機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

ジョン・スラデック『ロデリック』を読む――自閉症スペクトラムとして見るロデリック――

だれでも、どうふるまうかを知っているはずです。だれもが道筋を、考え方を持っています。(中略)でも私にはそのルールがまだはっきりとわからないのです。私には基本が欠けていたのです。
――ヴォルフガング・ブランケンブルク『自明性の喪失』 アンネ・ラウの面接記録より(木村敏・岡本進・島弘嗣訳)

 

ロデリックは部屋で『われはロボット』を読みながら、いつになったら「われ」が出てくるのだろうと考えていた。
――ジョン・スラデック『ロデリック』(柳下毅一郎訳)

 

 

 帯曰く、ジョン・スラデック『ロデリック』は〈究極のロボットSF〉である。
 だが、この惹句は、決して単なる販促を目した誇張表現ではない。『ロデリック』の中でスラデックは、人間の似姿として作られたロボットとオリジナルである人間の差について――鋭く、かつ意地の悪いユーモアに包んだ形で――われわれに提示する。

 今回はその差とは何だったのかを振り返ったのち、『ロデリック』における「本当のロボット」に対する読みを、精神病理学的な方面から少し掘り下げてみることにする。

 

はじめに

『ロデリック』は、ロデリックと名付けられた自己学習型のロボットが成長していく姿を描いた、一種のビルドゥングス・ロマンである。ロデリックははじめ何も知らない。言うなれば赤ん坊である。彼は人間の赤子同様、周囲の様子から現実を学び取り、人格を形成していく。

 だが、彼は決して人間ではない。少なくとも、通常の意味合い――受精卵から胎児へ、胎児から新生児へ、そして子供へ……といった誕生の道のりを辿るような――の人間ではないのは確かだろう。彼が生まれたのは、大学の人工知能を扱う研究室の中である。

 しかし、ロデリックの自己認識と客観的な認識は必ずしも一致しない。ロデリックは人間と同等の対話能力を有しているにもかかわらず、「人間」ではない。

 だが、かと言って、一定の入力に対して一定の出力を返すような、いわゆる広く想像されるところの「ロボット」でもない。この狭間にいるのがロデリックであり、この両サイドからの認識の相違によるずれが本作の面白さである。

 卑近な例では、『キテレツ大百科』のコロ助に近い。コロ助は奇天烈斎という江戸時代の発明家が生み出した設計図をもとに、現代で少年キテレツが生み出した「ロボット」であるが、どうにも人間臭い。ロボットのくせにコロッケが好きというのが、その典型だろう。

 ちなみに、ここで安易にドラえもんを持ち出さないことに注目してほしい。ドラえもんは、まだある程度「融通がきく」のである。暴走するのび太を止めはするが、時には一緒になって悪事を働く。コロ助は違う。原作第一話で、「仕事のじゃま」と言ってキテレツの母親を物入れに閉じ込めてしまうような、いわゆる「ロボット的論理」を、ドラえもんはあまり持ち合わせていない。より「人間的」なのである。

 閑話休題。ロデリックのこの中間的な立ち位置について例を示そう。

 ロデリックはこの世に産み落とされた後、ある老夫婦の養子となる(!)のだが、転入先の小学校での心理検査では全くロボット扱いされない。各種検査ののち、彼は「自分をロボットだと思いこんでいる哀れな精神障害児童」とみなされてしまう。医者は金属の胸に聴診器を当て「心臓はよさそうだなあ」とお墨付きを与え、診断書では「『大きくなったら何になりたい?』と訊ねると『何も』と答えた」「典型的な過達成症候群とみられる」「可能性:深刻なアイデンティティ危機をはらむ分裂症性傾向」と書かれる始末である。そりゃロボットには大きくなるも何もないだろう。学校の子供たちからも(なぜか)人間扱いされ、いじめの対象となってしまう。教室の片隅に、ひとりだけ金属製のボディがあれば、それを異物としてみなすのは、子供にしてみれば当然の振る舞いだろう。彼は自らをロボットだと主張するのだが、その主張は容れられない。

