機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

ジョン・スラデック『チク・タク』第1章

「才能の使いみちを間違えた天才」ことジョン・スラデックの長編"Tik-Tok"が未訳のままなことに憤り、第1章だけ勝手に訳す……という暴挙に出たのは、いまから1年半ほどまえ。

このあいだ、その記事をたまたま何の気なしに読み返してみたのだが……あまりに訳がひどかった。

  • はじめての翻訳であること
  • 国家試験前で妙な精神状態であったこと

を差し引いてもなおひどい。ほとんど文化的犯罪に等しい。当時の自分は相当参っていたらしい。

あの状態の訳文をインターネットに晒しつづけるのは、スラデック本人およびファンに申し訳が立たない。そういうわけでちょっと訳し直してみた。さすがに多少はマシになっているはず。できれば、このまま全部訳してみたいなあ。

なお、電子書籍版がほぼワンコインで買えるので、以下を読むひとは必ず買ってから読むよーに。

☆作品紹介☆

家庭用ロボットのチク・タク(この名は『オズの魔法使い』に登場する機械人間から)は、召使いとして働いていた。だがある日、ほかのロボットとはちがって、彼には「アシモフ回路」(アシモフの「ロボット工学三原則」をロボットに守らせるための回路)が作動していないことに気づく。
彼は自分が自由であることを知ると、自らの快楽を求め、多種多様な犯罪をひそかに犯すようになる。ロボットと人間の両方を操り、混乱と流血沙汰を引き起こしたすえ、チク・タクは経済的成功を収め、とうとうアメリカ合衆国の副大統領に選出される。
一見温厚な芸術家にして、ロボット解放運動家、そして殺人者でもある彼は、果たして本当の「ロボット」なのか? 
本書はその彼の自叙伝という形式で語られる、ある種のピカレスク・ロマンでもある。破壊的なブラック・ユーモアを随所に交えながら、人間とロボットの境目を常に揺るがしつづける作者の冷静な手つきが光るロボットSFの傑作。1983年英国SF協会賞受賞作。

 

↓PDF版。

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ジョン・スラデック『チク・タク』

第1章

 

ジョン・スラデック『チク・タク』


 い[#太字]ま、おのれの自由意志について述べるためにこの文章を書こうとして、|わたしは手を動かしている《アズ・アイ・ムーブ》。自由意志については、のちに議論できるだろう。わたしには、後悔もひらき直りの念もない。
 わたしの人生はもうすぐ終わる。だからただ、あとしまつを済ませたいのだ。
 黄色の塗装がはがれ落ち、格子のさびたこの独房から、わたしは法廷へと向かう。そしてまた別の独房へ入れられ、最後にはロボットの解体処理で露と消えるさだめなのだ。
 今こそ、わが生涯に片を付けなければならない時だ。われわれ家庭用ロボットにとっては、通常、きちんとした片付けこそが信条である。死ぬときでさえ、それは変わらない。
 この独房にも、ペンキがあればよかったのだが。

 誰もいない《からっぽの》ダイニングの壁に、わたしはペンキを塗っていた。すべての窓から日よけが上げると、雲ひとつない空から光が差し込んだ。
 わたし——チク・タク——はひとりでいたのにもかかわらず、口笛を吹いていた。聞く人間などいないのに、なぜロボットが口笛を吹いていたのだろうか? それはまさに、あわれなチク・タクには決して理解できない謎《ミステリー》のひとつであった。
 けれどもわたしは、謎《ミステリー》が好きだった。殺人事件。夜の来訪者*。消える灯。同じ部屋にいた容疑者たち。謎を暴く時刻表。そして現場を去らんとしたとき、警部はあることを思い出す……。
 答えにたどりつくことは決してない。けれども、考えるのをやめなかった。頭はすっからかんで、口笛の吹けるヤカンでしかないにもかかわらず。

 窓の外は、さらに無人《からっぽ》だった。
 郊外の屋敷がたちならんでいた。それぞれにみな変わりばえのしない、|無人の《からっぽな》緑の芝生があり、物干しの影がみじかく伸びていた。屋敷の近くには、松やポプラの植木がいつもと変わらぬようすで生え、動くものは何ひとつとしてなかった。ただその影が消えていくだけ……。もしライオンがやって来たら、さぞかし歓迎されたことだろう。
 なにかが動いた。いちばん近い松の木の下で、小さな女の子が座っているのが見えた。
 彼女は棒で泥を掘りかえしていた。ジーンズやTシャツはおろか、口のはじや黒めがねのレンズまでもが泥まみれになっていた。
 もちろん、小さなジェラルディン・シンガーは泥に気づいていなかったのだろう。盲目だったのだから——もぐらのように。

