機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

歴史と虚構の境界を辿る、メタフィクショナルな政治小説――マリオ・バルガス=リョサ『マイタの物語』

 

 ラテンアメリカ文学を語る上で政治の話は欠かせない。ガルシア=マルケスをはじめ、コルタサルフエンテスなど、多くの作家が政治的な趨勢への反発を公表し、それに対する政治的な圧力が数々の作品の想像力の源泉となったばかりか、『族長の秋』に代表される〈独裁者小説〉という一ジャンルを生んだ点で、政治抜きにラテンアメリカ文学を語ることは不可能に等しい。

 そして数多のラテンアメリカ文学作家の中でも、バルガス=リョサは一層特異な存在である。なにせ、実際にペルーの大統領選に出馬してしまったのだから。本作はそんなリョサの手による、政治と革命、そして歴史を真正面から描いた力作だ。

 物語は二つの時制から同時並行的に描かれる。一方は、一九六〇年代のペルーを舞台にした、社会主義革命を夢想し若き下士官と共に蜂起を企てる中年活動家マイタを主人公に据えた過去パート。それと同時に語られるのが、マイタの反乱を取材し、伝記小説を執筆しようとする作家(リョサ本人がモデル)を語り手に据えた現代パート。この二つがリョサお得意のシームレスな場面転換で繋がれ、一体となって物語は進んでいく。何の描写もなく唐突に過去/現在を移動する語りに最初は戸惑うかもしれないが、この撹乱された鮮やかな語りの手法については、往年のTV番組『世界まる見え!テレビ特捜部』をイメージすると良いと思う。つまり、事件関係者へのインタビュー(現在)と、再現VTR(過去)を交互に語ることで、物語を多重的に描き出す仕掛けである。実際、「もう二度とあんなことはしないよ」「数ヵ月後、そこには元気に走り回る○○の姿が!」等々の名フレーズが聞こえてきそうな挿話が続いて、読んでいて何とも楽しい。

 そして本作の主題となるのは、事実とは、歴史とは何なのか? という問いかけだ。現代パートの主人公である作家は、関係人物への取材を重ねることで数十年前の反乱の真実に近付こうとするものの、当時とは立場を異にする人物も多く、保身のための嘘や記憶違いが入り交じる中、「真実」の輪郭は最後まで曖昧なままはっきりしない。実際、確かな事実は反乱の鎮圧を記す数行の新聞記事の存在のみで、敗残者であるマイタは何の名誉もなく忘れ去られた人物に過ぎないのだ。結局、作家である主人公は、インタビューを通して「革命の内ゲバに疲弊し、若い下士官の活力に当てられて、自殺行為と知りながらも世界を革命する衝動に駆られた同性愛者の革命家マイタ」という人物を「創造」してしまう。

 だが、そのフィクション性は、最終章のマイタ本人との面会によって、決定的にその意味を砕かれる。ここでリョサはフィクションの、そして歴史の意味を問うと同時に、政治的イデオロギーのフィクション性をも暴いてみせる。我々にとっての歴史、そしてイデオロギーもが想像力という物語によって補完されて成り立ったある種の虚構であることを、そしてそれらの積み重ねでしかない現実そのもののフィクション性をも突き付けるのだ。細々としたペルーの政治的な描写も多く、決して最良の作ではないかもしれないが、骨太な物語を紡ぎ続けたリョサにしか書き得なかったであろう傑作だ。 

 

[補足]昨年8月に刊行した同人誌のフィクションのエル・ドラード全レビュー企画に書いたもの。字数縛りがあったのでだいぶ削った記憶がある。しかし蟹味噌啜り太郎氏の指定字数を大幅に超えた結果紙面をびっしり埋め尽くしたレビューの方が濃密かつ迫力が出て良かったので(その分編集は大変だったけど)、削らなきゃ良かった気もする。

 リョサは何を読んでも大概好みなので、逆にここぞの時用(いつだ?)に温存している作家の一人。高名なガルシア・マルケス論もいつか邦訳されてほしいな。

 あと、未だに寺尾隆吉氏がマリオ・バルガス・「ジョサ」表記に拘る理由が分からない。「ジョサ」表記なのは寺尾氏と集英社ラテンアメリカの文学版》『ラ・カテドラルでの対話』だけだと思う。いつかスペイン語ネイティブをつかまえて発音の正否を尋ねてみたいところ。

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「二重写しの世界」から見る、少年少女のヴィジョン――柴田元幸編『昨日のように遠い日 』

 

少女少年小説選 昨日のように遠い日

少女少年小説選 昨日のように遠い日

  • 発売日: 2009/03/26
  • メディア: 単行本
 

 

 少年小説アンソロジー第二弾。初出は雑誌「飛ぶ教室」の《特集=柴田元幸の “飛ぶ教室” 的文学講座》。あとがきには「少年小説にあたっては(中略)、『我々はつねに、少年にいま見えている世界と、いずれ彼に見えるであろう世界から成る、二重写しの世界を見ている』のであり、その二つの世界のあいだの緊張から独特のユーモアと切実さが生じる」「作品を選ぶにあたって、そういう要素に加えて(中略)、『少女少年小説』をひとつの制度と捉えて、その制度を何らかの意味で崩しているような作品をなるべく多く選びたいと思った。せっかく大役を仰せつかったのだし、いまさら子供の無垢だの純真だのを謳い上げた作品を並べたって仕方ない」とある。

