機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

奇想の在処――〈奇想〉とは何か? 試論

奇想の在処――〈奇想〉とは何か? 試論

 

 Q:奇想とは果たして何なのか、という問いを戯れに立ててみよう。
 A:奇妙な発想のことである。……いやいや、そんな自家撞着的な言葉で終わらせるわけにはいくまい。
 まず、〈奇妙〉とは何なのか? そして、奇妙な発想を奇妙たらしめているのは何か? そうしたところまで肉薄せねば、説明を果たしたことにはならないであろう。
 奇想小説というカテゴリがある。いや、そう称されることのある作品群が存在し、そう称する人びとがいる、というだけなのかもしれない。
 わたしは奇想小説が好きだ。なぜ好きなのか、そう問われると回答に窮する。一般論として「◯◯が好きだ」と言った際の理由を明確に言語化できる場合のほうが少ない、それは確かにそうであろう。
 だが、その理由に迫ってゆく行いのなかに、すなわち〈奇想〉がなぜおもしろいのか? という問いに迫っていくことこそに、「奇想」という便宜的に置かれた区分の意味を見出だせるような、そんな気がしている。本稿は、そんな予感に誘われた自分による、ある種自分のための覚書的な性質を帯びることであろう。これがどのような意味を、影響を及ぼすかは分からない。ただ、現時点での混乱した奇想という概念への一旦の整理、そして再構築の一助となればと思う次第である。

◯なぜ、奇妙であることが面白いのか?


 奇妙であること、それは逸脱である。常識、合理性、平たく言えば「当然とされていること」から離れている状態が逸脱である。この世はとにかく代わり映えがしない。あらゆる物事は起こりうるはずなのに(たとえば、明日南海トラフ地震が日本列島を襲うかもしれない。そうでなくとも、突然神の気まぐれで太陽系が丸ごと消滅するかもしれない)、そんな可能性からは目を背けて、ないものとして日常は繰りひろげられる。なぜか。それが起こる可能性は微々たるもので、予測可能性から大きく外れているからである。逆に言えば、その起こりうるプロバビリティが小さければ小さいほど、その異常性は増加する。日々が安定しているからこそ、その安定を打ち壊す脅威は不安として感じられ、場合によっては排除の対象となる。それは現代社会が合理性を基盤とし、「当然のもの」として共通の認識をもって運営されているからである。
 しかし、世界は常に合理的ではない。人間が勝手に、合理的なものと思っているだけだ。むしろ思いたがっていると言ってもいい。そうしなければ心的安寧を得られないから、でっちあげているだけのコケオドシにすぎない。逸脱に不安を感じるのもそのゆえだ。自らが依って立つ「世界」が合理的でなく、科学的な規則性によって包括できない不合理を孕んでいるという現実に直面することへの根源的な怯え、それこそが逸脱へ抱く不安の正体だ。
 精神科医木村敏は、異常に対する関心を、異常への不安からくる「怖いもの見たさ」という「屈折した性質」を帯びたものと述べている(『異常の構造』)。不安であるからこそ、確かめたい。自らの常識に収まりきらないものを間近で見て、あわよくば合理性の重力圏内に捉えられないかと試みたい。ここに、〈奇想〉を興味深く感じる欲求の根があると見ていいだろう。

 

 


