機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

現実認識を変えるために脳6つを要求する異星人を巡る、異色言語SF――イアン・ワトスン『エンべディング』

 

 

 バベルの塔の崩壊以来、言語の統一は人類の悲願である。だからこそ人類は、「言語」という謎めいた、しかしありふれたものについて学術的興味を抱き続けてきた。本作で下敷きにされており、他の数多の言語SFでもモチーフに使われているサピア=ウォーフ仮説もその一つの結実である。
 サピア=ウォーフ仮説とは、簡単に言えば、我々の思考・認識は使う言語に影響されているということだ。言い換えれば、言語が違えば同じものに対してであっても、異なる認識を得るということである。本作の主人公は、その考えに則り、隔離された研究所の環境内で子供たちを育てるという人権ド無視の仕事に就く言語学者である。彼を含めた研究チームは、『ロクス・ソルス』で知られるフランスのシュルレアリスム文学者レーモン・ルーセルの『新アフリカの印象』内の言語体系のみを子供たちに教育し、彼らがどういった現実認識を抱くのかを調査している。この『新アフリカの印象』というのが難物で、多重括弧内で繰り広げられる超絶技巧の韻文であり今なお邦訳はないという代物だ(英訳はかろうじてある)。こうした既存の言語体系ではあり得ない構造――自己再帰〈エンべディング〉――を持つ言語を幼児期から刷り込むことで、あらゆる言語の源である普遍文法の構造を探ろうとしている訳である。
 ところ変わってアマゾン奥地では、そうした埋め込み構造を持った言語を話す部族がいた。彼らは言語を通常時とドラッグ使用時で二種類の言語を使い分け、「現実」の概念を変容させている。そしてその言語の中では時間の概念がなく、過去も未来も全て現在のものとして表現されてしまう――だから、彼らには直線的な時間認識は存在しないという。この辺りはテッド・チャンあなたの人生の物語」を参照すると分かりやすい。
 さて、そこに現れたるは何と異星人。彼らは高度な技術を地球人に供与する見返りに、強い埋め込み構造を持った人間の脳を6つ雁首(?)揃えて持ってこい、と奇妙な注文を付ける。彼ら曰く、現実が言語に規定されている以上、〈この現実〉から〈別の現実〉へと脱出するには、通常の言語以上に埋め込みの強い言語が必要であり、その習得には稼働状態にある生きた脳が必要なのだという。脳の確保に奮闘する人々。アマゾンのダム建設を巡る政治的駆け引き。サピア=ウォーフ仮説から現実認識の変容へと飛躍する壮絶な奇想の行方は果たしていかに。
 紙幅が尽きたので詳しくは述べられないが、最終章付近での『新アフリカの印象』をブチ込まれた子供の現実認識描写は、統合失調症の発症段階の一つであるアポカリプス期(知覚されるものの意味の連続性が破綻した状態)を連想させ興味深い。この悪夢的描写は見事。はっきり言ってアマゾンの民族を巡る文化人類学的描写はカルペンティエールを思わせて面白くない(西洋文明のカウンターとしてアマゾンとか持ち出すのはもういいでしょ)し、そもそもサピア=ウォーフ仮説というのは今となってはかなり眉唾ものではある。だが、SF小説としては出発点がウソであっても、以後の論理展開が本当らしく描かれていればそれでいいのであって、本作では割合それに成功していると言えよう。

 

 

***

全レビュー用。字数制限がきつい(自分が設定してるのに……?)。

アポカリプス期云々のところはいつかもう少し掘り下げたい気持ち。 

 

 

韓松初の英訳短編集 "Exploring Dark Short Fiction #5 : A Primer to Han Song" 感想など

 中国SF四天王の一角にして、残雪に次ぐ中国ポストモダン文学の旗手としても名の挙げられる韓松。最近ちらほらと名前を聞く作家であり、先日出た現代中華SFのアンソロジー『時のきざはし』にて短編(「地下鉄の驚くべき変容」)が翻訳されたこともあり実際に読んでみたのだが……これがめっちゃ面白かった。

 という訳で、昨年9月に出た韓松初の英訳短編集"Exploring Dark Short Fiction #5 : A Primer to Han Song"を読んでみた。以下感想。

 

"Earth is Flat 世界是平的"(2011)

 コロンブスが新大陸を目指して船を進めた先にあったのは、大陸ではなく、地球の果ての断崖だった。ごく短い話ながら、コロンブスアメリカ新大陸発見譚と地球平面説を交差させて、今現在我々が持つ価値観への揺さぶりを掛ける手つきが見事な一作。

