読書会レジュメお蔵出し企画第二弾。
1 作者について
昭和9年(1934年)生まれ。同志社大学文学部で美学芸術学を専攻。展示装飾を専門とする会社を経てデザインスタジオを設立、昭和35年SF同人誌「NULL」(ヌル)を発刊。江戸川乱歩に認められてデビュー。
代表作に「時をかける少女」「家族八景」「大いなる助走」「虚航船団」「残像に口紅を」「文学部唯野教授」など。
小松左京・星新一と並んでSF御三家と呼ばれ、日本のSF黎明期(第1世代)を代表するSF作家。
初期はナンセンス・スラップスティック・ブラックユーモア・シュルレアリスムをメインとした作品で活躍するが、70年台より前衛文学・純文学方面へも進出し多数の実験的な作品を発表。
でも一番有名なのはジュブナイルの『時をかける少女』だったりする(映画化4回、テレビドラマ化5回)。直木賞候補に3回ノミネートされて3回とも落とされた時には、直木賞選考委員を皆殺しにする小説『大いなる助走』(1979)を書いた。
93年に断筆宣言。元々学生時代は演劇畑に居たこともあり、断筆期間中は俳優としても活躍。その後96年には断筆を解除し現在に至る。大江健三郎や丸谷才一と親交があり、気が付けば文壇の最長老ポジションに座っている。
2 作品について
2−1 バックグラウンドなど
○新潮社より「純文学書き下ろし特別作品」の一つとして刊行(1984)
他のラインナップ(84年付近)
安部公房『方舟さくら丸』(1984)、大江健三郎『同時代ゲーム』(1979)、中上健次『地の果て 至上の時』(1983)、丸谷才一『裏声で歌へ君が代』(1982)、村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)など
執筆に6年をかけ、終盤では他の創作の依頼は断り、『虚航船団』のみに専念。筒井康隆の集大成的作品と名高い。
○2009年の『SF本の雑誌』オールタイムSFベストでは全体5位(上はイーガン『万物理論』、レム『ソラリス』、広瀬正『マイナス・ゼロ』、ティプトリー『故郷から一〇〇〇〇光年』)
○刊行後は賛否両論で真っ二つに分かれ、評論家からの的はずれな批判に耐えかねた筒井は自ら「虚航船団の逆襲」と題した反論を執筆、これがさらに波乱を産んだ。批評家の渡辺直己などは、虚航船団以前は筒井の理解者として振る舞っていたが、本作以後は批判へと転じた。
○執筆背景
元々70年台から実験小説方面へ傾き出していた(タモリや山下洋輔らと交友を持ち言語実験的な短編を書いていた)筒井康隆は、純文学雑誌『海』(中央公論社)にも進出。当時の『海』編集長・塙嘉彦経由でラテンアメリカ文学(バルガス=リョサ、コルタサル、カルペンティエール、ガルシア・マルケスなど)の影響を受ける。
以前よりニューウェーブSF的な(ある種の思考実験的・ある種の実験文学的な)『脱走と追跡のサンバ』(1971)など、実験的な作風にも挑んでいた筒井は、ラテンアメリカ文学との接近も経て、「超虚構」という概念を提唱。本格的な前衛文学を試み始める。
例えば『虚人たち』(1981、泉鏡花文学賞受賞)では、小説内の時間を原稿用紙1枚分=1分と定めて、食事の描写や移動中の描写を執拗に細かく描き、気を失ったり睡眠を取るシーンでは白紙のページが延々と続く、あるいは主人公が神の視点を有しており誘拐された妻の様子を幻視しながら妻を追う、などといった様々な文学的な約束事を破る実験を試みている。
84年の『虚航船団』を挟んで、『残像に口紅を』(1989)では、一章ごとに使える仮名が一文字ずつ減っていき、それに伴ってその文字を含むものが世界から消えていく、というリポグラムを用いた長編を書いている(→ジョルジュ・ペレック『煙滅』[1])。
『虚航船団』執筆に当たって筒井康隆本人が自分に課した条件[2]
- 自分自身が満足できる作品でなくてはならない
- 気難しい文芸評論家をはじめとする文学の読者をも満足させる作品でなければならない
- 今回は(引用注・『虚人たち』などの実験作が、当初従来の筒井ファンに一部受け入れられなかったことを受けて)中学生にもよくわかり面白がってもらえる作品でなければならない
- 普段小説にあまり縁のないサラリーマンや女子高生が読んでけたけた笑えるようでなければならない
