トマス・M・ディッシュとは何者だったのか? 本書を読むと、その輪郭を掴みかけた刹那、また薄闇の中へとぼやけていっていってしまうような――そんな印象を抱く。
それはなぜか。表題作とそれ以外の作品で、あまりにも色が違うからである。
表題作「アジアの岸辺」は、ヨーロッパとアジアの中間地としてのイスタンブールを舞台に、西洋からの旅行者であった語り手が、次第にその姿を変えていく様を、幻想的に描いた美しい作品である。美学理論を基盤に、人間のアイデンティティなるもののゆらぎ・不確かさを描き出した本作は、本短編集の中でも白眉である。また、若島正氏が指摘するように、この恐るべき「変身」が魅惑的に、ある種の願望的に描かれていることにも着目すべきだろう。
《SF界きっての知性派作家》として知られるディッシュだが、彼の知性はSFの器(仮にそんなものが存在したらの話だが)に収まることを拒否していた。彼は、主流文学への憧憬と、それによるSF界への、そして自らへ烙印された「SF作家」という肩書きへの愛憎入り交じる感情を抱き続けた。居心地の良くない「この世界」からの脱出願望が、彼に筆を執らせる原動力であったことは、疑う余地がない。
この脱出願望が、本短編集のその他の作品から、谺めいた響きで聞こえてくる。代表作「リスの檻」では、密室空間で書き続けることを余儀なくされたSF作家の悲哀が、「降りる」では無限に降下するエスカレーターに閉じ込められた男の不条理さが描かれる。これらの作品に共通するのは、現世の息苦しさだ。息苦しいからこそ、その息苦しさを描くことができることを、もう一度確認しよう。
そして、ディッシュのもう一つの魅力といえば、その知性から生み出される黒いユーモアである。「リスの檻」「降りる」でもその一端は披露されているが、死体を防腐処理して生前の姿のまま家に置く「争いのホネ」、想像妊娠した子供が実は癌細胞で……というホラー「リンダとダニエルとスパイク」、コミュニケーション能力に認定試験が導入された世界で、コミュ力弱者の奮闘を描く「話にならない男」など、はっきり言って表題作以外の作品は、みな底意地の悪い笑いで満ちた作品ばかりだ。
ここで言及しておきたいのは、「笑い」がなぜ生み出されるか、という点だ。笑いは決して秩序的なものではない。むしろ逆である。既存の秩序を乱す、そのことに快感を覚えるからこそ、笑いは存在しうる。ディッシュの黒い笑いも、秩序だった「この世界」への苛つき、破壊欲求が原動力にあったのではないか? こう見ると、本書の、そしてディッシュを一本貫くものは、「脱出」への願望だったのではないか? であれば、本短編集の表題作以外の色の違いは、表面的なものでしかない。また、この観点から、ディッシュのもう一つの〈未来の文学〉収録作である『歌の翼に』を読むのもまた面白いだろう。
結局彼は、自殺という形で現世から「脱出」してしまったことにも、最後に言及しておく。
若島先生の「アジアの岸辺」論が載っていておすすめです。