"Transformation Subway 地铁惊变"(2003)

 『時のきざはし』で読んだのでパスした。とはいえ、地下鉄内で起こる不条理現象の話で、個人的にはかなり好きな短編*1

 解説*2によると、韓松の別作品"The Passenger and the Creator"は、中国の全国民を飛行機に乗せて空中で生活させる話のようで、気になる。『ミニチュアの妻』で似たような話があった気がする……が、あれは全国民と言えるほど大規模なものではなかったはず。

ミニチュアの妻 (エクス・リブリス)

ミニチュアの妻 (エクス・リブリス)

 
 "The Wheel of Samsara 噶赞寺的转经筒"(2002)

 ホラーテイストな短編だが、SFと言えなくもない。

 チベット仏教の寺にある、輪廻を意味する108の車輪(多分マニ車のこと?)の中でもひときわ異彩を放つ車輪があった。暴風雨の夜になると不審な泣き声めいた音を立てるそれについて、ラマはその車輪には魂があると言う……。

 車輪の中には小宇宙、もう一つの宇宙が入っていると主張する学生、それに対して単なる静電気がもたらす現象に過ぎないと話す科学者である主人公の父。ラストシーンの超現実的なビジョンが忘れ得ぬ印象を残す一作。

 なお、英訳は下のサイトで公開されている。

io9.gizmodo.com

"Two Small Birds  两只小鸟"(1998)

 宇宙と鳥と図書館が出てくることは分かるのだが、正直言って僕の語学力ではお手上げ。解説にもマジックリアリズム的手法を用いたシュルレアリスムの実験的作品、みたいなことが書かれているので、まあそういう類の作品なのだと思う。すみません。

"Fear of Seeing 看的恐惧"(2002)

 本短編集で最も興味深く、かつ最もコワい作品。

 生まれつき10個の目を持つ赤ん坊の誕生から、世界の「真の姿」が明らかになる。端的に言って怖すぎる。傑作。

 解説では「最もホラーであると同時に、最もコミカル」と表現されているが、嘘だと思う。めっちゃ怖いって。10個の目を持つ赤ん坊が、1個の目でずっとパソコン(=インターネット)の方を注視してるシーンが特に怖かった。

"My Country Does Not Dream 我的祖国不做梦"(未発表)

 驚異的な経済成長を遂げた中国を支えていたのは、全国民を夢遊病者にして、夜の間も労働をさせる技術であった。資本主義や合理性へのアイロニーに満ちた風刺的作品。

 こういうの、中国国内で書けるんだ……と思っていたが、書誌情報を見ていたら一つだけ"unpublished"になっていたので、まあそうだよなーと思った。ある種のゾンビものとしても読むことができ、そうした観点から自分は古橋秀之「恋する死者の夜」を連想したりした。

 

 これらの短編の他、韓松氏へのインタビューやこれまでに刊行された韓松作品の書誌情報などが掲載されている。叢書である "Exploring Dark Short Fiction"自体はホラーの叢書で、「SFは含めない」というルールらしいが、韓松のこれに関しては、全然SFとカテゴライズされてもおかしくない作品が多数含まれている。 

www.darkmoonbooks.com

 

 何はともあれ、かなりの魅力を持つ作家であることは、本短編集を通して確信できたので、ぜひとも更なる邦訳・紹介が進んでほしい。とりあえず、単独短編集が欲しいところ……。

 

 

↓参照しました。ありがとうございます。「暗室」翻訳も陰ながら待ってます↓

韓松は誰?韓松はどのように中国のファン界隈に認識されいているか? - Automatic Meme Telling Machine

*1:超余談だが、昨年のM-1グランプリ準決勝で見たマヂカルラブリー「吊り革」を見た時、何となく本短編を連想した。準決勝では、決勝で披露したバージョンとは違い、完全な「殺人電車」だったこともある。

*2:"Exploring Dark Short Fiction #5"には、各短編の末尾にMicheal Arnzen氏の解説(commentary)が付せられている。

やや時期は逸しましたが……(同人誌が雑誌『文學界』で紹介されました)

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 先日発売された雑誌『文學界』1月号の「特集:文學界書店」内にて、8月に頒布した同人誌『カモガワGブックスVol.2』が紹介されていました。

 ご紹介頂きました伴名練先生、ありがとうございます。小林恭二作品や石黒達昌作品と自分たちの本が並んでいるのを見ると、妙な気持ちになりますね……。現実感があんまりないというか。

 奇想小説ファン的にはどれも読み見逃せないセレクトですので(もちろん『紙魚はまだ死なない』も!)、まだ書店で入手できるうちにお買い求め頂くとよいかと思います。

 

