これはわたしの友人の桃山千里さんが、実際に体験した話である。
桃山さんは当時医学部在籍中で、最終学年ということもあり、二月に予定された医師国家試験に向けて、勉強の山場を迎えていた。
医師国家試験は、受験者全体の合格率は約九割と聞くと簡単に思えるかもしれないが、実際には膨大な医学知識(その大半は無味乾燥な事実関係である)の暗記を要求され、六年間の詰め込み式医学教育を経た者たちだからこそ、その合格率を維持できているというからくりの代物である。
十一月を迎え、各種模擬試験や卒業試験なども控えるなか、桃山さんは実家から歩いて二〇分ほどのファミレスに行くのが日課となっていた。自室でひたすら暗記ものをこなしていると息が詰まってしまうので、運動と息抜き、気分転換も兼ねて、少し歩いたところにあるチェーンのファミレスで、三時間ほど勉強することにしていたのだ。
いつものように過去問を解き、疲労から脱力しそうになりながらも、車が十センチ左をすり抜けていく、いつもの狭い路地を歩いていく。危なっかしいが、住宅地であるこの街を抜けて帰宅するには、この道を通るしかなかった。二十三時過ぎの暗い闇を、通り過ぎる車のライトだけが明るく照らす。
通り抜ける道の途中に、こじんまりとした噴水があった。中心の噴水を囲むように石造りのベンチが据え置かれ、車道もそれに合わせて円状に迂回する作りになっている。桃山さんはいつも横断歩道を越え、噴水の周りを半周するように歩いて、また向かいの横断歩道を越えて帰っていた。
その日も、普段どおりの帰路であった。鉛のような疲労感を抱えながらも、何とか帰り着こうと足を動かす。
そこに見えたのは、ある外国人男性の姿だった。
ほぼ毎日、同じ時間にファミレスから帰宅していた桃山さんは、そこの噴水のベンチでたたずむその男性に見覚えがあった。見た目は四〇代くらいで、ちょっとユーモラスさをたたえた大きなヒゲが特徴的な、白人の男性だ。帰る途中に休憩しているのか、いつもベンチの横に自転車を置いていた。
またあの人か、そう思って通り過ぎようとした桃山さんの目に映ったのは、赤い帽子とオーバーオールだった。
そう、そこにいたのは、あのスーパーマリオだった。
いや、厳密にはマリオではないだろう。なにせマリオはビデオゲームの中の存在だ。現実にはありえない。
だが、そこにいたのは、本当にマリオだった。マリオのコスプレをした、あの男性がベンチに座っていたのだ。
思えば、その顔を見るたびに、何かに似ていると思っていた。あのヒゲなら、コスプレしたら映えるだろう。顔も濃いし、そう、マリオとか……。
そう思いながら、毎日通り過ぎていた男性が、その妄想を顕現した格好で、眼前に現れたのである。
桃山さんは一瞬混乱した後に、納得した。
なんだ、ハロウィンじゃないか!
だが――この当時、桃山さんは本当に一心不乱に試験勉強に取り組んでおり、日時の感覚を一時的に喪失していたのだが――その日はハロウィンではなかった。十一月十一日。ハロウィンにしては遅すぎる。約二週間遅れてコスプレをする人など、見たことがない。しかも、午後十一時に、ひとりで。
桃山さんはそれ以来、勉強する場所を変えた。自分の見間違いだったのかもしれない、そんな疑念は晴れないが、なぜか心にざわめくものを感じていた。
結局、その後桃山さんは試験に合格し、地元を離れたため、その噴水には以後訪れていない。
なお、桃山さんの誕生日は十月三十一日だったことを申し添えておく。