 前述の「二重写しの世界」をうまく描いている代表が「ホルボーン亭」である。子供の頃訪れたレストラン〈ホルボーン亭〉。戦火の中、イタリアを逃れていた一家が久し振りにロンドンで集まって摂ったそこでの食事は、輝くシャンデリアや白いリネンのテーブルクロス、美しくきびびきびと働くシェフたちに彩られた魅惑的なものであった。だが、その後戦争が激しさを増し、再び家族は散り散りになってしまう。何年も経った後、再びイタリアに戻ることのできた家族を前に、語り手はホルボーン亭を話題に出す。だが、誰もそれを覚えている者はいなかった。〈「おかしいなあ」ぼくは言った。「ぼくにとっては、人生で最高のレストランだったのに」/「かわいそうに」と、父は胸を打たれたように言った〉。幼い日だからこそ残りうる記憶。経験の堆積に埋もれ、顧みられることのない思い出たち。父親の言葉には、子への羨望、そして来たるべき大人の日々への憐憫が入り混じる。

 「灯台守」も同様の悲哀に満ちている。イタリアから避暑のため訪れた街の灯台。そこで灯台守の老人から気圧計や灯台のスイッチなどを見せてもらう語り手の少年。一年後、避暑ではなく難民として再び街を訪れると、老いた灯台守は既に引退していた。それでも再び会いに行き、去年の少年であることを伝えるも、老人は「去年の子はじつにいい子だったな」と繰り返すだけ。そして少年は、自分はもう二度と――本当に二度と――去年の自分ほど「いい子」にはなれないことを感じ取るのだった。

 上二つは少年を語り手に据えた物語だが、少女を主人公にした作品も傑作が揃う。その中でも群を抜いているのがレベッカ・ブラウン「パン」だ。「あなた」という二人称で語られる、寄宿舎の中のカリスマ的存在の少女。いつもホイートロールを食べる「あなた」は、寄宿生の中でも一目置かれた存在だった。彼女のパンの食べ方は特別で、誰も言わずとも、彼女だけのものだった。いつも完璧な姿で、静かに寄宿生たちを律していた「あなた」。私たちは――そして「私」は――彼女を愛していた。「あなた」が週末に外出し、帰りに大きなケーキを持って帰ってきた日、語り手は「あなた」の誕生日だったのだと噂を流す――「あなた」の特別な存在、一人だけはみなと違う存在になりたいと願うあまり。だがその欲望は、静かに、しかし残酷にも、「あなた」の手によって打ち砕かれてしまう。敬愛する人物からの「拒絶」を、少女の視点から耽美的に描いた傑作であり、「百合」文脈で捉えることもできるだろう(その場合も傑作である)。正直、「パン」一作だけで本書はお釣りがくる。

 その他、超短編の名手 バリー・ユアグローは「大洋」で相変わらずの奇想ぶりを見せてくれるし(子供部屋の窓から大海原を幻視し、ひとり海の向こうへと漕ぎ出す弟)、ロシアのアヴァンギャルド作家ダニイル・ハルムスによる幼児特有の暴力性、あるいはそれに根ざした不条理を描いた短編群も笑える。柴田元幸枠のミルハウザー「猫と鼠」は、トムとジェリーを超リアリズムで描いた作品。その他、コミックも二作おまけで付いている。

失われた短編を求めて――ボルヘス唯一の未訳短編「シェイクスピアの記憶」について

 ホルヘ・ルイス・ボルヘス。アルゼンチンが生んだ二〇世紀の世界文学上最大の作家の一人で、「知の工匠」「迷宮の作家」等の異名を持つ巨匠である。日本でも大変人気があり、現在では岩波文庫に著作の多くが収録されている。

 さて、彼の作風の最大の特徴は、生涯を通して短編小説しか著さなかったことだ。一番長い作品でも、日本語訳で二〇ページほどしかない。だが彼の短編から喚起されるイメージは、迷宮、鏡、無限、架空の書物等々といったモチーフによって増幅され、長編小説にも匹敵する物となる。

 短編集としての代表作『伝奇集』は岩波文庫で刊行されているほか、『砂の本』『ブロディーの報告書』『アレフ』など、彼の主要な短編は、短編集としてほとんど邦訳されていると言ってよい。

 だが一作だけ、邦訳されていない作品がある、と言えばどうだろうか。その存在は、ペンギン・ブックスから刊行されているボルヘスの全短編集に記載されている。題は「シェイクスピアの記憶」(「La memoria de Shakespeare」、英題「Shakespeare's Memory」)。そしてこの作品は、ボルヘスの生涯最後の作品である。

 なぜこの作品だけ訳されていないのか? 短編リストを眺めたところ、他の作品はみな訳出されているようである。よりによって最後の一作だけ、なぜ未訳のままなのだろうか。以下では書誌情報を探りつつ、その謎に迫ってみたい。

 

***

 