 以上、年内に済ませておきたかったご報告でした。

 色々と立て込んでいますので今回はこれで。良いお年を〜。

 

文學界(2021年1月号)

文學界(2021年1月号)

  • 発売日: 2020/12/07
  • メディア: 雑誌
 

 

家に発電所を作り、世界の輪廻に取り込まれる――奇想小説ファンに勧める現代漫才3選

 

奇想の住まう場所

 奇想が好きだ。要するに、どうやって思い付いたのか見当も付かないような、変な発想が好きだ。

 奇想はどこに住まうのか。身近なところでいけば、小説にはよく潜んでいる。

 交通事故に性的快感を覚える男(J・G・バラード『クラッシュ』)、演奏に1万年掛かる長大な交響楽を演奏し続ける山頂の交響楽団中井紀夫「山の上の交響楽」)、知性を持つ1つの生命体としての星(スタニスワフ・レムソラリス』)etc.

 SF小説には奇想がよく住まう。私を含むSFファン(の一部)にとって、SFを好む理由は、こうした奇想を効率よく見つけ、見つけ次第摂取したいから、であろう。

 ラテンアメリカ文学が好きなのも同じ理由だ。文字の無限の組み合わせが存在するゆえに、世界のありとあらゆる本を所蔵するという図書館(ホルヘ・ルイス・ボルヘス「バベルの図書館」)、古書店で見付けた、一気呵成に読み続けないと文意が取れなくなる奇妙な本(エンリケアンデルソンインベル「魔法の書」)、進まなくなった高速道路上で繰り広げられる日常生活(フリオ・コルタサル「南部高速道路」)。

 ラテンアメリカ文学の代名詞とも言えるマジックリアリズム的(あるいはラプラタ幻想文学の系譜の)物語は、非理性的な奇想をそのまま非理性的に――狭義のマジックリアリズムでは、理性の視点を介することなくかつ共同体がその非理性的視点を共有した世界を創造して――描くことで成り立つ。ゆえに、中南米文学は奇想の宝庫である(もっとも、近年の作はジャーナリズム性に偏って、以前のような奇想文学は少なくなっていると聞く)。

 その他、近年では柴田元幸氏や岸本佐知子氏などが紹介しているような現代英米文学にも、奇想にあふれる魅力的な作品が多数存在する(だからこそ、先日「柴田元幸編アンソロジー全レビュー」ということをしたりもした。詳しくはそちらを参照のこと)。

 

 だが……小説以外に奇想はないのだろうか? 否、ないはずがない。

 では、奇想は世界のどこに巣食って暮らしているのだろうか? 小説だけが奇想じゃない。我々は新たな奇想の巣穴を見つけなければならない。

 

なぜ漫才なのか? 奇想の在処を探る

 映画にも演劇にも漫画にも奇想はある。でも、もっと卑近なところに――漫才に――大きな巣穴があると、私は確信している。

 私は大阪出身・大阪育ちということもあって、漫才を筆頭としたお笑い文化に、幼少期から親しんできた。他地方の方には信じがたいかもしれないが、大阪の小学生は、出し物で必ず漫才かコントをするのである。私もその例に漏れなかった。

 だがその後、個人的にテレビの面白さが目減りしているように感じたこともあり――これは普遍的な現象なのか、それとも個人的な体験かは分からないが――中学生以降、そうした文化とも縁遠くなっていった。毎週欠かさず見ていた土曜の昼の新喜劇も見なくなったし、紙の雑誌形式の番組表を買って蛍光マーカーで見る番組を塗りつぶしていたバラエティ番組も、ほとんど、いや全く見なくなった。

 だが最近、ふと漫才を見る機会があった。そこで知ったのだが、漫才は、この十数年ほどで、驚くべき速度で進化を続けているのである。現在、日本で最も大きい漫才のコンテストである『M-1グランプリ』の初回、2001年大会の映像を一度ご覧いただきたい(Amazonプライムビデオで閲覧可)。そしてその後、前年度行われた2019年大会とで見比べてみてほしい。テンポも、間も、使われるワードも、発想も、すべてが洗練されていることが素人から見てもひと目で分かるだろう。

 なぜ漫才は十数年で飛躍的な進化を遂げているのか? 落語や他の芸能形式と比して、歴史が浅いこともあるだろう。だが、その一番の理由は、競技人口だ。もっと言えば、M-1グランプリという全国の漫才師が集う大会が行われ出したことが大きい。