- 絶対必要条件として、実験的手法によるものでなければならない
2−2 あらすじ
・第1章 文房具
宇宙を飛び続ける船団の中のひとつ、文具船。そこに乗り込む総勢42名の文房具たちの群像劇が繰り広げられる。
文房具たちは、どこまで行くのかもいつ帰れるのかもなぜ航海しているのかも分からない航海のせいで一人残らずみな気が狂っており、更に閉鎖的な文具船という環境の中でそれが増幅され、結果として文具船の中では「狂っていることが正常」「正気すなわち狂気」という逆転現象すら起こってしまう。
それでも何とか航海を続けていたが、ある時中央船団から、惑星クォールの全居住民殲滅を司令される。その惑星クォールでは、かつて流刑にされた凶悪な鼬族の子孫が文明を築き上げていた。
そして惑星クォールに着こうかという瞬間、惑星の表面で核爆発と思しき閃光が観測されるところで第1章は終わる。
「ここでまず、SF嫌いと、主人公にしか感情移入できぬレベルの者と、物語の展開だけを求めて小説を読む読者が疎外される。」[3]
・第2章 鼬族十種
流刑に処せられた凶悪な鼬(いたち)族十種が住む惑星クォールには1,000年の歴史があり、流刑当初は原始的な状態だったものが、わずかな年月で核兵器を開発できるレベルまで文明を発達させていた。彼らの歴史は残忍な刑罰や虐殺、共食いや復讐に満ちた血塗られた歴史である。しかし科学技術の発展は、流刑時に祖先が携えてきた情報の解読によって迅速に行われ、その速度は中世のレベルから人工衛星の開発まで約500年という脅威的な速度であった。
彼らの文明は、地球における宗教改革や世界大戦をなぞるように要領よくこなし、冷戦の時代に突入する。しかしクォールでは冷戦における恐怖の均衡が滑稽なスキャンダルによって破れ、核戦争が起こってしまう。それはちょうど文房具船の襲来(“天空からの殺戮者”(=文房具たち)の襲来)したのと時を同じくしていた。つまり、第1章の終わりと第2章の終わりは時系列的に同一である。
第3章で、第2章全体が、登場人物の一人である三角定規(兄)が記した歴史書であることが分かる。
「今、世界史を書いている。歴史小説ではなく、歴史を書いているのである。世界史のパロディではなく、世界史なのである。少くとも書く方では、そのつもりで書いている。(中略)さて、その三百枚のうちの二百枚を書きあげた今、読み返してみると、それはたまたま世界史を残虐性の側面から眺めたというていのものになっている。」[4]
「人間がひとりも登場しないことがはっきりし、ここで人間以外の者に感情移入できないレベルの読者が排除される。」[5]
「また、一章二章を通じ、多くのギャグの「とどめ」は省かれていて、読者の想像に委ねているため、過去のわがドタバタSFを期待した読者にとってこれは「サービス不足」であり、「面白くない」ことになる。」[6]
・第3章 神話
惑星クォールを殲滅せんと殺戮を繰り返す文房具たちと、“天空からの殺戮者”の襲撃から逃れる鼬族たちの攻防。
登場人物が多く、時系列や場所も次々と移りゆく形式を取り、地の文と台詞の境界がなくなっている箇所も多い(マリオ・バルガス=リョサ『緑の家』の手法の援用)。
圧倒的な戦闘力を有しながらも、穴を掘る能力に長け繁殖力の強い鼬族の前に次々と敗れ――あるいは、自らの狂気によって――死を迎えていく文房具たち。
そして最終的に残されたのは、壊滅した文明と生き延びた少数の鼬、それに文房具(糊、コンパス)と鼬族の間に生まれた混血児だけであった。
我が子の行く末を気遣い、また苛立つ母親鼬にお前はこれからどうするのか、と問われた(本来次の世界を築くべき次の世代の代表である)混血児はこう答える。
「ぼくはこれから夢を見るんだよ」と。
「第三章は文房具とイタチの戦いである。登場する者が多く、話は戦場のあちらこちらへと飛ぶ。それが誰の、どの話の続きであるかを説明するといったサービス──極端には作者が顔を出し「読者はもうお忘れであろうか」などとやる、サマセット・モーム先生の好きなあれ──などはいっさいしない(そのかわりヒモが二本もつき、巻末近くには文房具乗組員名簿もあるのだが)。したがって通常のエンターテインメントの如く漫然と読んでいても筋は追えるとたかをくくった読者は作品から拒否されてしまう。あたり前だ。そんなに気軽に消費されてたまるか。」[7]