 私が最初に「シェイクスピアの記憶」の存在に気付いたのは、今福龍太『ボルヘス『伝奇集』―迷宮の夢見る虎』(二〇一九)を読んだ時だった。冒頭からし

死の三年前の一九八三年、八四歳のボルヘスは生涯で最後の短編集となる『シェイクスピアの記憶』La memoria de Shakespeareを刊行した。

と記されている。当時「翻訳作品集成」(翻訳小説の書誌情報を集めたサイト)を巡回するのが日課となっていた私は違和感を覚えた。そんな題のボルヘスの小説あったっけ? と。

 実際、翻訳作品集成内のボルヘスのページには、そうした題の短編は掲載されていなかった。すわ未訳作品か、と思わず身構えたが、すぐに我に返った。翻訳作品集成は素晴らしいサイトだが、必ずしも正しい訳ではない。個人で運営している以上、漏れはどうしようもなく発生することだし、もう少し調べてみなければいかんだろう、と。

 ということで、まず手始めに、「La memoria de Shakespeare」でGoogle検索を掛けてみた。一番上にスペイン語版Wikipediaのページが表示された。そこには「一九八三年刊行」「『一九八三年八月二十五日』『青い虎』『パラケルススの薔薇』『シェイクスピアの記憶』の四篇が収録」と記載されていた。そこで改めて、翻訳作品集成を見直してみた。

 ボルヘス自身が編んだ世界文学短編アンソロジーに叢書《バベルの図書館》というものがあり、国書刊行会から翻訳出版されている(新版として全六巻に編集し直されたものが現在でも手に入る)。その中のボルヘスの巻に、「一九八三年八月二十五日」「青い虎」「パラケルススの薔薇」の三篇は訳出されていたのである。なるほど、では《バベルの図書館》ボルヘス巻=『シェイクスピアの記憶』なのか、と思うのだが、事態はそんな単純ではない。なぜか短編「シェイクスピアの記憶」だけがオミットされ、代わりに『砂の本』収録の短編「疲れた男のユートピア」が入っているのである。

 なぜ? 混乱した私は、改めてボルヘスの原著書年表に当たった。

 すると、更に混乱すべきことに、どの書誌情報に当たっても、一九八三年刊行の『シェイクスピアの記憶』La memoria de Shakespeareなる本は存在しないのである!

(一九九七年刊行として同題の本の記載はある)

 代わりに、多くの書誌情報で、一九八三年刊行として記載されている本として「Veinticinco de Agosto de 1983 : y otros cuentos」という本があった。邦訳すると「一九八三年八月二十五日、およびその他の物語」。スペイン語Wikipediaに記載されていた『シェイクスピアの記憶』収録短編の題名である。なるほど、再版時に表題作を変更した等で混乱が生じているのか……と思い、一安心しかけたのだが、どうやらこれも正しくないようである。 

 「Veinticinco de Agosto de 1983 : y otros cuentos」は英語版Wikipediaでは「Shakespeare's Memory」と同じ内容の本として扱われているが、実際には異なる本なのである。同題で検索して出てくるのは、日本の読者にも馴染み深い、あの叢書《バベルの図書館》の装丁だ。つまり「Veinticinco de Agosto de 1983 y otros cuentos」は叢書《バベルの図書館》の中の一冊であるということがここで分かる。

 さて、先ほども述べた通り、邦訳された《バベルの図書館》のボルヘスの巻には、四篇が収録されている。「一九八三年八月二十五日」「青い虎」「パラケルススの薔薇」――そして、「疲れた男のユートピア」である。決して「シェイクスピアの記憶」ではないことが、事態をより混乱させている。

 つまり、英語版Wikipediaやペンギン・ブックス版全短編集に『Shakespeare's Memory』として含まれている短編――「一九八三年八月二十五日」「青い虎」「パラケルススの薔薇」「シェイクスピアの記憶」――のうち、三編しか重なっていない。《バベルの図書館》ボルヘス巻にはなぜか「シェイクスピアの記憶」ではなく、「疲れた男のユートピア」が収録されているのである。「疲れた男のユートピア」は『砂の本』の中の一作として収録されている作品で、なぜ入れ替えられたのかは定かではない。《バベルの図書館》は原著のまま邦訳しているので、原著の時点で作品の入れ替えが行われていたようである。なお、《バベルの図書館》ボルヘス巻の編集はボルヘス自身ではない、別の人物が担当している。

 ここで持ち上がるのが、そもそも「La memoria de Shakespeare」は、いつ短編集として本に収録されたのか、という問題である。ジェイムズ・ウッダル『ボルヘス伝』(二〇〇二)によると、「シェイクスピアの記憶」はディ=ジョヴァンニによって英訳され、最初は『タイムズ』誌に掲載、その後一九八六年にロンドンのコンスタブル社から出版された『Winter's Tales 2』なる本に収められたという。この本については詳細が不明だが、名前から推察するに、恐らくシェイクスピアテーマのアンソロジーなのではないかと思われる。

 スペイン語のデータベースサイトで調べたところ、一九八二年刊行、「一九八三年八月二十五日」「青い虎」「パラケルススの薔薇」「シェイクスピアの記憶」の四篇収録、題名は「La memoria de Shakespeare」という本が一件ヒットした。その情報によると、その本は三十六部限定の一種の記念品で、番号が振られているのだという。なるほど、それでは一般的な書誌情報に載らない筈だ。

