機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

「楽園」を追い求める二人の至る道と歴史――マリオ・バルガス=リョサ『楽園への道』

 

 

 

 この世で一番小説が上手いんじゃないか。バルガス=リョサの作品を読むたびに、そう思わされてしまう。とんでもない馬力と、繊細な詩情と、それを表現する筆力がひとりの人間に宿っている奇跡じみた存在——それがバルガス=リョサなのだ。

 池澤版・世界文学全集に収録された本作でも、その力は遺憾なく発揮されている。物語は二人の人物の行動が、章ごとに切り替わって順々に描かれていく。ひとりは高名な画家ポール・ゴーギャン。そしてもうひとりは、十九世紀初頭に活躍した女性解放運動と労働組合活動の指導者、フローラ・トリスタン。一見関係がないように見え、描かれる時代も異なるこの二者だが、なぜこのふたりではならなかったのかが、本書を読むにつれて浮かび上がってくる。

 まず第一に、二人は題にある通り、「楽園」の追求者であったことだ。結婚、離婚を経て、夫からの追跡を逃れるために各地を転々とするフローラ。彼女はそのなかで、結婚という既成制度は女性を男性の奴隷に留めおくためのものにすぎないと悟り、各種の社会活動へと没頭していく。一方ゴーギャンは、芸術活動への行き詰まりからタヒチを訪れ、西欧社会という無意識的に組み込まれた既成概念の外へ、真の芸術を追い求めていく。両者に共通するのは、いま・ここにある現状を良しとせず、解放された土地を追い求める精神性である。とりわけ重要なのが性の概念だ。フローラは自身の屈辱的なエピソードから、男尊女卑的な価値観からの社会の解放を願う。そしてゴーギャンは、凝り固まった西洋の性規範——一夫一妻制、異性愛——にとらわれない、自由なタヒチでの経験をもとに、自身の芸術を追い求めていく。本作の中でも、タヒチゴーギャンが現地の少年(といっても性の区別がなされていないような文化的背景はあるのだが)との交流を経て、自らの中の「女性性」を発見していく描写は本作の中でも白眉である。

 そしてさらなる共通点は彼らにとってペルーが重要な土地であったことだ。フローラの活動家としてのきっかけは、ペルー人女性たちの自由さに触れたことであり、ゴーギャンタヒチへの憧憬は、幼少期のペルー滞在が大きいという。ペルー出身であるバルガス=リョサが彼らを描こうとした所以もその辺りであろう。

 そして最後に——これが最も重要なことかもしれないが——フローラとゴーギャンは、祖母と孫に当たる血縁関係にあたる。つまり本作は、西洋から逃れ、「楽園」を追い求め続けた血族の、生から死を綴った戦いの記録でもあるのだ。それは同時に、彼らを代表とした、その他大勢の世界を変えてきた人々の戦いの歴史の隠喩でもある。二人を視点に据え、一九世紀から現代に至るまでの西洋の価値観の転覆を語る、バルガス=リョサ流の全体小説になっているのである。大量の歴史的事実や込められた豊富な隠喩を携えながらも、それを感じさせない読み心地を味わえるのは、やはりバルガス=リョサの巧みな語り口に拠るところが大きい。密に寄り添いながら、時に「おまえ」とフローラとゴーギャンに呼びかけてみせる自由な三人称は、過去作の『緑の家』『都会と犬ども』のようなセリフをまたいで場面も視点人物も切り替えてみせるほどの前衛的で超絶技巧な手法ほどではないにせよ、その語りの巧みさを味わうには十分なものである。ぜひ一読を勧めたい。