機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

【告知】夏コミでレビュー誌『カモガワGブックス vol.1 《非英語圏文学特集》』出します

 今年の夏コミで同人誌を出します。大きな括りでレビュー誌です。

 出すのは『カモガワGブックス』(略称:KGB)という同人雑誌の創刊号で、今回は《非英語圏文学特集》。

 載るのは、イタリア語・スペイン語・フランス語etcといった非英語で書かれた文学作品のレビュー/評論などなど。


 具体的には、

 が載ります。最初は上2つだけの予定だったのが、何だかんだで豪華になってしまった。

 

 以下、収録内容の紹介。

 

 

イタロ・カルヴィーノ総解説


 イタリアが生んだ「文学の魔術師」ことイタロ・カルヴィーノ
 そんな彼の作品を全部丸々ひっくるめて解説してしまおう……という野心ある企画。
 京大SF研OBにして会内きってのカルヴィーノ読み空舟千帆氏による解説は、長編・短編小説は勿論のこと、エッセイや評論についても余さずカバーする予定。カルヴィーノファン必読の、熱のこもった解説が読めるはず。

 

《フィクションのエル・ドラード》全レビュー


 寺尾隆吉氏編集で水声社から現在も刊行中のラテンアメリカ文学叢書《フィクションのエル・ドラード》。
 ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』やマリオ・バルガス=リョサ『マイタの物語』、アレホ・カルペンティエール『方法異説』など、名だたる巨匠の作品もさることながら、本邦初紹介の作家の作品も数多く含む本叢書をまるっと全レビュー。今書いてます。

 

レイナルド・アレナス論(仮)


 先日、第10回創元SF短編賞日下三蔵賞を受賞された谷林守氏(@notfromSakhalin)によるレイナルド・アレナス論(仮)。
 谷林氏には、「《フィクションのエル・ドラード》全レビュー」内のレイナルド・アレナス『襲撃』のレビューも執筆して頂く予定です。受賞後初の文章に……なるのか?

whiteskunk.hatenablog.com

ミシェル・ウエルベック論(仮)


 今年1月、「告白したらふられたので「その女の子のことを想って過去に作った短歌から選んだ158首」を紙に印刷して本人に渡したら1首ずつ感想をくれた話」という奇ッ怪な記事が1300ブクマ超とバズりにバズったトルソー(西村取想)氏によるウエルベック論(仮)。

 何が飛び出すのか、僕も全然把握してません。怖い。

con2469.hatenablog.com

 

《東欧の想像力》全レビュー


 ユーゴスラビアチェコハンガリーなど、東欧から生み出された文学作品を数多く収録する松籟社の叢書《東欧の想像力》の全レビュー。
※担当者の進行状況により、「ボフミル・フラバル全レビュー」ないしは「《新しい韓国の文学》全レビュー」に差し替わる可能性があります。

shoraisha.com

 

南部アフリカ女性文学論(仮)


 京大詩人会所属の才媛による南部アフリカ女性文学論。日本ではまだまだ未紹介の南部アフリカ女性文学作品の魅力について、未訳作品も交えつつ紹介して頂く予定です。

 

 

 


 こんな感じを予定しています。
 出展ブースは、京大SF研のブースを間借り予定(だから多分3日目)(落選したらばもろとも終わり)です。

 

 まだまだ早いが、乞うご期待!

乗り越えろペダン――アレホ・カルペンティエール『方法異説』

 

 読みにくいよ、この本。

 『族長の秋』『至高の我』と並んでラテンアメリカ文学の三大独裁者小説と称される本作だが、カルペンティエールのまどろっこしい文体——人称が交錯する語り、延々と羅列される固有名詞、そして今あなたが読んでいるような挿入句の多用——によって、読了に手間と時間を要する作品となっている。一番困るのが固有名詞で、ずらずらずらずら必要以上に並べられ、あまりの衒学ぶりに呆れ返らざるを得ない圧倒的分量のカタカナ人名・作品名を読み流すだけでも大変なのに、訳者・寺尾隆吉の流儀なのかこれらに一切注釈はないのだから、読む側としたらたまったものではない。とりわけ顕著なのがカルペンティエールの専門分野である建築と音楽関係に関する名詞群で、建築学科でもクラシック愛好家でも何でもない当方にとっては何のこっちゃさっぱり分からず、読むのに大変な苦労を強いられた。カルペンティエールの長編で本作のみ訳出されていなかったのも、この煩雑さに起因するものだろう。

 それはさておき、本作に登場する独裁者・第一執政官は、残忍一辺倒の強権的な側面だけではなく、無学な国民が溢れる国において欧米文化を模倣し、自らも西欧的知識人を気取らんとして背伸びしようとするような、地に足の着いた人間臭さを併せ持つ人物として描かれている。故に、付け焼き刃の知識からボロを出すこともしばしばであり、真面目極まりない小説というイメージのカルペンティエール作品にしては珍しく、スラップスティック的な要素も盛り込まれている。

 とりわけ、政権を打倒せんとする革命勢力を率いる神話めいたリーダーのエル・エストゥディアンテと直接対話を試みる場面や、政権が崩壊し亡命した後の住処で故郷の料理を食べ郷愁に耽る場面など、残虐な大量殺人を命じた第一執政官がちらりと覗かせる人間臭さは印象的だ。あからさまな独裁制批判に堕することなく、一人間としての側面をある種同情的に描くことで――何度も内乱が起こるのだが、結局彼以上に政権運営能力のある人物がいないために仕方なく鎮圧しては政権を維持し続けている事情がある――当時のラテンアメリカ諸国における現状をより深く表現することに成功していると言えるだろう。

 『族長の秋』ほど魔術的リアリズムの要素はなく、独裁者としての凄みにも欠けるかもしれないが、カルペンティエールの叙情的な文体がこれほどに堪能できるというだけでも、作者のファンにはたまらない作品だろう。

 

 にしても読みにくいよ、この本。なんなんだ。

〈追記〉

《フィクションのエル・ドラード》には、まだあと『バロック協奏曲』『時との戦い』と2つカルペンティエール作品が控えているのだが、正直読める気がしない……。

 

 

 

〈合わせておすすめ〉

  三大独裁者小説についての記述あり。

筒井康隆『虚航船団』読書会レポ

虚航船団 (新潮文庫)

読書会レジュメお蔵出し企画第二弾。

 

1 作者について

 昭和9年(1934年)生まれ。同志社大学文学部で美学芸術学を専攻。展示装飾を専門とする会社を経てデザインスタジオを設立、昭和35年SF同人誌「NULL」(ヌル)を発刊。江戸川乱歩に認められてデビュー。

 代表作に「時をかける少女」「家族八景」「大いなる助走」「虚航船団」「残像に口紅を」「文学部唯野教授」など。

 小松左京星新一と並んでSF御三家と呼ばれ、日本のSF黎明期(第1世代)を代表するSF作家。

 初期はナンセンス・スラップスティック・ブラックユーモア・シュルレアリスムをメインとした作品で活躍するが、70年台より前衛文学・純文学方面へも進出し多数の実験的な作品を発表。

 でも一番有名なのはジュブナイルの『時をかける少女』だったりする(映画化4回、テレビドラマ化5回)。直木賞候補に3回ノミネートされて3回とも落とされた時には、直木賞選考委員を皆殺しにする小説『大いなる助走』(1979)を書いた。

 93年に断筆宣言。元々学生時代は演劇畑に居たこともあり、断筆期間中は俳優としても活躍。その後96年には断筆を解除し現在に至る。大江健三郎丸谷才一と親交があり、気が付けば文壇の最長老ポジションに座っている。