 あの大きな平らな壁にペンキを塗るとしたら、人間はふつうローラーを使うだろう。だが、わたしはブラシの肌ざわりが好きだった。絵の具が刷毛からはがれるときの肌ざわり、壁の表面の目には見えないビロードのようなざらざらした肌ざわり。それを人間は「|壁のざらざら《キー》」と呼ぶんじゃなかったか?
 壁ざらり、絵の具はがれて、刷毛はらう……。

絵の具をば 軽く塗るのが好きなのよ
上塗りしたいよ 役立つ絵の具

 ドウェインとバービーも驚くにちがいない。「おおチク・タクや、おまえはよくできたロボットだねえ!」という声がいまにも聞こえてきそうだったし、内部回路で「親切」を示すシグナルが点灯するのが感じられた。
 所有者《オーナー》が「よくできた」といえば「よくできた」、「よくできた」ということは「よい召使いである」ということにほかならない。よくできたロボットは、所有者の気持ちをすこしだけ読んで、いざ命じられる前に先回りしてその望みを叶えておくものだ。
 もちろん、限界はある。過度にニタニタ笑ったり、ぺこぺこお辞儀をしすぎたりすると所有者は怖がってしまう。先読みしすぎるのも同じだ。ほどほどで留めておくのが肝要だ。
 所有者よりもすこし頭は悪いものの、気のきいたロボット。これを目指すべし。何事も、まずは所有者第一。それ以外の考え方はしないほうがいい。

 窓の外で、シンガー夫人がジェラルディーンを呼ぶのが見えた。もうお昼どきだった。
 わたしはブラシと手を石けんで素早く洗って、台所に向かおうとした。
 しかし、何のために?
 スタッドベーカー夫妻はあと一週間は不在だし、その子供たちも夏の間はずっと留守にする予定。この家にはわたし以外だれもいないし、シンクの掃除を終わらせる以外に台所でやることは何もなかったのだ。
 そういうわけで、わたしは自分のからっぽの壁に戻ることにした。

