機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

リシャルト・カプシチンスキ『黒檀』

 

 

 

 ルポルタージュは文学か、と聞かれたらおそらくそうなのだろうと思うのだが、これまでの世界文学全集でそれに類したものが収録されていたという話は、不思議とあまり聞かない。本書は二〇世紀のポーランドを代表するジャーナリストによって書かれたルポルタージュ作品であり、これを入れただけでも編者・池澤夏樹の慧眼は評価されるべきであろう。

 本書の題材となるのはアフリカだ。一九五八年のガーナを嚆矢とし、ウガンダケニア、ナイジェリア、エチオピアカメルーンなど、各国で筆者カプシチンスキが体験したアフリカの諸事情や出来事などが、臨場感ある筆致で語られていく。

「バスはいつ出るの?」「満員になったらに決まってる」という運転手とのやり取りから、ヨーロッパ的な時間の観念とアフリカのそれとを比較したり、氏族の掟とタブーについて聞き込みを行ったりする辺りはいかにも文化人類学的で手垢の付いた議論に思えるが、本書の面白さはそれぞれにちりばめられた挿話のユニークさによるところが大きい。

 妖術師の存在の真偽について尋ねる語り手と、「妖術師は家の戸口に蜘蛛の巣の糸を貼り付けていて、朝になって誰かが戸を開けるとそれを合図に闇に消える」と返す氏族の老婆。象牙目当ての白人には決して知り得ない、死にゆく象が沈んでいく沼。ひっきりなしに空き巣に入られていた宿にこれを飾るとぴたりと物盗りがこなくなった、あるムスリムの男に薦められた市場で売られていた雄鶏の白い羽の束。

 いずれもアフリカの土着的な色の濃いエピソードで、「アフリカン・マジックリアリズム」と一言に言ってしまいたくなる。そんな奇想天外な世界を紡ぐエピソード群が、カプシチンスキの縦横無尽な語りから繰り広げられるさまは圧巻だ。

 無論、そんな愉快な話ばかりというわけにはいかない。いままさにクーデターが起こった国で政変をレポしたり、冷たい人種差別の実態を語ったり、ルワンダ大虐殺に関しては一章をまるまる費やして解説されていたりもする。二〇世紀のアフリカの歴史は、争いの歴史でもあるのだ。

 こうした断片を通して浮かび上がるのは、アフリカという大陸の多様性とその果てしなさだ。無限の部族とそれにともなう多様な価値観、そのぶつかり合いのダイナミクスを、カプシチンスキは身をもって体験し、それを克明に記録して伝えようとしている。マラリアに罹患し高熱に苦しみながらも、あるいは銃撃に遭いながらも、またあるいはコブラに襲われながらも、決してめげずに取材を続行しようとする姿勢からは、彼のジャーナリストとしての覚悟のあらわれがうかがえる。

 決しておもねらず、かといって高みの見物をするのでもない、フラットな視線で眺められたからこそ浮き彫りになる、アフリカのありのままの姿が本書には描き出されている。こう言ってしまってもいいだろう——ルポルタージュだからこそ描き出せる世界がここにある。

 これもまた〈世界文学〉なのだと、読み終えたあと深くうなずくこと間違いなしの傑作だ。

Jorge Luis Borges "La memoria de Shakespeare" 解説

 

 

ホルヘ・ルイス・ボルヘス唯一の未訳短篇「シェイクスピアの記憶」邦訳という嬉しい知らせを聞いたので公開。某所で書いた「シェイクスピアの記憶」解説原稿である。

短編の書誌情報的な話に関しては、過去記事を参照のこと。

hanfpen.hatenablog.com

 

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 さて、本作は、Jorge Luis Borges "La memoria de Shakespeare"の邦訳……と言いたいのだが、実際にはその英訳である"Shakespeare's Memory" の邦訳である。つまり、英語からの重訳であることに留意されたい。

 ただし、そもそも本作の初出媒体は『タイムズ』紙であり、世に出た時既に英訳された状態であったことは、特筆しておくべき事柄であろう(当時の翻訳者はディ=ジョヴァンニ)。

 その後、一九八六年にロンドンのコンスタブル社から出版された "Winter's Tales 2"なるシェイクスピアテーマ(と思しき)アンソロジーに収録されたのち、一九八九年刊行のボルヘス全集に収録され、云々……といった入り組んだ経緯については、『カモガワGブックスVol.2 英米文学特集』(カモガワ編集室)所収の論考を参照のこと。

 今回の翻訳の底本には、Penguin Classicsシリーズの中の"The Book of Sand and Shakespeare's Memory"を使用している。翻訳者はアンドリュー・ハーレィ。

 翻訳の雰囲気については、既存の鼓直訳や年代の近い篠田一士訳(『砂の本』)を参考にした、と翻訳担当者から聞いている。ボルヘス自身は自作の翻訳についてどう思っていたのかというと、

 

G・C——あなたの作品が訳された国語のすべてにわたって、幸いにして翻訳がうまくなされているとお思いですか?