○第3章の詳細なあらすじ
時系列が入り組んでいるので、方面別に整理した。筒井康隆『虚航船団』読み解き支援キット.pdf - Google ドライブ参照。
2−3 意図など
一言でまとめると、「現実の要素に照応しない〈荒唐無稽〉をリアルに描き出すこと」が作者の目論見であった。
飼いならされたリアリズムを否定し、言葉によってのみ現出される虚構(=超虚構)を示す、それが筒井康隆が提唱した「超虚構」の実践として本作には描かれている。
「小説における言語の原理的な機能を捉え直す」ことが持続的なテーマであった筒井康隆にとって、超虚構あるいはメタフィクションといった手法によって小説の限界を確かめること、これこそが本作で目指された達成であった。
超虚構、鴎外と逍遥の没理想論争(事実を写し出そうとする自然主義と現実に存在しない美を描き出そうとする反自然主義)から連なる自然主義偏重の流れの断ち切り
言葉のみで表される世界を描くことが目的であるがゆえ、文房具たちは擬人化のようでいて、決して擬人化ではない
萌え絵で読む虚航船団(http://www.geocities.jp/kasuga399/oebi_kyokousendan1.html)より
○人間らしい描写
眼鏡にしても姿が似ているからこそ同じ眼鏡がいちばんよく似合うと言うので
元来蒼白かった顔色が
眼鏡を外し服の袖で眼を横に拭った
彼の腫れぼったい瞼がやや上がってその下からは充血した眼球が覗き始める
○姿が想像しにくい描写
針の付け根がゆるんでいたので完全な円は描けなかったが
一日一度必ず日付のゴム印を回転させていたが
からだの一部に彼が内蔵しているコの字型の針を
彼の巨大なからだの一部に突き刺さったままでいる画鋲に気付いた筈であったがあいにく画鋲は消しゴムの表面に印刷されている英文の中のOという字の円内にすっぽり納まった形で突き刺さっていた
俺の父親は座布団だったと言うが(445)
ラテンアメリカ文学的な手法の援用(第1章、第3章)
マジックリアリズムの定義(寺尾隆吉)
- 非日常の視点から現実を捉え直す
- 非日常的な視点が個人のレベルでは完結せず、集団レベルまで伝播して一つの『共同体』を構築し、作品世界を満たす
→ 文房具の姿
ファンタジー……現実に立脚、現実からの移動を伴う
○第1章
・文房具たち=人間の精神の負の側面のデフォルメ
→ 身近な存在であり、「書く」ためのものでもある
・文具船=統一された人格? 人間というものの異化
・(文具船内での狂気)=(正気) → 戦争文学的、『キャッチ=22』など
・「記号にすら感情移入できなければならない」[8]
「で、今度はたまたま全部文房具というわけです。『虚航船団』というのは評価する人としない人にわかれちゃって、しない人というのは、(中略)文房具を出してきた荒唐無稽さが何にもなってないじゃないかというんです。ところが、こちらとしてみれば、どうして個々の万年筆であるとか虫ピンであるとかを記号として見られないのか、ということがまず不思議なんです。
(中略)そのへんにあるものを全て記号化するというだけでなく、今度は逆に記号に感情移入していくという段階じゃないかと思いますね。」
→ 『残像に口紅を』では、文字・単語そのものへの感情移入を要請
○第2章
・人類の世界史パロディ
「世界史のパロディではなく、世界史なのである。少くとも書く方では、そのつもりで書いている。」
でも、現実の世界史の模倣に過ぎない。見方を変えただけ→異化
第1章との対応で、「個」と「全体」の対比 かえって、個人単位の記述は希薄
残虐性を強調することで、更に感情移入を困難に
○第3章
・バラバラにされた時間と空間
→読者は、通常の読書よりも能動的に再構築する必要が生じる(『緑の家』の援用)
・「作者の」意識の流れ=シームレスに場面場面を繋ぐ緩衝材=最終盤では、同時にダレ場でもある?
フィクションと現実の境界の揺らぎ。現実の虚構への侵襲
○全体として
・1章・2章で組み上げられた虚構の衝突
ここに、 作者自身の時間・現実
読み手自身の時間・現実
も含められるか?