 

 

2 作品について

 

2−1 バックグラウンドなど

○新潮社より「純文学書き下ろし特別作品」の一つとして刊行(1984

 他のラインナップ(84年付近)

安部公房『方舟さくら丸』(1984)、大江健三郎同時代ゲーム』(1979)、中上健次『地の果て 至上の時』(1983)、丸谷才一『裏声で歌へ君が代』(1982)、村上春樹世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)など

 執筆に6年をかけ、終盤では他の創作の依頼は断り、『虚航船団』のみに専念。筒井康隆の集大成的作品と名高い。

○2009年の『SF本の雑誌』オールタイムSFベストでは全体5位(上はイーガン『万物理論』、レム『ソラリス』、広瀬正『マイナス・ゼロ』、ティプトリー『故郷から一〇〇〇〇光年』)

○刊行後は賛否両論で真っ二つに分かれ、評論家からの的はずれな批判に耐えかねた筒井は自ら「虚航船団の逆襲」と題した反論を執筆、これがさらに波乱を産んだ。批評家の渡辺直己などは、虚航船団以前は筒井の理解者として振る舞っていたが、本作以後は批判へと転じた。

 

○執筆背景

 元々70年台から実験小説方面へ傾き出していた(タモリ山下洋輔らと交友を持ち言語実験的な短編を書いていた)筒井康隆は、純文学雑誌『海』(中央公論社)にも進出。当時の『海』編集長・塙嘉彦経由でラテンアメリカ文学(バルガス=リョサコルタサルカルペンティエールガルシア・マルケスなど)の影響を受ける。

 以前よりニューウェーブSF的な(ある種の思考実験的・ある種の実験文学的な)『脱走と追跡のサンバ』(1971)など、実験的な作風にも挑んでいた筒井は、ラテンアメリカ文学との接近も経て、「超虚構」という概念を提唱。本格的な前衛文学を試み始める。

 例えば『虚人たち』(1981、泉鏡花文学賞受賞)では、小説内の時間を原稿用紙1枚分=1分と定めて、食事の描写や移動中の描写を執拗に細かく描き、気を失ったり睡眠を取るシーンでは白紙のページが延々と続く、あるいは主人公が神の視点を有しており誘拐された妻の様子を幻視しながら妻を追う、などといった様々な文学的な約束事を破る実験を試みている。

 84年の『虚航船団』を挟んで、『残像に口紅を』(1989)では、一章ごとに使える仮名が一文字ずつ減っていき、それに伴ってその文字を含むものが世界から消えていく、というリポグラムを用いた長編を書いている(→ジョルジュ・ペレック『煙滅』[1])。

 

『虚航船団』執筆に当たって筒井康隆本人が自分に課した条件[2]

  • 自分自身が満足できる作品でなくてはならない
  • 気難しい文芸評論家をはじめとする文学の読者をも満足させる作品でなければならない
  • 今回は(引用注・『虚人たち』などの実験作が、当初従来の筒井ファンに一部受け入れられなかったことを受けて)中学生にもよくわかり面白がってもらえる作品でなければならない
  • 普段小説にあまり縁のないサラリーマンや女子高生が読んでけたけた笑えるようでなければならない
  • 絶対必要条件として、実験的手法によるものでなければならない

 

2−2 あらすじ

・第1章 文房具

 宇宙を飛び続ける船団の中のひとつ、文具船。そこに乗り込む総勢42名の文房具たちの群像劇が繰り広げられる。

 文房具たちは、どこまで行くのかもいつ帰れるのかもなぜ航海しているのかも分からない航海のせいで一人残らずみな気が狂っており、更に閉鎖的な文具船という環境の中でそれが増幅され、結果として文具船の中では「狂っていることが正常」「正気すなわち狂気」という逆転現象すら起こってしまう。

 それでも何とか航海を続けていたが、ある時中央船団から、惑星クォールの全居住民殲滅を司令される。その惑星クォールでは、かつて流刑にされた凶悪な鼬族の子孫が文明を築き上げていた。

 そして惑星クォールに着こうかという瞬間、惑星の表面で核爆発と思しき閃光が観測されるところで第1章は終わる。

 

「ここでまず、SF嫌いと、主人公にしか感情移入できぬレベルの者と、物語の展開だけを求めて小説を読む読者が疎外される。」[3]

 

・第2章 鼬族十種

 流刑に処せられた凶悪な鼬(いたち)族十種が住む惑星クォールには1,000年の歴史があり、流刑当初は原始的な状態だったものが、わずかな年月で核兵器を開発できるレベルまで文明を発達させていた。彼らの歴史は残忍な刑罰や虐殺、共食いや復讐に満ちた血塗られた歴史である。しかし科学技術の発展は、流刑時に祖先が携えてきた情報の解読によって迅速に行われ、その速度は中世のレベルから人工衛星の開発まで約500年という脅威的な速度であった。

 彼らの文明は、地球における宗教改革や世界大戦をなぞるように要領よくこなし、冷戦の時代に突入する。しかしクォールでは冷戦における恐怖の均衡が滑稽なスキャンダルによって破れ、核戦争が起こってしまう。それはちょうど文房具船の襲来(“天空からの殺戮者”(=文房具たち)の襲来)したのと時を同じくしていた。つまり、第1章の終わりと第2章の終わりは時系列的に同一である。

 第3章で、第2章全体が、登場人物の一人である三角定規(兄)が記した歴史書であることが分かる。

 

「今、世界史を書いている。歴史小説ではなく、歴史を書いているのである。世界史のパロディではなく、世界史なのである。少くとも書く方では、そのつもりで書いている。(中略)さて、その三百枚のうちの二百枚を書きあげた今、読み返してみると、それはたまたま世界史を残虐性の側面から眺めたというていのものになっている。」[4]

「人間がひとりも登場しないことがはっきりし、ここで人間以外の者に感情移入できないレベルの読者が排除される。」[5]

「また、一章二章を通じ、多くのギャグの「とどめ」は省かれていて、読者の想像に委ねているため、過去のわがドタバタSFを期待した読者にとってこれは「サービス不足」であり、「面白くない」ことになる。」[6]

 

・第3章 神話

 惑星クォールを殲滅せんと殺戮を繰り返す文房具たちと、“天空からの殺戮者”の襲撃から逃れる鼬族たちの攻防。

 登場人物が多く、時系列や場所も次々と移りゆく形式を取り、地の文と台詞の境界がなくなっている箇所も多い(マリオ・バルガス=リョサ『緑の家』の手法の援用)。

 圧倒的な戦闘力を有しながらも、穴を掘る能力に長け繁殖力の強い鼬族の前に次々と敗れ――あるいは、自らの狂気によって――死を迎えていく文房具たち。

 そして最終的に残されたのは、壊滅した文明と生き延びた少数の鼬、それに文房具(糊、コンパス)と鼬族の間に生まれた混血児だけであった。

 我が子の行く末を気遣い、また苛立つ母親鼬にお前はこれからどうするのか、と問われた(本来次の世界を築くべき次の世代の代表である)混血児はこう答える。

「ぼくはこれから夢を見るんだよ」と。

 

