機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

【告知】紙魚の手帖 vol.12 AUGUST 2023 に翻訳SFのレビューを書きました

www.tsogen.co.jp

 

8月12日発売の紙魚の手帖 vol.12(東京創元社)に翻訳SFのレビューを書きました。

今回は「夏のSF特集号」ということで、以前刊行されていた書き下ろしSFアンソロジーGENESIS』と合流する形で、SF中心の誌面になっています。

国内SFのブックレビューを作家・評論家の渡邊利道さんが担当されていて、鯨井は翻訳SFの担当です。去年の冬から今年の初夏にかけて刊行された作品でおすすめのものを紹介しています。

紹介した作品は以下の通り。

新刊SFのレビューって実はあまりやったことがなく、本当に書けるのか不安で冷や汗をかきながらの紹介でしたが、編集者の方たちのサポートもあって何とか形にできたと思います。巻末の寄稿者紹介では、今月末に出るジョン・スラデック『チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク』にも触れてもらえてありがたかったです。こちらもぜひよろしく。

 

 

 

ヴァージニア・ウルフ「フィクションにおける超自然」(エッセイ)

ヴァージニア・ウルフによる怪談、というかフィクションにおける超自然的存在の描き方に関するエッセイ。

エッセイ・評論集"Granite and Rainbow"に収録されているが、テキストには"Collected Essays Volume Ⅰ"(A CHATTO & WINDUS PAPERBACK)を使用した。

フィクションにおける超自然

 ミス・スカボローが、フィクションにおける超自然についての調査結果を「網羅的というよりは示唆的なもの」と記述しているが、超自然についての議論においては、科学的な試みよりも示唆の方がおそらく有益であろうことを付け加えておく。文学における超自然について、日付が示す以上の体系も理論もなく、さまざまな事例をひとまとめにすることは、自由が特別な価値を持つ場所において、読者を自由にしてしまう。おそらく、スカボローの記述で言及されている幽霊や精神の異常な状態(精神の異常な状態に関する話は、厳密には超自然的なものに含まれるからである)に関する何百もの話の下には、何らかの心理学的法則が隠されているのだろう。超自然的現象に関する物語に人間の本性が喜びを感じることを示す証拠がこれだけあるのだから、この興味は書き手と読み手の双方に何を意味するのだろうかと疑問を抱くのは必然だろう。

 第一に、怪談を愛するあまりに、恐怖を感じるという快感を求める人間の奇妙な渇望を、どう説明すればいいのだろうか? 自分には何の危険もないと自覚しているときに恐怖を感じるのは心地よいことであり、二四時間のうち二三時間は通過不可能な障壁を突き破ることのできる精神の能力に自身が抱けるのはさらに心地よいことである。肉体的な苦痛や恐ろしい騒動を予感させるむきだしの恐怖は、品位に欠け、士気を低下させる感覚である。その一方、恐怖を使いこなすことは、立派な勇気の仮面を作り出すだけであり、それは他人に押しつけることはあれど、自分自身にとってはたいした関心事ではない。しかし、超自然的な怪談を読むことで得られる恐怖は、洗練され精神化された恐怖の本質である。それこそが、私たちが吟味し、弄ぶことのできる恐怖なのである。怪談に怯える自分を軽蔑するどころか、この感性を証明できたことを誇りに思い、おそらく無意識のうちに、非合法なものとして扱われがちなある種の本能を合法的に満足させる機会を歓迎しているのである。文学における超自然的なものへの渇望が、十八世紀には思想における合理主義の時代と重なっていたことは注目に値する。まるで人間の本能をある地点で堰き止める効果が、別の地点で溢れ出たかのようだ。ミセス・ラドクリフの著作がその水路として選ばれたとき、そのような本能は確かに氾濫していた。彼女の描く幽霊や廃墟は、超自然的なものを誇張するとすぐに待ち受け、畏敬の念を嘲笑に代えてしまう運命に長い間苦しめられてきた。しかし、私たちは役目を終えた想像上のシンボルをすぐに捨ててしまうが、その欲望は消えないままだ。ミセス・ラドクリフは消えても、超自然的なものへの渇望は消えない。詩には超自然的な要素がつきものであるため、人はそれを芸術の通常の構造の一部とみなすようになった。しかし、詩においては、超自然的な要素はエーテル化されているため、恐怖のような粗大な感情を引き起こすことはほとんどない。コールリッジの詩『老水夫行』を読んだあと、暗い通路を歩くのを怖がる人はいなかった。むしろ、どんな幽霊が訪ねてくるかもしれないので、思い切って出かけてみようと思ったものだ。おそらく、恐怖を生み出すにはある程度のリアリティが必要であり、リアリティは散文によって伝えられるのが最適なのだろう。確かに、最も優れた怪談のひとつであるサー・ウォルター・スコットの『レッドゴーントレット』Redgauntlet の『さまよえるウィリーの物語』Wandering Willie's Tale は、その舞台の家庭的な真実性が引き立っており、スコッチ方言の使用もその一因となっている。主人公は実在の人物であり、国土は限りなく堅固である。そして緑と灰色の風景の中に突然、死んだ罪人たちが宴会をしているレッドゴーントレット城の真紅の姿が明瞭に現れる。