 漫才師は人生を笑いに捧げ、人よりも多く人を笑わせることに文字通り命を賭けている。売れっ子になればスターとして裕福な暮らしが送れるが、大半の芸人は芸人としての稼ぎでは食えず、アルバイトをして生計を立てている。先行きも分からないまま、生活にも困窮する中、彼らはただ笑いを作り出すためにもがき苦しむ。当然、脱落者も出る。だが、残った者たちは、ただひたすらに、孤独に笑いを追求していく――いつかスターになる日を目指して。客席を他の誰よりも沸かせることを目指して。

 そんな狂人に半分足を踏み入れたような人種が、M-1グランプリにエントリーする組だけでも、毎年約5000組*1はいる訳である。現在のM-1グランプリの出場資格は芸歴15年以内なので、芸歴16年以上の組やそもそもエントリーしない組、漫才ではなくコントで勝負する芸人も含めれば、その数は一万を下るまい。そんな数の彼らが切磋琢磨し、常に人より秀でようと、日夜研究と研鑽を重ねているのだ。否が応でも、伝統芸能の位置ジャンルとしての漫才は、発展していく。多様性が生まれ、構造は複雑化し、メタにメタが重なっていく。過去にないものを、今最新の新しい笑いを作り、研鑽したものが一番になれる――このような大きな「目標」として、各種賞レースは存在している。

 そして2020年。多様化した漫才の一部には、間違いなく奇想が住んでいる。

 数の増加、多様化、そして先鋭化の結果として、現代の漫才は極めて奇想小説的な作品を含むのだ。

 本稿では、その代表的な漫才を3作紹介し、奇想小説ファンに、現代の漫才は奇想小説と近接しかかっているという事実を知ってほしいと切に思う。そして、小説も漫才も同様に愛する者として、奇想漫才に少しでも注目してくれたら、と願う次第である。

 

①気が付けば世界の輪廻に取り込まれている話――Dr.ハインリッヒ「トンネルを抜けると」


『トンネルを抜けると』

 現在の漫才シーンで「奇想」に言及しようと思えば、Dr.ハインリッヒは欠かせない存在だ。双子の姉妹で、片方が右利き・片方が左利き……という、生まれからしてフィクショナルで唯一無二の漫才師でありながら、ネタ内では決して双子であることも、姉妹であることも、女性であることも言及しない、ストロングスタイルの漫才師である。

 昨年度のM-1グランプリ準々決勝で掛けられたこのネタは、彼女たちのスタイルを代表するネタだ。川端康成『雪国』の書き出しから始まり、実際に「トンネルを抜けた」先で見た幻想的な光景――チャーハンを食べるでぶの鰯、コンクリートの裂け目から咲く向日葵、その向日葵から落ちる銀色の鉛筆のキャップ――を語っていくボケの幸。ツッコミの彩はその発言に口を出すことはあれど、決して決定的なツッコミ――「んなわけあるかい!」に代表される、発話者のボケをウソ=虚構として遮る、「常識」としてのツッコミ――はしない。結果、舞台上では非常に不条理な空間が展開されていく。

 そしてその結果見えてくるものは、チャーハン-鰯-向日葵-幸で展開される、鉛筆キャップを製造する巨大な輪廻である。5分にも満たない話の中で、まさか永劫回帰的な世界が展開されるとは誰も思わなかっただろう。

「自分もそうやで。知らん間に、何かを作るメンバーの輪廻に参加してますよ。お客さんもそうですよ」

「私もサザエさん あなたもサザエさん」「アンパンマンはきみだ」に次ぐ衝撃の事実。不条理なようでいて、論理が成立しているかのように見える奇妙な感覚。そして締めのメビウス!」「メビウスやからもうええわ」という言葉。観客は自分も巨大なシステムに囚われていることを知らされ――自明のことではあるが、まさか漫才を見に来てそんなことを突きつけられ得るとは露ほども思わず――唖然としている間に、双子の姉妹漫才師は舞台を後にしている――まさに唯一無二の存在。彼女たちが売れる世界線に住みたかった、そんな気持ちに毎回させられる漫才師である。

 

②プリクラ撮りたさに家を火力発電所にする話――金属バット「プリクラ」 

 

「俺もういっそのこと、風呂場改造して発電所にしたったんや」

 現在の漫才シーンで異色の立ち位置を見せるコンビ・金属バット。売れることを拒むようなやさぐれた仕草が、却ってファン人気を呼び、現在はやや拗れたポジションに収まっている……というとファンや本人たちにとって失礼かもしれないが、彼らの芸風は何とも形容し難い魅力を持っている。