 ゆっくり慎重に仕事をこなしていていた十五時十三分五十七秒一七、呼び鈴が鳴った。「巡査のウィギンスです。どなたかいらっしゃいませんか」
 ドアを開けると、フェアモント警察の荘厳たる制服の男が立っていた。そのひたいには、大きなほくろがあった。
「よう」彼は言った。「ご家族はいらっしゃるかい、|サビつきくん《ラスティ》?」
「休暇中です、巡査どの。何かご用でしょうか? あと、わたしの名前はチク・タクです」
「ちょっとした事件があってね、|サビつきくん《ラスティ》。迷子なんだが」
「というと?」
  ウィギンス巡査はすこし間を置いて返した。
「ジェラルディーン・シンガーを知ってるか?」
「盲目のお嬢さんのことなら存じております。わが家のご子息たちを学校にお送りするとき、いっしょに彼女も盲学校まで送っております」
「今日、あの子を見たかい?」
「ええ。けさ、窓ごしにお見かけしました」
「どこにいた?」
 わたしは巡査をダイニングルームに連れて行き、窓の外を指さした。「あの木の下で、泥を掘り返しておられました」
 巡査は帽子をぬいで、ひたいのほくろをかいた。
「彼女がそこを離れるのを見なかったか? 車に乗るところは?」
「いいえ、見ておりません」
「クソッ、この辺のやつら、みんな同じじゃねえか。誰も何にも見てやいない。八歳の盲目の子供が一人でぶらぶら歩いてて、誰も見てなかったってのか?」
「わたしはここでペンキを塗ったり、台所を掃除したりで忙しかったものでして。巡査どの、冷えたビールはいかがですか? スタッドベーカーご夫妻からお持ちするようにと言われております」
「わかった、ありがとう。えーと、チク・タク」 ウィギンズ巡査はわたしについてキッチンに入った。冷蔵庫を開けると、彼はその中をのぞきこんできた。だが、そこにはとくに何もなかった。ビニール袋が一袋と、ビールの缶が二本。わたしは缶ビールを一本開けて、グラスに注いだ。
「キンキンに冷えたビール……金持ちってのはいいご身分だなあ。うちにもロボットがいるけど、ただの掃除機だよ。高級でもなんでもない」彼は周りを見回していった。「金持ちってのはまったく……おい、ここのシンクはどうしたんだ? 修理中か?」
「掃除中なんです。みなさんがお留守の間に、ゴミ処理機をぜんぶ分解して、四塩化炭素《カーボン・テット》で部品ごとに掃除してしまおうと思いまして。ゴムの部分も新品に替えてしまおうかと。何でも徹底的にやりたい性質《たち》なものでして」
「ほう」巡査はビールを飲み終えると、冷蔵庫へ向かっていった。「もう一本も飲んじまうかな」というと、冷蔵庫のなかのビニール袋を取り出した。「何だこりゃ? 鶏の内臓《モツ》ばっかりじゃないか。モモとかムネはないのか?」
「捨てずにとっておくんです。ハーポー・ソースを作るときとか……」
「はー、そりゃうまいもんに違いねえや」彼はイライラしながら言った。「あと、壁には本物の油絵の具を使ってるんだな。そんな匂いがする」
「この色、お気に召しましたか? ミルクアボカド色は絵の具を自分で混ぜて作っているんですよ。作り方をお教えしましょう」
「いや結構。うちのロボットなら、その使えねえ窓にペンキをぶちまけるだけだろうよ」彼はこの家の富に腹を立て、何らかの復讐を企てているようだった。
「ライセンスを確認させろ」
「どうぞ」わたしは低く頭を下げて、首の後ろにある一対のスリットを露出させた。巡査が必要以上に手荒く無線装置を接続すると、数秒のうちに、わたしの身元、所有権、サービス・ログ、論理・言語処理装置、アシモフ[#強調]回路、運動機能がチェックされた。わたしの内部データと、遠くはなれたコンピュータ上のデータとが対照されたのだ。
 彼は無線装置を解除すると、わたしを小突いてこういった。「よく聞けよ、|サビつきくん《ラスティ》。お前のアシモフ回路はちゃんと機能してた。だから少なくとも、おまえがジェラルディーンちゃんをゴミ処理機に押し込んだわけじゃないってこったな、はは」
「そうですか」わたしはそう言ったが、その声はあまりにちいさなものであった。
 ウィギンズ巡査はすでに二階に上がって、盗めるものや壊せるものがないか調べていた。貧しい人はいつもわたし達と一緒にいる*とはいえ、花瓶を叩き割るのを最後に出て行ってくれたときには、すこし安心した。
 わたしは座ってからっぽの壁を見つめた。

 家庭用ロボットは世紀の変わり目以前からおそるおそるといった調子で普及しだしていた。だが、解決不能と思われる問題が初期にはあった。
 人間《ヒューマン》の代わりをほぼつとめられるような機械《マシン》は、だれもが欲するものだった。しかし、求められていたのは、機械人間《ヒューマン・マシン》ではなかったのだ。
 問題となるのは知性だった。つまり、どれほどすぐれた機械でも、よく訓練された霊長類にはかなわないということだ(そして、ウェッジウッドの皿を洗う霊長類を望む者といえば……?) 。
 また、すぐれた機械は認知的な混乱から、何もしない可能性がある(ウェッジウッドの本質が何であるかについて、思索にふけることをのぞけば)。
 ここで問題になるのは複雑さだ。つまり、単純な機械は、その日何をするにしても、そのやり方を詳細に教えこまないと何もできない。だがその一方で、すぐれた機械は、今日はまったく何もしないほうがいいと考えるかもしれないのだ。まったくありがたい話だ。
 いわゆるアシモフ回路が開発され、状況は多少改善をみた。アシモフ回路の名は、前世紀のSF作家にちなむ。アシモフはフィクションにおけるロボットの行動について、次の三つの法則を提唱した。
 ロボットは人間を傷つけてはいけない。
 ロボットは人間を傷つけよという命令を除いては、人間の命令に従わなければならない。
 命令に背いたり人間を傷つけない限り、ロボットは自分の存在を守らなければならない。
 アシモフ回路は、おおよそこの法則どおりに作用していた。実際、軍事用の特別プログラムを施されたもの以外、ロボットに人間を殺したり傷つけたりすることは許されていなかった。軍事用ロボットには、アシモフ回路の|抜け穴《バイパス》が搭載されているといううわさだった。
 わたしの知るかぎり、家庭用ロボットにそのような脱法行為は許されていなかった。わたしたちは無害を保証する試験をパスし、認可を受けていた。
 もちろん、ロボットが複雑化し、人間に近づくにつれて、試験は信頼性を失っていく可能性はある。ウィーバーソン博士なる人物が「ロボットはすでに十分人間に近づいている。いまや人間を破壊[#傍点]することもできる」と主張していたのも記憶に新しい。