「第三章は文房具とイタチの戦いである。登場する者が多く、話は戦場のあちらこちらへと飛ぶ。それが誰の、どの話の続きであるかを説明するといったサービス──極端には作者が顔を出し「読者はもうお忘れであろうか」などとやる、サマセット・モーム先生の好きなあれ──などはいっさいしない(そのかわりヒモが二本もつき、巻末近くには文房具乗組員名簿もあるのだが)。したがって通常のエンターテインメントの如く漫然と読んでいても筋は追えるとたかをくくった読者は作品から拒否されてしまう。あたり前だ。そんなに気軽に消費されてたまるか。」[7]

 

○第3章の詳細なあらすじ

時系列が入り組んでいるので、方面別に整理した。筒井康隆『虚航船団』読み解き支援キット.pdf - Google ドライブ参照。

 

2−3 意図など

 一言でまとめると、「現実の要素に照応しない〈荒唐無稽〉をリアルに描き出すこと」が作者の目論見であった。

 飼いならされたリアリズムを否定し、言葉によってのみ現出される虚構(=超虚構)を示す、それが筒井康隆が提唱した「超虚構」の実践として本作には描かれている。

「小説における言語の原理的な機能を捉え直す」ことが持続的なテーマであった筒井康隆にとって、超虚構あるいはメタフィクションといった手法によって小説の限界を確かめること、これこそが本作で目指された達成であった。

 超虚構、鴎外と逍遥の没理想論争(事実を写し出そうとする自然主義と現実に存在しない美を描き出そうとする反自然主義)から連なる自然主義偏重の流れの断ち切り

 

 言葉のみで表される世界を描くことが目的であるがゆえ、文房具たちは擬人化のようでいて、決して擬人化ではない 

 

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萌え絵で読む虚航船団(http://www.geocities.jp/kasuga399/oebi_kyokousendan1.html)より

 

 

○人間らしい描写

眼鏡にしても姿が似ているからこそ同じ眼鏡がいちばんよく似合うと言うので

元来蒼白かった顔色が

眼鏡を外し服の袖で眼を横に拭った

彼の腫れぼったい瞼がやや上がってその下からは充血した眼球が覗き始める

 

○姿が想像しにくい描写

針の付け根がゆるんでいたので完全な円は描けなかったが

一日一度必ず日付のゴム印を回転させていたが

からだの一部に彼が内蔵しているコの字型の針を

彼の巨大なからだの一部に突き刺さったままでいる画鋲に気付いた筈であったがあいにく画鋲は消しゴムの表面に印刷されている英文の中のOという字の円内にすっぽり納まった形で突き刺さっていた

俺の父親は座布団だったと言うが(445)

 

 ラテンアメリカ文学的な手法の援用(第1章、第3章)

マジックリアリズムの定義(寺尾隆吉)

  1. 非日常の視点から現実を捉え直す
  2. 非日常的な視点が個人のレベルでは完結せず、集団レベルまで伝播して一つの『共同体』を構築し、作品世界を満たす

→    文房具の姿

ファンタジー……現実に立脚、現実からの移動を伴う

 

○第1章

・文房具たち=人間の精神の負の側面のデフォルメ

→ 身近な存在であり、「書く」ためのものでもある

・文具船=統一された人格? 人間というものの異化

・(文具船内での狂気)=(正気) → 戦争文学的、『キャッチ=22』など 

 

・「記号にすら感情移入できなければならない」[8]

「で、今度はたまたま全部文房具というわけです。『虚航船団』というのは評価する人としない人にわかれちゃって、しない人というのは、(中略)文房具を出してきた荒唐無稽さが何にもなってないじゃないかというんです。ところが、こちらとしてみれば、どうして個々の万年筆であるとか虫ピンであるとかを記号として見られないのか、ということがまず不思議なんです。

(中略)そのへんにあるものを全て記号化するというだけでなく、今度は逆に記号に感情移入していくという段階じゃないかと思いますね。」

→ 『残像に口紅を』では、文字・単語そのものへの感情移入を要請

 

○第2章

・人類の世界史パロディ

「世界史のパロディではなく、世界史なのである。少くとも書く方では、そのつもりで書いている。」

でも、現実の世界史の模倣に過ぎない。見方を変えただけ→異化

第1章との対応で、「個」と「全体」の対比 かえって、個人単位の記述は希薄

残虐性を強調することで、更に感情移入を困難に

 

○第3章

・バラバラにされた時間と空間

→読者は、通常の読書よりも能動的に再構築する必要が生じる(『緑の家』の援用)

・「作者の」意識の流れ=シームレスに場面場面を繋ぐ緩衝材=最終盤では、同時にダレ場でもある?

フィクションと現実の境界の揺らぎ。現実の虚構への侵襲

 

○全体として 

・1章・2章で組み上げられた虚構の衝突

 ここに、    作者自身の時間・現実

                  読み手自身の時間・現実

 も含められるか?

→旧世界(惑星クォール)の終焉と新秩序の幕開け

 新世代=混血児であることの象徴性 敢えて緻密な描写がなされておらず暗示的なものにとどまる

 

 小説でしかあり得ない現実と現実がぶつかりあうカタルシス

 完全な虚構であるはずなのに、感情移入してしまう

 

・存在の鎖

「ただ、批評するほどの人なら少くとも、存在の鎖(宇宙を神・人間・動物そして無機物に至る堅固な階層的秩序と捉える世界観)に基づいた形而上的楽観論の体系ぐらいは心得ておいてほしいと言うにとどめ、言い残したことも含めて次回の反撃まで待機するとしよう。」[9]

 神→人→動物→無機物

 通常の神話……神と人との物語、あるいは神同士の物語

 第3章「神話」……動物(鼬)・無機物との物語 ではこの場合の神とは何なのか?

 

・第3章の「神話」の意味

 ……起こった出来事を「神話」と呼べるのは後世の人々の視点

スリカタ姉妹「これからはじまるのは、あたらしい神話の時代なのだよ」(502)

 神・英雄=文房具、人間=鼬 の図式で良いのか。

 全て報告書では文房具の死は「戦死」

 ……描かれた多様な死に方も、全て後世からは同じ死として扱われる

 

・最後の台詞の意味?

→「夢」とは何か。夢を見る=何もしない、なら、今までは何をしていたのか。

→現実の無意味性?

タイラタの子供の発言(437)

 

意外に思われるかもしれませんが、演劇の方が近代小説よりもずっと早くからあったわけなので、ぼくが仕事として小説を選んだのは、先駆的な演劇の中の前衛性を取り入れた小説を書こうとしたんだと思います。本来は制約の多い演劇よりも小説の方がはるかに自由である筈ですからね。そしてそれを実現するためには、当時アメリカから日本に輸入されてきたSFこそが最適だと考えたに違いありません。これは大学でシュールリアリズムや心理学を学んだことや、父親が動物学者で、科学的認識の何たるかを自然に心得ていたこととも関係がありそうです。

 

 SFを書きはじめてすぐ、自然主義リアリズムで書いていてはどうにもならんと思いはじめました。星新一は「内容が自然主義ではないのだから、その上書き方まで前衛的になっては、読者には何がなんだかわかるまい」と言っていたのですが、ぼくは当時の最前衛の文学作品を読み、その手法をSFやエンタメに取り入れるということをやっていました。ぼく自身がよいと思った前衛作品の魅力を自分のSFで読者にもわかってもらいたかったからですが、この時ですでに最前衛ではなかったわけですね。

 

 でもやはり読者に理解されたい、読まれたいという思いがあり、最低限、理解可能なものにし、さらにどんな読者にでも最低限楽しんでもらえるエンタメ性を持たせました。純文学の雑誌に発表した作品にしても、いずれも基本的にはエンタメです。それがよく読まれてきた理由ではないかと思います。SFを馬鹿にしている純文学作家たちにしても、ほとんどは本物の前衛というのがよくわからなかったのではないかと思います。だからなんだか見せかけの前衛みたいになってしまう。前衛というのはまず、面白くなくてはならない。

