機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

伊藤計劃『ハーモニー』読書会レポ

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

レポ、という名のレジュメの再構成。

2018年度新歓読書会にて行った『ハーモニー』読書会に向けて作成したレジュメより。お蔵入りさせるのも忍びなかったので、なんとなく公開。実際の読書会では、参加者から「ハーモニーはセカイ系なんですか?」という質問が飛び、「じゃあまずキミのセカイ系の定義を教えてくれるかな?」などという問答をした覚えがある。ろくでもねえな。

 

  1. 作者について

 伊藤計劃(Project Itoh)

 1974年生まれ。2006年に『虐殺器官』が第7回小松左京賞最終候補となり、ハヤカワSFシリーズ Jコレクションより刊行されて作家デビュー。その後ゲーム『メタルギアソリッド4』のノベライズや書き下ろし長編『ハーモニー』、その他数本の短篇を残し、2009年3月に逝去。絶筆となった遺作『屍者の帝国』は同様の経緯でデビューすることになった盟友・円城塔によって引き継がれ、共著の形で2012年に刊行された。

 プロ作家としての実働期間はごく短かったものの、その作品はフィリップ・K・ディック賞特別賞など数々の賞を受賞し、日本SF界に確かな爪痕を残した。武蔵野美術大卒で、1999年にはアフタヌーン四季賞佳作を受賞するなど、漫画作品もある[1]。シネフィルとしても知られ、はてなダイアリー[2]にアップしていた映画時評が本にまとめられている。

 

  1. 作品について

 2008年12月にハヤカワSFシリーズ Jコレクションの一冊として刊行。第40回星雲賞(日本長編部門)および第30回日本SF大賞受賞。

 

  1. 論点
  • 意識がない状態とはどんな状態なのか?

思考実験:「中国語の部屋

 ある小部屋の中に、アルファベットしか理解できない人を閉じこめておく(例えば英国人)。この小部屋には外部と紙きれのやりとりをするための小さい穴がひとつ空いており、この穴を通して英国人に1枚の紙きれが差し入れられる。そこには彼が見たこともない文字が並んでいる。これは漢字の並びなのだが、英国人の彼にしてみれば、それは「★△◎∇☆□」といった記号の羅列にしか見えない。彼の仕事はこの記号の列に対して、新たな記号を書き加えてから、紙きれを外に返すことである。どういう記号の列に、どういう記号を付け加えればいいのか、それは部屋の中にある1冊のマニュアルの中に全て書かれている。例えば"「★△◎∇☆□」と書かれた紙片には「■@◎∇」と書き加えてから外に出せ"などと書かれている。

 彼はこの作業をただひたすら繰り返す。外から記号の羅列された紙きれを受け取り(実は部屋の外ではこの紙きれを"質問"と呼んでいる)、それに新たな記号を付け加えて外に返す(こちらの方は"回答"と呼ばれている)。すると、部屋の外にいる人間は「この小部屋の中には中国語を理解している人がいる」と考える。しかしながら、小部屋の中には英国人がいるだけである。彼は全く漢字が読めず、作業の意味を全く理解しないまま、ただマニュアルどおりの作業を繰り返しているだけである。それでも部屋の外部から見ると、中国語による対話が成立している。[1]

思考実験:「哲学的ゾンビ

「物理的化学的電気的反応としては普通の人間と全く同じであるが、意識(クオリア)を全く持っていない人間」[2]

  

「意識がなくなると、どうなるの。ぼーっとして一日中椅子に座っているわけ」

「いいや、買い物、食事、娯楽、すべてが自明に選び取られる、ただそれだけだ。選択を必要とするか自明であるか、それだけなんだ、意識の動かす世界と意識のない世界を分かつものは。人間はね、意識や意志がなくともその生存にはまったく問題ないんだよ。皆は普段通りに生活し、人は生まれ、老い、死んでいくだろう。ただ、意識だけが欠落したそのままで。意識と文化はあまり関係がないんだよ。外面上は、その人間に意識があるか、意識があるかのように振る舞っているかは、全く見分けがつかない。ただ、社会と完璧なハーモニーを描くよう価値体系が設定されているため、自殺は大幅に減り、この生府社会が抱えていたストレスは完全に消滅する」

(文庫版p.264、以下引用は全て文庫版準拠) 

 

  • そもそも、ハーモニー後の世界ってどうなの?

