機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

風化しないユーモア、超越する面白さとは?――ユーモアSFアンソロジー『グラックの卵』

 

 

 本書は〈ユーモアSFアンソロジー〉と謳われているが、果たして「ユーモアSF」とはそもそも何なのか? そこから考えてみたい。

 編者の浅倉久志氏は過去に、「ユーモアSFの特質は(中略)論理と飛躍ではないか」(『世界ユーモアSF傑作選1』解説)と記している。だが、この後に浅倉氏本人も書くように、これはSFそのものの特質でもある。では、ユーモアSFと非ユーモアSF(などというものが仮に存在するとすれば)の境界とは一体何なのだろうか?

 

 

 これは難題である。落語家・桂枝雀の有名な「笑いとは緊張と緩和である」という理論を持ち出せば、SF的な科学的論理=緊張、その論理から導かれる非現実的なヴィジョン=飛躍、ということにでもなろうか。緊張と緩和理論に則れば、この落差が大きいほど「笑える」、すなわちユーモア度が高い、と強引に論ずることもできるだろう。だが、笑いはそんな簡単なものではない。

 

 

 本書に収められた作品だけでも、様々な種類のユーモアがある。例えば、宇宙からとんでもなく巨大な鳥が来襲し、太陽系自体が巨大な「地球」という卵の孵卵器であることが判明する奇想SFボンド「見よ、かの巨鳥よ!」は、明らかに「そんな訳ねえだろ!」というツッコミ待ちの大ボケである。だが、このボケをボケとして成立たらしめているのは、『ルバイヤート』を始めとする古代伝説を論拠として持ち出す「論理」なのである。ここに論理と飛躍の典型的な図式が認められるわけだ。

 その他、タイムトラベルと芸術家によって起こるライオン仮面的なパラドックスを描いた、テン「モーニエル・マサウェイの発見」は、まさにタイムトラベルという前提から出発した「論理」によって起こる矛盾がおかしさを醸し出しているし、アメリカ版「養老の滝」伝説といった趣のノヴォトニイ「バーボン湖」(文字通り湖がバーボンで満たされている話)も読んでいて楽しい。表題作となったジェイコブス「グラックの卵」も、絶滅種の卵を巡るハーレム系ドタバタSF短編である。

 さて、問題なのがスラデックの中編「マスタースンと社員たち」である。ジョーゼフ・ヘラー『キャッチ=22』の影響を強く受けた本作は、ワンマン社長の元で働く社員たちを描いた一種の会社員小説なのだが……スラデックをお読みの方なら分かる通り、本作にはブラックジョーク、パラドックスの笑い、不条理、言葉遊びがこれでもかと詰め込まれている。手っ取り早く言うと、本作に登場する人物で正気な人物は一人もいない、そういう小説である。挿入されるフローチャートの図が示す分業化された書類仕事の無意味性や、最強レスバトル必勝法(=とりあえず大声で叫び続ける)vs歴史修正主義者、再雇用される死者、経費削減の末物理的に消滅する会社等々の破壊的な笑いは、本書収録の他作品とは明確に一線を画する。ぜひとも読んで頭をクラクラさせてほしい。

 ユーモアの持つ時代性、風化の早さは残酷である。だが、本書に収められた多くの作品のそれは、今なお通用する。論理と飛躍には——あるいはこう言ってもいいだろう、ある種の“バカバカしさ”には——時代を超越する面白さがある。そうしたことを改めて認識させられる一冊だ。