機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

家に発電所を作り、世界の輪廻に取り込まれる――奇想小説ファンに勧める現代漫才3選

 

奇想の住まう場所

 奇想が好きだ。要するに、どうやって思い付いたのか見当も付かないような、変な発想が好きだ。

 奇想はどこに住まうのか。身近なところでいけば、小説にはよく潜んでいる。

 交通事故に性的快感を覚える男(J・G・バラード『クラッシュ』)、演奏に1万年掛かる長大な交響楽を演奏し続ける山頂の交響楽団中井紀夫「山の上の交響楽」)、知性を持つ1つの生命体としての星(スタニスワフ・レムソラリス』)etc.

 SF小説には奇想がよく住まう。私を含むSFファン(の一部)にとって、SFを好む理由は、こうした奇想を効率よく見つけ、見つけ次第摂取したいから、であろう。

 ラテンアメリカ文学が好きなのも同じ理由だ。文字の無限の組み合わせが存在するゆえに、世界のありとあらゆる本を所蔵するという図書館(ホルヘ・ルイス・ボルヘス「バベルの図書館」)、古書店で見付けた、一気呵成に読み続けないと文意が取れなくなる奇妙な本(エンリケアンデルソンインベル「魔法の書」)、進まなくなった高速道路上で繰り広げられる日常生活(フリオ・コルタサル「南部高速道路」)。

 ラテンアメリカ文学の代名詞とも言えるマジックリアリズム的(あるいはラプラタ幻想文学の系譜の)物語は、非理性的な奇想をそのまま非理性的に――狭義のマジックリアリズムでは、理性の視点を介することなくかつ共同体がその非理性的視点を共有した世界を創造して――描くことで成り立つ。ゆえに、中南米文学は奇想の宝庫である(もっとも、近年の作はジャーナリズム性に偏って、以前のような奇想文学は少なくなっていると聞く)。

 その他、近年では柴田元幸氏や岸本佐知子氏などが紹介しているような現代英米文学にも、奇想にあふれる魅力的な作品が多数存在する(だからこそ、先日「柴田元幸編アンソロジー全レビュー」ということをしたりもした。詳しくはそちらを参照のこと)。

 

 だが……小説以外に奇想はないのだろうか? 否、ないはずがない。

 では、奇想は世界のどこに巣食って暮らしているのだろうか? 小説だけが奇想じゃない。我々は新たな奇想の巣穴を見つけなければならない。

 

なぜ漫才なのか? 奇想の在処を探る

 映画にも演劇にも漫画にも奇想はある。でも、もっと卑近なところに――漫才に――大きな巣穴があると、私は確信している。

 私は大阪出身・大阪育ちということもあって、漫才を筆頭としたお笑い文化に、幼少期から親しんできた。他地方の方には信じがたいかもしれないが、大阪の小学生は、出し物で必ず漫才かコントをするのである。私もその例に漏れなかった。

 だがその後、個人的にテレビの面白さが目減りしているように感じたこともあり――これは普遍的な現象なのか、それとも個人的な体験かは分からないが――中学生以降、そうした文化とも縁遠くなっていった。毎週欠かさず見ていた土曜の昼の新喜劇も見なくなったし、紙の雑誌形式の番組表を買って蛍光マーカーで見る番組を塗りつぶしていたバラエティ番組も、ほとんど、いや全く見なくなった。

 だが最近、ふと漫才を見る機会があった。そこで知ったのだが、漫才は、この十数年ほどで、驚くべき速度で進化を続けているのである。現在、日本で最も大きい漫才のコンテストである『M-1グランプリ』の初回、2001年大会の映像を一度ご覧いただきたい(Amazonプライムビデオで閲覧可)。そしてその後、前年度行われた2019年大会とで見比べてみてほしい。テンポも、間も、使われるワードも、発想も、すべてが洗練されていることが素人から見てもひと目で分かるだろう。