[10]

 

面白い前衛、に本作はなっていただろうか。

 

2−4 落穂拾い

ゴールキーパーとは何だったのか

「戦争ともなれば目茶苦茶はいくらでも起こり得るんだ。あいつはいつでもどこへでも出現しますぜ。戦争の最中にまたきっとボールを抱いてあらわれるでしょうな。」(160)

 → その後実際に、戦闘中に2回目登場

「隊員がほっとする間もなく隊長は怒鳴る。『ほっとしていてはいかんのだ。旋回だ。旋回だ』旋回して間もなく、コントロール・パネルの上に縞のシャツを着て楕円形のボールを持った男が出現する。『ゴールキーパーだ』と叫ぶなり消失したその男に対し隊長赤鉛筆はその突拍子のなさ非現実性並びに無責任ぶりをえんえんと糾弾しはじめる。しかし今艇は海岸めざして降下中だ。乗組員全員がそのことに注意を払わずゴールキーパーの出現について意見を述べはじめた。」(503)

・語られない「のちに詳しく述べる」

「なぜ彼が勤務中に便所へ立つ回数が多いのかという疑問及び彼が船内の便所で用を足そうとする時の一種の儀式めいた珍妙な仕草は船内の話題になっているほどだがこれはのちに詳しく述べる機会があるだろう。」(10)

「コンパスはいつの間にか自分が用便時の儀式を行わなくなっていることにまだ気づいていない。したがってあの奇怪で珍妙な仕草に関する記述の機会はどうやら永遠に失われるようである。」(382) 

「第三者が消しゴムに話しかける際の複雑でやや卑猥な動作や消しゴムがそれに答える時の独特の淫靡な身振りと表情についてはまたのちに述べることとしよう。」(53)

「日付スタンプは緊張のあまりいつもの笑いを笑いながらのち詳述する奇異な儀式ののちに奏上する。『あー。わたしは今しがた尊き陛下が何ゆえこの者たちをここへお連れ遊ばしたか伺いたいと斯様申しておる誰かのことばを聞いた』消しゴムはのち詳述する奇異な儀式ののちに答える。」(415)

「してみるとここで死ぬことになるのであろうか。それが筋書きなのであろうか。おお。案の定だ。手っとり早く次頁に眼をやればそこには彼自身の死を念入りに活写した十数行がちらと見える。死を活写するとはこれいかに。あれを否定しなければならんぞ。それだけは。その部分を消さねば。本来の用途に従って消しゴムはその描写を消す。それによって彼自身も消えてしまう。彼自身に附随するいくつかの事柄、例えば奏聞に答える前のあの奇妙な身体による儀式についての事柄やそれから」以下約1ページ白紙。(490)

・伝染性の狂気(発言恐怖)=元ネタは『百年の孤独』の伝染性不眠症か?

 

・第2章の落穂拾い

 ・194ページ「流刑囚であった先祖がこの星へ持ちこんできたあらゆる書物」は374ページで言及。

 ・258ページ「評議府議長の大司教コンタチバ」は368ページでも言及。

 ・272ページ「憤怒の形相凄まじいペンの頭部はその後長く保存され現在は王室博物館の片隅(五号館一九六ケース)に飾られている。」は、373ページで下敷きと兄三角定規が目にする剥製です。

 ・280ページ「895年6月4日」の処刑広場は、406ページで金銭出納簿が飲んだくれる場所。

 ・293ページ「クォール史上初の宇宙船開発研究の記念」は458ページに再登場。

 ・295ページ「ユビータ」という幽霊は404ページで金銭出納簿が悩まされます。

 ・298ページ「タイラのゴオモリ」像は411ページで再登場。

 ・327ページ「他民族は女とみれば犯し子供も含めすべての者の掌に穴をあけ数珠つなぎにして戦車で引きずりまわし」のプロパガンダは432ページで糊に関する噂として再登場。

 ・340ページ「オビ山」は410ページで第7方面軍が戦闘をする場所。

 ・345ページの人工衛星群は506ページでオオカマキリたちの死因となる。

 

3 次に読む本

筒井康隆なら

・『虚人たち』(試みは最高に面白い。副読本として『着想の技術』もどうぞ)

・『残像に口紅を』(技法と物語が完全な一致を見た類稀なる傑作) 

虚人たち (中公文庫)

虚人たち (中公文庫)

 
残像に口紅を (中公文庫)

残像に口紅を (中公文庫)

 

 

第2章っぽい話

小林恭二『ゼウスガーデン衰亡史』

矢部嵩『[少女庭国]』

 架空の歴史書ものふたつ。

ゼウスガーデン衰亡史 (ハルキ文庫)

ゼウスガーデン衰亡史 (ハルキ文庫)

 
〔少女庭国〕

〔少女庭国〕

 

 

石黒達昌『新化』「人食い病」「雪女」など

 科学論文風の文体で書かれた純文学/SF。冷静な筆致なのに感情を揺さぶる手腕に脱帽。

人喰い病

人喰い病

 
新化 (ハルキ文庫)

新化 (ハルキ文庫)

 

 

第3章っぽい話

円城塔『エピローグ』

・バルガス=リョサ『緑の家』 

エピローグ (ハヤカワ文庫JA)

エピローグ (ハヤカワ文庫JA)

 
緑の家(上) (岩波文庫)

緑の家(上) (岩波文庫)

 

 

超虚構っぽい話

スタニスワフ・レム『完全な真空』『虚数

完全な真空 (文学の冒険シリーズ)

完全な真空 (文学の冒険シリーズ)

 
虚数 (文学の冒険シリーズ)

虚数 (文学の冒険シリーズ)

 

 ガイドブックとしては木原善彦『実験する小説たち』がオススメです

実験する小説たち: 物語るとは別の仕方で

実験する小説たち: 物語るとは別の仕方で

 

 

  

 

[1] フランス語で最も使用頻度の多いeを一つも使わずに書かれた長編。日本語訳ではい段を使わずに訳された(塩塚秀一郎訳)。

[2] エッセイ「誤解してください」、中公文庫『虚航船団の逆襲』

[3] エッセイ「自作再見──『虚航船団』」、中公文庫『悪と異端者』

[4] エッセイ「プライベート世界史」、中公文庫『虚航船団の逆襲』

[5] エッセイ「自作再見──『虚航船団』」、中公文庫『悪と異端者』

[7] エッセイ「自作再見──『虚航船団』」、中公文庫『悪と異端者』

[8] 「メディアと感情移入(アニミズム)」〈巽孝之と対談〉、中公文庫『虚航船団の逆襲』

[9] 虚航船団の逆襲、中公文庫『虚航船団の逆襲』、初出『毎日新聞』昭和59年7月6日・7日夕刊

[10] 宙を行く創作の旅(上編) 筒井康隆 | 総合文学ウェブ情報誌 文学金魚http://gold-fish-press.com/archives/46333

伊藤計劃『ハーモニー』読書会レポ

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

レポ、という名のレジュメの再構成。

2018年度新歓読書会にて行った『ハーモニー』読書会に向けて作成したレジュメより。お蔵入りさせるのも忍びなかったので、なんとなく公開。実際の読書会では、参加者から「ハーモニーはセカイ系なんですか?」という質問が飛び、「じゃあまずキミのセカイ系の定義を教えてくれるかな?」などという問答をした覚えがある。ろくでもねえな。

