機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

寝付きに関する思い出たち

 昔から寝付きのわるい子どもだった。

 小学校二年生くらいから、既に眠れない夜の記憶があるし、旅行先などでは同行者が寝静まってしまったあと、明日の予定を思い浮かべて、早く寝ないと楽しい旅が台無しになってしまう……と思いながらますます眠れなくなってしまう、などということを繰り返していた。

 はじめて睡眠薬を貰ったのは大学四回生の頃だったと思う。当時、家関係のことで色々とごたごたしており、元々疎外感を覚えていた大学生活の維持に困難を覚えだしていたころ、大学の保健管理センター(要するに保健室)の戸を叩いた。

 精神科の医局員としてふだんは働いている*1その医師に事情を話し、最近は寝床に入っても二時間はゆうに眠れないのですと伝えると、あっさりと薬を手渡してくれた。

 一回目に水で薬を飲み下し、効果の発現を待つまでの高揚とした気分は忘れられない。小指の先ほどの錠剤で、人間の精神に本当に作用を与えられるのか? 疑問とそれに挑むような心持ちの中間点での揺れに身を任せながら、その日は眠りに落ちたように思う。

 それからしばらくはその薬を飲み続けていた。たまに「この薬は効かなくなったかもしれない」と言って別の薬を貰うこともあった。それは、本当に効かなくなったと思っていたことが半分、そのほかの薬では主観的な効果発現にどれほど差があるのか実地で体験してみたくなった、というのがもう半分の理由だった。

 何種類か薬を飲み比べた中で面白かったのは、ロゼレムという薬だ。これは他のベンゾジアゼピンやその類似物質を薬としたものと作用機序が異なり、メラトニンという睡眠に関係したホルモンを増やすことで「自然な眠気」をもたらすという謂れであった。個人差もあるのだろうが、これは体に合わなかった。飲んでその夜眠れることは眠れるのだが、次の日にも眠気を持ち越してしまうのだ。

 他の薬ではあまりなかった現象だけに、不思議に思って自分なりに検証をしてみたところ、ロゼレムというその薬は、自分に対しては「睡眠時間を強制的に八時間にする」という作用があることに気がついた。

 つまり、夜の睡眠時間が六時間だったとすると、日中に猛烈な眠気が訪れ、足りない分の二時間分だけ寝てしまう、というサイクルをもたらすのだった。自分なりの仮説に従い、朝起きる時間に合わせて八時間きっちり睡眠を取れるよう就寝時刻を調整すると、日中の眠気は嘘のように消えた。

 面白い作用の薬もあるものだ、そう思って睡眠薬抗精神病薬抗うつ薬などの薬理作用を勉強するうえでのモチベーションにつながったので、決して悪いことだったとは思っていない。いやむしろ、身を持って体験できただけ、座学の知識しか得ていない他の人びとよりもよいのかもしれない、なんて少しだけ思っていたりもする。

 いまでも寝付きに関しては苦労することが多いが、服薬や生活上の工夫(ハーブティーを飲んでみるとか)を覚えたことで、昔よりは不眠に対してのアプローチする手段が増え、何とかやっていけるようになった。

 今日もわたしは寝床へ向かう。いつか永遠の眠りにつくまでのあいだ、真の眠りを手に入れられる日々が訪れるとよいなと思いながら。

 

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「奇妙なことに、一錠の薬が宇宙を

消し、渾沌を呼ぶことができるのだ。」

——ホルヘ・ルイス・ボルヘス「眠り」(現代詩文庫『ボルヘス詩集』より)

*1:その後臨床の講義で講師として教壇に現れたことがあり、その際は何となしに気まずさを覚えた。