 なぜ漫才は十数年で飛躍的な進化を遂げているのか? 落語や他の芸能形式と比して、歴史が浅いこともあるだろう。だが、その一番の理由は、競技人口だ。もっと言えば、M-1グランプリという全国の漫才師が集う大会が行われ出したことが大きい。

 漫才師は人生を笑いに捧げ、人よりも多く人を笑わせることに文字通り命を賭けている。売れっ子になればスターとして裕福な暮らしが送れるが、大半の芸人は芸人としての稼ぎでは食えず、アルバイトをして生計を立てている。先行きも分からないまま、生活にも困窮する中、彼らはただ笑いを作り出すためにもがき苦しむ。当然、脱落者も出る。だが、残った者たちは、ただひたすらに、孤独に笑いを追求していく――いつかスターになる日を目指して。客席を他の誰よりも沸かせることを目指して。

 そんな狂人に半分足を踏み入れたような人種が、M-1グランプリにエントリーする組だけでも、毎年約5000組*1はいる訳である。現在のM-1グランプリの出場資格は芸歴15年以内なので、芸歴16年以上の組やそもそもエントリーしない組、漫才ではなくコントで勝負する芸人も含めれば、その数は一万を下るまい。そんな数の彼らが切磋琢磨し、常に人より秀でようと、日夜研究と研鑽を重ねているのだ。否が応でも、伝統芸能の位置ジャンルとしての漫才は、発展していく。多様性が生まれ、構造は複雑化し、メタにメタが重なっていく。過去にないものを、今最新の新しい笑いを作り、研鑽したものが一番になれる――このような大きな「目標」として、各種賞レースは存在している。

 そして2020年。多様化した漫才の一部には、間違いなく奇想が住んでいる。

 数の増加、多様化、そして先鋭化の結果として、現代の漫才は極めて奇想小説的な作品を含むのだ。

 本稿では、その代表的な漫才を3作紹介し、奇想小説ファンに、現代の漫才は奇想小説と近接しかかっているという事実を知ってほしいと切に思う。そして、小説も漫才も同様に愛する者として、奇想漫才に少しでも注目してくれたら、と願う次第である。

 

①気が付けば世界の輪廻に取り込まれている話――Dr.ハインリッヒ「トンネルを抜けると」


『トンネルを抜けると』

 現在の漫才シーンで「奇想」に言及しようと思えば、Dr.ハインリッヒは欠かせない存在だ。双子の姉妹で、片方が右利き・片方が左利き……という、生まれからしてフィクショナルで唯一無二の漫才師でありながら、ネタ内では決して双子であることも、姉妹であることも、女性であることも言及しない、ストロングスタイルの漫才師である。

 昨年度のM-1グランプリ準々決勝で掛けられたこのネタは、彼女たちのスタイルを代表するネタだ。川端康成『雪国』の書き出しから始まり、実際に「トンネルを抜けた」先で見た幻想的な光景――チャーハンを食べるでぶの鰯、コンクリートの裂け目から咲く向日葵、その向日葵から落ちる銀色の鉛筆のキャップ――を語っていくボケの幸。ツッコミの彩はその発言に口を出すことはあれど、決して決定的なツッコミ――「んなわけあるかい!」に代表される、発話者のボケをウソ=虚構として遮る、「常識」としてのツッコミ――はしない。結果、舞台上では非常に不条理な空間が展開されていく。

 そしてその結果見えてくるものは、チャーハン-鰯-向日葵-幸で展開される、鉛筆キャップを製造する巨大な輪廻である。5分にも満たない話の中で、まさか永劫回帰的な世界が展開されるとは誰も思わなかっただろう。

「自分もそうやで。知らん間に、何かを作るメンバーの輪廻に参加してますよ。お客さんもそうですよ」

「私もサザエさん あなたもサザエさん」「アンパンマンはきみだ」に次ぐ衝撃の事実。不条理なようでいて、論理が成立しているかのように見える奇妙な感覚。そして締めのメビウス!」「メビウスやからもうええわ」という言葉。観客は自分も巨大なシステムに囚われていることを知らされ――自明のことではあるが、まさか漫才を見に来てそんなことを突きつけられ得るとは露ほども思わず――唖然としている間に、双子の姉妹漫才師は舞台を後にしている――まさに唯一無二の存在。彼女たちが売れる世界線に住みたかった、そんな気持ちに毎回させられる漫才師である。