 

  1. 作者について

 伊藤計劃(Project Itoh)

 1974年生まれ。2006年に『虐殺器官』が第7回小松左京賞最終候補となり、ハヤカワSFシリーズ Jコレクションより刊行されて作家デビュー。その後ゲーム『メタルギアソリッド4』のノベライズや書き下ろし長編『ハーモニー』、その他数本の短篇を残し、2009年3月に逝去。絶筆となった遺作『屍者の帝国』は同様の経緯でデビューすることになった盟友・円城塔によって引き継がれ、共著の形で2012年に刊行された。

 プロ作家としての実働期間はごく短かったものの、その作品はフィリップ・K・ディック賞特別賞など数々の賞を受賞し、日本SF界に確かな爪痕を残した。武蔵野美術大卒で、1999年にはアフタヌーン四季賞佳作を受賞するなど、漫画作品もある[1]。シネフィルとしても知られ、はてなダイアリー[2]にアップしていた映画時評が本にまとめられている。

 

  1. 作品について

 2008年12月にハヤカワSFシリーズ Jコレクションの一冊として刊行。第40回星雲賞(日本長編部門)および第30回日本SF大賞受賞。

 

  1. 論点
  • 意識がない状態とはどんな状態なのか?

思考実験:「中国語の部屋

 ある小部屋の中に、アルファベットしか理解できない人を閉じこめておく(例えば英国人)。この小部屋には外部と紙きれのやりとりをするための小さい穴がひとつ空いており、この穴を通して英国人に1枚の紙きれが差し入れられる。そこには彼が見たこともない文字が並んでいる。これは漢字の並びなのだが、英国人の彼にしてみれば、それは「★△◎∇☆□」といった記号の羅列にしか見えない。彼の仕事はこの記号の列に対して、新たな記号を書き加えてから、紙きれを外に返すことである。どういう記号の列に、どういう記号を付け加えればいいのか、それは部屋の中にある1冊のマニュアルの中に全て書かれている。例えば"「★△◎∇☆□」と書かれた紙片には「■@◎∇」と書き加えてから外に出せ"などと書かれている。

 彼はこの作業をただひたすら繰り返す。外から記号の羅列された紙きれを受け取り(実は部屋の外ではこの紙きれを"質問"と呼んでいる)、それに新たな記号を付け加えて外に返す(こちらの方は"回答"と呼ばれている)。すると、部屋の外にいる人間は「この小部屋の中には中国語を理解している人がいる」と考える。しかしながら、小部屋の中には英国人がいるだけである。彼は全く漢字が読めず、作業の意味を全く理解しないまま、ただマニュアルどおりの作業を繰り返しているだけである。それでも部屋の外部から見ると、中国語による対話が成立している。[1]

思考実験:「哲学的ゾンビ

「物理的化学的電気的反応としては普通の人間と全く同じであるが、意識(クオリア)を全く持っていない人間」[2]

  

「意識がなくなると、どうなるの。ぼーっとして一日中椅子に座っているわけ」

「いいや、買い物、食事、娯楽、すべてが自明に選び取られる、ただそれだけだ。選択を必要とするか自明であるか、それだけなんだ、意識の動かす世界と意識のない世界を分かつものは。人間はね、意識や意志がなくともその生存にはまったく問題ないんだよ。皆は普段通りに生活し、人は生まれ、老い、死んでいくだろう。ただ、意識だけが欠落したそのままで。意識と文化はあまり関係がないんだよ。外面上は、その人間に意識があるか、意識があるかのように振る舞っているかは、全く見分けがつかない。ただ、社会と完璧なハーモニーを描くよう価値体系が設定されているため、自殺は大幅に減り、この生府社会が抱えていたストレスは完全に消滅する」

(文庫版p.264、以下引用は全て文庫版準拠) 

 

  • そもそも、ハーモニー後の世界ってどうなの?

◇「ストレス」を感じる意識がなくなってしまえば、世界からストレスは消滅する?

 ミァハが「意識がない」状態の恍惚を知れたのは、「意識」を取り戻してから。

→意識がなくなってしまえば、「幸福」も感じられないのでは?(同時に「不幸」も感じられなくなるのかもしれないが)

 

「(中略)外面上は、その人間に意識があるか、意識があるかのように振る舞っているかは、全く見分けがつかない。ただ、社会と完璧なハーモニーを描くよう価値体系が設定されているため、自殺は大幅に減り、この生府社会が抱えていたストレスは完全に消滅する(p.264)

わたしはシステムの一部であり、あなたもまたシステムの一部である。

もはや、そのことに誰も苦痛を感じてはいない。  

苦痛を受け取る「わたし」が存在しないからだ。(p.362)

 

 ◇自由意志による「自殺」は本当に不幸なことなのか?

→社会全体にとっては「悪」でも、個人では?

フーコーの生権力:近代以前の権力は、ルールに従わなければ殺す(従うならば放っておく)というものだったが、近代の権力は、人々の生にむしろ積極的に介入し、それを管理し方向付けようとする。こうした特徴をもつ近代の権力をフーコーは「生権力」と呼んだ。

 

◇合理的な判断だけで社会は成立するのか?

 「自らの命をなげうって子や家族を守る」などの自分の生にとって大きなマイナスとなる行動はとれなくなる。

 自由意志は本当に必要ないのか?

  

  • ハーモニー・プログラムは本当に成功したのか? 

 ミァハ&トァンによって実行されてしまったハーモニー・プログラム。しかし、これは仕組み上、ハーモニー・プログラムが実行されても、WatchMeを入れている人の意識しか消失しない。 

「お父さんたちがWatchMeをインストールしている全世界の人々の中脳に──誰に断りを入れることもなく──張った、医療分子によるニューラルネットソースコードは、わたしが大半を書いたの。幾つかの生府のWatchMe制御系には、バックドアが開けてある。わたしたちのためにね。それを使ってたくさんの人々の死への欲動に対し、双曲線的に高い価値評価を生成してやるのは簡単だった」(p.342)

 そして、WatchMeは子どもにはインストールされていない。 

 一方、せっかちなからだにWatchMeは入れない。WatchMeは駆け足のからだには、入れない。なぜって、WatchMeは恒常性を見張るものだから。こどもの日々成長するからだには恒常性なんてあり得ないから。(p.11)

 にもかかわらず、エピローグでは、全人類の意識が消失したかのように書かれている……ように見える。

 これが人類の意識最後の日。

 これが全世界数十億人の「わたし」が消滅した日。

 本テクストは、それについて当事者であった人間の主観で綴られた物語だ。(p.359)

 しかし、ここでは「人類」とは書かれていても「全人類」とは書かれていない。したがって、この「人類」という表現には解釈の余地がある。ここで書かれている「人類」は「一部の人類」のことなのではないか?