 しゃべくり漫才(立ち話の延長線上。コント漫才とは違い、役柄を演じることはない)の中で繰り広げられる異様な世界が持ち味なのだが、このネタはその中でも奇想度が高い。プリクラを毎日撮りたいが金が掛かる……じゃあ本体を買おう、という導入からして奇天烈なのだが、その後の展開も凄い。家はプリクラ機に占領され台所も押入れも埋まってしまっている、シール取り出し口には辿り着けない(溢れてきたら取れることもある)、電気代が掛かるのでいっそのこと風呂場を火力発電所にした、とやりたい放題。絵面が全く浮かばない不条理さとボケの飄々としたさま、そして最終的な本末転倒ぶりが更なる不条理を加速させる奇想漫才の傑作である。

 たまにコンプライアンス的にアウトなネタが混ざるのが玉に瑕だが、その他にも奇想味溢れるネタを多数持つコンビなので、ぜひ注目していただきたい。

 

③変な暗記法・言葉遊び系漫才の最前線――カベポスター「英語」(ABCお笑い新人グランプリ2019・M-1グランプリ2020敗者復活戦)

「フェブフェブが……エイプ?」
「キツいんちゃうん!?」

 最後は、関西の言葉遊び・ロジカル系漫才の注目株・カベポスターを紹介したい。言葉遊び系の漫才は割と見かけるのだが、彼らのこのネタは、その中でも屈指のクオリティを誇る。

 このネタは、1月から12月までを英語で言えない→九九と合わせれば覚えやすい、という発想からして狂っているのだが、そこから更に転がり続ける狂った暗記術が極めて面白い。要するに、1×1をJanuary×January、1×2をJanuary×February と言い換えていくメソッドなのだが、当然2の段以降が訳の分からないものになってくる訳である。フェブジャニがフェブ、フェブフェブがエイプリル辺りで厳しくなり、結局普通の九九を挟んだ上で英語に変換する、という本末転倒さが滑稽=狂気的=常識からの逸脱で素晴らしい。加えて歌に合わせて覚える、徳川歴代将軍とアルファベットを合わせて覚えるなど、変な暗記術と言葉遊びで、知的パズルめいたシュールな世界が形成される。

 奇妙な論理を作り出し、その中の秩序を描き出すというメソッドは不条理文学のそれそのものであり、更に言えば統合失調症患者の――「狂気」の――世界の見え方にも通じるものがある。数分間の二人の喋りだけで、こうした異世界への通路を切り開く漫才師、引いては漫才という芸能の形式そのものは、極めて奥深く興味深いものに私には思える。

 

最後に & 奇想漫才Scrapboxの話

 という訳で、今回は3つのネタを紹介した訳だが、前述の通り漫才は驚異的な速度で進化と増殖を続けている。

 いつしか漫才にもシンギュラリティが訪れるのだろうか? あるいは、ある点で飽和し、頭打ちになってしまうのだろうか? 

 私には分からない。ただ観測し続けることしかできることはない。

 

 

 

  こうしたネタをまとめたScrapboxを作っていますので(最近は更新さぼり気味)、そちらもご覧下さい。

scrapbox.io

 


 

*1:2020年度は5,081組

プロフィール

自己紹介

鯨井久志(くじらい・ひさし) Hisashi Kujirai

1996年生まれ。大阪府出身。京都大学SF・幻想文学研究会OB(2020年度まで)。

海外文学やSFにまつわる同人誌『カモガワGブックス』の主宰をしている(共同)。本業は研修医→精神科医もどき。

SFやラテンアメリカ文学、その他奇想小説が好き。また、変な小説/映像/漫才も好き。

好きな作家(海外) マリオ・バルガス=リョサガブリエル・ガルシア・マルケスホルヘ・ルイス・ボルヘス、ホセ・ドノソ、ジョン・スラデックJ・G・バラードジーン・ウルフトマス・M・ディッシュテッド・チャンレベッカ・ブラウン、韓松、ミルチャ・エリアーデウラジーミル・ナボコフ

好きな作家(国内) 筒井康隆伴名練、円城塔伊藤計劃飛浩隆殊能将之石川博品矢部嵩、暮田真名、高橋睦郎内海健中井久夫

好きな芸人 Aマッソ、シンクロニシティ、十九人、TCクラクション、ダウ90000、隣人、街裏ぴんく永田敬介

好きな映画 ソナチネ新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air / まごころを、君に、オテサーネク、太陽を盗んだ男ペーパー・ムーン切腹、ちいさな独裁者、CURE、殺人狂時代(岡本喜八)、沈黙(ベルイマン