 このデータベースサイトによると、広く「La memoria de Shakespeare」が読まれるようになったのは、一九八九年(一九九二年という記録もある)刊行のボルヘス全集(一九七五年から一九八五年の作品を集めた巻)が初めてのようだ。そして一九九七年に「La memoria de Shakespeare」を表題作として上記四篇を収録した短編集が、初めてAlianza Editorial社より刊行された。

 冒頭で述べた今福龍太氏の本には、

この本(引用者注・『シェイクスピアの記憶』)が出版された頃メキシコに住んでいた私は、『砂の本』(一九七五)以来久しぶりのボルヘス短編集の出現に興奮し、直ちに入手して読み耽った。

との記述があるが、これは氏の記憶違いなのではあるまいか。限定版を入手できたのならそうかもしれないが、実際のところは不明である。また、今福氏の本の巻末にある参考文献では、『シェイクスピアの記憶』は一九八二年刊行ということになっており、そもそも一九八三年刊行という記述と矛盾する。

***

 

 長々と解説してきたが、改めて、なぜ「La memoria de Shakespeare」が邦訳されなかったかという問題に立ち返ってみたい。まず、日本で《バベルの図書館》ボルヘス巻が刊行されたのは一九九〇年のことである。この時点で、短編集版『シェイクスピアの記憶』収録作四篇の内、三篇は邦訳されたことになる。残ったのは表題作「La memoria de Shakespeare」だけだ。日本語翻訳者陣がいつ「La memoria de Shakespeare」の存在に気付いたのかは定かでない。恐らく英語資料にも目を通していたはずだから、案外早期から気付いていたのかもしれない。兎にも角にも、一九九七年にはそのものずばりの短編集がスペイン語で刊行されているのだから、九七年には絶対に気が付いているであろう。また、ペンギン・ブックス版ボルヘス全小説集が一九九八年に刊行されており、これには英訳された(『タイムズ』誌に初出の)「Shakespeare's Memory」が収録されているので、間違いなく気付いていた筈である。

 となれば、気付いていたのにも関わらず、なぜ訳出されなかったのか?という問題が残る。それには恐らく翻訳権の問題がつきまとうのだろう。

 一〇年留保ルールにより、一九七〇年以前に出版された作品は、発表後一〇年間邦訳がなければ、一〇年間が経過した後には、翻訳権の取得なしに自由に翻訳出版することができる。ボルヘスの短編集には、実はこのルールに則って出版されているものが多い。『伝奇集』(一九四四年)はもちろんのこと、『アレフ』(一九四九年)、『創造者』(一九六四年)など、主要な作品は大体一〇年留保の範囲内なのである。実際、本の扉や奥付付近を見ると、海外小説にありがちな著作権者の表示がない。最近、雑誌『たべるのがおそい』内で、西崎憲氏が「八岐の園」の新訳を発表されていたが(「あまたの叉路の庭」、『たべるのがおそいvol.6』)、これも翻訳権の取得の問題が不要だからこそできた側面はあるだろう。例外は『砂の本』(一九七七年)くらいなものだ。つまり、翻訳権が不要だからこそ、ボルヘスの短編集は出版社としても低コストで販売できた、という側面は間違いなくあっただろう、ということだ。

 では『シェイクスピアの記憶』はどうか。限定版(一九八二年)にしろAlianza Editorial社版(一九九七年)にしろ、一九七〇年以降の作品であるから、出版権を取得せねば、出版社は日本国内で翻訳出版をすることはできない。この時点で翻訳料の問題が生じてくる。大作家であればあるほどその代金は高くなるし、制約も付く。近年では、J・G・バラードが短編を新たに翻訳出版するなら「短編全集」の形で一括で翻訳権を取得してその形で出版しないと認めない、という条件を付け、実際に東京創元社は既存の短編集を重版することができなくなり、新たにバラード短編全集という形で出し直している。ボルヘス側の著作権継承者がそこまでややこしい条件を突きつけているとは思えないが、前出の『ボルヘス伝』を読む限り、割と権利関係は入り組んでいて、複雑な問題も一部孕んでいるようだ。その辺りで出版社側が二の足を踏んでいることは十分に考えられる。

 また、既に《バベルの図書館》内で四篇中三篇が収録されていることも関係しているだろう。短編集『シェイクスピアの記憶』を出すとすれば、二〇〇〇年頃から始まった国書刊行会の《ボルヘス・コレクション》内で出すのがベストなタイミングだったと思うが、日本で叢書《バベルの図書館》を刊行しているのも国書刊行会である。流石にほとんど同内容の本を出すのはいかがなものか、かつ別に翻訳料も必要であるし……等々の議論が国書刊行会編集部内で交わされたかどうかは定かではないが、これらの問題が関係していたのは恐らく確かだろう。また、四篇だけでは本として薄くなりすぎるという問題もあっただろう(《バベルの図書館》ボルヘス巻にしても、割と文字は大きめかつ巻末に割と長めのボルヘスインタビューが併録されている)。 