J・L・B——いつもそうだというわけではありません。英語やドイツ語の翻訳を読んでおりまして、ちょっとした困難、困惑とでも言うべきものを感じました。英語は二つの音域をそなえています。ゲルマン系の言葉とラテン系の言葉を含んでいるのです。スペイン語のテキストを英語に翻訳なさる方は、敬意を表して、ラテン系の言葉を用いて訳そうとするのです。そのため翻訳がいくぶんペダンチックになることがあるのです。

 

と、一九六五年のラジオインタビューで語っている。自身で翻訳を手掛けることもあったボルヘス(何しろ、弱冠十歳の時にワイルド「幸福な王子」をスペイン語に訳し、新聞に掲載された人である)からすれば、英訳からの重訳などナンセンスかもしれないが、ここは「異本」の一つとしてご寛恕願おう。

 さて、本作はボルヘス最晩年の作であり、既に視力を失った後の作品であるため、『伝奇集』『アレフ』の時代のような濃密な文体でもないし、ある種力の抜けた、理解の易い作品ではないか……と思うのだが、そこはボルヘスのことなので油断できない。

 最近ボルヘスの新訳に取り組んでいる西崎憲のnote「ホルヘ・ルイス・ボルヘスをほどく われわれはどのように読みそこねてきたか」https://note.com/kioku_to_onsoku/n/n92cbb72b702eでは、既存の訳の比較および語源や本来の文意を尊重した新訳の提案がなされているのだが、それを読んでいると、原語で読んでいても汲み損ねるニュアンスがちりばめられていることを改めて思い知らされる。

 また、『エル・アレフ』『ボルヘス・エッセイ集』などの訳者である木村榮一は、ボルヘスの短編「アレフ」について「いろいろといじっていると、どこをどう押しても何か出てくるんですよ」と語り、ボルヘス作品の形而上学幻想文学としての読解を否定し、聖性の追求を描いたコスモロジーとして捉える解釈を試みている(『幻想文学』59号 特集=ボルヘスラテンアメリカ幻想)。身も蓋もないが、やはり、ボルヘスを真に読み解こうとするには、英訳からの重訳では足りないのではないか。

 今回、解説の執筆にあたって、ボルヘスの著作からシェイクスピア関連の記述を探して付箋を貼る、ということをしてみたのだが、探せば探すだけ出てくるわ、記憶テーマにまで範囲を広げるともっと出てくるわで、木村氏の「どこをどう押しても何か出てくる」という言葉を、黄色い付箋の山に埋もれながら、しかも日本語を通してではあるものの、改めて実感した次第である。

 とはいえ、その中でも、『創造者』所収の「Everything and Nothing——全と無」は相当怪しいと思うのだが、これについて真面目に論じ始めると日が暮れても暮れ切らないので、できれば本職の文学者、ボルヘス研究者ならびにシェイクスピア研究者に任せたいところではある。一応、怪しいところの引用だけはしておく。

 

(引用者注・シェイクスピアの台詞)「わたくしは、これまで空しく多くの人間を演じてきましたが、今やただ一人の人間、わたくし自身でありたいと思っております」。すると、つむじ巻く風のなかから神の御声が答えたという。「わたしもまた、わたしではない。シェイクスピアよ、お前がその作品を夢見たように、わたしも世界を夢みた。わたしの夢に現われるさまざまな形象のなかに、確かにお前もある。お前はわたしと同様、多くの人間でありながら何者でもないのだ」

 