 一方、ロデリックは誕生後、ジプシーの集団に誘拐され(!)、占いマシーンへと改造されている。コインを入れると動き、どんな相手でも変わらず、決まりきった定形文の占い結果を告げる。単純で原始的な計算機的な挙動のみを求められる生活だが、彼は、そんな境遇には決して馴染めない。決まりきった結果を告げるだけなら、自らの存在意義はないのではないかという疑問に囚われる。ここに、ロデリックの、ロボットにも人間にもなり切れない悲しさがある。

 一方でこれは、人間の「ロボット化」された側面の裏返しでもある。ロデリックの占いマシーンとしてプログラムされた挙動は、元はジプシーの老婆の挙動である。すなわち、人間による占いも、単純で原始的な計算機的な挙動でしかなかったのだ。

 本作ではこうした逆説的な構図が頻発する。虚脱し機械的に口に物を運ぶだけのエンジニア、オカルト的論理にのめり込む大学教授、コンピュータの結果を疑うことなく死者を取り違えて火葬にしてしまう警官等々、単純-複雑=ロボット-人間の原始的な図式では言い表せない実情を、スラデックスラップスティック的な筆致で次々と描いていく。(※ちなみに、スラデックは次作Tik-Tokでも、自動チェスマシーンと化したホームレスと自我のあるロボットという図式を描いている。)

 さて、人間もロボットも、共にアルゴリズムの集合体でしかないとしたら、その差はどこにあるのだろうか? ブログ「The Red Diptych」内の記事「ジョン・スラデック『ロデリック』を読む」では、その差は自然言語を読み込む際のノイズであると論じられている。

howardhoax.blog.fc2.com

 

人間は、言葉を正確に読み取ることができない。大して長くない文章でさえ正確に意味を特定することができず、単純なスペルミスによって単語を取り違え、他人とのやりとりが増えれば増えるほど、勘違いや間違いは雪だるま式に増殖していく。……そして、いかにも人間を人間らしくしているかのように見えていたもの、各個人をして各個人たらしめる個性や特色と見えていたもの、しばしば肯定的だとみなされていた人間社会の価値観とは、膨大な量の自然言語がやり取りされる過程で膨大な量の失敗によって生み出されたノイズでしかない――それこそが、『ロデリック』という小説の根幹を支える認識なのだ。

だから、人工知能として生まれながらも人間の知性を学習しなければならないロデリックの境遇は、根本的なパラドクスの内にある。ロデリックに求められているのは、伝達された言語をその通りに受け取るのではなく、読みそこなうことによってノイズを生み出すことができるようになることだ。……言い換えれば、ロデリックは、失敗することに成功しなければならないのだ。

 ロデリックはロボットである。しかし、人間社会の中で、人間として生きていくことを要請されている。

 ゆえに、ノイズのない知性体でありながら、見えないノイズを感じ取り、感じ取ったふりをし、生きていかねばならないのである。

 そうできない彼に訪れるのは、疎外であり、迫害であり、「異常」という烙印である。

 

ASD的視点とロデリックの世界

 さて、ここまで整理したところで、私にはロデリック的な価値観――見えないノイズを読み取り、読み取れた振りをしなければいけない生き方――にある既視感を抱く。自閉症スペクトラム障害(ASD)、昔の言い方だとアスペルガー障害と呼ばれる人びとのことだ。

 ASD、とりわけ成人ASDでは社会的コミュニケーションの不全や、興味や活動の偏りなどが問題となる。言葉を文字通りに解釈してしまう、社交辞令が理解できない……といった特徴もよく知られている。

 ASD者では「心の理論」が障害されているという仮説がある。「心の理論」とは、「自分自身や他者に心を帰属させるときに各人が持つもの」であり、要するに他人の気持ちを「推論」するための道具立てである。これに関する有名な検査が「サリー-アン問題」だ。

ja.wikipedia.org


 サリーはボールを自分のかごに入れて部屋を出る。アンはバスケットからボールを取り出し、箱の中に入れる。帰ってきたサリーは、ボールをどこに探すだろうか……といった問題であり、ビー玉とかごを使って他者の心の動きを読み取れるかどうかが調べられる。