 スコットの卓越した才能は、超自然の流行がどう変わろうとも、この物語を不滅のものにするはずの功績をここに達成した。スティーニー・スティーンソン自身があまりにもリアルであり、彼の幻影に対する信念があまりにも鮮明であるため、私たちは彼の恐怖を知覚することによって恐怖を感じるのだが、物語それ自体は私たちが怖がらなくなった種類のものである。実際、死者が酒を酌み交わす光景は、今ではユーモラスでロマンチック、あるいは愛国的な精神として扱われるだろう。しかし、私たちの肉体を這わせることはほとんど期待できない。そのためには、作者は方向を変えなければならない。死者の幽霊によってではなく、自分自身の中に生きている幽霊によって私たちを怖がらせようとしなければならないのだ。ミス・スカボローが証言しているように、近年、心理的な怪談が非常に増えているのは、私たちが自分自身の幽霊性の感覚を、より早く感じていることを物語っている。理性の時代は、人間の魂に超自然的なものを求める時代に引き継がれ、精神の研究の発展は、この欲望の糧となる議論の余地のある事実の基礎を提供する。ヘンリー・ジェイムズは『ねじの回転』を書く前、「良い怪談、本当に効果的な怪談、心を震わせる怪談(大雑把にそう呼ぶ)は、すべて語り尽くされてしまったようだ。……新しいタイプの、実に単なる現代的な「精神の事件」は、流れる実験室の蛇口にさらされているように、すべての奇妙さをきれいに洗い流されている。新しいタイプは、明らかにほとんど期待できない」と述べている。しかし、『ねじの回転』以来、そして間違いなくその傑作に負うところが大きいのだが、新しいタイプは、「親愛なる古き聖なる恐怖」とまではいかなくても、非常に効果的な現代的読者を奮い立たせることによって、その存在を正当化してきた。我々の祖先が『ユードルフォの秘密』を読んだときに何を感じたかを推測したければ、『ねじの回転』を読むよりほかにない。実験によれば、新しい恐怖は、髪の逆だち、瞳孔の散大、筋肉の硬直、音や動きの知覚の鋭敏化といった身体感覚をもたらす点で、古い恐怖に似ている。しかし、私たちが恐れているものとは一体何なのだろう? 私たちは廃墟や月明かりや幽霊を恐れているのではない。たしかに、クイントやミス・ジェッセルが幽霊であることを知れば安心するはずだが、彼らには幽霊のような実体も独立した存在もない。この忌まわしい生き物は、幽霊がそうであったように、私たちにとってずっと身近な存在なのだ。家庭教師は幽霊に怯えるのではなく、自分の知覚の範囲が突然広がることに怯えるのだ。この場合、知覚の範囲が突然拡大し、言いようのない邪悪なものが彼女の周囲に存在していることが明らかになる。人影の出現は、それ自体が特別に憂慮すべきものではないが、深遠に神秘的で恐ろしい精神の状態を示している。それは精神の状態であり、外的なものでさえ、その支配下にあることを示す。このような状態の到来には、古いロマンスにあるような嵐や遠吠えではなく、自然の絶対的な静寂と空白が先立ち、それは彼女自身の心の不吉なトランス状態を表しているように感じられる。「金色の空で雄鶏の鳴き声が止み、心地よい夕暮れの時間が、言いようのないほど長い間、その声を失った」。この物語の恐ろしさは、私たちの心がこのような暗闇への逃避に対して持っている力を実感させる力から来るものだ。明かりが弱まったり、障壁が低くなったりすると、心の亡霊、追跡できない欲望、不明瞭な予感が、大集団であることが分かってくるのだ。