 ちなみに、この下りは旧約聖書中の神とモーセのやりとりが下敷きになっているとのこと。

 その他、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」内の「交合のめくるめく瞬間にあるすべての男は、おなじ男である、シェイクスピアの一行をくりかえすすべての男は、まさにウィリアム・シェイクスピアである、と。」という一節と、「永遠の歴史」内の一節「永遠は時間という実体によって作られた似像である」を組み合わせることで、あるいは「アル・ムターシムを求めて」で描かれる探索者と被探索者の循環・自己増殖性から、ボルヘス的な迷宮、永遠と自己増殖による連続的時間の否定へと、論を進めることもできるだろう。だがそれは別の機会に譲ることとする。 

 何はともあれ、ボルヘス生涯最後の作品が日本語で読めないという現在の事態は、アルゼンチンが生んだ20世紀最大の作家にはおおよそ相応しくないものと感じていたため、今回かなりグレーな形とはいえ、訳出の機会を設けられたことは、ボルヘス・ファンの一人として喜ばしい限りだ。

 読者諸賢にあたっては、本作の読解を通してボルヘスのさらなる魅力を感じて頂くとともに、本作の原語からの翻訳の機会を何卒望んで頂けると、我々としても幸いである。

 

(解説文責:桃山千里&鯨井久志)

ミルチャ・エリアーデ『マイトレイ』

 

 

 

 ミルチャ・エリアーデといえば、ルーマニア出身の二〇世紀を代表する宗教学者にして、傑作『ムントゥリャサ通りで』(法政大学出版局)に代表される幻想小説の優れた書き手でもある。そんな彼の作品を収録するにあたって、幻想文学じゃなくて恋愛ものの『マイトレイ』だなんてどういう訳だい池澤なっちゃんよォ、と思わなくもなかった。が、読み終わった後、平伏した。傑作である。

 舞台はインド・カルカッタ。留学で訪れたルーマニア人の青年は、寄宿先の技師の娘であるベンガル人のマイトレイと出会う。娘からベンガル語を、青年からは英語を教え合うなかで、彼らは惹かれ合う。だが宗教的な価値観や西欧とインドとの文化の差異が彼らは引き裂く。結局この恋は父親である技師の知るところとなり、青年は寄宿先を追い出され、娘は断ち切れぬ思いを心に秘めかね、自ら家を放逐されんとして無謀な行いに出る。手引きしてくれた親類の自殺、マイトレイ自身の破滅が示唆され、悲劇とともに物語は終わる。

 身分違いの恋愛からの破局といえば『ロミオとジュリエット』然り、いまやありふれた筋書きである。だが、要約すればこうした単なる悲哀の恋物語の類型となってしまう本作を傑作たらしめているのは、主人公の一貫した西欧的知性だ。一人称で語られ続ける主人公の経歴は、エリアーデ自身のそれとも重なる。カースト制度に縛られたインドの家庭では、西洋人との婚姻には大きな障害がある。だけれども、それから逃れようとするマイトレイ自身の思いと、当初は植民地を訪れる西洋人的な価値観に縛られていた青年の価値観が恋愛とともに変容していくさまが、知的かつ繊細な筆致で描かれていく。ここに旧来の価値観と新しい価値観、そして西洋的価値観と第三世界的な価値観の融合と乗り越え、そしてその挫折がある。それを若き知性エリアーデの明晰かつそれでも抑制できない情熱的な筆致で描かれた本作は、二〇世紀初頭のインドでしか生まれ得なかった歴史と文化の証明でもあり、変容を遂げていった現代の価値観の変遷を反映した世界文学でもある。

 二〇〇ページあまりの短さでもありながら濃厚な性愛と引き裂かれる若き男女の悲哀に満ちた本作は、ある意味日本の私小説的な文学でもあるが、普遍性と歴史的な重みとをともに携えた傑作であると言えよう。

 なお、本作には後年、マイトレイ側から見た顛末を描いた作品が、マイトレイのモデルとなった女性(後年詩人となった)によって後年執筆されている(『愛は死なず』、未訳)。このことからも分かる通り、男性側から/西洋側からの一人称で描かれていることから覆い隠されてしまっている事実も多々あることは予想される。できればこのマイトレイ側からの作品も邦訳されて、カップリングされた形で真の『マイトレイ』を読みたいところはある。河出書房新社さん、よろしくお願いいたします。

ウラジミール・ナボコフ『賜物』

 

 

 