好きな漫画家 藤子・F・不二雄、つばな、石黒正数道満晴明黒田硫黄ヤマシタトモコ高野文子芦奈野ひとし冬目景

好きな翻訳家 柳下毅一郎若島正渡辺佐智江浅倉久志伊藤典夫古沢嘉通柴田元幸岸本佐知子、寺尾隆吉、西崎憲、田村さと子

書評系

作った同人誌

創作

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講演系

 

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年刊Komiflo傑作選(2020年)を編む

※注意 以下の記事では成人向け漫画についての記述があります。苦手な方はブラウザバックを推奨します。

 

 

 サブスクって便利ですよね。NetflixとかAmazonプライムとか。最近はUberEatsも月額制のプランを始めたらしいですよ。

 ただ、サブスクの欠点といえば、月額料金を払いつつも、その額に見合ったサービスを受けないまま、だらだらとお金を払い続けてしまう……というリスク。映像配信サービスも、忙しい月だとほとんど見ないまま終わってしまったりしますね。

 かくいう私も、幾度となくそうした失敗を重ね(ジムは行かなくなる、ネトフリは見ない月は見ない、アマプラはまあ使ってるかな?)、サブスクへの課金には慎重になっていたのですが……。唯一、毎月元を取っていると実感できているサービスがあります。

 それがKomiflo。何かというと、要するに、成人向け漫画雑誌のサブスクです。

 月額980円+税なんですが、現在10冊の雑誌*1のバックナンバー1年分が読み放題となっています。隔月刊のものもあるのでややこしいですが、月2冊ほど読めば余裕で元は取れますね。私は全部読んでます。元、取りまくりですね。

 今回は、そのKomifloで現在(2020/8/30)読める作品、2000作品以上の中から傑作選を編もうという企画です。Komifloでは過去1年分のバックナンバーが読める訳ですから、必然的に『年刊Komiflo傑作選』を編むことになります。つまり、成り行き上、大森望氏&日下三蔵氏の役割を私が一手に担うということ。まあ、ウォルハイム&カーかもしれないし、ジュディス・メリルかもしれないですが。ちなみに、初回登録時は1ヶ月間無料らしいですよ。

 ……一人だけだと恥ずかしいので、これを読んだら皆さんも自分だけの傑作選を編んでみて下さいね。ほんとに。頼みますよ。

 

*1:COMIC快楽天・COMIC失楽天COMIC快楽天BEAST・COMIC X-EROS・WEEKLY快楽天コミックホットミルクコミックメガストアα・コミックホットミルク濃いめ・コミック外楽・COMIC BAVEL

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芥川×現代英米翻訳家オールスターで送る、今なお通用する怪異譚集――『芥川龍之介選 英米怪異・幻想譚』

芥川龍之介選 英米怪異・幻想譚

芥川龍之介選 英米怪異・幻想譚

  • 発売日: 2018/11/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 芥川龍之介が三十五年の生涯で残したものはあまりに多い。彼は古典文学を換骨奪胎し自らの作品として現代に蘇らせる器用さと、自らの精神状態の悪化をそのまま映し出した鬼気迫る短編に仕上げてみせる大胆さ・繊細さを兼ね備えていた。結局生涯で長編を残すことはなかった(完結しなかった)ものの、世に残した中短編は今なお読み継がれ続けている……。本書もそんな彼がこの世に残していったものの一つだ。

 芥川は「藪の中」「羅生門」などのいわゆる「王朝物」のイメージが強いため、日本・中国等の古典プロパーと思われがちだが、実際には東西を問わず種々の文学に造詣が深かったことで知られる。「藪の中」がアンブローズ・ビアス「月明かりの道」にインスパイアされて書かれた逸話は有名だ。また、元々英文学者を志していた身でもあり、実際に海軍機関学校で英語教師として勤めていたこともあるような人物。洋書の読書量は桁外れで、その読書スピードには数々の"伝説"(人と喋りながら膝の上で本をめくるだけで読めた、一日に千三百ページほどはゆうに読めた、借りた洋書を一晩で返すので疑った友人が内容について問うも難なくすらすら答えてみせた、など)が残されるほどだ。