 スコットやヘンリー・ジェイムズのような巨匠の手にかかると、超自然的なものが自然に溶け込み、恐怖が危険な誇張から単純な嫌悪や嘲笑に近接した不信に抑えられる。ミスター・キプリングの「獣の痕跡」や「イムレイの帰還」は、その恐ろしさで人を撃退するには十分な力を持っているが、私たちの驚きの感覚に訴えかけるにはあまりに暴力的である。というのも、超自然的なフィクションが常に恐怖を生み出そうとしているとか、最高の怪談とは異常な精神状態を最も正確かつ医学的に描写したものだと考えるのは間違いだからだ。それどころか、私たちが目を閉じている世界は、私たちが現実の世界だと思い続けている世界よりも、ずっと親しみやすく魅力的で、昼は美しく、夜は神聖であることを、散文と詩の両方で膨大な量のフィクションが保証している。この国にはニンフやドライアドが住んでおり、パンは死んだどころか、イングランドの村々でいたずらをしている。このような神話の多くは、それ自体が目的ではなく、風刺や寓話のために使われている。しかし、そのようなまぜ物なしに、目に見えないものの感覚を持つ作家たちがいる。そのような感覚は、妖精や幻影の幻視をもたらすかもしれないし、あるいは人間と植物、家とその住人、あるいは私たちが何らかの形で自分自身と他の物体との間に紡いでいる無数の同盟関係のいずれかに存在する知覚を早めることにつながるかもしれない。

(タイムズ・リテラリー・サプリメント 一九一八年一月三一日号)

 

 

 

2023年上半期面白かったお笑いのネタ10選

今年から足しげくライブに通うようになって、いろいろと生でネタを見る機会も増えたので、自分のための備忘録も兼ねて10選を選んでみました。順不同。ネタバレはしないようにしております。

 

十九人「寿司屋」

いま一番シーンで熱い男女コンビと言っても過言ではない十九人。ボケのゆッちゃんwの狂気的なパフォーマンスと、それを見守りつつも振り回されるツッコミの松永くんのコンビネーションが唯一無二のグルーブ感を生み出す期待株。

どのネタもだいたい面白いが、メタ的な構造でありながらそれを一切感じさせないまま走り続けるゆッちゃんwの演者としての力と、オチ周辺の「仕掛け」(動き、と言ったほうがいいかな?)がインパクト大なのでこれを。

初見の人にはYou Tubeに上がってる「ツチノコ」か「ワニさんのベンチ」がおすすめ。


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5月にあったK-PRO協賛の主催ライブ「十九人のブレナイ」は出演する他の芸人も含めて、十九人の集大成的なライブで、今年一番よかった。

ダウ90000「バー」

男女混成の8人組という異色の構成で、昨年のABCお笑いグランプリではコントなのか演劇なのか論争を一部で巻き起こした大注目のコントグループ。

日常の些細な振る舞いを切り取り、そこから細かい変化を付けつつ大きな笑いのうねりを作りだしていく作劇術は、他に類を見ない美しさ。その中でも「バー」のネタは、本演劇公演『また点滅に戻るだけ』でもフィーチャーされた「何気ない癖」に着目したネタ。6月のグレイモヤ大阪の大トリで掛かっているのを見たが、その日一のウケだった。

街裏ぴんく「あとひとおし」

どこまで行っても虚構でしかないウソ話を、いかにも見てきたような迫真の語り口で演じる奇才漫談家街裏ぴんく。その語り/騙りのテクニックは、大汗をかきながら全力で演じる姿を生で見るともう迫力満点。絶対に売れるべきだし、奇想小説ファンの方面にも見つかってほしい芸人のひとり。

「あとひとおし」は、突如街中で怪しい男に捕まった街裏ぴんくが、「あとひとおし」で爆笑に達しそうな男の「ひとおし」を依頼される……という筋書きで、後半の時空が入り混じるなかで登場するオールスターキャストの見せ方が感動的。ちょっと「バンドウがいた夏2」の感動に近いものがある。「聖域ライブ」のトリで披露したときは、オチのタイトル回収も含めて鮮やかな1本だった。

omocoro.jp

三遊間「内田真礼

関西の若手しゃべくり漫才師。真空ジェシカマヂカルラブリーなどがネットミームをネタの一部に取り入れ始めたのはここ最近だが、三遊間の取り込むそれは、真空やマヂラブよりも更に一世代若い印象を抱く。YouTubeに不正アップロードされた動画や少年漫画のR-18同人誌あるあるだけで1本ネタが作れてしまう技量もすごい。