 ナボコフを読む時はいつも敗北主義的というか、負け腰になってしまう。凝りに凝った文体、さりげないほのめかし、言葉の魔術師の異名をひけらかすかのような言葉遊び……。そして、一読しただけでは決して分からないような、文と文の間に織り込まれた、タペストリーのような豊潤な詩的言語。凡人たる自分の読みではたどり着けない知的迷宮をナボコフは、挑むでもなし、そっとテキストという形で目の前に置いていく。そこにはもはや分からなくて悔しい、という気持ちはない。抜群の腕を持つ奇術師の業を目前にして、タネも分からぬまま驚嘆の声を上げることしかできないのだ。いや、悔しくないわけではない。しかし、どうすることもできないのだ。それを乗り越えるためには再読を試みるしかなく、それすらもナボコフの手の内だということにすぐ気付かされ、苦笑と無力感とを引き起こす。ナボコフは罪深い男だ。

『賜物』はナボコフがロシア語で書いた最後の作品であり、彼のロシア時代を総決算するような大作に仕上がっている。筋書きとしてはそう難しくはない。舞台は二〇世紀初頭のベルリン。詩人である主人公は処女詩集を出したばかりの新人で、彼が詩作をこなすなかである女性と出会い、偶然見つけた資料から十九世紀のロシア人思想家の伝記を書くことを思い付き、実際に執筆、発表に至るまでの顛末が描かれる。

 だが、他のナボコフ作品と同様、あらすじをまとめることに本質はさほど宿らない。探検家であり、鱗翅類(蝶や蛾)を専門とする学者でありながら、中央アジアへの探検で消息を絶った父親との思い出の回想。第四章をそのまま主人公が執筆した伝記の記述に当てる大胆な構成(非実在の人物の伝記を実在の人物が書く、あるいは非実在の人物の伝記を非実在の人物が書く、実在の人物の伝記を実在の人物が書く(これは単なる伝記文学)という三パターンはあり得ても、本作のように「実在の人物の伝記を非実在の人物が書く」という構造はなかなかないものだろう)。ロシア文学、特に詩の韻律についてのおびただしい言及。そしてナボコフ本人は後年否定しているものの、亡命ロシア人である主人公とナボコフ本人との重ね合わせ。こうした多層的な断片を織り交ぜながら、あの例の記憶のひだを撫でるようなナボコフの文体で、物語は語られていく。主人公は作中でこう語る。自伝を書くための準備として、翻訳をしようと思っている。言葉たちを完全に隷属させるために……。ロシア語と英語を自在に操ったナボコフは、言葉を完全に隷属させていたからこそ、かのような絢爛たるタペストリーを織ってみせたのだ。また、別の箇所ではこうも語る。「もしもぼくが素晴らしい作品を書いたとしたら、ぼくが感謝すべきはあなた(=批評家)ではなくて、僕自身でしょう」。題名にもなっている「賜物〈ギフト〉」とは、天から賦与された才能のことであり、たびたび主人公が詩人との会話を幻視するそのある種の「能力」のことでもある。本書はナボコフの芸術家小説であると同時に、芸術の称揚、現実をも凌駕しうる虚構への讃歌でもある。

 最後に翻訳について一言。本書は大津栄一郎氏による英訳からの翻訳があったが、今回収録されたのは沼野充義氏によるロシア語からの翻訳である。大津訳は若島正氏に批判され、その後論争を引き起こした曰く付きのものだが、今回の沼野訳では若島氏が指摘した箇所が見事に綺麗に処理されている。その辺りの違いを読み解くのも面白いだろう。詳しくは若島正ナボコフと翻訳」(『乱視読者の冒険』、自由国民社)を参照のこと。

 

※『乱視読者の新冒険』の方には入ってないので要注意。

 

 

 

短篇コレクションⅠ

 

 

 

 実に周到なアンソロジーである。マジックリアリズムも、ポストコロニアリズムも、フェミニズムも、あるいはジャンルSFも、おおよそ「世界文学全集」を名乗る叢書に対して不足を投げかけられうるパッケージングの作品を、そんな反応を予期していたかのように本書は収録している。詩がないのでは? という声に対しても、ブローティガンの家のものを詩に置き換えていくという奇想短編で応えているあたり、池澤夏樹アンソロジストとしての腕は冴え渡っている。