 健常者であれば、サリーはアンの挙動を知らないのだから、自分が入れたはずのかごの中を探すと回答するだろう……というのが、本検査の主旨である。

 だが、精神科医内海健によると、「サリー-アン問題」で正答とされている「心の理論」=「推論」はむしろASD者的なロジックであって、健常者における心は必ずしも「推論」に依拠していないという。

 

 

「サリー-アン問題」のなかで、心の動きが鋭敏に感じ取られるのは、むしろアンの方ではないだろうか。問題を作成した研究者は気づいていないかもしれないが、われわれは、ボールを移し替える彼女のふるまいの方に人間臭さを感じる。他方、サリーの役割を演じるのは、ロボットであっても別段構わない。特段、心の動きをそこに感じはしない。感じるとすれば、バスケットの中にボールがみあたらないときに示すサリーの反応であろう。だがそれは問題に含まれていない。(内海健自閉症スペクトラムの精神病理』p.18-19)

 健常者であれば、こういった「推論」に頼ることなく、「直感」を通して世界を理解する、と内海は言う。

定型者で作動しているのは「心の理論」ではなく、「心の直感」である。(同書 p.19)

 実際、ASD者であっても、年齢とともにこの「推論」能力を伸ばし、社会適応を図ることはできる。直感がなくとも、ロジックを一から築けば、その直感に近接することは可能なのだ。

 さて、ここで『ロデリック』に戻ろう。ロデリックは自らをロボットである……と信じている。だがこれは裏返せば、自らを人間であるとは信じていない、すなわち自らが人間であることを「直感」していないのだ。だからこそ、彼は自らのアルゴリズムに従って、推論を重ね、人間社会を理解しようとする。

 しかし、彼は決して真なる理解へは到達できない。

 人間が持つノイズ……すなわち「推論」に依拠しないがために巻き起こる誤解を、彼は理解できないのである。これを理解するためには、「人間は必ずしもロジックでは動かない」こと、さらに「ロジックで動かない場合の人間の心」を推論するためのロジックが必要とされる。ロデリックは、人間の根底にある「直感」を「直感」できない。

 この直感を内海は「φ」と名付けている。ブランケンブルク『自明性の喪失』で扱われているアンネ・ラウは、統合失調症圏の患者とみなされているが、発達過程を見るとASDである可能性も決して否定できない。統合失調症とASDの鑑別、ひいては症状としての区別は、今なお問題になっているところである。彼女は「誰もが持っているはずのルール」、すなわち「自明性」が自らには欠けており、だからこそ不安定なのだと述べる。ロデリックも、「φ」ないしは「自明性」が――これら二つは必ずしも同一の概念ではないだろうが――欠如している状態だと言えるだろう。

 

 

 本作の山場の一つである、ロデリックと神父との信仰に関する問答も、ゆえにすれ違い続ける。神の存在はロジックではない。直感できないものに直感を教示しようとする行いの困難さは、察するに余りある。神父がロデリックによる悪意のない論破に辟易し、悪魔信仰へと手を染めかけるのもおおよそ道理だろう。

 また、こうしたロデリック的価値観を「どうしようもなく世界からズレてしまうある存在のあり方」と表現した殊能将之の慧眼は、目を見張るものがある。

スラデックにとってロボットはマイノリティの隠喩なのだろうか。そうであり、同時にそうではない。わたしの印象では、「本物のロボットであること」とは、どうしても世界に違和感を持ち、どうしようもなく世界からズレてしまうある存在のあり方である。それはマイノリティに通底するが、必ずしも一致しない。むしろ「マイノリティだからそういう存在となるのだ」という偏見にすら違和感を持つようなあり方である。孤児や身障者や不法移民であるからといって、必ずしも「本物のロボットである」とはかぎらない。
「本物のロボットであること」とは、実に微妙でとらえがたい存在のあり方である。だからこそスラデックはこれほど長い小説を書いたのだろう。(『殊能将之読書日記2000-2009』p.288-289)

 

 