 あのコーカサスの風景の後の話をしよう。

 トァンが下山して間もなく、老人たちは意識の消滅、社会と構成員の完全な一致を決断した。権限を持つ老人たちそれぞれの部屋で、端末にコードと生体認証が入力される。瞬間、その調和せよという歌を天使たちは携えて、WatchMeをインストールしている人々の許へ、あまねく世界へ、その羽を広げていった。天使の羽が人々の脳をひと触れすると、もうそこに意識や意志はなかった。(p.360、以下、引用部の下線は担当者による)

 この引用箇所では「WatchMeをインストールしている人々」とさりげなく限定して書かれている。

 また、以下の箇所。

だから、暴動はすぐに収まった。

 皆それぞれが思い出したかのように社会システムに戻っていった。WatchMeをインストールしていた世界数十億人の人間は、動物であることを完全にやめた。(p.361)

 ここでも「WatchMeをインストールされた世界数十億の人々」と限定的な表現が使われている。

 これらを読む限り、作者は「ハーモニー・プログラム」の効果がWatchMe使用者に限定的であることを自覚しているように思われる[3]

 すなわち、最初の引用箇所の「人類」については、

   ハーモナイズされた大人たち=「新人類」

   そのままの状態の子どもたち=「旧人類」

 という区分を語り手がしており、「新人類」のみを「人類」とみなしているという考え方ができる、ということ。

 では、子どもやバクダッド郊外の人々など、WatchMeを入れておらず、ハーモニクスされなかった人々はどうなるのか?

  老人たちがそれぞれのコードを入力し、ハーモニー・プログラムが歌い出した瞬間、人類社会から自殺は消滅した。ほぼすべての争いが消滅した。個はもはや単位ではなかった。社会システムこそが単位だった。システムが即ち人間であること、それに苦しみ続けてきた社会は、真の意味で自我や自意識、自己を消し去ることによって、はじめて幸福な完全一致に達した。(p.362) 

 「ほぼ」すべての争い、と記されているが、これは、「(人類社会から)完全に争いがなくなったわけではない」ということの裏返しの強調な気がする。

 それでは、いったいなぜ争いが残っているのだろう? 意識を失って社会との完全な調和を得た「新人類」内で争いが始まるとは考えにくい。

 では、誰と誰の争いなのか。思うに、少なくともこの時点では「人類の外部」の中での争い、あるいは「人類」対「人類の外部」の争いがまだ残っていたのではないか。

 では、その「外部」とは何か? それはまだWatchMeをインストールされていない子供たちかもしれないし、WatchMeが普及していない地方の住人かもしれない。

 いずれにしろ、ハーモニー・プログラムがエピローグの時点では完全無欠でないこと(世界は「ユートピア」にはなり得ないこと)、そしてどうやら作者がそのことを意識していたこと(単純な見落とし・ミスではないということ)は確かな気がする。わざわざ冒頭に「WatchMeは子どもにしか入っていない」という描写を持ってきているのも気になるし。

 

 ただし、最初の「人類」について、ハーモナイズされた「新人類」とそのままの状態の「旧人類」という図式で、「新人類」のみを「人類」とみなしているのならば辻褄は合うが、〈大人vs子ども〉の図式として見ると、子ども時代の大人たちへの反抗から出発したミァハたちの動機が、大人になったら自分たちのために子どもたちを見捨てて新人類になるというものに変わってしまっており、若干カリスマ性を削ぐというか、一貫しないものになってしまっている。

 

信頼できない語り手としてのトァン

 デビュー作『虐殺器官』や短篇「From the Nothing, with Love.」で、伊藤計劃は一人称の語りを活かした「嘘」を作中に仕込んだ前科がある。(虐殺器官については「虐殺器官の大嘘」でGoogle検索のこと)

 冷静に考えてみて、「トァンがWatchMeを入れていない人のことを忘れている」とは考えがたい気がするし、ミァハにしても、「WatchMeを入れてない人のことを考慮してない」なんてことはないように思える。

しかし、作中ではそのことについて触れられていない。

 では、ハーモニー・プログラムの実行には、「世界から意識を消失させる」のではない、真の動機があったのか? あるいは、それ以外の描写で嘘があったのか?

 

 最終盤のチェチェンでの二人の対話場面は少し怪しい。ここでミァハは、トアンの問いかけについて2回何だか曖昧な回答をしているのだ。その曖昧な回答(「キアンに連絡した理由」と「意識のない頃に戻りたいのか否か」の2つ)について考える。

☆なぜミァハはキアンに電話したのか?

 トァンによる推測では、殺したくなかった(一緒にハーモニーの完了を迎えたかった)キアンが偶然自殺するリストに含まれていたことを知り、止められない事態への自己正当化をするためだとされているが、ミァハは二度「そうなのかな」と曖昧な返事をしていて煮え切らない。 

「キアンは、死ぬ必要がなかった。だからあんなこと、ミァハはキアンに連絡したんでしょ、あなたは死ぬ必要があるなんて」

「……そう、なのかな」

「あなたの『意識』は自己正当化をする必要があった。あのときは。既に決定済みの、止めようがない事象に対して」

「そうなのかな」(p.349)

 この解釈には、以下の2通りがあると思う。

  • a.本当に自己正当化が理由だが、ミァハは自分がキアンに対して情が残っていたことに自己嫌悪を覚えていて、素直に認めたくない。はぐらかしている。
  • b.実はトァンの推測は間違っていて、真の理由があった。

 aは、part3のラストシーンとも対応していて、何だかそれっぽい。

 しかし、bに関しては、aの自己正当化だという理由の前提は「自殺者リストがランダムであること」だが、その根拠がミァハによる発言しかないこともあって、一応検討しておくべきだと思う。

「キアンが死んだ。父さんも死んだ。あなたが殺した」

 ミァハは真剣な顔でうなずいた。

「仕方なかった。ランダムに選ばれた結果だけど(p.347) 

 では、ランダムではなく、キアンを狙い撃ちしたと考えた場合、どんな理由があるか。

  •  b-1 少女時代に3人で自殺を試みたときに裏切られたことへの復讐。
  •  b-2 トァンを誘導するため。 

 b-1のように、単純に復讐がメインなら、トァンもその時に狙い撃ちで殺せば良かったのではないか。

 b-2はいささか陰謀論じみているし、踏み台にされたキアンがかわいそうだが、ミァハならやりかねないような気がする。自らの意図を知らせるために、かつての「同志」だったトァンを呼び寄せる、みたいな。[4]

 

ミァハは本当にハーモニクスを実行したかったのか?

 「じゃあ、ミァハは戻りたかったんだ、あの意識のない風景に。自分の民族が本来はそう在ったはずの風景に」

 ミァハは小さくうつむくと、そっとうなずいて、

「そう、なのかもしれない。ううん、きっとそうなんだね」(p.348-349)

 自分に言い聞かせるような「ううん、きっとそうなんだね」というのはどういうことか。ミァハは、自らが成そうとしているハーモニクスについて、本当に正しいことなのかどうか迷っているのか?