 それにしても、多少翻訳権料が嵩んだとしても、二〇〇〇年に出たボルヘス関係の著名人の文章を集めたボルヘス・ファンブック的存在『ボルヘスの世界』(国書刊行会)内で訳出してしまえばよかったのに! と思うのは素人考えだからだろうか。一作だけ未訳というのもどうにも歯がゆさが残る。『伝奇集』その他ボルヘスの作品を多く手掛けた鼓直先生が昨年亡くなられたことも悔やまれる。ぜひともどこか、よきところで訳出されてほしいものである。

 

◆参考文献
今福龍太(二〇一九)『ボルヘス『伝奇集』―迷宮の夢見る虎』 慶應義塾大学出版会
澁澤龍彦ほか(二〇〇〇)『ボルヘスの世界』 国書刊行会
ジェイムズ・ウッダル(二〇〇二)『ボルヘス伝』(平野幸彦訳) 白水社
Borges, Jorge Luis. The Book of Sand and Shakespeare's Memory, 2007. Penguin Classics.

ameqlist.「翻訳作品集成(Japanese Translation List)」http://ameqlist.com/

 

 

 

恋愛、そして破滅――柴田元幸編『燃える天使』

燃える天使 (角川文庫)

燃える天使 (角川文庫)

 

◆ジョン・マッギャハン「僕の恋、僕の傘」  訳し下ろし→『男の事情 女の事情(国書刊行会

◆V・S・プリチェット「床屋の話」  訳し下ろし

◆フィリップ・マッキャン「愛の跡」  訳し下ろし

パトリック・マグラア「ブロードムアの少年時代」  訳し下ろし

ヴァレリー・マーティン「世の習い」  訳し下ろし

◆シェイマス・ディーン「ケイティの話 1950年10月」 訳し下ろし

◆マーク・ヘルプリン「太平洋の岸辺で」  『マリ・クレール』1990/ 2

スチュアート・ダイベック「猫女」  『月刊カドカワ』1996/ 3

◆ジャック・プラスキー 「メリーゴーラウンド」  『月刊カドカワ』1996/ 6

ピーター・ケアリー「影製造産業に関する報告」  『月刊カドカワ』1996/10

◆ジョン・フラー「亀の悲しみ」「アキレスの回想録」 『月刊カドカワ』1996/12

◆モアシル・スクリアル「燃える天使」「謎めいた目」   『月刊カドカワ』1996/ 8

◆スペンサー・ホルスト「サンタクロース殺人犯」  『月刊カドカワ』1997/ 1

  

 一九九六年から九七年にかけて『月刊カドカワ』に翻訳連載された作品を主に集めたアンソロジー。当時『エスクァイア 日本版』誌でも柴田氏は翻訳連載を持っており(後の『夜の姉妹団』)、『月カド』と合わせて月二本も柴田セレクトの短編が読める環境であったというのは恐ろしい(そしてそれをこなす柴田氏の生産量も)。なお、エスクァイア誌との住み分けとして年齢層を考え、なるべく青春・恋愛テーマの作品を選ぶようにしたという(実際に恋愛ものが多い)が、その一方で青春や恋愛の甘酸っぱさの欠片もない奇想・シュール系の作品もちらほらと混ざっており、妙な異彩を放っている。

 恋愛テーマの作品では、マーク・ヘルプリン「太平洋の岸辺で」 が白眉だ。舞台は第二次大戦中のアメリカ。海軍中尉として南太平洋へ出征した夫を持つポーレットは、五百人以上の女性が働く飛行機工場で精密溶接工として働いている。同じ境遇の女性たちが夫の戦死報告とともに工場を去るなか、ひとりポーレットは日々の溶接の仕事を果たし、菜園を育て、賛美歌を歌いながら、遥かに隔てた南太平洋の島を思い続ける——工場のラインのリズムと賛美歌とがリフレインとなって、海上を雷鳴として飛び、奇跡を起こすその瞬間まで。短編ながら、脳見つかる繊細に描かれた心情描写が最後の一文を際立たせる。

 その他、傘の下で逢瀬を重ねる、傘の下でしか愛し合えなかった男女の哀しいラブ・ストーリー「僕の恋、僕の傘」や、レズビアンの女性が偶然出会った不良少年と送る奇妙な共同生活の中で描かれる、「自分が愛していて、そして決して手に入れられない」愛を巡る、出会いと別れの物語「愛の跡」も印象的。

 狂気という意味では、スチュアート・ダイベック「猫女」が凄まじい。ルーサー・ストリートには“猫女”と呼ばれる老婆が住んでいた。猫女は夜な夜な近所の家庭から頼まれ、余った仔猫を預かっては洗濯機に入れ溺死させることで始末していた。一方、彼女と同居する孫のスワンテクは、猫女の老いとともに狂気を募らせていく。猫の死体を洗濯ロープに吊るし近隣の廃車に放火する彼の姿から人々は「スワンテクは仔猫を絞り機に掛ける」と噂し、誰も仔猫を猫女のもとへ預けなくなってしまう。すると町には始末されなかった猫が溢れ出し、人々も苛立ちを募らせ、町は荒廃の一途を辿り……。破滅のヴィジョンを鮮烈なイメージで描き出した、ごく短いながらも印象に残る一作だ。