 さて、そんな芥川が晩年(一九二四〜二五年)、後進のために英米の名短編をよりすぐったのが、本書の元となったThe Modern Series of English Literature 全八巻。これは旧制高校の学生向けに英語教科書の副読本として編まれた一種のアンソロジーで、各巻に"modern"の語が必ず入っていることからも分かる通り、芥川と同時代の英米文学ばかりを集めている。必ずしも当時評価が定まっていた作家だけでなく、当時、あるいは現代からしてもややマイナーな作家の作品まで収録されている辺り、彼の膨大なインプットとその鋭い目利きが窺える。本書はそのThe Modern Series of English Literature 全八巻の中から、澤西祐典・柴田元幸の両氏が選び抜き、新たに一巻に構成し直したアンソロジーである。つまり言ってみれば「アンソロジーのアンソロジー」な訳で、面白くならない訳がないのである。

 とはいえ百年以上前の作品ばかり、今でも通用するのか……? とお思いになったそこのあなた。甘い。甘すぎる。相手は天下の芥川龍之介、そして訳者陣は現代英米翻訳家オールスター。芥川の作品同様、古くてもよい作品は時代を隔てようがその価値を減ぜない、というある意味当然の事実を読者は思い知らされることになる。

 ブランダー・マシューズ「張りあう幽霊」は、ある貴族の家系に取り憑く二人の幽霊の物語。それぞれ貴族その人と貴族の持つ古屋敷に取り憑いている二人はどうにもこうにも馬が合わない――つまり、貴族が屋敷にいると、屋敷中でタンバリンやバンジョーがかき鳴らされ、罰当たりな悪口が辺りで聞こえ始めるのだ。結婚を期に何とか状況の打開を図りたい貴族は腹を決め、幽霊二人の直接対話の場を設けたが、その席で明らかになった驚愕の事実、そして解決策とは……? 「お前〇〇だったのか!?」系の話には枚挙に暇がないが、本作はその中でも別格。漫画にすればTwitterでバズりそうな予感。
 マックス・ビアボーム「A・V・レイダー」は大いなるほら話の魔力、といった趣向の短編。療養のために滞在していたホステルで、語り手はA・V・レイダーという男と出会う。手相占いを信じるか信じないか、という話を発端に、レイダーは自らが巻き込まれたという大事故の話を切り出し始める。レイダーが、自らの怠慢のために事故を未然に防げなかった、と語るのを聞き、語り手はレイダー宛に慰めの手紙を送る。だが一年後、その手紙は同じホステルの郵便受けの中で古びたまま放置されていた……。レイダーの語り口の巧さ、衝撃的事件の顛末、そして事件の真相がテンポよく終始テンポよく語られていく。

 そのほか、近代イギリス怪奇小説の大家アルジャーノン・ブラックウッドの初邦訳作品「スランバブル嬢と閉所恐怖症」は、列車の中に閉じ込められた夫人の強迫観念が執拗に描かれて恐ろしい。「これこそが閉ざされた場所への恐怖だ。/これが閉所恐怖症(閉所恐怖症に傍点)だ!

 ステイシー・オーモニア「ウィチ通りはどこにあった」はウィチ通りという実在の通りの所在を巡って起こった喧嘩がエスカレーションしていき、最終的に警官二名を含む死者八人、負傷者十五人を出す「アズテック通りの包囲」事件が勃発するまでに至る経緯を記した物語。些末な言い争いがどんどんヒートアップし大事件を引き起こすまでの過程はどうにもスラップスティック的で思わず笑いを禁じえない。

 レディ・グレゴリー「ショーニーン」は、顔がそっくりな王妃の息子と料理女の息子二人の話。料理女の息子であるショーニーンはある時王妃に宮殿を追い出され、その日から彼の冒険が始まった……。アイルランド文芸復興運動に携わった作者による、アイルランドに伝わる伝説を採集した本からの一編とのことだが、最後の悪の老婆との決闘の方法が「拳闘のグローブをはめてガチの殴り合い」であるところにアイルランド的奇想の底知れなさを感じた。各短編冒頭の扉に記されている澤西祐典氏の解説によると「こうしたアイルランド文芸復興運動によって現れた民族固有の伝説・奇話集が、芥川の興味を『今昔物語集』等の日本古来の説話集に向かわせ、「羅生門」に代表される王朝物が誕生したと考えられる」とあるが、このオチには日本の古典でもなかなか太刀打ちできないと思う。

 ボーナス・トラックとして収録された芥川自身の翻訳・創作も面白い。『アリス』を芥川が訳していたとは、と初めて知る方も多いのではないだろうか(もっとも、既訳を参考にした部分も割合多いと聞くが)。創作の「馬の脚」は、当時の中国大陸を舞台に、貿易会社の社員として務める男の下半身が、天国の事務方の手違いでうっかり馬のものと入れ替わってしまうという奇想天外な物語。日本ではあまり知られていない作品だが、フランスで出版された版芥川龍之介短編集では表題作となるなど、海外では芥川の新しい代表作としてみなされだしている一作とのこと。初期の歴史もの・後期の精神病みもの以外の、ユーモラスな芥川の一面を覗くことができる。