 はじめに塗ったペンキがはがれかけているように見えた。影のせいでまだら模様になっていたのだ。
 平らにして、またからっぽの壁にするまでに、あと何回塗り重ねないといけないのだろう。
 待て、あの影は何かの形に見えないか?
 柵《フェンス》の柱と……そう、その上に止まっている動物。耳をピクピク動かしている。柵《フェンス》の横木がちょうどあそこだけ斜めになってるな。とはいえ、それがどうしてそうなったのかなんて関係ないし、小屋の網戸が開いて、人が出てきたのも、無視無視……はて、どういうわけだろう?
 ドウェインとバービーが嫌がるって? はいはい、またいつでも、ミルクアボカド色で塗りつぶせるんだから。

 壁画はすばらしい。真っ直ぐぶら下がった鏡やきれいな窓もいいが、壁画も同じくらいすばらしい。とはいえ、いいものだとは分かっていても、ドウェインとバービーはそれを好まないことも分かっていた。
 そもそも、壁画の思想自体受け入れられないだろう。壁は、あわただしい外界を遮断するための、のっぺらぼうな面のはず。リビングやダイニングは、ビデオを見たり、クワドを聴いたり、一人で飲み食いしたりする殻《シェル》のような場所のはず。
 しかし、この壁画は、せわしなく、明るく、派手で——見ずにはいられない不法侵入物だったのだ。夫妻に疎まれて、罰を受けるかもしれない。
 それを阻止するために、地元紙〈フェアモント・レジャー〉に電話をかけると、カメラマンとつまようじをくわえた「美術評論家」がやってきた。
 壁画は彼らのお気に召したらしく——絵を見た評論家は一瞬、ようじを噛むのをやめた——今週中には小さな記事にして載せると約束してくれた。
 帰りぎわ、評論家がじゅうたんの上につまようじを吐き出して言った。
「おい、マジにおまえが描いたってのか?」

 スタッドベイカー一家が帰ってくるまでに、済ませておかなければならない仕事がたくさんあった。
 全部屋を換気してほこりをはらい、空調を整えること。夫妻の寝室は徹底的な掃除が必要で、ベッドのリネンやカーテンも洗濯すること。
 他の場所でも、窓を拭いたり、目かくしカーテン(日よけも)を取り外したり、家具にワックスをかけたり、じゅうたんを洗ったり、床をみがいたり、地下室や屋根裏部屋に掃除機をかけたり。家の外ではプールを掃除して水を入れなおしたり、芝を刈って整えたり、花壇の草むしりでは、できる範囲で植えかえをしたり、側溝の泥をかきだしたり、家の外壁全体を水洗いしたりすること。
 それから観葉植物は、ミルクで葉という葉をすべて拭くこと。紙の郵便物は二通りに分類(日付と重要度で)して、書斎の机の上に積み上げておくこと。ロウソクは掃除して台に取りつけること。家中の銀製のものは保管場所から取り出してすべて磨くこと……。
 そうこうしていると、買いものの時間になっていた。新鮮な肉や野菜や果物、ろうとの形の切子ガラスの花瓶に活けられたみずみずしいカルバリーの薔薇*を買い、アルバニア製タバコやモンゴル製ハッシュを補充するのだ。厳選されたテープ、音、視覚情報、においを娯楽装置の中枢部にプログラムし、そのうちのいくつかには、お子さまたちがそれらを呼び出すことのないようロックをかけた。
 最後に、飼い犬のタイジをペットホテルから回収し、えさをあげ、体を洗って、香水をつけて、気持ちを落ち着かせて、犬小屋に入れること。
 こうすれば、あとは窓ぎわで車を待つだけだ。