◇「ストレス」を感じる意識がなくなってしまえば、世界からストレスは消滅する?

 ミァハが「意識がない」状態の恍惚を知れたのは、「意識」を取り戻してから。

→意識がなくなってしまえば、「幸福」も感じられないのでは?(同時に「不幸」も感じられなくなるのかもしれないが)

 

「(中略)外面上は、その人間に意識があるか、意識があるかのように振る舞っているかは、全く見分けがつかない。ただ、社会と完璧なハーモニーを描くよう価値体系が設定されているため、自殺は大幅に減り、この生府社会が抱えていたストレスは完全に消滅する(p.264)

わたしはシステムの一部であり、あなたもまたシステムの一部である。

もはや、そのことに誰も苦痛を感じてはいない。  

苦痛を受け取る「わたし」が存在しないからだ。(p.362)

 

 ◇自由意志による「自殺」は本当に不幸なことなのか?

→社会全体にとっては「悪」でも、個人では?

フーコーの生権力:近代以前の権力は、ルールに従わなければ殺す(従うならば放っておく)というものだったが、近代の権力は、人々の生にむしろ積極的に介入し、それを管理し方向付けようとする。こうした特徴をもつ近代の権力をフーコーは「生権力」と呼んだ。

 

◇合理的な判断だけで社会は成立するのか?

 「自らの命をなげうって子や家族を守る」などの自分の生にとって大きなマイナスとなる行動はとれなくなる。

 自由意志は本当に必要ないのか?

  

  • ハーモニー・プログラムは本当に成功したのか? 

 ミァハ&トァンによって実行されてしまったハーモニー・プログラム。しかし、これは仕組み上、ハーモニー・プログラムが実行されても、WatchMeを入れている人の意識しか消失しない。 

「お父さんたちがWatchMeをインストールしている全世界の人々の中脳に──誰に断りを入れることもなく──張った、医療分子によるニューラルネットソースコードは、わたしが大半を書いたの。幾つかの生府のWatchMe制御系には、バックドアが開けてある。わたしたちのためにね。それを使ってたくさんの人々の死への欲動に対し、双曲線的に高い価値評価を生成してやるのは簡単だった」(p.342)

 そして、WatchMeは子どもにはインストールされていない。 

 一方、せっかちなからだにWatchMeは入れない。WatchMeは駆け足のからだには、入れない。なぜって、WatchMeは恒常性を見張るものだから。こどもの日々成長するからだには恒常性なんてあり得ないから。(p.11)

 にもかかわらず、エピローグでは、全人類の意識が消失したかのように書かれている……ように見える。

 これが人類の意識最後の日。

 これが全世界数十億人の「わたし」が消滅した日。

 本テクストは、それについて当事者であった人間の主観で綴られた物語だ。(p.359)

 しかし、ここでは「人類」とは書かれていても「全人類」とは書かれていない。したがって、この「人類」という表現には解釈の余地がある。ここで書かれている「人類」は「一部の人類」のことなのではないか?

 あのコーカサスの風景の後の話をしよう。

 トァンが下山して間もなく、老人たちは意識の消滅、社会と構成員の完全な一致を決断した。権限を持つ老人たちそれぞれの部屋で、端末にコードと生体認証が入力される。瞬間、その調和せよという歌を天使たちは携えて、WatchMeをインストールしている人々の許へ、あまねく世界へ、その羽を広げていった。天使の羽が人々の脳をひと触れすると、もうそこに意識や意志はなかった。(p.360、以下、引用部の下線は担当者による)

 この引用箇所では「WatchMeをインストールしている人々」とさりげなく限定して書かれている。

 また、以下の箇所。

だから、暴動はすぐに収まった。

 皆それぞれが思い出したかのように社会システムに戻っていった。WatchMeをインストールしていた世界数十億人の人間は、動物であることを完全にやめた。(p.361)

 ここでも「WatchMeをインストールされた世界数十億の人々」と限定的な表現が使われている。

 これらを読む限り、作者は「ハーモニー・プログラム」の効果がWatchMe使用者に限定的であることを自覚しているように思われる[3]

 すなわち、最初の引用箇所の「人類」については、

   ハーモナイズされた大人たち=「新人類」

   そのままの状態の子どもたち=「旧人類」

 という区分を語り手がしており、「新人類」のみを「人類」とみなしているという考え方ができる、ということ。

 では、子どもやバクダッド郊外の人々など、WatchMeを入れておらず、ハーモニクスされなかった人々はどうなるのか?