 また、「ケイティの話 一九五〇年一〇月」 も推したい一作。夫が蒸発した後、ひとり妹の家族たちと暮らすケイティ。彼女の甥である語り手は、いつも寝る前にケイティの不思議な物語を耳にしていた。本作はそんなケイティがある日語った、「あんたたちの大伯父さんのコンスタンティンの、そのまたお母さんから聞いた」話、という枠構造を持つ。アイルランドのある村で、若い娘がある孤児の兄妹を住み込みで世話をすることになった。その名前は——フランシス(Francis)とフランシス(Frances)。名を同じくする双子の二人は、ある日を境に、突然、髪色や、肌の色、さらには性別までもが入れ替わっていく。ごく小さな変化を繰り返しながら入れ替わり続ける二人に怯えた若い娘は、近所の司祭に相談する。だが、司祭には娘の正気の方を疑われてしまう。不安を抱えながら暮らしていたある日のこと、娘は兄妹が鏡に映らないことを発見する。だが、そのことに気付いた瞬間、屋敷の大時計が大きく鳴り、そして兄妹は誰も聞いたことのない言語で歌いはじめる……。民話的語りで描かれるアイルランド的奇想と恐怖譚の融合が楽しめる一作。

 その他、凶悪犯罪を起こした犯罪者を「犯罪性精神障害者」として収容するブロードムア病院で院長の息子として少年時代を過ごした語り手によるフィクション……と思いきや、実際にはエッセイであるパトリック・マグラア「ブロードムアの少年時代」(マグラアの父親は本当に院長だったらしい)は、「患者」として病棟に入れられた人々との交流を通して、人間の極限の精神状態を垣間見た少年が作家を志すまでの軌跡としても読める一作で興味深い。西海岸に続々と出現する「影」の工場を巡る不可思議な物語ピーター・ケアリー「影製造産業に関する報告」も、やや短く分量的に物足りなくはあるが、奇想度ではピカイチ。

漫才の中の魔術的リアリズム――Aマッソ「新しい友達」より

 お笑いコンビ・Aマッソのネタに「新しい友達」というものがある。実際の映像は「Aマッソ 新しい友達」などで各自検索して頂くとして、以下ではそのネタの話をしたい。

 まずボケ担当の村上が、ツッコミ担当の加納に「新しい友達ができた」と言う。「Pちゃん」と呼ばれるその人物は、「大田区によく遊びに行く」「怒ると耳を潰そうとしてくる」「家に遊びに行くと煎餅を作ってくれる」「Pちゃんと遊んだ帰りには身長が4ミリになる」など、明らかに奇妙な特徴を備えている。村上の話を聞いた加納は、「Pちゃん=プレス機械」であると喝破する。遊びに行くのは京浜工業地帯で、煎餅はプレス焼きだと言うのである。 

 ここまでなら、まだいい。漫才におけるボケとして、友人がプレス機械だったという設定は、常識から逸脱した奇想ではあるものの、ツッコミが漫才内で機能しているため、客はその逸脱を笑いとして受け止めることができる。

 だが、ツッコミの加納は混乱する村上に対して、更に「その喋り方(=音)は朝日精機の機械やろ」「型番はiTP-60W」「(村上にPちゃんの出身地を聞いて)名古屋? 本社やん」と、明らかにズレたツッコミをする。

 ここにおいて、漫才内の安寧は崩れ、客席は否応のない不安に駆られることになる。この不安とは何か? 目の前で繰り広げられている漫才が、自分の足元と地続きの現実ではないと気付かされた恐怖である。

 落語家・桂枝雀は笑いを「緊張と緩和」という言葉を用いて分析したが、その分析は客が客席という舞台と隔てられた場所にいるからこそ、成立しうる代物である。笑いは、他人事だからこそ笑える。バナナの皮で転ぶ人を見て笑うことは有り得ても、転んだ当人が笑うことは考えにくい(無論、自分の置かれた不幸な境遇に思いを馳せて思わず笑ってしまうことはあり得るだろうが、これは当人の中で主体と客体が分裂しているに過ぎない)。 

 だが一方で、客席と舞台は隔てられてはいるものの、常識という共通認識は共有されている。そうでなければ、バナナの皮で転ぶ=おかしい、という図式すら成立しなくなってしまう。舞台上の芸人と、客席に座る客、この二者において「おかしさ」の原理、共に認識していると暗黙の内に了解されている常識が共有されているからこそ、芸人は客を笑わせることができ、客は芸を見て笑うことができる。

 しかし、Aマッソのこのネタでは、それが共有されていないことが、ネタの途中で露呈される。しかも、最初は「友達がプレス機」という一種の「狂気」に対するカウンターとして存在していた筈のツッコミ――「正気」であり、客席の代弁者――も、実際には「狂気」であり、客席の彼岸にいる何者かであり、決して客席に座る我々とは同じ人間ではない、ということが、丁寧な「フリ」の後に明かされるのである――そう、「新しい友達」におけるサビは加納の豹変であり、それ以前の村上のボケ「友達=プレス機」はフリでしかないのだ。

 この漫才をある知人に見せたところ、「これはホラーだ」と言われたが、その感想は実に正鵠を得たものであると言えよう。正気であると思いこんでいた人間の突然の裏切り、「漫才」というネタのフォーマットを逆手に取った企みに、客席は驚かされ、そして恐怖する。こうした企みをたった4分間で表現したAマッソの発想力・構成力は特筆すべきものであろう。