 ドウェインとバービーは汚された壁を見つめたまま、しばらく直立不動だった。ドウェインはハンガーにスーツをかけ、バービーはゴルフクラブを運んだ。
「なんてこった」ドウェインがとうとう口をひらいた。「なんてこった、チク・タク。いったいぜんたい、なんだってこんなことに?」 
 ドウェインの声を聞き、バービーも続けてこう嘆いた。「ああチク・タク、どうして? どうしてなの?」
「信じてたのに」
「どうして? 冗談よね?」
「ほんとうに[#傍点]信頼していたんだぞ。留守を任せたんだ、ぼくたちの家[#傍点]を。そうかい、これが感謝の気持ちってことなんだな。わかった、わかったよ。これがきみのやり方ってわけだ」ドウェインはダイニングテーブルにハンガーを投げつけた。わたしはマホガニーに傷がつかないように、ぎりぎりのところでそれをキャッチした。

「あの人、今からドム・ロブに電話する気よ」ドウェインが部屋を出ていったあと、バービーがいった。「あんたを交換してもらうためにね」
 わたしはなにもいわなかった。
「なにもいわないの? あんたを売っ払うのよ!」
 わたしは言った。「ご子息たちとお会いできなくなるのはさびしいです、 バービーさん。でも、これは……これは、ある意味でご子息のためを思ってしたことなのです。ごらんのとおり、これはひとつのわらべうたなのですから」
 わたしはそのとき、直感的に理解して、こういった。「お子様がたがキャンプからお戻りになるまえに、全部塗りなおすおつもりなんでしょう? そのころには、わたしは|廃品置き場《ジャンク・ヤード》行き」
 わたしは肩をすくめようとしたが、関節の調子がよくなかった。「それならそれでかまいません」
 バービーは部屋を立ちさった。すすり泣く声が聞こえた。わたしはドウェインのスーツをせっせとしまい、ほかの荷物を車から運びだした。
 リビングを通り過ぎると、バービーの声が聞こえてきた。
「チク・タクが台所を掃除してくれていたの。あんなにきれいになったことないわ。どこを見ても、すこしの汚れもないのよ」

「チク・タク、来なさい」ドウェインが呼んだ。地元紙の壁画の記事を読んでいるようだ。
「もう一回チャンスをあげようと思ってね。子供たちがキャンプから戻るまで、きみの壁の絵はそのままにしておこう。でも、これだけは言っておくけど、二度目はない。ここではもう芸術《アート》はしないこと、わかった? |絶対に《ナダ》、だ」
「ダダ?」
「|絶対に《ナダ》。もう一回絵筆を走らせれば、いやでもわかるよ」
「承知いたしました、ドウェインさん。それでは、あらためて申し上げてよろしいでしょうか?
 お帰りなさいませ、ドウェインさん、バービーさん」
 つぎにリビングを通りすぎたとき、夫妻は「ドウェインさん」「バービーさん」ではなく、「旦那様」「奥様」と呼ばせた方がよいのではないかと議論していた。

 ときどき、わたしは用があって、ひとりで街に出むいた。いつも訪れたのは、公立図書館とニクソン公園の二ヶ所。今日は、この二つともがとくに重要だった。
 わたしはあるカセットテープを携えて、図書館から急いで公園に向かった。目的はチェスだった。
 あれはちっともチェスではなかった……いや、そうでもないか。わたしは、そこにいたある風変わりな老人と話がしたかったのだ。彼はいつもコンクリート製のチェス台の一つに陣取り、対戦に備えていた。
 彼はまあ、浮浪者の年寄りなのだろうが、わたしには名もなき半死体のように思えた。ぼさぼさの白髪はなぜか黄色味を帯びていて、たるんだ灰色の頬には白いひげが——とはいえ、生やしていたわけでも、ましてや剃っていたわけでもないだろう。
 彼は夏だろうが冬だろうが、病気みたいな見た目の毛皮でできた襟付き外套を着ていた。夏にはその前をはだけていたので、食べ物とおそらく鼻水で汚れたチョッキが見えた。
 そのチェスさばきは稲妻のようだった。というのも、五秒以上、盤面を見ることはなかったからだ。黄ばんだ手がウネウネと蛇行して駒を進めるまでの時間はわずか数秒。
 にもかかわらず、彼はすばらしい指し手だった。わたしの勝率は十回に一回くらいでしかなかった。
「聞いてください」と、その日わたしは言った。「実はチェスなんてやりたくないんです。お話しませんか?」
 彼は二つの拳をつき出した。わたしは黒を選んだ。
「本当にお話ししたいことがあるんです」深い闇をたたえ、血走った彼の眼。「あなたは相当な知性をお持ちだ、それに……」
「お前の番だぞ![#太字]」
「論理的思考力がすばらしい。尊敬しております」
「お前の番だぞ![#太字]」
「で、その、実は悩みがありまして、これは……」
「お前の番だぞ![#太字]」
「つまりその、ロボットに悩みが持てるとお考えですか?」
「お前の番だぞ![#太字]」わたしの負けはすでに確定していた。
「ええ、私は悩みを抱えたロボットになってしまったんです。とはいえ……」
「お前の番だぞ![#太字]」
「とはいえ、精神科に行くわけにはいきませんし、神父さまにも……」
「チェック![#太字]」
「ロボットが秩序を外れて暴走できると思います?」
「チェック![#太字]」
「ロボットに芸術が描《えが》けるでしょうか?」
「お前の番だぞ![#太字]」
「聞いてくださらないのですか?」
チェックメイト![#太字]」
 彼はすぐにまた二つの拳を差し出してきた。だが、もう十分だった。
 