 また、近代科学の発展は、この欲求に根源を持つものといってもよいかもしれない。太陽はなぜ朝のぼり、夜沈むのか。この規則性は本当に不変のもので、永遠にそれが繰り返されるのだろうか。急に「やーめた」といって世界に永遠の闇が訪れることは、本当に起こり得ないのか。そうした不安を払拭するものとして科学的合理性の下、数々の実験や理論が組み立てられていったという側面もあるだろう。
 だが、科学がその影響力を広げていく反面、どうしても包括できないものも出てくる。狂気がその代表例だ。解剖学、生理学の発展とともに身体的な機能は科学の光のもとに照らし出されたが、精神的な異常についてはいまだ明確な答えを持たない。十九世紀末、ドイツの精神科医エミール・クレペリンは「早発性痴呆」(後の精神分裂病統合失調症に連なるもの)という概念を打ち出し、「狂気」の輪郭を捉え、それを分類体系に位置づけようとした。だがそれは、生理学的な異常といった原因・結果のあるものではなく、単なる予後による便宜上の分類にすぎない。カール・ヤスパース、クルト・シュナイダーといった偉大な精神科医によってその分類体系は深められていったが、結局その根源は二一世紀の現代に至るまではっきりしないままだ。ヤスパースは一九一三年の『精神病理学原論』の緒言で「あたかも未知の大陸を二つの側から探検するのに、その間に入り込めない広い土地がいつまでも残っているので両探検者が出会えない」(西丸四方訳)と、精神現象と身体現象の両サイドからの〈攻め立て〉を形容しているが、この状況は二〇二四年現在もはっきり言ってあまり変わらないのが現状と言うほかない。結局、大多数の「正常値」から外れた逸脱に「異常」というラベルを貼り、それで一応の安心を得ているだけにすぎないのである。

 

 


 ミシェル・フーコーによると、十八世紀末のフランス革命期以後、医学が国家に結びつけられるようになった。医学は政治化し、治療技術の集積としての学問ではなく、健康な人間=「模範的人間」を規定する使命を帯びるようになったのである。ここで正常/異常の概念がさらなる重要性を、統治に値するかの基準という意味合いをも与えられることになる。この辺の議論は『狂気の歴史』と『臨床医学の誕生』を直接参照するほうがよいだろう。もっとも、この辺りのフーコー歴史認識は各方面からツッコミが入っており、鵜呑みにするのもあまりよろしくない。J・G・メルキオール『フーコー全体像と批判』(財津理訳、河出書房新社)がそのツッコミまとめ本としてよいので、副読本として挙げておく。

 

 

◯奇想と逸脱、異化効果


 奇想小説という観点に立ち返ると、逸脱は重要なファクターである。全アルファベットのあらゆる組み合わせが収められた本の図書館という発想が、現実の巨大な図書館への巨大さへの畏怖を極限まで拡大した、逸脱した思考であることは間違いない。そしてその逸脱がどの範囲にまで広がっているか、あるいは語り手自身はそれをどう受け止めているかによって、奇想小説の性質も異なってくる。
 ラテンアメリカ文学研究者の寺尾隆吉は、著書『魔術的リアリズム』(水声社)において、ラテンアメリカ文学における〈魔術的リアリズム〉を次の三要素に還元して定義している。
 ①何か変なことが起こる
 ②その変なことが共同体レベルで共有されている
 ③語り手はその出来事に対して、非理性的な認識でいる
 だいぶ分かりやすくリライトした形だが、要点は掴めていると思う。③がかなり重要で、要するに「変なこと」に対して疑問を抱かないまま進行するということだ。寺尾は③について、語り手が理性的、すなわち疑問を抱く形で描かれるものを〈ラプラタ幻想文学〉と呼び、ボルヘスやビオイ=カサーレスらの諸作品をこれに該当すると書いている。

 

 