  老人たちがそれぞれのコードを入力し、ハーモニー・プログラムが歌い出した瞬間、人類社会から自殺は消滅した。ほぼすべての争いが消滅した。個はもはや単位ではなかった。社会システムこそが単位だった。システムが即ち人間であること、それに苦しみ続けてきた社会は、真の意味で自我や自意識、自己を消し去ることによって、はじめて幸福な完全一致に達した。(p.362) 

 「ほぼ」すべての争い、と記されているが、これは、「(人類社会から)完全に争いがなくなったわけではない」ということの裏返しの強調な気がする。

 それでは、いったいなぜ争いが残っているのだろう? 意識を失って社会との完全な調和を得た「新人類」内で争いが始まるとは考えにくい。

 では、誰と誰の争いなのか。思うに、少なくともこの時点では「人類の外部」の中での争い、あるいは「人類」対「人類の外部」の争いがまだ残っていたのではないか。

 では、その「外部」とは何か? それはまだWatchMeをインストールされていない子供たちかもしれないし、WatchMeが普及していない地方の住人かもしれない。

 いずれにしろ、ハーモニー・プログラムがエピローグの時点では完全無欠でないこと(世界は「ユートピア」にはなり得ないこと)、そしてどうやら作者がそのことを意識していたこと(単純な見落とし・ミスではないということ)は確かな気がする。わざわざ冒頭に「WatchMeは子どもにしか入っていない」という描写を持ってきているのも気になるし。

 

 ただし、最初の「人類」について、ハーモナイズされた「新人類」とそのままの状態の「旧人類」という図式で、「新人類」のみを「人類」とみなしているのならば辻褄は合うが、〈大人vs子ども〉の図式として見ると、子ども時代の大人たちへの反抗から出発したミァハたちの動機が、大人になったら自分たちのために子どもたちを見捨てて新人類になるというものに変わってしまっており、若干カリスマ性を削ぐというか、一貫しないものになってしまっている。

 

信頼できない語り手としてのトァン

 デビュー作『虐殺器官』や短篇「From the Nothing, with Love.」で、伊藤計劃は一人称の語りを活かした「嘘」を作中に仕込んだ前科がある。(虐殺器官については「虐殺器官の大嘘」でGoogle検索のこと)

 冷静に考えてみて、「トァンがWatchMeを入れていない人のことを忘れている」とは考えがたい気がするし、ミァハにしても、「WatchMeを入れてない人のことを考慮してない」なんてことはないように思える。

しかし、作中ではそのことについて触れられていない。

 では、ハーモニー・プログラムの実行には、「世界から意識を消失させる」のではない、真の動機があったのか? あるいは、それ以外の描写で嘘があったのか?

 

 最終盤のチェチェンでの二人の対話場面は少し怪しい。ここでミァハは、トアンの問いかけについて2回何だか曖昧な回答をしているのだ。その曖昧な回答(「キアンに連絡した理由」と「意識のない頃に戻りたいのか否か」の2つ)について考える。

☆なぜミァハはキアンに電話したのか?

 トァンによる推測では、殺したくなかった(一緒にハーモニーの完了を迎えたかった)キアンが偶然自殺するリストに含まれていたことを知り、止められない事態への自己正当化をするためだとされているが、ミァハは二度「そうなのかな」と曖昧な返事をしていて煮え切らない。 

「キアンは、死ぬ必要がなかった。だからあんなこと、ミァハはキアンに連絡したんでしょ、あなたは死ぬ必要があるなんて」

「……そう、なのかな」

「あなたの『意識』は自己正当化をする必要があった。あのときは。既に決定済みの、止めようがない事象に対して」

「そうなのかな」(p.349)

 この解釈には、以下の2通りがあると思う。

  • a.本当に自己正当化が理由だが、ミァハは自分がキアンに対して情が残っていたことに自己嫌悪を覚えていて、素直に認めたくない。はぐらかしている。
  • b.実はトァンの推測は間違っていて、真の理由があった。

 aは、part3のラストシーンとも対応していて、何だかそれっぽい。

 しかし、bに関しては、aの自己正当化だという理由の前提は「自殺者リストがランダムであること」だが、その根拠がミァハによる発言しかないこともあって、一応検討しておくべきだと思う。