→旧世界(惑星クォール)の終焉と新秩序の幕開け
新世代=混血児であることの象徴性 敢えて緻密な描写がなされておらず暗示的なものにとどまる
小説でしかあり得ない現実と現実がぶつかりあうカタルシス
完全な虚構であるはずなのに、感情移入してしまう
・存在の鎖
「ただ、批評するほどの人なら少くとも、存在の鎖(宇宙を神・人間・動物そして無機物に至る堅固な階層的秩序と捉える世界観)に基づいた形而上的楽観論の体系ぐらいは心得ておいてほしいと言うにとどめ、言い残したことも含めて次回の反撃まで待機するとしよう。」[9]
神→人→動物→無機物
通常の神話……神と人との物語、あるいは神同士の物語
第3章「神話」……動物(鼬)・無機物との物語 ではこの場合の神とは何なのか?
・第3章の「神話」の意味
……起こった出来事を「神話」と呼べるのは後世の人々の視点
スリカタ姉妹「これからはじまるのは、あたらしい神話の時代なのだよ」(502)
神・英雄=文房具、人間=鼬 の図式で良いのか。
全て報告書では文房具の死は「戦死」
……描かれた多様な死に方も、全て後世からは同じ死として扱われる
・最後の台詞の意味?
→「夢」とは何か。夢を見る=何もしない、なら、今までは何をしていたのか。
→現実の無意味性?
タイラタの子供の発言(437)
意外に思われるかもしれませんが、演劇の方が近代小説よりもずっと早くからあったわけなので、ぼくが仕事として小説を選んだのは、先駆的な演劇の中の前衛性を取り入れた小説を書こうとしたんだと思います。本来は制約の多い演劇よりも小説の方がはるかに自由である筈ですからね。そしてそれを実現するためには、当時アメリカから日本に輸入されてきたSFこそが最適だと考えたに違いありません。これは大学でシュールリアリズムや心理学を学んだことや、父親が動物学者で、科学的認識の何たるかを自然に心得ていたこととも関係がありそうです。
SFを書きはじめてすぐ、自然主義リアリズムで書いていてはどうにもならんと思いはじめました。星新一は「内容が自然主義ではないのだから、その上書き方まで前衛的になっては、読者には何がなんだかわかるまい」と言っていたのですが、ぼくは当時の最前衛の文学作品を読み、その手法をSFやエンタメに取り入れるということをやっていました。ぼく自身がよいと思った前衛作品の魅力を自分のSFで読者にもわかってもらいたかったからですが、この時ですでに最前衛ではなかったわけですね。
でもやはり読者に理解されたい、読まれたいという思いがあり、最低限、理解可能なものにし、さらにどんな読者にでも最低限楽しんでもらえるエンタメ性を持たせました。純文学の雑誌に発表した作品にしても、いずれも基本的にはエンタメです。それがよく読まれてきた理由ではないかと思います。SFを馬鹿にしている純文学作家たちにしても、ほとんどは本物の前衛というのがよくわからなかったのではないかと思います。だからなんだか見せかけの前衛みたいになってしまう。前衛というのはまず、面白くなくてはならない。
[10]
面白い前衛、に本作はなっていただろうか。
2−4 落穂拾い
・ゴールキーパーとは何だったのか
「戦争ともなれば目茶苦茶はいくらでも起こり得るんだ。あいつはいつでもどこへでも出現しますぜ。戦争の最中にまたきっとボールを抱いてあらわれるでしょうな。」(160)
→ その後実際に、戦闘中に2回目登場
「隊員がほっとする間もなく隊長は怒鳴る。『ほっとしていてはいかんのだ。旋回だ。旋回だ』旋回して間もなく、コントロール・パネルの上に縞のシャツを着て楕円形のボールを持った男が出現する。『ゴールキーパーだ』と叫ぶなり消失したその男に対し隊長赤鉛筆はその突拍子のなさ非現実性並びに無責任ぶりをえんえんと糾弾しはじめる。しかし今艇は海岸めざして降下中だ。乗組員全員がそのことに注意を払わずゴールキーパーの出現について意見を述べはじめた。」(503)
・語られない「のちに詳しく述べる」
「なぜ彼が勤務中に便所へ立つ回数が多いのかという疑問及び彼が船内の便所で用を足そうとする時の一種の儀式めいた珍妙な仕草は船内の話題になっているほどだがこれはのちに詳しく述べる機会があるだろう。」(10)