 

 そして、このネタを初めて見た時、私が感じたのは――ここからが、ある意味本題ではあるが――、ラテンアメリカ文学における魔術的リアリズムとの関連である。

 寺尾隆吉が提唱する魔術的リアリズムの定義は、a.非理性的な視点を語り手が持つこと、b.その非理性的な視点が共同体で共有されていること、の2点であった。

 ボルヘス、ビオイ=カサーレスらのラプラタ幻想文学と区別されている点は、ボルヘス、ビオイらの小説では、奇妙なことが発生したとしても、語り手自身は理性的であり続けるという点だ。即ち、わかりやすく言い換えると、変なことを変だと思えるということである。

 故に、一般的な漫才は、この二分に当てはめると、ラプラタ幻想文学に該当する。ボケ(=非理性的な現象)を、ツッコミ(=理性的視点)から眺めることで、そのズレを客に理解させ、笑いを生み出すのである。

 だが、Aマッソのこのネタでは、ツッコミが理性的な視点を持ち得ない。そればかりか、非理性的な視点から、さらに奇妙な現象(音から型番を言い当てる、生産メーカーの本拠地を知っている)を引き起こすのである。

 そして、Aマッソのボケ・ツッコミの二人の間においては、「友達がプレス機械でありえる」という認識が共有されているのである。これはbの非理性的視点の共同体での共有、という項目に該当するものと思われる(二人だけで共同体、と言うのはやや厳しいかもしれないが)。だからこそ、私はこのネタに魔術的リアリズムを見出したのである。

 

 思い返してみると、漫才にはシュールレアリズムが溢れている。先日見た別のコンビのネタでは、部屋がプリクラ機に占領され、風呂場を火力発電所に改良し、燃料にプリクラの紙を転用する男の話*1が出ていた。他にも、ミョウガに首輪を付けて散歩させる女性の話*2もあった。いずれも最近の奇想系アメリカ文学を彷彿とさせるではないか(そして、恐らく翻訳者は岸本佐知子氏だ)。

 これらが、「漫才」として、「笑い」として受け入れられているという現実こそが、ある種奇妙な現実なのではないか? 現代の漫才は魔術的リアリズムやホラーに近接し得るという事実に、より多くの人々は気付くべきではないか(あるいはもう気付いているのだろうか)、そう思った次第である。

 

追記:Aマッソ加納がwebちくまに連載しているコラム(http://www.webchikuma.jp/category/kano)は、岸本佐知子の直系を感じさせる(実際インタビューか何かで読んでいると言っていたと思う)良いコラムなので一読の価値あり。『文藝』に初の短編小説が掲載予定だったのだが、先日の不祥事で宙に浮いてしまい、個人的に残念で仕方ない。

 

 

*1:金属バットのネタ

*2:Dr.ハインリッヒのネタ

【告知】レビュー誌『カモガワGブックス vol.1 非英語圏文学特集』

hanfpen.hatenablog.com

 上の記事の補足記事です。

 

 C94で海外文学レビュー同人誌出します。スペースは日曜西こ30b。京大SF研ブースで委託という形です。

 頒布するのは『カモガワGブックス』(略称:KGB)という同人雑誌の創刊号で、今回は《非英語圏文学特集》。載るのは、イタリア語・スペイン語・フランス語etcといった非英語で書かれた文学作品のレビュー/評論。
 具体的には、叢書全レビュー×2と評論×4です。

 叢書全レビューは、

  • 《フィクションのエル・ドラード》全レビュー(ラテンアメリカ
  • 《東欧の想像力》全レビュー(東欧)

 評論は、

 が載ります。

  92ページ、B5版、500円です。BOOTHにて通販もやってます(https://hanfpen.booth.pm/items/1476651)。

 その他、福岡の本のあるところajiroさま、京都の誠光社さま、古書善行堂さま、東京・下北沢の本屋B&Bさまでも取り扱って頂いています。

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以下、記事ごとの説明。

《フィクションのエル・ドラード》全レビュー

 寺尾隆吉氏編集で水声社から現在も刊行中のラテンアメリカ文学叢書《フィクションのエル・ドラード》。

 ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』やマリオ・バルガス=リョサ『マイタの物語』、アレホ・カルペンティエール『方法異説』など、名だたる巨匠の作品もさることながら、本邦初紹介の作家の作品も数多く含む本叢書をまるっと全レビュー。

《東欧の想像力》全レビュー

 ユーゴスラビアチェコハンガリーなど、東欧から生み出された文学作品を数多く収録する松籟社の叢書《東欧の想像力》の全レビュー。

 ボフミル・フラバル、エステルハージ・ペーテル、ミロラド・パヴィチなど、既に本邦で紹介済の作家の作品あり、本邦初翻訳作家の作品ありと盛りだくさんの叢書をまるっと全冊レビュー。

shoraisha.com

谷林守「レイナルド・アレナスを概観する」

 先日、第10回創元SF短編賞日下三蔵賞を受賞された谷林守氏(@notfromSakhalin)によるレイナルド・アレナス論。

 未訳の〈ペンタゴニア〉五部作について触れつつ、アレナス作品の特徴やアレナス自身の生涯との関係について分析。アレナス作品の既読者はより深い理解を得られ、未読者でも思わずアレナス作品を手に取りたくなる、アレナス作品の魅力を伝える論説です。
※谷林氏には、《フィクションのエル・ドラード》全レビュー内のレイナルド・アレナス『襲撃』のレビューも執筆して頂いています。

whiteskunk.hatenablog.com

空舟千帆「イタロ・カルヴィーノの生涯と作品」

 イタリアが生んだ「文学の魔術師」ことイタロ・カルヴィーノ
 京大SF研OBにして会内きってのカルヴィーノ読み・空舟千帆氏による解説は、長編・短編小説は勿論のこと、エッセイや評論についても余さずカバー。カルヴィーノファン必読の、熱のこもった解説が読めるはず。

