機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

二十歳の誕生日、何をしていたか

 二十歳の誕生日、あなたは何をしていただろうか?
 わたしは「見世物小屋展」にいた。

 発端は小学生時代に遡る。当時クラス内でさくらももこのエッセイ本が大流行しており、当時刊行されていたものはほぼ全て貸し借りのなかで読んだと思う。いまでも世界最高のエッセイストはさくらだと思っているが(ユーモア部門なら間違いなくぶっちぎりだろう)、それは当時の刷り込みによる。
 その中に収録されていた糸井重里との対談の中で、「二十歳の誕生日にしていたことが、その後十年の人生を象徴する出来事になる」と語られていたのだった。曰く、人と賑やかに過ごした人は交流ゆたかな賑やかな十年に、静かに自分と向き合った人は落ち着いた十年になるという。
 小学生のころから、この言葉がずっと頭の片隅を占め続けてきた。
 そして、とうとう二十歳の誕生日を迎えたのだった。

 その日の出来事が十年を象徴するなら、なりたい十年に合わせてその日を迎えねばなるまい。
 そう思ったわたしは、数ヶ月前からどう過ごすべきか、策を練った。そして最終的に落ち着いたのが、「民俗学博物館に行く」ことだった。
 大阪にある国立民族学博物館は、「太陽の塔」で有名な万博記念公園の敷地内にある。
 世界各国の文化を示すアイテムを、山のように収蔵・展示しており、映像コンテンツも含めると、一日あっても見切るのには到底足りない。怪しげな仮面や聞き慣れない民族音楽を奏でる楽器など、エキゾチックな情報量の大波に揉まれていると、段々と自分のいる場所が日本なのか、そして自分が何なのかすら分からなくなってくる……そんな不思議な場所だ。
 家から程遠くない場所に位置していたこともあって、それほど頻回に通い詰めたというわけではないにしろ、幼少期から何となく親近感を覚えていた場所だった。
 ここで二十歳の誕生日をひとりで過ごしたら、その後の十年はどのようなものになるのだろうか?
 自らの中に降りていくこと、自分の居場所すら分からないあいまいさに身を委ねること、しかしその場所を主体的に選び取ること……。
 わたしにとって大切なものが、民博(そう略すのだ)で過ごすことで得られそうな、そんな気がした。

 その日は、大学の講義をサボったのか、そもそもなかったのか定かではないが、少し遅めの朝に起きたことは覚えている。
 ひとりで普段とは少し違う路線の電車に乗り、SFじみた外観のモノレールに乗り、怪獣じみた非現実感を帯びた太陽の塔を眺める。そして、わたしはチケットを買い、民族学博物館に入っていった。
 その時まで知らなかったのだが、当時の特設展は「見世物小屋展」だった。
 電球を丸呑みする男(いわゆる「人間ポンプ」)の映像と、レントゲンで胃の中に確かに存在する電球の画像が並列された館内には、平日の午前中ということもあって、人出はまばらだった。ひっそりと展示を巡り、ケースに収められた蛇女や珍獣を描いた当時の看板を眺め、怪しげな雰囲気のなか、わたしは何とも言えない充実感を味わっていた。
 きっとそれは、「こんなところで二十才の誕生日を過ごした奴は、そういないだろう」というある種の優越感に支えられたものだったに違いない。
 そして、まだ見ぬ先の十年への希望と不安とが入り混じった、今から見ればみずみずしい感性が、現実のなかに現れる非日常——それは太陽の塔も、民族学博物館自体も、思えばそうだろう——を吸収していった。

 さて、今日は誕生日だ。
 まだ十年は経っていないけれども、あの日抱いたような、漠然とした「理想」の軌跡を描けているだろうか?
 そして、やはりその軌跡は、あの日に選び取った選択が象徴するものなのだろうか?

 まだ自分ではわからない。ただ、この答え合わせができるまでは、何とか生きていこうと思う。

 そう思えるだけでも、二十歳の誕生日に、あの選択をしたことに意味はあったのかもしれない。そんなことを思う。

 

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