 そんな計算も垣間見えながらも、一冊を通して浮かび上がるのは「死」を描いた作品の多さだ。昔、あるホラー作家が自作中で「人が死ねばどうやったってドラマは生まれる」と自嘲的に書いていたけれど、生まれるドラマをどう処理するかが作家の技量であり、作品の評価を左右する点であることは間違いない。例えば、病気の夫と、それを看病する妻と弟が教会へ向かう巡礼を描いたフアン・ルルフォ「タルパ」。結局夫は死んでしまうのだけれど、そこに描かれる死の残酷さと直視しがたい、しかし誰にでも訪れる汚さのリアリティ、そしてその死を悼む肉親の心情の描き方が本作を傑作たらしめている。ガッサーン・カナファーニー「ラムレの証言」もそうだ。イスラエル軍に妻と娘を殺された老人、そしてそれを目撃した少年。老人の最期と、そこで起こった一瞬の視線の逡巡が、悲劇と復讐の連鎖を示唆して物語は終わる。パレスチナ出身の作家・ジャーナリストであり、自らも爆殺されてしまった作者による作品であることを考えると、本作が呼び起こす感傷の飛距離は並大抵の長編よりもずっと遠い。レイモンド・カーヴァー「ささやかだけれど、役にたつこと」では、危篤に陥った息子とその回復を信じる夫婦の姿が描かれる。一方、ケーキの予約を反故にされた独り身のパン屋のおやじも、同じ現実を生きている。対立を経て、暖かな和解を遂げる両者のあいだには、死ぬこと、先立たれること、そういったすべての人間に等しく起こりうる悲しさと、それでも人生は続くこと、生きていくことへのある種の諦念がある。

 一方で、人以外の生き物の死も描かれる。オクタビオ・パス「波との生活」は波を恋人とする異類婚姻譚の名作だが、最後に描かれるのは波の「死」だ。アリステア・マクラウド「冬の犬」では、少年が流氷遊びのさなか溺れ死にかけるのを、まるで言葉が通じるかのように救う犬の姿が描かれるが、彼も最後には隣人の手によって射殺されてしまう。

 そんな死の匂いを濃厚に感じさせる本書において、目取真俊「面影と連れて」が末尾に置かれているのは、ある種の救いなのかもしれない。琉球弁のひとり語りで描かれる、ある女の人生。死者の魂が見える語り手は、社会から疎外されながらも生きていく。そんななか、恋人になった青年はある日姿を消す。政治犯として検挙され、沖縄へ来たのも犯行現場の下見だったことが判明するも、女は官憲の取り調べに口を割らない。強姦された語り手は、青年の凄惨な死体を幻視し、自らも魂となることを選ぶ。政治に翻弄される戦後の沖縄を隠喩として潜ませながらも、死者との交流を描く幻想小説しても読める本作は、まぎれもない傑作と言えよう。 

テッド・チャン「AIは新たなマッキンゼーとなるか?」(エッセイ)レジュメ

某所で翻訳の話が進んでいたものの、版権料の折り合いがつかず流れてしまった企画のレジュメ。テッド・チャンがニューヨーカー誌に載せたAIと資本主義に関するエッセイ。興味のある関係各位はご連絡を。

 

www.newyorker.com

 

AIは新たなマッキンゼーとなるか? テッド・チャン

 

要約:

 AIについて議論する時には比喩が用いられがちだが、寓意を捉えそこねた悪い比喩が使われることが多い。そこで筆者はAI=マッキンゼーのようなコンサル企業、という新たな比喩を提案する。AIとマッキンゼーの類似点を挙げていく中で、筆者はAIが資本主義の加速のために使われてしまう危険性を指摘する。コンサル企業があくまで企業の利益のみに与し、労働者の利益を推進することがないのと同様に、AIもまた企業の利益のみに利用され、富の集中を招く結果になりかねないというのである。

 AI研究者が現在向かう先は、資本主義の崩壊までの加速(=加速主義の助長)であり、それはドナルド・トランプに投票するのと大差がない。AIが人類に危険をもたらすのだとすれば、それは反逆などではなく、AIによって超高速化された企業が株価の追求のために環境と労働者階級を破壊することである。今日ではテクノロジーと資本主義が混同され、資本主義の批判はテクノロジーの進歩を批判するのと同等だと受け取られてしまう。しかし、進歩とは働く人々の生活を向上させることで、株主の銀行口座額を増やすことではない。われわれは「ラッダイト」(反テクノロジーではなく、経済的正義を目指す立場)にならなければならない。テクノロジーの進歩に反対するのではなく、テクノロジーの有害な使用に反対すべきなのである。

