機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

「二重写しの世界」から見る、少年少女のヴィジョン――柴田元幸編『昨日のように遠い日 』

 

少女少年小説選 昨日のように遠い日

少女少年小説選 昨日のように遠い日

  • 発売日: 2009/03/26
  • メディア: 単行本
 

 

 少年小説アンソロジー第二弾。初出は雑誌「飛ぶ教室」の《特集=柴田元幸の “飛ぶ教室” 的文学講座》。あとがきには「少年小説にあたっては(中略)、『我々はつねに、少年にいま見えている世界と、いずれ彼に見えるであろう世界から成る、二重写しの世界を見ている』のであり、その二つの世界のあいだの緊張から独特のユーモアと切実さが生じる」「作品を選ぶにあたって、そういう要素に加えて(中略)、『少女少年小説』をひとつの制度と捉えて、その制度を何らかの意味で崩しているような作品をなるべく多く選びたいと思った。せっかく大役を仰せつかったのだし、いまさら子供の無垢だの純真だのを謳い上げた作品を並べたって仕方ない」とある。

 前述の「二重写しの世界」をうまく描いている代表が「ホルボーン亭」である。子供の頃訪れたレストラン〈ホルボーン亭〉。戦火の中、イタリアを逃れていた一家が久し振りにロンドンで集まって摂ったそこでの食事は、輝くシャンデリアや白いリネンのテーブルクロス、美しくきびびきびと働くシェフたちに彩られた魅惑的なものであった。だが、その後戦争が激しさを増し、再び家族は散り散りになってしまう。何年も経った後、再びイタリアに戻ることのできた家族を前に、語り手はホルボーン亭を話題に出す。だが、誰もそれを覚えている者はいなかった。〈「おかしいなあ」ぼくは言った。「ぼくにとっては、人生で最高のレストランだったのに」/「かわいそうに」と、父は胸を打たれたように言った〉。幼い日だからこそ残りうる記憶。経験の堆積に埋もれ、顧みられることのない思い出たち。父親の言葉には、子への羨望、そして来たるべき大人の日々への憐憫が入り混じる。

 「灯台守」も同様の悲哀に満ちている。イタリアから避暑のため訪れた街の灯台。そこで灯台守の老人から気圧計や灯台のスイッチなどを見せてもらう語り手の少年。一年後、避暑ではなく難民として再び街を訪れると、老いた灯台守は既に引退していた。それでも再び会いに行き、去年の少年であることを伝えるも、老人は「去年の子はじつにいい子だったな」と繰り返すだけ。そして少年は、自分はもう二度と――本当に二度と――去年の自分ほど「いい子」にはなれないことを感じ取るのだった。

 上二つは少年を語り手に据えた物語だが、少女を主人公にした作品も傑作が揃う。その中でも群を抜いているのがレベッカ・ブラウン「パン」だ。「あなた」という二人称で語られる、寄宿舎の中のカリスマ的存在の少女。いつもホイートロールを食べる「あなた」は、寄宿生の中でも一目置かれた存在だった。彼女のパンの食べ方は特別で、誰も言わずとも、彼女だけのものだった。いつも完璧な姿で、静かに寄宿生たちを律していた「あなた」。私たちは――そして「私」は――彼女を愛していた。「あなた」が週末に外出し、帰りに大きなケーキを持って帰ってきた日、語り手は「あなた」の誕生日だったのだと噂を流す――「あなた」の特別な存在、一人だけはみなと違う存在になりたいと願うあまり。だがその欲望は、静かに、しかし残酷にも、「あなた」の手によって打ち砕かれてしまう。敬愛する人物からの「拒絶」を、少女の視点から耽美的に描いた傑作であり、「百合」文脈で捉えることもできるだろう(その場合も傑作である)。正直、「パン」一作だけで本書はお釣りがくる。

 その他、超短編の名手 バリー・ユアグローは「大洋」で相変わらずの奇想ぶりを見せてくれるし(子供部屋の窓から大海原を幻視し、ひとり海の向こうへと漕ぎ出す弟)、ロシアのアヴァンギャルド作家ダニイル・ハルムスによる幼児特有の暴力性、あるいはそれに根ざした不条理を描いた短編群も笑える。柴田元幸枠のミルハウザー「猫と鼠」は、トムとジェリーを超リアリズムで描いた作品。その他、コミックも二作おまけで付いている。