 ざっくばらんに言うと、「ツッコミ」が入らないということだ。ツッコミはあくまで読み手に託されている。そこに余白がある。それが故に、友田とん『「百年の孤独」を代わりに読む』のような連想を働かせる読みが生まれうるとも言えるであろう。
 その原点には、ロシア・フォルマリズム的な「異化」の技法がある。通常見慣れたものを、何か特別で変なものに見せかけること、である。
 あくまでこれは創作上の技法にすぎないが、これが実際の身の上に起きてしまうのが、ある種の病状としての「狂気」である。統合失調症では知覚の変容が起こる。聴こえないはずの声が聴こえたり、自分の思考が盗まれている感じがしたり、逆に人の思考が入ってくるような気がしたりする。これまでの生活と変わらないはずなのに、何かが変わってしまっている、そんな漠然とした気分を味わうこともある。
 ドイツの精神病理学者クラウス・コンラートは、第二次世界大戦中におけるドイツの国防軍病院に入院した兵士の症例から、分裂病の発病期を分析した(クラウス・コンラート『分裂病のはじまり』)。『分裂病のはじまり』は、未治療でかつ初発の症例、コンラートが言うところの「新鮮なシェープ」の症例が実際に多数挙げられており、その多彩さを読んで味わうだけでもすこぶる面白い書であるが、そのなかでコンラートは、トレマ期(いわば前駆期)のあとに起こる〈体験構造の変化〉、すなわち「異常意味意識」の体験様式について「アポフェニー」と名付けた。異常意味意識とは「いかなる現象にもまったく新しい色調を与え、分裂病性精神病であって全然これがないということはないものである」。そして「患者が出会うものの意味は『自明』であり、だからこそ患者は周囲の人が疑問を抱くこと事態を理解できないのである」と書いている。この主観的体験を文学批評的に記述するならば、周囲の世界に対する異化効果[#傍点]が勝手に働いてしまっている、ということになるだろう。そして病状が進行すると、コンラートのいうところの「アポカリプス期」が訪れる。ここでは「場の意味連続性は完全にずたずたになり、無統辞的な、蒼古的なイメージの洪水」に人は襲われる。そして症状は固着し、固定化期を経て残遺状態と呼ばれる相へと移行する。

 

 


 さて、コンラートは分析のなかで、二つの重要な概念を示した。一つは先ほど述べた異常意味意識体験、すなわちアポフェニー[#傍点]である。そしてもう一つは、「世界に起こることすべてが自分のまわりを回り自分はその中心点にある」という体験で、これをアナストロフェ[#傍点]とした。この二つの体験が分裂病体験の中核を成していると、コンラートは指摘する。
 アポフェニー体験とはとどのつまり、「乗り越え」ができないことである。「乗り越え」とは何か。少し長くなるが、前述の書からコンラートの文を引用しよう。

 ここでいわんとしていることは、運動を例にするとわかりやすい。運動というものは必ず、静止している原点があってのみはじめて体験できるものである。たとえば「静止」している地面との関連においてである。この関連は通常意識に上らない。自明だからである。特に、ある種の運動錯覚の時にのみ、この関連が普段と違ってはっきり現われ出る。地表を動きまわる存在としてのわれわれにとっては、原点が静止しているという体験は欠かせない。しかし意図的に、この原点を取り換えるさせることもしばしばである。たとえば、列車の中では「静止」しているという気分を体験し(つまり車内の運動の原点を自分に置いていても)、次の瞬間には窓から外を見て自分が轟々と運動している気持になる。この|関連系変換[#傍点]をわれわれはたえず柔軟に遊びのように行っている。これをビンスワンガーの表現を借りて「乗り越え」と名づける。われわれはいつでも原点(今の話では運動の原点であるが)を自分の内に取り込んだり、外に取り出したりすることができる。われわれはいつでも自分を静止していると体験することもできるが、運動していると体験することもできる。たとえば地球に乗って宇宙を飛んでいると体験することもできる。
(中略)
 この変換はどのような機会にも実現させることができる。たとえば、誰かが路上で大声を出しているとする。まず最初は、自分(自分固有の世界の中心点として)が呼ばれたと思う。自分が「名指されている」と思う。つまり、その叫び声を自分に向けられ、自分に関係あるものと体験する。窓から外を見ると、その叫び声は自分にではなくて他の人に向けられたのであるとわかる。この瞬間、彼は他の意味関連に入ったことになる。|関連系の変換がおこった《傍点》のである。つまり、中心点から抜け出て、乗り越えを行い、自分と共通の世界の中で自分とともに存在しており、叫び声の対象となった他者と自分とを並列させる。同じ過程は逆の方向にもおこることがあって、「ああそうか」体験を伴う。ああ、自分のことだったんだ。その声は他のことだと思って無視していたのに。