「キアンが死んだ。父さんも死んだ。あなたが殺した」

 ミァハは真剣な顔でうなずいた。

「仕方なかった。ランダムに選ばれた結果だけど(p.347) 

 では、ランダムではなく、キアンを狙い撃ちしたと考えた場合、どんな理由があるか。

  •  b-1 少女時代に3人で自殺を試みたときに裏切られたことへの復讐。
  •  b-2 トァンを誘導するため。 

 b-1のように、単純に復讐がメインなら、トァンもその時に狙い撃ちで殺せば良かったのではないか。

 b-2はいささか陰謀論じみているし、踏み台にされたキアンがかわいそうだが、ミァハならやりかねないような気がする。自らの意図を知らせるために、かつての「同志」だったトァンを呼び寄せる、みたいな。[4]

 

ミァハは本当にハーモニクスを実行したかったのか?

 「じゃあ、ミァハは戻りたかったんだ、あの意識のない風景に。自分の民族が本来はそう在ったはずの風景に」

 ミァハは小さくうつむくと、そっとうなずいて、

「そう、なのかもしれない。ううん、きっとそうなんだね」(p.348-349)

 自分に言い聞かせるような「ううん、きっとそうなんだね」というのはどういうことか。ミァハは、自らが成そうとしているハーモニクスについて、本当に正しいことなのかどうか迷っているのか?

「全世界から「わたし」を解放する」という大きな目的を持っているものの、意識を得たことで感じた生への未練があり、それが答えを鈍らせたのではないか?[5] 

 

 そして同時に、ミァハは伊藤計劃が言うところの「『世界精神型』の悪役」である、という考え方もあると思う。

世界精神型の悪役とは何か。(中略)世界に認識の変革を迫るヴィジョンを演出することで、ある事物の本質を抉り出すことそのものを目的とし、どんな現世利益的な欲も動機や目的にはしない、そんな悪役。世界を支配するのでもなく、政治的な目標を達成するのでもなく、金をもうけるのでもなく、ただある世界観を「われわれ」の世界観に暴力的に上書きする時間を演出する、それだけを目的とした悪役たち。(中略)ある物事を主人公たちに見せつけることそのものを目的とし、その見せ付ける過程が映画になってゆく、そんな悪役を「世界精神型」と呼ぶ。

「ゾディアック」 - 伊藤計劃:第弐位相 http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20070702/p1

 ミァハが「『世界精神型』の悪役」であり、自らの思い描くヴィジョンを現実に演出することが望みだったのだとすれば、その動機(子ども時代の大人たちへの反抗から出発したはずが、大人になったら自分たちのために子どもたちを見捨てて新人類になるという一貫性を欠くものになってしまっている)は、一見変化しているように見えるが、少女時代から軸はぶれていない。そして、「WatchMeを入れていない子どもたち」の存在に気付いていたとしても、ヴィジョンの現出が望みなだけならば、細かいことだと切り捨てたということには解釈できないか。

 

 そしてもうひとつ気になるのが、ミァハはトァンに撃たれる直前まで、トァンの殺意に気が付いていないこと。チェチェンでの対話を通して、彼女はトァンが自分の意志に同意してくれると信じていたのか。

 わたしはね、永遠と人々が思っているものに、不意打ちを与えたい。

 止まってしまった時間に、一撃を喰らわせたい。

 わたしたち三人の死が、その一撃なの……。そうわたしは訊いた。世界って変わるの。

 わたしたちにとっては、すべてが変わってしまうわ。そうミァハが答えた。(p.336)

 社会に溶け込んで「大人」になってしまったキアンではなく、社会に折り合いを付けながら少女時代の精神を保ち続けているトァンならば、自分の思いを理解してくれるのではないか……というミァハの考えが、チェチェンで無防備にトァンを迎えたこと、ひいてはキアンを踏み台にしてミァハをチェチェンまで呼び寄せたことに繋がるのではないか……(もっとも、ミァハがそこまで知り得たかどうかは書かれていないので不明)。

 実際、トァンはハーモニー・プログラムの実行を止めていない(ミァハを撃ち殺した時点で、老人たちを止める術は失われている。そして下山後まもなくに、「わたし」の消滅を受け入れている)。「WatchMeを入れていない子どもたち」の存在に気付いていた上で受け入れていたのだとすれば、トァンは世界の破綻よりもミァハの遺志を、ミァハへの「私的な」憧れを優先したことになる。