内田真礼」はその名の通り、声優の内田真礼を題材にした1本。絶妙な見栄と意地のあるあるをしゃべくり1本で展開していく熱量がすばらしい。

TCクラクション「動物」

TCクラクションはとにかくツッコミの坂本No.1の発声とキレが最高。それだけでも面白いのだが、TCクラクションの良いネタは、ボケの古家曇天の変な発言に巻き込まれる形で、ツッコミのフレーズも奇妙なものにどんどん変わっていって、それ自体がおもしろくなっていくところ。「動物」はその良さがふんだんに出た1本。「エバースのトリプルヘッダー」で見た時は、周囲の芸人からも「ここで出していいネタじゃない!」と絶賛されていた。

youtu.be

めっちゃ最高ズ「授業参観」

恥ずかしながら「十九人のブレナイ」で初めて見たのだが、振り切ったような全力コント漫才と、終盤のバイオレンスな展開で一気に心奪われた男女コンビ。「授業参観」は「十九人のブレナイ」で掛けられたネタだが、ツッコミが役割を変えつつ同じくだりを複数回繰り返す構成もちょっと目新しくてよかった。

春とヒコーキ「お化け」

YouTubeでの「バキ童」としての活動があまりにも有名だが、コントの評価も高いコンビ。「お化け」は中盤でのバラシ(とあるインターネットミーム絡み)も面白すぎるのだが、オチの衝撃的な展開といい、忘れがたい印象を残す1本。

ゼンモンキー「墓参り」

若手注目株のトリオコント師。「墓場で登場人物のXX同士が戦う」という設定自体がかなり面白いのだが、最終盤まで二人の演技力で持たせつつ、オチで3人目をうまく使う構成もすばらしい。

こたけ正義感「歌詞のリーガルチェック」

弁護士と芸人の二刀流という唯一無二のピン芸人。タイトルが示す通り、ある曲を流しつつ、その歌詞を弁護士的にツッコんでいくという構成のネタなのだが、他の誰にもできない着眼点と、歌だからこそ生まれる天丼的な展開が笑いを増幅させる。あの歌を題材に選んだのもすごい。たぶん今週末のABCお笑いグランプリで掛けるはず。

おもちゃのチャチャチャ「女性器」

一番の問題作。女性器の名前を連呼しつつ、M-1で披露された名作漫才をカバーしていくという、地下ライブでしか決して許されないクレイジーなネタ。しかしそのカバーのしどころが面白すぎて、最初引いていた客もどんどん掴まれて最終的は大ウケしてしまうという恐ろしい1本。笑いの価値観を揺さぶられました。個人的にはシンクロニシティの3文字のネタをド下ネタで上書きしていくところが最高だった。

 

 

いやはや。下半期もどんどん劇場に足を運んでいきたいところです。

鉄とコンクリートの匂い立つ、現代の神話――J・G・バラード『クラッシュ』

 

 

 

 J・G・バラードとは一体何者だったのか?

 従来のSFへ反旗を翻し、「内宇宙」をキーワードにSF界にニューウェーブ運動を起こした張本人。いわゆる《破滅三部作》で外世界のカタストロフを待ちわびていたかのように受容する人々を描き、七〇年代には本作『クラッシュ』に始まり『コンクリート・アイランド』『ハイ・ライズ』の三作、すなわち《テクノロジー三部作》を通して、メディアとテクノロジーに支配された現代社会の病理を描いた二〇世紀最大のSF作家。

 彼の最高傑作とも名高い本作だが、執筆されたのは一九七三年、もう四〇年以上も前のことだ。そんな時代に提示された現代社会のヴィジョンなど、当時の憧憬を掻き立てるだけの錆びついたカビ臭いガラクタ以下の代物に成り下がっているのではないか? そんな疑問が現代の読者の頭にはもたげることだろう。

 だが決してそんなことはない。バラードが本作において指摘した病理や欲望のメカニズムは、現代においても十二分に通用するものだ。

『クラッシュ』は、バラード自身の言を借りると、「世界最初のテクノロジーに基づくポルノグラフィー」だという。確かに、全編を通して氾濫する性的なイメージとグロテスクな身体損傷描写の重ね合わせは、倒錯的という言葉の範疇では収まらないほどに異常な性愛の形を浮かび上がらせている。自動車事故と性交の間に異常な執着を抱き、自らの人工的な死を設計するテレビ解説者のヴォーンと、交通事故をきっかけにヴォーンの思想に共鳴していく主人公・バラードが繰り広げる夜毎の死のリハーサルが示すのは、まさしく現代社会の病理であり、テクノロジーを媒介とした悪夢だ。そこにあるのは、テクノロジーがもたらした新しい性の形であると同時に、死への希求に他ならない。

 バラードはこうした鉄とコンクリートの匂い、あるいは血と精液の匂いが濃厚に立ち込める悪夢的な世界を描き出すが、決して安易な文明批判や諷刺に結びつけたりはしない。彼が示すのは、現代の人工的な環境(いわゆる「テクノロジカル・ランドスケープ」)が人々の無意識に働きかける退廃的な作用だ。