「全世界から「わたし」を解放する」という大きな目的を持っているものの、意識を得たことで感じた生への未練があり、それが答えを鈍らせたのではないか?[5] 

 

 そして同時に、ミァハは伊藤計劃が言うところの「『世界精神型』の悪役」である、という考え方もあると思う。

世界精神型の悪役とは何か。(中略)世界に認識の変革を迫るヴィジョンを演出することで、ある事物の本質を抉り出すことそのものを目的とし、どんな現世利益的な欲も動機や目的にはしない、そんな悪役。世界を支配するのでもなく、政治的な目標を達成するのでもなく、金をもうけるのでもなく、ただある世界観を「われわれ」の世界観に暴力的に上書きする時間を演出する、それだけを目的とした悪役たち。(中略)ある物事を主人公たちに見せつけることそのものを目的とし、その見せ付ける過程が映画になってゆく、そんな悪役を「世界精神型」と呼ぶ。

「ゾディアック」 - 伊藤計劃:第弐位相 http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20070702/p1

 ミァハが「『世界精神型』の悪役」であり、自らの思い描くヴィジョンを現実に演出することが望みだったのだとすれば、その動機(子ども時代の大人たちへの反抗から出発したはずが、大人になったら自分たちのために子どもたちを見捨てて新人類になるという一貫性を欠くものになってしまっている)は、一見変化しているように見えるが、少女時代から軸はぶれていない。そして、「WatchMeを入れていない子どもたち」の存在に気付いていたとしても、ヴィジョンの現出が望みなだけならば、細かいことだと切り捨てたということには解釈できないか。

 

 そしてもうひとつ気になるのが、ミァハはトァンに撃たれる直前まで、トァンの殺意に気が付いていないこと。チェチェンでの対話を通して、彼女はトァンが自分の意志に同意してくれると信じていたのか。

 わたしはね、永遠と人々が思っているものに、不意打ちを与えたい。

 止まってしまった時間に、一撃を喰らわせたい。

 わたしたち三人の死が、その一撃なの……。そうわたしは訊いた。世界って変わるの。

 わたしたちにとっては、すべてが変わってしまうわ。そうミァハが答えた。(p.336)

 社会に溶け込んで「大人」になってしまったキアンではなく、社会に折り合いを付けながら少女時代の精神を保ち続けているトァンならば、自分の思いを理解してくれるのではないか……というミァハの考えが、チェチェンで無防備にトァンを迎えたこと、ひいてはキアンを踏み台にしてミァハをチェチェンまで呼び寄せたことに繋がるのではないか……(もっとも、ミァハがそこまで知り得たかどうかは書かれていないので不明)。

 実際、トァンはハーモニー・プログラムの実行を止めていない(ミァハを撃ち殺した時点で、老人たちを止める術は失われている。そして下山後まもなくに、「わたし」の消滅を受け入れている)。「WatchMeを入れていない子どもたち」の存在に気付いていた上で受け入れていたのだとすれば、トァンは世界の破綻よりもミァハの遺志を、ミァハへの「私的な」憧れを優先したことになる。

 わたしはその肉体を肩に担いでバンカーのなかを歩いて行った。ミァハに言われたとおりだ。ウーヴェに言われたとおりだ。世界がどうなっているかなど、わたしには関係がなかった。この瞬間、どこかの都市でピンク色の迷彩を着た兵士たちが非殺傷性兵器で押し寄せる群衆を何とかしようとしていても。ナイフを持った男たちが互いを切り刻んでいても。そしてそのすべてを止めるために、老人が最後のコードを入力しようとしていようとしていても。(p.351)

ミァハ:ずっと子ども

トァン:折り合いを付けていたが、最後もミァハを殺して「わたし」を消すという折り合いを付けた。自由意志で復讐を果たし、自由意志で自由意志を消した。

キアン:責任を取って死んだ。大人。

 

E.ミァハはなぜハーモニクスを目論んだのか?

 そもそも、自殺(=自由意志の行使)をして社会を拒絶しようとしたミァハが、自由意志の消滅(=ハーモニクス)を目論んだのはなぜなのか?

 ポイントは以下の2点。

 この辺りは、

hoshihime.hatenablog.com

を参考にして頂きたい(実際の読書会では時間切れでほとんど触れられなかった)。

 

 ちなみに、劇場版『ハーモニー』では、トァンとミァハの関係性が原作よりも強調され、トァンの動機を示すラストシーンの台詞も、「変わってしまったミァハを許せない。憧れだったミァハのままでいてほしい。今のミァハは新たな世界へは連れていきたくない」というものに変わっている。

 

 

 以下余談。

  • ミァハ、本当に意識あるのか問題

 どこまでエミュレートできてたのか謎。

 ここを引っくり返されると、前提が覆りまくってかなり苦しいが……。

 

  • WatchMe、実は子どもにもインストールされてんじゃね? 問題

 エピローグの謎は解決する。表向き明らかにされていないだけで、大災厄を経験した老人たちが、子どもたちをコントロール外に置くとは考えづらいし、理にはかなっている。

 が、少女時代のミァハの言動の意味が大きく異なってくる。

 

 

 

◯付録 エピローグに潜んだ「大嘘」が作者のミスでないことを示唆するコメント(飛浩隆経由)

  1. 『ハーモニー』への疑問。『虐殺器官』を読み誤ったことから、『ハーモニー』を慎重に読み解かなくては、「飛よ、読み誤るな」と自らを戒める。
  2. 伊藤計劃「ぼくの作品は、全て冒頭に結末が現れているんですよ」
  3. 病床の伊藤計劃に『ハーモニー』世界の子どもたちについて尋ねたこと。
  4. 伊藤計劃から、「彼らは別の人類だと思っています」という返答。

以上の内容がかなりぼかした韜晦交じりで曖昧な文章の中で示されている。

 

飛浩隆@Anna_Kaski 10月24日

(選考会の前にご本人に確かめた。限界はあったけれど。(追悼号に書いた文章をごらんください。))

飛浩隆@Anna_Kaski 10月24日

あれは追悼文ではなくて発言を残しておくためのものだったのだが、その甲斐はあったということかしら。まあかれの発言がそのままシンジツかどうかはわからない。

 

[1]中国語の部屋Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/中国語の部屋

[2]哲学的ゾンビ - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/哲学的ゾンビ

[3] なお、この辺りの作者自身からのコメントは、飛浩隆経由で残されている。レジュメ最終ページの付録を参照。

[4] では、トァンを殺してキアンを呼び寄せるというパターンもあり得たのか? という疑問も湧く。

[5] それこそ、上に挙げたaでミァハが自己嫌悪していた感情(=ハーモニクスされてしまえば消えてしまう感情)が生じて。そして、だからこそ、回りくどくトァンをチェチェンに呼び寄せたのではないか? というb-2的な考え方もできなくはない。子どもっぽい、自らのできることを誇示したいという思いがミァハになかったと言い切れるのか、と言われれば、社会へのテロとして少女3人の自殺を演出しようとしていたミァハなので、なんとも。

 

 

 

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

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ハーモニー (1) (カドカワコミックス・エース)

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パロディとナンセンスに満ちた壮大な日本野球創設神話――高橋源一郎『優雅で感傷的な日本野球』

優雅で感傷的な日本野球 〔新装新版〕 (河出文庫)

 もし「世界三大野球小説」というものを考えるならば、本作は絶対に外せない。ロバート・クーヴァー『ユニヴァーサル野球協会』、フィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球』、井村恭一『ベイスボイル・ブック』、石川博品後宮楽園球場』など、国内国外を問わず野球をテーマにした小説は数あれど、本作以上に野球への愛と絶望を描き、かつその上で文学的な飛翔を軽やかに成し遂げてみせる作品はそうないだろう。

 

 この物語は七つの断章からなり、どれも野球が中心になって語られる。例えば、読んだ本の中から野球に関する事柄をノートに書き写す仕事をしている男。叔父から遙か昔に廃れた野球というスポーツを教わる小学生。始まらない野球の試合とその開始を待ち続けるウグイス嬢。

 だが、どの挿話においても野球は表層的なもので、単なる媒介に過ぎない。本から野球の記述を書き写す男は、ルナールの『博物誌』から試合中に監督からサード・コーチャーに送るサインを、ホイットマンの詩から遊撃手がセカンドへ牽制に入る時の心得を見出す。スランプに陥った名打者は、ライプニッツの単子論から発想を得た結果、妻を「キャッチャー」、家族を「チームメイト」、息子を「バットボーイ」と呼んだり、「大蔵省」という単語に一塁線ぎりぎりのセーフティ・スクイズを結び付けるように――つまり、あらゆるものを野球に結びつけてしまったりする。これらを文字通りに受け取ると、あまりにもナンセンスだ。