西村トルソー「恋愛資本主義社会のミシェル・ウエルベック――革命、逃走、中断/静止」

 今年1月、「告白したらふられたので「その女の子のことを想って過去に作った短歌から選んだ158首」を紙に印刷して本人に渡したら1首ずつ感想をくれた話」という奇ッ怪な記事が1300ブクマ超とバズりにバズったトルソー(西村取想)氏によるウエルベック論。

con2469.hatenablog.com

「ウエルベックが描く、恋愛資本主義社会における革命と逃走、その失敗を、新反動主義・加速主義と『アンチ・ オイディプス』を補助線にして捉えていきたい」と本文にあるように、ウエルベック作品に頻出するテーマを、「加速主義」やドゥルーズガタリ『アンチ・オイディプス』を絡めて論じる意欲作になっています。

 普段のトルソー氏らしからぬ極めて真面目かつ重厚な論説で、編集しながら「俺は『ユリイカ』編集してんのか?」と思わずツッコんでしまった。ウエルベックの未訳詩の訳出付き。

FUMI/FLUIDE「骨のきわで書くということ――南部アフリカ女性文学論――」

 京大詩人会所属の才媛による南部アフリカ女性文学論。

 “Women Writing Africa The Southern Region”という南部アフリカ女性文学のアンソロジーを概観しつつ、未だ本邦では十分な紹介のされていない南部アフリカ女性文学について論じた力作(本当に、文芸誌のフェミニズム特集号に載っていてもおかしくないクオリティだと思う)。おまけで未訳詩2篇の訳出付き。

 

 

以上です。アジア圏の文学について触れられなかった悔いはありますが、それは次回以降に回すとして。何卒宜しくお願いします。

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恐怖の歴史を繋ぐ犬――レオナルド・パドゥーラ『犬を愛した男』


 レフ・ダヴィドヴィチ・トロツキー。ロシア十月革命における指導者の一人としてソビエト連邦建国に関わった後、スターリンとの政争に敗れた男。彼の最期は亡命先のメキシコでスターリンの刺客にピッケルで後頭部を砕かれるという凄惨なものだった。本作は革命家にして敗北者、そしてスターリンによる最大の被害者であるこの男の物語だ。

 一九七七年、挫折した作家イヴァンはハバナの砂浜で犬を連れた老人と出会う。彼はロペスと名乗り、トロツキーの暗殺者ラモン・メルカデールの親友だった者としてラモンの半生を語り始める。初めは興味深く聞いていたイヴァンだったが、次第に違和感を抱き始める。違和感とは、すなわち——ロペスが、あまりにラモンについて知りすぎていること。イヴァンは、ロペス=ラモンなのではないかという疑いを抱くが、次第にロペスは体調を悪くし、砂浜に現れないようになる。

 ソ連を追われたトロツキーの亡命生活、トロツキー暗殺に至るまでのラモンの足取り、そしてイヴァンが本作を執筆するまでに至る経緯という三つのパートに分けて描かれるが、それぞれを結び付ける共通項が題にある「犬を愛した男」である。トロツキー、ラモン、イヴァン、いずれも愛犬家であり、砂浜でのラモンとイヴァンの出会いにも犬が絡んでくるほか、暗殺のためにトロツキー邸に侵入したラモンがトロツキーと愛犬談義に花を咲かせる場面では、歴史の糸に絡め取られた二人の数奇な運命の交わりを感じさせるなど、随所に犬が顔を出す。

 ソ連本国でのスターリンの横暴やかつての同志の処刑、周辺諸国首脳の冷淡さなどに翻弄されながらも、革命家として自らの正義を信じ著述を続けるトロツキーの姿は思わず応援したくなってしまうし、一方で共産主義の理想のために名を捨て人生を捨て、暗殺者としての生を邁進するラモンの愚かしいひたむきさにも同情の念を禁じ得ない。だが本作は完全なフィクションではない点に留意せねばならない。あくまで現実に起きた惨劇を小説化した物語であり、ラモンを革命に扇動された被害者として同情すべき存在として扱うべきなのか、そもそもトロツキーは「正義」だったのか? という問いを、作者はイヴァンの行動を通して読者に突き付ける。

 膨大な資料に裏打ちされた本作は、六五〇頁という《フィクションのエル・ドラード》最長の分量ながらも物語としての面白さを失わないままに、二〇世紀のキューバソ連の抑圧された「恐怖」、そして人間の愚かさを描き出す傑作と言えるだろう。