 テクノロジーが自然の一部として取り込まれている現代においては、自然とテクノロジーは対立概念ではない。ハイウェイを時速一〇〇km超で走り抜ける自動車は、かつて宇宙や星々の動きがそうしたのと同様に、人々の無意識下の欲望を刺激するのだ。そしてバラードは人工物が破綻する瞬間——交通事故、あるいはそれに伴う人体損壊など——を切り取り、あたかも覆い被さった抑止の蓋を破るようにして、閾下に潜む歪みを露呈させる。

 バラードは小説を書くこと、つまり自らの妄想を具現化することによって、人間の無意識下の情動を読者に提示する。読者はそれを意識することで、自らの立つ世界が異なる見方を示していること、新たな現実の見え方に気付かされるのだ。

 本作が書かれた七〇年台初頭と比較して、現代ではテクノロジーとメディアは氾濫の度合を更に増している。スマートフォン時代の新たな欲望の形は描かぬままにバラードはこの世を去ってしまったが、彼が示したテクノロジーと欲望の因果律の図式は今でも通用する。

 テクノロジーと人間の普遍的なあり方を示した現代の神話として、これからも読み続けられていくであろう一冊だ。

 

 

 

追記:昔の書評。カモガワ遊水池にも載せた。読み返してないけど、たぶん山形浩生「欲望の磁場」に相当引っ張られてるはず。

J・G・バラード「十八歳の時に知っておきたかったこと」(エッセイ)

J・G・バラードの未訳エッセイを翻訳した。

テキストは雑誌《Re/Search》のJ. G. Ballard特集号を使用したが、初出はthe Sunday Express Magazine no.38, Dec.27,1981 のようだ。

 

十八歳の時に知っておきたかったこと

 とても答えにくい質問だ。多くの点で、軽率な回答と真剣な回答が同じものになってしまう。われわれの人生というのは、自分でも気づかないうちに自分自身に対して演じている、一種の拡張されたジョークなのだから。つまり、わたしは自分自身をこう見ている。郊外の小さな家に住み、外には錆びた車、動かないテレビ――唯一動くのはコルク栓だけ。ジョークに違いないと思う。わたしはここで何をしているのだろう? わたしはピンターの戯曲の登場人物か、脚本家の手に負えなくなったシットコムの登場人物に違いない。

 もし十八歳の自分がここに来たら、一目見て、高速でUターンして、砂煙の中に消えていってしまうだろう。愕然とすることだろう。しかし、それはわたしが自分の人生を後悔しているということなのだろうか? 違う。十八歳からの人生は、とても面白く、全体として幸福なものだったと思う。だが、わたしはそのすべてを違うものにしたい。三人の子ども、幸せな結婚生活、そして書いた本の一部以外の、すべてを変えてしまいたいのだ。

 もっといろんなことをやってみたかった。人力飛行機で大西洋を横断したかった。暴君を暗殺したかった。もっと子どもがほしかった。もっと犬を飼いたかった。特に、もっと多く妻を娶りたかった。

 妻というのはすばらしいもので、できる限り多く持つべきものだ。十八歳に与える確かなアドバイスが一つだけあるとしたら、以下のようになる。学校を卒業したら結婚し、何があっても結婚生活を続けること。もし結婚生活が終わりを迎えたら、できるだけ早く再婚すること。

 結婚している人の方がずっと幸せであることは、数え切れないほどの科学的調査によって証明されている。わたしは妻の悲劇的な死までの一〇年間はとても幸せだったし、妻も幸せだったと思っている。わたしが再婚しない唯一の理由は、だれもわたしの求婚を受け入れてくれないからだ。

 イギリス人の多くは、セックスについてもっと知っていればよかったと言うのだろうが、十八歳の頃のわたしはセックスについて非常に多くのことを知っていた。しかし、今や五〇歳となったわたしは、ほとんど何も知らない。今となっては大きな謎であり、完全に途方に暮れている。しかし、十八歳のわたしは医学生で、医学生はもっとリラックスしたふるまいをする傾向にある。さらに重要なのは、医学生は看護師と知り合いになれることだ。看護師――今でもそうなのかどうかはわからないが、数年後、わたしが終末期病棟に案内されたときにわかるに違いない――あの頃の看護師は素晴らしく、人生を豊かにしてくれる、自由な存在だった。十八歳のとき、ありがたいことに、わたしはアデンブルックズ病院の看護師全員と知りあいだった。ニューナムカレッジで英語を読んでいた女の子よりも、彼女たちとパントに乗っているほうがずっと楽しかった。四〇代になると、現在ロンドンの文壇で活躍している、わたしがニューナムカレッジにいた頃の女性たちに会うようになったが、どういうわけだか当時は会うことがなかったので、むしろうれしく思っている。

