求に他ならない。

 バラードはこうした鉄とコンクリートの匂い、あるいは血と精液の匂いが濃厚に立ち込める悪夢的な世界を描き出すが、決して安易な文明批判や諷刺に結びつけたりはしない。彼が示すのは、現代の人工的な環境(いわゆる「テクノロジカル・ランドスケープ」)が人々の無意識に働きかける退廃的な作用だ。

 テクノロジーが自然の一部として取り込まれている現代においては、自然とテクノロジーは対立概念ではない。ハイウェイを時速一〇〇km超で走り抜ける自動車は、かつて宇宙や星々の動きがそうしたのと同様に、人々の無意識下の欲望を刺激するのだ。そしてバラードは人工物が破綻する瞬間——交通事故、あるいはそれに伴う人体損壊など——を切り取り、あたかも覆い被さった抑止の蓋を破るようにして、閾下に潜む歪みを露呈させる。

 バラードは小説を書くこと、つまり自らの妄想を具現化することによって、人間の無意識下の情動を読者に提示する。読者はそれを意識することで、自らの立つ世界が異なる見方を示していること、新たな現実の見え方に気付かされるのだ。

 本作が書かれた七〇年台初頭と比較して、現代ではテクノロジーとメディアは氾濫の度合を更に増している。スマートフォン時代の新たな欲望の形は描かぬままにバラードはこの世を去ってしまったが、彼が示したテクノロジーと欲望の因果律の図式は今でも通用する。

 テクノロジーと人間の普遍的なあり方を示した現代の神話として、これからも読み続けられていくであろう一冊だ。

 

 

 

追記:昔の書評。カモガワ遊水池にも載せた。読み返してないけど、たぶん山形浩生「欲望の磁場」に相当引っ張られてるはず。