 

 本作を注意深く読むと、全体を貫くストーリーラインとしてランディ・バース阪神タイガースの一九八五年のリーグ優勝の立役者となった、実在する助っ人外国人選手)を主人公とした物語が現れる。これによれば本作は、阪神を退団したバースが野球について書かれた言葉を集め続ける過程を描いたものだという。最終章「Ⅶ 日本野球の行方」では、一九八五年のシーズン優勝直前に、阪神の選手たちが「自分たちがしていることは野球ではない」と感じ、全員でチームを辞めどこかへ消えてしまったことが語られる。掛布雅之(当時の中心打者)は野球を教えに精神病院を巡り、吉田義男(当時の優勝監督)はその精神病院で患者として誇大妄想じみた壮大な日本野球創設神話を語っているという。

 そして主人公であるバースは、野球について書かれた文章を集めることで、分からなくなってしまった「野球」を再び見つけ出そうとする。自分の方法に確信は持てないが、「野球」が確かに存在することだけは信じているバースは、野球が文化的に滅びてしまった世界の中で、野球に関する言葉を図書館の本から集めることによって、かつての「野球」を再現しようとしているのだ。この行いの中では、バースの無知が故に、あらゆる言葉が、野球に関係する文章として収集されている。だからこそ「野球」があらゆる概念・言葉に置き換えられる世界が描かれていて、あらゆるものが日本野球に置き換わってしまった奇々怪々な物語が展開されている。

 

 パロディやパスティーシュをふんだんに詰め込み、野球という媒介を通して日本社会や文学について言及する離れ業を一見軽やかに成し遂げてみせた本作は、まさしくポストモダン文学の傑作と呼べるだろう。

優雅で感傷的な日本野球 〔新装新版〕 (河出文庫)

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メキシコ・アメリカに跨る透明な境界、そして百合――カルロス・フエンテス『ガラスの国境』

ガラスの国境 (フィクションのエル・ドラード)


 表題にある「ガラスの国境」とは、メキシコとアメリカ合衆国の国境のことを指す。

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 そして、これらが招く苦々しい感情や哀切な悲劇が連作短編の形で響き合うことで、メキシコ・アメリカ両国間に存在し続ける「ガラスの国境」が、歴史的・社会的・文化的……と、多層的な角度で描き出されているのが、本書最大の特色と言えるだろう。メキシコ・アイデンティティの追求に小説家人生を捧げたフエンテスにしか書き得なかったであろう極めて社会的な物語であり、その強度はメキシコから遠く離れた極東の島国においても充分通用しうる代物だ。

 

 最後に、評者お気に入りの短編「女友達」の紹介を。

 シカゴの豪邸に住む老婦人は、家族に先立たれ孤独な日々を過ごしている。そのうえ極めて偏屈な性格で、使用人を雇っても毎度虐めては辞めさせるの繰り返しで、孤独が解消される日は訪れない。

 見かねた甥が送り込んだ女使用人はメキシコ人で、偏見のある老婦人は今まで同様、メキシコ人との文化的な違いを理由にグチグチと文句を言うのだが、使用人は全てを受け入れ、親愛をもって包み込む。

 最初は拒絶するものの、次第に使用人から愛を学んでいく老婦人。そして最後には、真実の愛に到達するだった……という、メキシコ-アメリカの文化的差異を描くにかこつけて老婦人×女使用人の百合が書きたかっただけなのでは?? と思ってしまうほど素晴らしい百合短編に仕上がっている。

 
 堅苦しいテーマ一辺倒ではなく、こうした人情味溢れる話も多く収録されているので、その方面で興味のある方も是非一読を。

 

〈合わせておすすめ〉

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詩人の死に迫る、フィクションよりもフィクションなノンフィクション――小笠原豊樹『マヤコフスキー事件』

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 時に、優れたノンフィクションはフィクションに限りなく接近する。本書もそんな一冊だ。

 舞台は1930年のロシア。そこである詩人が不審な死を遂げた。
 現地警察は拳銃自殺と断定したものの、不可解な点の残る現場状況や彼を取り巻いていた環境、そして当時のロシアの政治状況から、その死は暗殺ではないかと囁かれた。
 死の当日、直前までマヤコフスキーと会見していた女優ポロンスカヤは、マヤコフスキーの死後すぐに現地警察によって取られた調書においては、彼との関係(恋愛関係を含む)を全面的に否定し、自身の無関係を主張している。

 だがその8年後、1938年に発表された回想録で、その証言は大きく覆される。詩人との不倫関係、当時のマヤコフスキーの精神的な不安定さ、死の直前でのいざこざ——センセーショナルな事実が次々と明かされるなか、その記録からは、巧妙に隠されてはいるものの、ポロンスカヤが予測する結末――詩人の死にまつわる、秘められた大きな事実が、抜け落ちているのではないか? 著者は残された回想録や周辺人物の証言をもとに、謎に包まれた詩人の死に迫っていく。

 本書の特徴は、その構成にある。ポロンスカヤの3つの証言録を翻訳として掲載するかたわら、著者である小笠原豊樹氏ブラッドベリの翻訳などで知られる名翻訳家。マヤコフスキー詩集の翻訳を手がけていたが、半ばで逝去)による解説・推理が挟まれながら、詩人マヤコフスキーの死の真相に迫るその構成は、まさにポストモダン小説さながらである。時期によって異なる3つの証言を筆者の持論と共に配置する構成が事件全体の虚構性を強調し、フィクションと現実との境目がゆらぎ出す感覚は大変刺激的であり、上質なミステリ小説のような読書体験を味わえる。

 また、謎を取り巻く当時のロシアのキナ臭い政情や、マヤコフスキーの死を調査していたいかにもうさんくさげな人物の突然の死など、周辺として語られる逸話も大変興味深く、謎めいた詩人の死に迫るサスペンスに華を添えている。特に、ポロンスカヤの2つ目の記録は、ポロンスカヤの一人称で描かれた小説としてしか読めないほどにフィクションめいている。

 バルガス=リョサ『マイタの物語』で、語り手の小説家が、取材を通してノンフィクションとしての伝記を記すつもりが、偽りの人物像を「創造」してしまったように、フィクションとノンフィクションの境目は常に曖昧である——というのも、言わずもがな、語る人物、それを書き上げる人物の主観抜きに記述をなすことは不可能だからだ。そうした点で、本作は謎を巡る誰かの証言を翻訳したものを更に誰かが歪曲して解釈して……と、真の事実からは遠ざかりながらも死の真実に迫ろうとする点で、大きな矛盾が存在しているのかもしれない。だが、その虚構と現実のゆらぎというのは、フィクションとして捉えれば何とも味わい深いものだ。ぜひ一読して楽しんでほしい。

マヤコフスキー事件

マヤコフスキー事件

 

 

〈読みたくなった本〉

ズボンをはいた雲 (マヤコフスキー叢書)

ズボンをはいた雲 (マヤコフスキー叢書)

 

 小笠原豊樹氏による翻訳。叢書全てにKindle版がある(謎)。

 

フロベールの鸚鵡 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

フロベールの鸚鵡 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

 
コスタグアナ秘史 (フィクションのエル・ドラード)

コスタグアナ秘史 (フィクションのエル・ドラード)

 

実在の作家・小説をモデルにしたフィクション。虚構と現実の境がゆらぐ心地よさ。