 わたしは日本の捕虜収容所で思春期を迎えたので、イギリスのパブリック・スクールで見られるような、セックスに対する窮屈な態度を避けることができた。女の子はどこにでもいるし、プライバシーは普通の生活よりずっと少ない。その点では、最高の環境で育ったと思っている。

 帰国後、イギリスのスケールの小ささに驚かされた。サウサンプトンの小さな通りを見下ろすと、黒い小さな乳母車のようなものが何台も並んでいて、船に燃料を補給するための移動式石炭バケツのようなものに違いない、と思った。もちろんそれらはイギリス車だったのだが、わたしはビュイックやキャデラック、パッカードに慣れ親しんでいた。そして、わたしはイギリスの精神的な側面、つまり、人々の心の働きののろさ、田舎臭さ、想像力のなさ、些細な階級差別への執着、二〇世紀の知識への関心のなさに焦りを感じていた。ケンブリッジ大学では、上級教員たちに精神分析に興味があると言ったら、大笑いされたことを覚えている。一九四九年当時、ジークムント・フロイトは依然として噴飯ものの存在だとみなされていたのだ。

 十八歳のときに、これほど長く生きられるとわかっていればよかったのに、と思う。間違いを犯し、そこから立ち直るための時間、あらゆる贅沢をするための時間など、多くの時間があると知っていればよかったのに。人は言う、ご存知の通り、「人生は短い」と。でも、実際には、全くそんなことはない。実は、人生は長いのだ。過去の人間よりも、もっともっと自分の力を発揮できる時間がある。われわれは、いつも同じレストランに行って、いつも同じ料理を注文しているようなものだ。大変な努力をしなくても、もっと豊かで多様な、もっとエキサイティングで面白い経験ができるはずなのだ。

 わたし自身も含め、多くの人の人生の何が悲しいのか。それは、与えられた役割を受け入れてしまうことだ。株屋になったり、秘書になったり、SF作家になったり……まるでドラマ『クロスローズ』の脇役のように。もし作家にならなかったら、もっと面白い人生を歩んでいたかもしれない。わたしは自分のことを書きすぎてしまったようだ。だが、それは仕方がない。

 

 

J.G. Ballard (Re-Search 8/9)

J.G. Ballard (Re-Search 8/9)

  • 作者:Vale, V.
  • Re/Search Publications
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THE PENGUIN BOOK OF LESBIAN SHORT STORIES の邦訳のある短篇書誌情報

百合小説の「居場所」をつくる | Peatix

 

バゴプラ主宰の百合小説に関するトークイベント(河出書房新社の石川詩悠さんと、作家・翻訳家の紅坂紫さんの対談)をぼんやり聞いていて、少し前に古本屋で見かけた洋書のことを思い出していた。

 

ペンギン・ブックスが出しているレズビアン文学のアンソロジーである。店先で見た時は、対になっていると思われるゲイ文学アンソロジーと並んで置かれていた。

これが翻訳出版されたらいいなあ、と漠然と思っていたので、何かの足しになればと思い、邦訳のある短篇の書誌情報をここに書いておく。古いものは利根川真紀・編『女たちの時間』(平凡社ライブラリー)で大体収録されているので、新しめのものを拾ってまとめた本が出ればいいような気もする。個人的にはレベッカ・ブラウン「パン」という傑作が収録されていて、これを埋もれさせたくないという気持ちが強い。

ちなみに、例によって情報元は、翻訳作品集成と国会図書館オンラインである。

 