 

②プリクラ撮りたさに家を火力発電所にする話――金属バット「プリクラ」 

 

「俺もういっそのこと、風呂場改造して発電所にしたったんや」

 現在の漫才シーンで異色の立ち位置を見せるコンビ・金属バット。売れることを拒むようなやさぐれた仕草が、却ってファン人気を呼び、現在はやや拗れたポジションに収まっている……というとファンや本人たちにとって失礼かもしれないが、彼らの芸風は何とも形容し難い魅力を持っている。

 しゃべくり漫才(立ち話の延長線上。コント漫才とは違い、役柄を演じることはない)の中で繰り広げられる異様な世界が持ち味なのだが、このネタはその中でも奇想度が高い。プリクラを毎日撮りたいが金が掛かる……じゃあ本体を買おう、という導入からして奇天烈なのだが、その後の展開も凄い。家はプリクラ機に占領され台所も押入れも埋まってしまっている、シール取り出し口には辿り着けない(溢れてきたら取れることもある)、電気代が掛かるのでいっそのこと風呂場を火力発電所にした、とやりたい放題。絵面が全く浮かばない不条理さとボケの飄々としたさま、そして最終的な本末転倒ぶりが更なる不条理を加速させる奇想漫才の傑作である。

 たまにコンプライアンス的にアウトなネタが混ざるのが玉に瑕だが、その他にも奇想味溢れるネタを多数持つコンビなので、ぜひ注目していただきたい。

 

③変な暗記法・言葉遊び系漫才の最前線――カベポスター「英語」(ABCお笑い新人グランプリ2019・M-1グランプリ2020敗者復活戦)

「フェブフェブが……エイプ?」
「キツいんちゃうん!?」

 最後は、関西の言葉遊び・ロジカル系漫才の注目株・カベポスターを紹介したい。言葉遊び系の漫才は割と見かけるのだが、彼らのこのネタは、その中でも屈指のクオリティを誇る。

 このネタは、1月から12月までを英語で言えない→九九と合わせれば覚えやすい、という発想からして狂っているのだが、そこから更に転がり続ける狂った暗記術が極めて面白い。要するに、1×1をJanuary×January、1×2をJanuary×February と言い換えていくメソッドなのだが、当然2の段以降が訳の分からないものになってくる訳である。フェブジャニがフェブ、フェブフェブがエイプリル辺りで厳しくなり、結局普通の九九を挟んだ上で英語に変換する、という本末転倒さが滑稽=狂気的=常識からの逸脱で素晴らしい。加えて歌に合わせて覚える、徳川歴代将軍とアルファベットを合わせて覚えるなど、変な暗記術と言葉遊びで、知的パズルめいたシュールな世界が形成される。

 奇妙な論理を作り出し、その中の秩序を描き出すというメソッドは不条理文学のそれそのものであり、更に言えば統合失調症患者の――「狂気」の――世界の見え方にも通じるものがある。数分間の二人の喋りだけで、こうした異世界への通路を切り開く漫才師、引いては漫才という芸能の形式そのものは、極めて奥深く興味深いものに私には思える。

 

最後に & 奇想漫才Scrapboxの話

 という訳で、今回は3つのネタを紹介した訳だが、前述の通り漫才は驚異的な速度で進化と増殖を続けている。

 いつしか漫才にもシンギュラリティが訪れるのだろうか? あるいは、ある点で飽和し、頭打ちになってしまうのだろうか? 

 私には分からない。ただ観測し続けることしかできることはない。

 

 

 

  こうしたネタをまとめたScrapboxを作っていますので(最近は更新さぼり気味)、そちらもご覧下さい。

scrapbox.io

 


 

*1:2020年度は5,081組