機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

漫才の中の魔術的リアリズム――Aマッソ「新しい友達」より

 お笑いコンビ・Aマッソのネタに「新しい友達」というものがある。実際の映像は「Aマッソ 新しい友達」などで各自検索して頂くとして、以下ではそのネタの話をしたい。

 まずボケ担当の村上が、ツッコミ担当の加納に「新しい友達ができた」と言う。「Pちゃん」と呼ばれるその人物は、「大田区によく遊びに行く」「怒ると耳を潰そうとしてくる」「家に遊びに行くと煎餅を作ってくれる」「Pちゃんと遊んだ帰りには身長が4ミリになる」など、明らかに奇妙な特徴を備えている。村上の話を聞いた加納は、「Pちゃん=プレス機械」であると喝破する。遊びに行くのは京浜工業地帯で、煎餅はプレス焼きだと言うのである。 

 ここまでなら、まだいい。漫才におけるボケとして、友人がプレス機械だったという設定は、常識から逸脱した奇想ではあるものの、ツッコミが漫才内で機能しているため、客はその逸脱を笑いとして受け止めることができる。

 だが、ツッコミの加納は混乱する村上に対して、更に「その喋り方(=音)は朝日精機の機械やろ」「型番はiTP-60W」「(村上にPちゃんの出身地を聞いて)名古屋? 本社やん」と、明らかにズレたツッコミをする。

 ここにおいて、漫才内の安寧は崩れ、客席は否応のない不安に駆られることになる。この不安とは何か? 目の前で繰り広げられている漫才が、自分の足元と地続きの現実ではないと気付かされた恐怖である。

 落語家・桂枝雀は笑いを「緊張と緩和」という言葉を用いて分析したが、その分析は客が客席という舞台と隔てられた場所にいるからこそ、成立しうる代物である。笑いは、他人事だからこそ笑える。バナナの皮で転ぶ人を見て笑うことは有り得ても、転んだ当人が笑うことは考えにくい(無論、自分の置かれた不幸な境遇に思いを馳せて思わず笑ってしまうことはあり得るだろうが、これは当人の中で主体と客体が分裂しているに過ぎない)。 

 だが一方で、客席と舞台は隔てられてはいるものの、常識という共通認識は共有されている。そうでなければ、バナナの皮で転ぶ=おかしい、という図式すら成立しなくなってしまう。舞台上の芸人と、客席に座る客、この二者において「おかしさ」の原理、共に認識していると暗黙の内に了解されている常識が共有されているからこそ、芸人は客を笑わせることができ、客は芸を見て笑うことができる。

 しかし、Aマッソのこのネタでは、それが共有されていないことが、ネタの途中で露呈される。しかも、最初は「友達がプレス機」という一種の「狂気」に対するカウンターとして存在していた筈のツッコミ――「正気」であり、客席の代弁者――も、実際には「狂気」であり、客席の彼岸にいる何者かであり、決して客席に座る我々とは同じ人間ではない、ということが、丁寧な「フリ」の後に明かされるのである――そう、「新しい友達」におけるサビは加納の豹変であり、それ以前の村上のボケ「友達=プレス機」はフリでしかないのだ。

 この漫才をある知人に見せたところ、「これはホラーだ」と言われたが、その感想は実に正鵠を得たものであると言えよう。正気であると思いこんでいた人間の突然の裏切り、「漫才」というネタのフォーマットを逆手に取った企みに、客席は驚かされ、そして恐怖する。こうした企みをたった4分間で表現したAマッソの発想力・構成力は特筆すべきものであろう。

 

 そして、このネタを初めて見た時、私が感じたのは――ここからが、ある意味本題ではあるが――、ラテンアメリカ文学における魔術的リアリズムとの関連である。

 寺尾隆吉が提唱する魔術的リアリズムの定義は、a.非理性的な視点を語り手が持つこと、b.その非理性的な視点が共同体で共有されていること、の2点であった。

 ボルヘス、ビオイ=カサーレスらのラプラタ幻想文学と区別されている点は、ボルヘス、ビオイらの小説では、奇妙なことが発生したとしても、語り手自身は理性的であり続けるという点だ。即ち、わかりやすく言い換えると、変なことを変だと思えるということである。

 故に、一般的な漫才は、この二分に当てはめると、ラプラタ幻想文学に該当する。ボケ(=非理性的な現象)を、ツッコミ(=理性的視点)から眺めることで、そのズレを客に理解させ、笑いを生み出すのである。

 だが、Aマッソのこのネタでは、ツッコミが理性的な視点を持ち得ない。そればかりか、非理性的な視点から、さらに奇妙な現象(音から型番を言い当てる、生産メーカーの本拠地を知っている)を引き起こすのである。

 そして、Aマッソのボケ・ツッコミの二人の間においては、「友達がプレス機械でありえる」という認識が共有されているのである。これはbの非理性的視点の共同体での共有、という項目に該当するものと思われる(二人だけで共同体、と言うのはやや厳しいかもしれないが)。だからこそ、私はこのネタに魔術的リアリズムを見出したのである。

 

 思い返してみると、漫才にはシュールレアリズムが溢れている。先日見た別のコンビのネタでは、部屋がプリクラ機に占領され、風呂場を火力発電所に改良し、燃料にプリクラの紙を転用する男の話*1が出ていた。他にも、ミョウガに首輪を付けて散歩させる女性の話*2もあった。いずれも最近の奇想系アメリカ文学を彷彿とさせるではないか(そして、恐らく翻訳者は岸本佐知子氏だ)。

 これらが、「漫才」として、「笑い」として受け入れられているという現実こそが、ある種奇妙な現実なのではないか? 現代の漫才は魔術的リアリズムやホラーに近接し得るという事実に、より多くの人々は気付くべきではないか(あるいはもう気付いているのだろうか)、そう思った次第である。

 

追記:Aマッソ加納がwebちくまに連載しているコラム(http://www.webchikuma.jp/category/kano)は、岸本佐知子の直系を感じさせる(実際インタビューか何かで読んでいると言っていたと思う)良いコラムなので一読の価値あり。『文藝』に初の短編小説が掲載予定だったのだが、先日の不祥事で宙に浮いてしまい、個人的に残念で仕方ない。

 

 

*1:金属バットのネタ

*2:Dr.ハインリッヒのネタ