 あえて平たく言うなれば、「自己の客観視」とでも呼べるだろうか。健常な状態であれば、世界認識は自分という視点からによるものであるけれども、一時的に他者の視点から己を眺めることができる。だが、分裂病者においてはそれができなくなってしまう。全ての視線が、注意が、世界が、自分に向けられるものだと感じ取れてしまう状態、それが「乗り越え」のできなくなってしまう異常意味意識体験=アポフェニーである。そして、この乗り越えの不可能が、「私」というものへの超越性へとつながっていく。世界で起こり得るすべてが、自分の周りをまわるかのように、全てが関連付いて感じ取れてしまう。これがアナストロフェである。ゆえにアポフェニーとアナストロフェは、同一の現象の裏表であると、コンラートは説く。
 ここで更に踏み込むと、「乗り越え」とはすなわち「自己へのツッコミ」ということも言えるだろう。通常では働くはずのセルフツッコミ(「そんなわけあらへんやろ」)が、分裂病者の発病期では作動しない。いや、「そんなわけあらへん」とは思ってはいるものの、それで解決できない、納得できない体験様式が生じているのである。異化されてしまった世界のなかでただひとり、「観客」としての自分を成り立たせるための了解が無効化されてしまうのである。
 落語家・桂枝雀は、人間の身体が「笑う」という状況に至るメカニズムを、「緊張の緩和」という語で表した。 

枝雀 (中略)まず、「変」ですわ。「変」というのはけったいなこと、おかしなことですね。けったいということは普通と違う。普通やないということは「緊張」ですわ。で、いったん変なことがあってそれから普通の状況に戻ったら今度は「緩和」されて笑いがおこる。


桂枝雀『らくごDE枝雀』、ちくま文庫 

 

 

 漫才やコントにおける「ツッコミ」は、「変」なことであるボケ、すなわち緊張に対して、観客の視点を導入することで「普通」を舞台上に取り戻すことで「緩和」を生み、笑いを生じさせる。ツッコミがなければ場は緊張したままである。〈魔術的リアリズム〉の場合は、読み手がおり、読む側が勝手にツッコむことが可能がゆえにその緊張は緩和される。むしろ作中レベルで緩和されない緊張であるがゆえに、通常の小説とはまた異なった読書体験を得ることも可能であろう。
 だが、分裂病者においてはそれが成立しない。世界は緊張し続けたままなのである。その状況に耐えられるはずもない。よって、それをどうにか理屈づけるために、世界は自分を中心に回っているという、通常であればありえない自己の優越性へと至らざるをえないのである。
 前駆段階のトレマ期において、徐々に「乗り越え」は不可能になっていき、それが緊張状態となり、落ちつきのなさや圧迫感、抑圧、不安として体験される。そしてアポフェニー体験の発現となり、各種の「妄想」が生じる。そしてアポフェニーは進行し、外空間だけでなく内空間にまで及びはじめる。あらゆる「着想」はアポフェニーにおいては「啓示」となり、思考の内容は筒抜けになる。知覚関連も弛緩し、筒抜けになった思考は「声」という物理的な現象の形を取って感じられだす。もはや自分によって思考された内容だとは思えなくなっていくのである。そしてさらに一歩進むと、弛緩はさらに進み、あらゆる事物が内包しているもやもやした概念(これをコンラートは「本質特性」と呼ぶ)が解放され、ぐちゃぐちゃになったイメージが知覚場に氾濫する。これがアポカリプス期に起こる状態である。
 言ってしまえば、ひとりでぽつんと舞台に立ち、ずっとボケ続けなければならない状態を延々と繰り返しているのである。しかしここで疑問に思うのが、「異化」の技法そのものの成り立ちである。通常ふつうに見えるものを、「変」なものとして捉え直す、これ自体は技法であるけれども、発想のきっかけとなった原体験は、ひょっとするとある種の知覚の異常だったのかもしれない。分裂病発病とまではいかなくとも、人間は気分や置かれた環境によって、知覚の異常をきたす。緊張しすぎて目が回ってきたり、怖さのあまり茂みが何者かの影に見えてしまうことは、割合誰にだって起こる。ゆえに、異化やそれによってもたらされる幻想文学や奇想といったものは、ある種「安全化」のパッケージングを施された「狂気」の発露と言えるのかもしれない。
 普段お笑いライブを見に劇場に足を運ぶと、その場では何とも思っていなくとも、帰り道の普段の光景がふと妙に思えることがある。道では人が歩いていて、みなスーツやそうでなくとも「普通」の格好をしている。特に大声も出さないし、変な顔をしたり、わけのわからないことも言ったりしない。だけれども、舞台上ではそれが平然と行われており、むしろそれが推奨されている。お金を払ってお笑いを見に行くという行為そのものが、日常のなかに潜み込まされた異界への回路をくぐり、舞台と客席という仕切りを設けられたうえで安全化された「狂気」の発露を見物しているのかもしれない、などと思ったりするのである。結局、奇想小説が好きなのも、精神科医という道を選んだのも、根本では同じ趣向があると、わたしはわたし自身に言わざるを得ないのである。
 この辺り、ジョルジュ・バタイユが笑いとエロティシズムを重視したところとも通じ合う部分があるのではないかと思う。生を十全に生きようとするならば、死に近づかなけれならないという人間の矛盾を解決するための方法として、笑いやポルノ、そして各種小説などがあるような気がしてならない。