 さて、こうして編まれたアンソロジーを通して見えてくるのは(冒頭でも述べたことではあるが)芥川のアンソロジストとしての鋭い目利きだ。ワイルド、ディケンズ、スティーヴンソンなど定番どころを抑えつつしっかりと自分の好みを押し出す構成力や現代にも通用するラインナップなど、彼が長生きしてもっと色々なアンソロジーを編んでくれれば……という念に駆られる。そしてそのラインナップを見て思い出すのが、編者の澤西氏もあとがき内で触れているホルヘ・ルイス・ボルヘスによる世界文学短編アンソロジー《バベルの図書館》だ。ウェルズ、スティーヴンソン、ポー、ワイルドなど選出する作家に重なるところも多い。芥川が一八九二年生まれ、ボルヘスが一八九九年生まれと、ほぼ同世代の空気を吸っていた二人。芥川は若くして亡くなったが、ボルヘスは一九八〇年代まで生きた。彼はスペイン語版『歯車・河童』の序文で、芥川作品を高く評価していた。『聊斎志異』を愛したことも共通点だ。芥川が自死せず、ボルヘスの日本訪問の際、両者が手を取り合うような場面が見られたならば……と、思わず歴史のifに思いを馳せたくなった、そんな一冊だった。

 

 

オスカー・ワイルド「身勝手な巨人」〈『幸福な王子 ワイルド童話全集』(新潮文庫)、西村孝次訳など〉
ダンセイニ卿「追い剝ぎ」〈『夢見る人の物語』(河出文庫)、中村融訳など〉
レディ・グレゴリー「ショーニーン」
エドガー・アラン・ポー「天邪鬼」〈『ポオ小説全集4』(東京創元社)、中野好夫訳など〉
R・L・スティーヴンソン「マークハイム」〈『クリスマス13の戦慄』(新潮文庫)、池央耿訳など〉
アンブローズ・ビアス「月明かりの道」〈『アウルクリーク橋の出来事/豹の眼』(光文社古典新訳文庫)、小川高義訳など〉
M・R・ジェイムズ「秦皮(とねりこ)の木」〈『M・R・ジェイムズ傑作選』(創元推理文庫)、紀田順一郎訳〉
ブランダー・マシューズ「張りあう幽霊」
セント・ジョン・G・アーヴィン「劇評家たちあるいはアビー劇場の新作――新聞へのちょっとした教訓」
H・G・ウェルズ「林檎」〈『盗まれた細菌/初めての飛行機』(光文社古典新訳文庫)、南條竹則訳など〉
アーノルド・ベネット「不老不死の霊薬」
マックス・ビアボーム「A・V・レイダー」〈『『世界100物語 5』(河出書房新社)』、中田耕治訳〉
アルジャーノン・ブラックウッド「スランバブル嬢と閉所恐怖症」
ヴィンセント・オサリヴァン「隔たり」
フランシス・ギルクリスト・ウッド「白大隊」
ステイシー・オーモニア「ウィチ通りはどこにあった」
ベンジャミン・ローゼンブラット「大都会で」
E・M・グッドマン「残り一周」
ハリソン・ローズ「特別人員」
アクメッド・アブダラー「ささやかな忠義の行い」

芥川龍之介作品より
ウィリアム・バトラー・イェーツ「春の心臓」
ルイス・キャロル「アリス物語(抄)」
芥川龍之介「馬の脚」


※全て訳し下ろし
※澤西祐典・柴田元幸共編
※「天邪鬼」「張りあう幽霊」「隔たり」「ウィチ通りはどこにあった」は柴田元幸訳。「身勝手な巨人」「大都会で」が畔柳和代訳、「追い剝ぎ」「ショーニーン」が岸本佐知子訳、「マークハイム」「不老不死の霊薬」が藤井光訳、「月明かりの道」が澤西祐典訳、「秦皮の木」「特別人員」が西崎憲訳、「劇評家たちあるいは〜」が都甲幸治訳、「林檎」が大森望訳、「A・V・レイダー」「白大隊」が若島正訳、「スランバブル嬢と閉所恐怖症」が谷崎由依訳、「残り一周」「ささやかな忠義の行い」が森慎一郎訳
※「春の心臓」は芥川龍之介訳、「アリス物語(抄)」は芥川龍之介菊池寛共訳(ただし掲載は芥川が訳したと推測されている箇所のみ)