 テクノロジーが生活水準を向上させる唯一の方法は、テクノロジーの恩恵を適切に分配する経済政策がある場合のみである。過去40年間、アメリカはそのような政策をとってこなかった。AIは人件費を削減し、企業の利益を増加させるだろうが、それはわれわれの生活水準を向上させることとはまったく異なるのだ。

 AIの開発者は、富の不平等や資本主義の改善といった難題から目をそらすことなく、批判的な自己点検に務めるべきである。AIが良い世界をもたらすか、悪い世界をもたらすかを決めるのは、そうした開発者たちが自らの役割を冷静に見つめる意欲に他ならない。

 

コメント:

あなたの人生の物語』『息吹』といった作品で世界的に著名なSF作家テッド・チャンによるエッセイ。SF小説でありがちな2パターン――「AI=人間の生活を向上させるもの」(善玉説)あるいは「AI=人間を超えて反逆し、世界の脅威となる可能性のあるもの」(悪玉説)――という二分を脱し、現実的な目線で、AIがもたらしうる世界のかたちとその危険性について論じている。

 テック的な楽天的な視線ではなく、かといって過剰にテクノロジーを恐れ脱テクノロジーを声高に論ずるのでもなく、「有害なテクノロジーの使用」という危険性を、現実のコンサルティング企業の資本主義的なevilさと絡めて示す点で、堅実でありかつ目新しい論説となっている。また、世界のSF作家の中でもトップランナーといってもいい立場のテッド・チャンからこうした論説が出てくるという点でも、今後の未来予測的観点、あるいはSF小説/文学のリアリティという意味で重要な論説であると考えられる。

 


試訳:

 現在想像されているように、このテクノロジーは富を集中させ、労働者の権限を奪うかもしれない。そうならない道はあるのだろうか?

 人工知能について論じるとき、わたしたちは比喩に頼る。新しいもの、馴染みのないものを扱うときにいつもそうするように。比喩はその性質上不十分なものであり、それどころか、慎重に選択する必要がある。悪い比喩はわたしたちを誤った方向に導くからだ。たとえば、強力なAIをおとぎ話に出てくる精霊で喩えることは実にありふれている。コンピューター科学者のスチュアート・ラッセルは、ミダス王の寓話(触るものをみな黄金に変えてしまう)を引用し、AIが人の望むようにではななく、人の言うとおりに動くことの危険性を説明している。この比喩には複数の問題があるが、そのうちのひとつは、参照した物語から間違った教訓を導き出していることだ。ミダス王の寓話の要点は、強欲は人を破滅させ、富の追求は本当に大切なものすべてを犠牲にするということである。もしこの寓話を、神から望みのものを授かったのなら、その望みのものはとてもとても慎重に持て囃すべきなのだ、というふうに読むのであれば、それは的を外している。
 そこで、人工知能の危険性について別の比喩を提案したい。AIをマッキンゼー・アンド・カンパニーのような経営コンサルティング会社として考えてみるのはどうだろうか。マッキンゼーのような会社は様々な理由で雇われるものであり、AIシステムも色々な理由で使われる。しかし、マッキンゼー――『Fortune 100』に選ばれた9割の会社と仕事をするコンサルティング会社――とAIの類似点も明らかだ。ソーシャルメディア企業は、ユーザーをフィードに釘付けにするために、機械学習を利用している。同じように、パデュー・ファーマ[#訳注 アメリカの薬品メーカー]は、オピオイドの蔓延期にオキシコンチンの売上を「急増」させる方法を見つけ出すために、マッキンゼーを利用した。AIが人間の労働者に代わる安価な代替品を経営者に提供することを請け合ったように、マッキンゼーやその他同様の企業は、株価や役員報酬を上げる方法として大量解雇の実施を常態化させ、アメリカの中産階級を破壊することに貢献した。

【告知】SFマガジン10月号に短編の翻訳が掲載されました

www.hayakawabooks.com

 

SFマガジン2023年10月号に、拙訳のM・ショウ「孤独の治療法」が掲載されております。M・ショウはこれが本邦初訳の作家です。

今回は作品の選定段階からお任せされたこともあって、ノリノリで自分の好きな短編を訳すことができました。パンデミック下の孤独をテーマにした、植物ホラーSFです。うにゃうにゃな感じの女性の一人称語りがよいです。お読みになった方ならわかるかも知れませんが、渡辺佐智江訳の影響大。

SFマガジンに短編の翻訳を載せていただいたのも今回が初。思えば遠くへ来たものだ……。

ぜひご一読を。