「コンパスはいつの間にか自分が用便時の儀式を行わなくなっていることにまだ気づいていない。したがってあの奇怪で珍妙な仕草に関する記述の機会はどうやら永遠に失われるようである。」(382)
「第三者が消しゴムに話しかける際の複雑でやや卑猥な動作や消しゴムがそれに答える時の独特の淫靡な身振りと表情についてはまたのちに述べることとしよう。」(53)
「日付スタンプは緊張のあまりいつもの笑いを笑いながらのち詳述する奇異な儀式ののちに奏上する。『あー。わたしは今しがた尊き陛下が何ゆえこの者たちをここへお連れ遊ばしたか伺いたいと斯様申しておる誰かのことばを聞いた』消しゴムはのち詳述する奇異な儀式ののちに答える。」(415)
「してみるとここで死ぬことになるのであろうか。それが筋書きなのであろうか。おお。案の定だ。手っとり早く次頁に眼をやればそこには彼自身の死を念入りに活写した十数行がちらと見える。死を活写するとはこれいかに。あれを否定しなければならんぞ。それだけは。その部分を消さねば。本来の用途に従って消しゴムはその描写を消す。それによって彼自身も消えてしまう。彼自身に附随するいくつかの事柄、例えば奏聞に答える前のあの奇妙な身体による儀式についての事柄やそれから」以下約1ページ白紙。(490)
・伝染性の狂気(発言恐怖)=元ネタは『百年の孤独』の伝染性不眠症か?
・第2章の落穂拾い
・194ページ「流刑囚であった先祖がこの星へ持ちこんできたあらゆる書物」は374ページで言及。
・258ページ「評議府議長の大司教コンタチバ」は368ページでも言及。
・272ページ「憤怒の形相凄まじいペンの頭部はその後長く保存され現在は王室博物館の片隅(五号館一九六ケース)に飾られている。」は、373ページで下敷きと兄三角定規が目にする剥製です。
・280ページ「895年6月4日」の処刑広場は、406ページで金銭出納簿が飲んだくれる場所。
・293ページ「クォール史上初の宇宙船開発研究の記念」は458ページに再登場。
・295ページ「ユビータ」という幽霊は404ページで金銭出納簿が悩まされます。
・298ページ「タイラのゴオモリ」像は411ページで再登場。
・327ページ「他民族は女とみれば犯し子供も含めすべての者の掌に穴をあけ数珠つなぎにして戦車で引きずりまわし」のプロパガンダは432ページで糊に関する噂として再登場。
・340ページ「オビ山」は410ページで第7方面軍が戦闘をする場所。
・345ページの人工衛星群は506ページでオオカマキリたちの死因となる。
3 次に読む本
筒井康隆なら
・『虚人たち』(試みは最高に面白い。副読本として『着想の技術』もどうぞ)
・『残像に口紅を』(技法と物語が完全な一致を見た類稀なる傑作)
第2章っぽい話
・小林恭二『ゼウスガーデン衰亡史』
・矢部嵩『[少女庭国]』
架空の歴史書ものふたつ。
・石黒達昌『新化』「人食い病」「雪女」など
科学論文風の文体で書かれた純文学/SF。冷静な筆致なのに感情を揺さぶる手腕に脱帽。
第3章っぽい話
・円城塔『エピローグ』
・バルガス=リョサ『緑の家』
超虚構っぽい話
・スタニスワフ・レム『完全な真空』『虚数』
ガイドブックとしては木原善彦『実験する小説たち』がオススメです
[1] フランス語で最も使用頻度の多いeを一つも使わずに書かれた長編。日本語訳ではい段を使わずに訳された(塩塚秀一郎訳)。
[2] エッセイ「誤解してください」、中公文庫『虚航船団の逆襲』
[3] エッセイ「自作再見──『虚航船団』」、中公文庫『悪と異端者』
[4] エッセイ「プライベート世界史」、中公文庫『虚航船団の逆襲』
[5] エッセイ「自作再見──『虚航船団』」、中公文庫『悪と異端者』
[7] エッセイ「自作再見──『虚航船団』」、中公文庫『悪と異端者』
[8] 「メディアと感情移入(アニミズム)」〈巽孝之と対談〉、中公文庫『虚航船団の逆襲』
[9] 虚航船団の逆襲、中公文庫『虚航船団の逆襲』、初出『毎日新聞』昭和59年7月6日・7日夕刊
[10] 宙を行く創作の旅(上編) 筒井康隆 | 総合文学ウェブ情報誌 文学金魚http://gold-fish-press.com/archives/46333