Martha's lady / Sarah Orne Jewett →「マーサの愛しい女主人」(利根川真紀・編『女たちの時間』、平凡社ライブラリー
Prince Charming / Renée Vivien → 未訳
Leves amores / Katherine Mansfield → 「しなやかな愛」(利根川真紀・編『女たちの時間』、平凡社ライブラリー
The wise sappho / H.D. → 未訳
Miss Furr and Miss Skeene / Gertrude Stein → 「ミス・ファーとミス・スキーン」(利根川真紀・編『女たちの時間』、平凡社ライブラリー
Ladies almanack / Djuna Barnes → 未訳
A room of one's own / Virginia Woolf → 『自分ひとりの部屋』(平凡社ライブラリー
Miss Ogilvy finds herself / Radclyffe Hall → 「ミス・オグルヴィの目覚め」(利根川真紀・編『女たちの時間』、平凡社ライブラリー
Nuits Blanches / Colette → 未訳?
Olivia / Dorothy Strachey → 未訳
The blank page / Isak Dinesen → 「空白のページ」(利根川真紀・編『女たちの時間』、平凡社ライブラリー
Cities of the interior / Anaïs Nin → たぶん未訳
I am a woman / Ann Bannon → 未訳
Les guérillères / Monique Wittig → 『女ゲリラたち』(白水社、新しい世界の文学)
These our mothers / Nicole Brossard → 『レズビアン日記 Voilaほらここにある』(国文社)に含まれていそうな気がするが、インターネット上の調査では不明
Sweethearts / Jayne Anne Phillips → 「スウィートハーツ」(青山南・編『世界は何回も消滅する -同時代のアメリカ小説傑作集』、筑摩書房
Esther's story / Joan Nestle → 未訳
How to engage in courting rituals 1950s Butch-style in the bar / Merril Mushroom → 未訳
Bread / Rebecca Brown →「パン」(柴田元幸・編『昨日のように遠い日 -少女少年小説選』、文藝春秋
His nor hers / Jane Rule → 未訳
5 1/2 Charolette Mews / Anna Livia →未訳
Lullaby for my dyke and her cat / Sara Maitland → 未訳
Don't explain / Jewelle Gomez → 未訳
A lesbian appetite / Dorothy Allison → 未訳
The vampire / Pat Califia → 「ヴァンパイア」(すばる2001/ 7)
The secret of sorrerby rise / Frances Gapper → 未訳
Serial monogamy / Alison Bechdel → 未訳
City of boys / Beth Nugent →「男たちの街」(『世界文学のフロンティア02 -愛のかたち』、岩波書店
Cold-blooded / Margaret Atwood → 「冷血」(『良い骨たち+簡單な殺人』、北星堂書店)
Words for things / Emma Donoghue → 未訳
The language of the body / Kathy Acker → 未訳
The poetics of sex / Jeanette Winterson → 「詩としてのセックス」(『世界文学のフロンティア02 -愛のかたち』、岩波書店

 

 

 

 

韓松エッセイ「中国SFを海外に発信すること――新しい対話」

韓松のエッセイを翻訳した。底本は昨日のインタビューと同じA Primer to Han Song。韓松流の中国SFが世界で受容されている理由の考察と、今後の行く末について。

 

 

中国SFを海外に発信すること――新しい対話 韓松
SENDING CHINESE SCIENCE FICTION OVERSEAS: A NEW DIALOGUE


ナサニエルアイザックソン訳


 サイエンス・フィクション(SF)は西洋から移植されたものであり、かつては中国に存在しなかった。しかし、その土地の土壌に適応し、あらゆる困難に対応し、根を張り、芽を出し、今日、甘美な実を結び、西洋に再輸出されている――劉慈欣『三体』はヒューゴー賞を受賞し、その後、多くの言語に翻訳された。これは、他の多くの国で達成されていない偉業である。

 二〇一九年は中国の五・四運動から一〇〇周年であり、西洋科学や民主主義といった概念が中国に導入されてからの一〇〇周年でもあった。しかし、科学や民主主義がこの地で完全に成熟することはなかった。ゆえに、われわれはSFを通じて、中国の文化や課題、そして未来に親しむ機会を得たのだ。この点において、今から九〇年前に生まれた中国SFの父、鄭文光氏にも敬意を表したい。彼の小説『火星の開拓者』 Pioneers of Mars は、ソ連で開催された第六回世界青少年学生フェスティバルで大賞を受賞し、中国SFが海外に紹介される先駆けとなった。

 一九七八年の中国の改革開放をきっかけに、中国SFはさらに海外から注目されるようになった。日本ではいち早く「中国SF研究会」が設立され、日本人の研究者が活躍している。また、わたしの作品は多くの外国語に翻訳されているが、その最初の言語が日本語であった。日本人の中国SFに対する理解は独特である。上海の李重民氏が翻訳した、武田雅也、林久之の『中国科学幻想文学史』(https://book.douban.com/subject/27056143/)は一読の価値がある。中国人と日本人のSF観は同じなようで同じでない。二〇〇七年に横浜で開催された世界SF大会ワールドコン)で、わたしは中国SFの紹介、中国SFに見られる日本の要素、中国における日本SFの翻訳についてスピーチした。その後、多くの中国作家のSF作品が日本語に翻訳された。中国語で読めるSFで最も古い作品は、日本語からの翻訳だったのだ。これは実におもしろい話だ。

 また、SF作家という立場で、ノルウェーやイギリスの文学イベントに招待されたこともある。彼らは、「どうして中国にSFがあるのか?」「世界のSF小説がなぜこんなにたくさん中国語に翻訳されているのか?」「ハインラインのように反共だった作家もいるが、なぜ彼の作品が中国語に翻訳されたのか?」などと、かなり興味を持って質問を投げかけた。ノルウェーはヨーロッパにおける社会主義のベースキャンプ地であり、中国の共産主義作家が謳う未来の宇宙時代に興味を抱く人も多い。

