本作が日本語に初めて訳されたのは集英社版《世界の文学》の一巻として出版された一九七六年。八四年には同じく集英社から叢書《ラテンアメリカの文学》内の一冊として再刊されたものの、それから三〇年余り――世紀を跨いで二〇一八年を迎えるまで――このラテンアメリカ文学史上の大傑作は入手困難な幻の名作として、古書店をはじめとした古書市場で高値を付け続けた。国内外を問わず数多の作家から賞賛され、国内でも入手困難な時期が長く続いたにも関わらず多くのファンを獲得した、文字通り「伝説」の書の復刊は、二〇一八年における海外文学界最大の事件であった。そしてその「伝説」を裏付けるかのように、原著の刊行から五十年以上が経った今でも、本作の魅力は全く古びることを知らない。迸る猛毒、拡大する狂気、圧倒的なイメージ……、どこを取っても筆舌に尽くし難い魅力に溢れた、世界文学史に残る傑作である。
本作で語られる物語はカオスそのものだ。修道院で働く聾唖の男〈ムディート〉の視点から、彼自らの来歴や修道院の歴史、名門アスコイティア家の内実が語られるのだが、時系列を無視して語られる物語の奇妙さと語り手自身の狂気により、何が真実か定まらないままに、読者は悪夢的な物語世界へと引きずり込まれていく。言語を絶するおぞましさの畸形児〈ボーイ〉の誕生、彼を畸形と感じさせないようフリークスばかり集められた屋敷とそこに〈王〉として君臨する〈ボーイ〉、アスコイティア家に伝わる古の魔女伝説、老婆や孤児に占拠され頽廃と死の匂いに満ちた修道院、体の七割を摘出する大手術、性器の交換、まぐわう相手の入れ替わり、そして目、鼻、口、尻など全ての出口を縫い塞がれた怪物〈インブンチェ〉……こうした猟奇的でグロテスクなイメージが洪水のように溢れ出し、混乱した語りがその悪夢的光景をさらに増幅する。
正常/異常の価値観が転倒し、「怪物の楽園」と化した屋敷で描かれる権力闘争や上流階級の「恥部」を捨てるゴミ箱として扱われるエンカルナシオン修道院、そしてその究極的な形で誕生する畸形児〈ボーイ〉に代表されるように、作者ドノソとしては当時のチリにおけるブルジョア社会の退廃を描き出す意図があったのだろうが、語りと悪夢的なイメージのインパクトが途方もなく、それらにしがみつくだけで読者は精一杯、というところだろう。これほどの作品を前にして例えを出すことに意味があるのかどうか分からないが、『ムントゥリャサ通りで』の語りと『虚航船団』のテーマとハーラン・エリスンの暴力的な文体が融合して更に本の中で化学反応を起こしたような、とんでもない怪作だ……とでも言えば、この凄まじさの一端が伝わっただろうか。
ガルシア=マルケス『百年の孤独』を〈陽〉側の魔術的リアリズムの代表とするなら、『夜のみだらな鳥』は明らかに〈陰〉側の代表だ。あらゆる価値観を反転し、全てを飲み込んでいくドノソの〈陰〉の力――悪夢的想像力――にぜひ一度魅入られてみて欲しい。夢見の悪さを犠牲にしてでも、きっと得られるものがあるはずだ。
〈読みたくなった本〉
ドノソのもう一つの代表作。『夜みだ』ほどではないにしても、分厚い。