 わたしはその肉体を肩に担いでバンカーのなかを歩いて行った。ミァハに言われたとおりだ。ウーヴェに言われたとおりだ。世界がどうなっているかなど、わたしには関係がなかった。この瞬間、どこかの都市でピンク色の迷彩を着た兵士たちが非殺傷性兵器で押し寄せる群衆を何とかしようとしていても。ナイフを持った男たちが互いを切り刻んでいても。そしてそのすべてを止めるために、老人が最後のコードを入力しようとしていようとしていても。(p.351)

ミァハ:ずっと子ども

トァン:折り合いを付けていたが、最後もミァハを殺して「わたし」を消すという折り合いを付けた。自由意志で復讐を果たし、自由意志で自由意志を消した。

キアン:責任を取って死んだ。大人。

 

E.ミァハはなぜハーモニクスを目論んだのか?

 そもそも、自殺(=自由意志の行使)をして社会を拒絶しようとしたミァハが、自由意志の消滅(=ハーモニクス)を目論んだのはなぜなのか?

 ポイントは以下の2点。

 この辺りは、

hoshihime.hatenablog.com

を参考にして頂きたい(実際の読書会では時間切れでほとんど触れられなかった)。

 

 ちなみに、劇場版『ハーモニー』では、トァンとミァハの関係性が原作よりも強調され、トァンの動機を示すラストシーンの台詞も、「変わってしまったミァハを許せない。憧れだったミァハのままでいてほしい。今のミァハは新たな世界へは連れていきたくない」というものに変わっている。

 

 

 以下余談。

  • ミァハ、本当に意識あるのか問題

 どこまでエミュレートできてたのか謎。

 ここを引っくり返されると、前提が覆りまくってかなり苦しいが……。

 

  • WatchMe、実は子どもにもインストールされてんじゃね? 問題

 エピローグの謎は解決する。表向き明らかにされていないだけで、大災厄を経験した老人たちが、子どもたちをコントロール外に置くとは考えづらいし、理にはかなっている。

 が、少女時代のミァハの言動の意味が大きく異なってくる。

 

 

 

◯付録 エピローグに潜んだ「大嘘」が作者のミスでないことを示唆するコメント(飛浩隆経由)

  1. 『ハーモニー』への疑問。『虐殺器官』を読み誤ったことから、『ハーモニー』を慎重に読み解かなくては、「飛よ、読み誤るな」と自らを戒める。
  2. 伊藤計劃「ぼくの作品は、全て冒頭に結末が現れているんですよ」
  3. 病床の伊藤計劃に『ハーモニー』世界の子どもたちについて尋ねたこと。
  4. 伊藤計劃から、「彼らは別の人類だと思っています」という返答。

以上の内容がかなりぼかした韜晦交じりで曖昧な文章の中で示されている。

 

飛浩隆@Anna_Kaski 10月24日

(選考会の前にご本人に確かめた。限界はあったけれど。(追悼号に書いた文章をごらんください。))

飛浩隆@Anna_Kaski 10月24日

あれは追悼文ではなくて発言を残しておくためのものだったのだが、その甲斐はあったということかしら。まあかれの発言がそのままシンジツかどうかはわからない。

 

[1]中国語の部屋Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/中国語の部屋

[2]哲学的ゾンビ - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/哲学的ゾンビ

[3] なお、この辺りの作者自身からのコメントは、飛浩隆経由で残されている。レジュメ最終ページの付録を参照。

[4] では、トァンを殺してキアンを呼び寄せるというパターンもあり得たのか? という疑問も湧く。

[5] それこそ、上に挙げたaでミァハが自己嫌悪していた感情(=ハーモニクスされてしまえば消えてしまう感情)が生じて。そして、だからこそ、回りくどくトァンをチェチェンに呼び寄せたのではないか? というb-2的な考え方もできなくはない。子どもっぽい、自らのできることを誇示したいという思いがミァハになかったと言い切れるのか、と言われれば、社会へのテロとして少女3人の自殺を演出しようとしていたミァハなので、なんとも。

 

 

 

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

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ハーモニー (1) (カドカワコミックス・エース)

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