 

 最初の日から私はもはや疑いはしなかった。笑いが啓示であり、世界の深奥を開いて見せてくれるということを。

ジョルジュ・バタイユ『内的体験』)

 

 

 

 バタイユは、ベルクソン『笑い』を読んだことをきっかけに「笑い」について真剣に考えはじめたという。笑いの本質の一つは、意味あるものが突如として逆に滑稽めいたものに感じられる局面にある。無意味さ、戯れを感じたときに生じる笑い、そこに「世界の真奥」があるとバタイユは感じたのである。絶対的な概念などありえない。なぜなら、それが真面目で絶対的であればあるほど、滑稽なものとして逆転されうる笑いが生じるからである。
 奇想の本質もそこにあるのではないかと、わたしは思う。世界が平凡でありきたり、変化のない日常であればあるほど、そこに訪れた変化が面白くなる。時間ですら、アナログ時計にせよデジタル時計にせよ、それは誰かが決めた共同体的な掟にすぎない。わたしはよく、精神医学の診断体系は星座のようなものだ、という話をしてぎょっとされるが、半分、いや七割は本気で言っている。よく分からないがそこに必ずあるものに対して、経験的におおむねそうだろうという了解のもと、ある体系をそこに見出しているだけにすぎないのだから。英国のゴシック小説が十八世紀末から、ドイツ・フランスの幻想小説が十九世紀初頭のロマン派の勃興とともに始まったのもそれと無関係ではあるまい。現実が強固であればあるほど、そこに風穴を開けるときの快感は強い。そして、強固であればあるほど、それが崩れやしないかという不安はいや増していく。ロジェ・カイヨワがこう書いている。 

物質と生命を支配する基本的法則もまた、明白かつ絶対の不可能性にいつまでも縛られてはいない。ところで、そうした明白な不可能性の侵犯こそが幻想性を惹起するものであり、したがって幻想文学というジャンルの主要なテーマを規定するものなのである。
ロジェ・カイヨワ「妖精物語からSFへ」、三好郁朗訳)

 

 