 ロデリックのあり方は、ASD者のあり方とよく似ている。ここから、ロデリックをASD文学として読むことは可能であろう。私が、『ロデリック』は村田沙耶香コンビニ人間』などの横に並べておくべき作品だ、というのはこういう理由である。

 

間違った筋に従って結果的に正しい結論にたどりつくという事態は、論証としては無価値である。しかし我々人間はまずなによりも、「とにかくそうなってはいるが、どうしてそうなったかはわからない」世界に生きている。限られた時間の中で、確証の得られぬ事柄をとりあえず正しいとしながら進むしかない。(ジョン・スラデック『ロデリック』p.521 円城塔による解説)

 

 

 

 

暴走する論理とSF的想像力

 さて、物語の終盤で、そもそもロデリックを生み出した源泉は、SF小説であったことが明かされる。パルプSF的想像力に囲まれ、育まれたある子どもが、後に研究者となってロデリックを生み出したのだ。
 想像力はノイズ以外の何物でもない。事象から誤った見解を抱き、それを膨らませる。それこそが想像である。
 スラデックは、Roderick 二部作刊行直後のインタビューで、「サイエンス・フィクションは無意味な世界から意味を生み出す方法」と述べている(John Sladek Interview (1982) )。

ansible.uk


 SFに限らず、スラデックは様々な方法で無意味から意味を生み出した。
『ロデリック』作中に含まれている多数の暗号もそうだろう。Aだけが並んだ暗号文から、ロデリックが瞬時に意味のある文章を取り出してみせる下りなどは、その最たる例だ。オカルトや似非科学の類もそうだ。批判し作中でこき下ろすだけでなく、自らもトンデモオカルト本を執筆するまでに至っている。また、彼は『見えないグリーン』などの本格ミステリ作品も執筆している。

 SF、暗号、オカルト、似非科学、ミステリ。これらに共通するもの、それはロジックである。オカルトもSFも、最初の前提から、次々と論理を展開していくことが織りなされていく。その論理の整合性は横に置かれる。あくまでも「推論」することしか人間にはできないのだから。

 そう、想像力とは「直感」ではない。言うなれば、「推論」を重ねていくことによって築き上げられる伽藍なのである。

 逆に言えば、「直感」できないからこそ対償的に鍛え上げられた「推論」が、想像力の重要な源だったのではないか? という仮説を立てることもできるだろう。

 見えないノイズを見るために、新たなノイズを生み出してしまうことで、世界のノイズの総量はますます増加していく。他者とは決して理解できないものであるが、だからこそ人間は理解を志向した……だが、それはますます理解から遠ざかってしまう行いなのかもしれない。だが、それをやめることはできない。

 こうして、スラデックの諸作品から、私は世界を理解しようと渇望するも、決してできないがゆえに暴走する論理の悲哀を、どうしても感じてしまうのである。

 そして、それはそのままロデリックの板挟みの苦しみであり、人間全体が抱える宿痾でもある。ゆえに、スラデック作品は、スラップスティックなおかしさだけでなく、どこか仄暗い悲しみをたたえている……ように、私には思える。

 スラデック作品は「マッドSF」としばしば評されるが、そのmadは無秩序ではない。むしろ秩序だっているからこそ、論理は暴走するのである。そして、論理は必ずしも、暴走したくてしているのではないのだ。

 

おわりに

 以上、『ロデリック』に始まり、スラデック作品における世界認識について、駆け足で振り返ってみた。

 が、まず何より『ロデリック』はコミカルなコミック・ノベル的な魅力の詰まった作品である。こうしたどうでもいい譫言など無視して、妙なパラドックスや混沌とした人間社会の滑稽さを楽しんでほしい。

 また、Tik-Tokは裏『ロデリック』とでも言うべき作品で、無垢な存在として描かれたロデリックとは対称的に、人殺しサイコロボットと化した主人公の暴走っぷりがいい作品なので、ぜひ邦訳されてほしい。

 とはいえ、まずはRoderick二部作の残り、『ロデリック・アト・ランダム』が出ないことには始まらないが……。「すれっからしのSFマニア」以外にも、スラデック作品の魅力が伝わる世の中になればよいな、と思う所存である。