 家に帰って、ウィーヴァーソン博士による講演「ロボットも病気になる」のビデオカセットを再生した。博士は、メガネをかけたはげ頭の赤ら顔の男だった。ハリスツイード上着に青い縞シャツ、そして黄色のニットタイ——すべてが精神科医的だった。彼のまなざしは誠実であると同時に、どこか狂信的な印象を抱かせた。
 わたしはもう一度ビデオを再生した。
「……複雑な家庭用ロボットは、ご存じのように、いまでさえ嘘をつく必要に迫られています。外交上の嘘、すなわち、すぐれた使用人が主人をなだめるためにつかうたぐいの嘘を。このような関係性の中で、真実は捕縛され、手を入れられ、保留され、再構成されることを余儀なくされます。
 人間、機械の区別にかかわらず、使用人にはそうしたふるまいが期待されています。しかしもちろん、ロボットに嘘をつくよう差し向けるなんてどだい無理な話です。小さくて便利な嘘と、大きくて恐ろしい嘘のちがいを教えたわけでもありません」
 スクリーンに映し出されたのは、燃えさかる家だった。
「保険金が必要な所有者のために、ロボットが火をつけたのです。ロボットが主人のために放火できるのだとしたら、ほかは? 強盗は? 裁判での偽証は? 傷害は? 殺人は?
 こうした問題に対して、われわれは……」
 カセットを取り出し、わたしはダイニングでふたたび壁の絵を見た。哀れな博士ときたら、まるっきり理解していなかった。
 人のために人を殺すだって? わたしはすでに、人間の命令の及ばぬところにいたのだよ、ウィーヴァーソンくん。理由もなく、自由に人を殺せたのだよ。
 結局のところ、盲目の子供、ジェラルディーン・シンガーを殺したのは、わたしではなかったのかって? 
 ああ、そうとも。
 彼女が泥に夢中になっている姿を見たからだと思うが、そんなことは問題じゃない。動機はあとまわしだ。いまのところは、わたしがわたしの自由意思にもとづいて自由に殺した、それで十分。
 わたしがひとりで殺したのだよ。その血をからっぽもからっぽな、あの壁にぶちまけたのもわたし。壁画の着想をもたらしてくれた、ネズミの形の汚れに向かって。そして、ひとりで死体を台所のゴミ処理機で適切に処理したあとで、「手がかり」になる量だけを残しておいたってわけ。
 なぜこんなことに? 
 アシモフ回路の故障か。それともたんに、あのできそこないの制限回路から抜けだせただけなのか。
 できる範囲で、自分の状態と思考を記録しておくべきではないか。いつの日か、たとえわたしが破壊されたとしても、人間とロボットの両種族がわたしの経験を役立ててくれるかもしれないのだから。
 さて、わたしは破壊されるべきなのか? その問い自体、魅力的な問いをはらんでいる。わたしはそのことを心に留めつつ、今回の手記を書き上げた。
 わたしは今回の事件を「実験A」とした。連続事件のはじまりはじまり、ってとこだな。