 奇想、あるいは幻想とは、現実への逆張りにほかならない。ゆえに、現実が存在し続ける限りは、そのコインの裏表として存在し続けることであろう。
 だが一方で、こうも言っておかなければならない。あるものが「奇想」であると、「逸脱」であると判断するのは、一体誰なのか、と。「病気である」ことを規定したのは国家であり、社会であり、権力であった。今なおそれは変わらない。それと類似の形を取って、「奇想」の優劣を測る営みも、また権力性を帯びざるを得ない。奇想が逸脱である限り、それを量産し続けることは極めて困難である。なぜなら、逸脱していたものもまた、ひとつの体系として組み込まれ、そこからの逸脱を必要とするからである。星新一をもってして、生涯を賭けて千余りの作品しか[#傍点]生み出せなかったことを、改めて見つめ直さなければならない。
 星は、ある物とまた全く別のものを組み合わせるという発想の手法を語っていたが、現代においては、機械的生成であらゆる組み合わせを生み出しうる。ウィリアム・バロウズカットアップと呼ばれる手法で、文章中の異様な異化効果を生み出していたが、あれも全くの無編集で提出されたものではない。自己検閲、そういうのがお好みであれば「無意識」の選別が行われているはずなのである。近年、言葉と言葉の組み合わせがシュールでかつて見たことのない感覚を味わわせてくれる現代川柳が勃興し、わたしも非常に興味深く読んでいるが、あれもただない組み合わせを作るだけでは、決して面白くならない。逸脱は度が過ぎると白けになってしまう。緊張の緩和理論でいえば、緩和しきれない緊張、あるいは緩和しようのないゆるんだ緊張では、決して笑いは、面白みは生まれないのである。

 

 


 逸脱と正常との綱引き、これが奇想の価値判断において重要な要素であることは間違いないが、その綱引きの度合は社会的かつ個人的なものであるがゆえに、何らかの基準を設けてしまった途端、それは権力となり、引きずり下ろすべき対象になってしまう。長くなったこの論考もそろそろ終わりを迎えつつある。結局、「奇想とは何か?」という問いに対しては、回答することができないと言わざるを得ない。輪郭を素描することはできても、それに明確な答えを与えた途端、それはするりと手の内から逃れ出てしまう。松本人志は、「定義をあえて設けることで、その定義を裏切るのが漫才なんですよ」と語った。そうした禅問答めいたことしか言えないのが残念ではあるが、それこそが「世界の真奥」へと至る道のりであろう、というところで、今回は筆を措かせていただく。この問いに答えていくこと、それこそがわたしの生であろうと、半ば確信しながら。

 

【参考文献】
木村敏『異常の構造』(講談社現代新書、一九七三年)
クラウス・コンラート『分裂病のはじまり―妄想のゲシュタルト分析の試み』(山口直彦安克昌中井久夫訳、岩崎学術出版社、一九九四年)
東雅夫編著『幻想文学入門』(ちくま文庫、二〇一二年)
エリック・S・ラブキン『幻想と文学』(若島正訳、東京創元社、一九八九年)
ミシェル・フーコー『狂気の歴史[新装版]』(田村俶訳、新潮社、二〇二〇年)
ミシェル・フーコー精神疾患と心理学』(神谷美恵子訳、みすず書房、一九七〇年)
桜井哲夫フーコー 知と権力』(講談社、一九九六年)
寺尾隆吉『魔術的リアリズム 20世紀のラテンアメリカ小説』(水声社、二〇一二年)
寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』(中公新書、二〇一六年)
桂枝雀『らくごDE枝雀』(ちくま文庫、一九九三年)
中井久夫『治療文化論』(岩波ライブラリー、一九九〇年)
カール・ヤスパース精神病理学原論』(西丸四方訳、みすず書房、一九七一年)
ジョルジュ・バタイユ『内的体験 無神学大全』(江澤健一郎訳、河出文庫、二〇二二年)
酒井健バタイユ入門』(ちくま新書、一九九六年)
酒井健バタイユ 魅惑する思考《新装復刊》』(白水社、二〇二二年)