機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

唖然とするような怪作と歴史的名訳との臨界点——アルフレッド・ベスター『ゴーレム100』

 

 

 怪作である。真っ赤な表紙とぶ厚めの背表紙。過剰なまでのタイポグラフィと、ロールシャッハ・テストを思わせる不可思議な挿画たち。何しろ開始二〇ページ目から出てくるのがヘブライ語の楽譜である。パラパラとめくるだけで、その異様さは否が応でも伝わってくる。

 だが異様なのは、そうした視覚的な面だけではない。水の欠如した22世紀のスラム都市で、妖しく集う八人の有閑マダム「蜜蜂レディ」たち。行われる悪魔的儀式。そして召喚される人智を超えた怪物・ゴーレム100と、それがなす邪智暴虐の数々。彼を追いドラッグを注射して無意識の世界へ飛び込む特殊知覚の持ち主、そして二重人格者である天才香水デザイナーとの恋愛……。

 ワイドスクリーン・バロックの古典的名作であり、SF史上のマイルストーン『虎よ、虎よ!』をベスターが書いたのは一九五六年。以後二〇年ほどのブランクを経て、『コンピュータ・コネクション』でSFへ復帰を果たした後の長編第二作目*1となる今作も、その絢爛豪華なヴィジョンと詰め込まれたありったけのアイディア、そして躁的なまでのプロット展開は健在だ。ただし、これらをどう取るかは読者次第であろう。野蛮なまでの力技とペダンティックすれすれの展開を評価する向きもあれば、「唖然とするようなクズ小説なのか壮大な傑作なのか見分けがつかない」(若島正*2、「ガラクタ以下で完全にぶっ壊れている」(殊能将之*3と記す向きもある。だがいずれにせよ、ベスター作品の、本書の秘める力は本物だ。作品をぶっ壊すにも、ぶっ壊すだけの力がなくては成し得ないのだから。

 さて、本書を本書足らしめているのは、原文の力のみならず、渡辺佐智江氏の翻訳によるところも大きい。蜜蜂レディたちの口語の訳し分けは見事の一語だし(余談だが、本書は雑誌『百合姫』内で取り上げられたことがある。蜜蜂レディたちの妖しいサロンめいた集いが百合愛好者に刺さったのであろう)、数々の俗語や言葉遊びを生き生きとした日本語に訳しのけている。ベスター流のジョイス語も、しっかりと柳瀬尚紀訳を踏襲した総ルビで訳されているところも流石。まさに力と力のぶつかり合い、その臨界点に生み出されたのが本書『ゴーレム100』なのだ。

 かつてブライアン・オールディスは、ワイドスクリーン・バロック=「時間と空間を手玉に取り、気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛びまわる。機知に富み、深遠であると同時に軽薄」*4と定義した。本書もまさしくその特徴を満たす小説だ……ただし、空間が三次元的な現実空間ではなく、ニューウェーブSF的な内宇宙【インナー・スペース】であることを除けばの話である。そして本書に登場するゴーレム100もまたその特徴を満たす——何と言っても、彼は「蜜蜂」レディによって召喚されたのだから……というのは、私の牽強付会だろうか。果たしてベスターがどこまで狙っていたのかは分からないが、これは彼なりのワイドスクリーン・バロックの再話であり、ベスター不在のSF界への返歌でもあったのだ。それはまさに、ラストシーンのゴーレム100の言葉、そして新人類の誕生にも繋がる話である。

 

*1:なお原型となった短編として一九七四年発表の The Four-Hour Fugue があるが、登場人物の名前が異なる以外はほとんど全て『ゴーレム100』内に取り込まれている。

*2:『乱視読者の英米文学講義』(研究社、二〇〇三年)

*3:殊能将之読書日記 2000-2009』(講談社、二〇一五年)

*4:ブライアン・W・オールディス『十億年の宴』(東京創元社、一九八〇年、浅倉久志