 中国のSF熱と、それが国際的に注目されていることについて、わたしは次のように考えている。

 一つは、中国SFは欧米のユートピアの鏡像であること。新世紀に入り、中国SFが海外に輸出されるようになったのは、歴史の転換のきざしである。SFは、五百年にわたるグローバリゼーションの産物である。技術革命、産業革命重商主義、物質主義、人身売買などの歴史はもちろん、大航海、開拓、植民地化、民主主義と権威主義、自由と偏狭の争いなど、すべてが中国に大きな影響を与えた。つまり、中国SFはグローバリゼーションの一部なのである。そして今、発展途上国の台頭を受け、SFは西欧への逆襲をはじめている。これは、中国の製造業におけるケースと同様である。自動車部品からパソコン、携帯電話、バッグ、玩具に至るまで、SFは欧米人に馴染み深いガワを備えており、武侠小説の常識を受け入れるよりもSFの常識を受け入れる方が簡単とさえ言えるかもしれない。中国SFの中に、彼らは西洋のユートピア像の反映を見るかもしれない。しかし、これは回顧的なふるまいではないのだ。未来志向であり、世界第二位の経済大国の傑出した成長の産物であり、中国による再植民地化のプロジェクトなのである。このように、中国の「一帯一路」構想は、SFの中でも最も壮大なものとなっている。

 第二に、中国SFは人民の共産主義ディストピアであること。最初期の中国SFは、愛国的な性質を帯びている。これは中国のテクノロジーと同じで、カウンターとして発展してきたがゆえだ。欧米人たちはオーウェルの『1984年』を読み成長してきたわけで、中国の国家体制の中でどのような想像力が生まれてくるのか、自然と注目されるということだ。例えば、中国SFでは、危機的状況において、全体主義的な政権があっという間に宇宙で権力を握る可能性を検証している。中国人の世界観、宇宙観は欧米のものとは異なる。SF映画『流転の地球』の背景にある哲学を、家族主義、集団主義だと指摘する欧米人もいる。中国は、宇宙に党支部を設立する計画を発表している。「中国を理解するためには、中国SFを理解しなければならない」と述べた欧米人もいる。中米の対立は、未来を定義し解釈する力を誰が持つかを決める、SF的な対決なのである。中国SFに共産主義ディストピアが登場するのは、ファーウェイやZTE、グレートファイアウォール(金盾)や中国サイバースペース管理局を見ていることによるのかもしれない。これは、中国国内の内政だけでなく、世界の政治にも大きな影響を与えるものであり、この点で、大躍進や文化大革命とは異なっている。

 第三に、中国SFは無垢な人類のユートピアである。つまり、SFには人類共通の運命が投影されているのだ。この単一で分断された惑星において、中国の課題と地球の課題が交錯している。AIが人間に取って代わるかどうか、核拡散をどう抑えるか、貿易保護主義の影響、ポストヒューマンの動向、エコロジーや資源の危機、さらには宇宙文明との接触や宇宙全体の運命など、予見できない出来事や無視されてきた脅威、「ブラック・スワン」と「灰色のサイ」が地球全体で議論されている。これらの問題は世界中に広がり、しばしば終末的なムードをもたらす。SFは鮮やかな想像力によって、無垢なユートピアを確立してきた。それは、希望を失った人びとが、現実の中に逃げ場を見出す手助けになる。こうして、中国SFはグローバルな言語となった。「中国の問題を解決すれば、世界の問題が解決する」と言われているように。

 とどのつまり、中国がSFを海外に輸出するようになってから、わたしは文学の語り口にある種の変化がもたらされたのを目の当たりにした。第一に、過去ではなく未来について描くようになったこと。第二に、個人ではなく集団に注目するようになったこと。第三に、新しい手法ではなく、新しい物語への関心が高まっていることである。

 最後に、「SFの海外進出」というメタファーから、われわれは、三千年のあいだに前例のない変化が始まったばかりであることを悟る。アヘン戦争や八カ国同盟による中国北部への攻撃は、その前哨戦に過ぎなかったのだ。それが中国の爆発的な成長に具現化され、さらに中国と西欧諸国の競争の激化に反映され、それによって人類の科学技術や集団文明が臨界点まで進化してきたのだ。一九九〇年代生まれの作家、叶俊超の小説『灰烬』 Ashes の序文に記したように、中国SFはリアリズムとハイパーリアリズムという筆で、わたしたち自身が夢見るこの輝かしい未来を描いている。

 

追記:叶俊超『灰烬』について橋本輝幸さんにご指摘いただき修正しました。ありがとうございます!