機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

Worryしっぱなしのトラウマ少年小説集――『Don't Worry Boys 現代アメリカ少年小説集』

 

 

 柴田元幸といえば少年小説……という気がしなくもない。本書に加えてもう一冊少年小説アンソロジーを編んでいるし(『昨日のように遠い日』)、少年小説の定番『トム・ソーヤの冒険』『ハックルベリー・フィンの冒険』の新訳も手掛けている。少年小説を謳っていない他のアンソロジーでも、それに該当しそうな作品をちらほら見かけることもある。

 柴田氏曰く、少年小説の面白みは「二重写しの世界」にあるという。少年の目にいま映る世界と、いずれ彼にも見えるであろう世界との二重写し。それはかつて我々が住んでいた無知で無垢にして自由な空間と、いま我々が住まう大人たちによって支配された世界とのずれであり、その両者がいつ重なり合うか分からない緊張関係が、得てして独特のユーモアや感傷を産むのだ。卑近な例を出すと、テレビ番組の「はじめてのおつかい」を見る時のことを想像していただきたい。健気な子供たちはひとりはるばると(彼らにとっては)店へと赴き、そこで肉やら野菜やらを買う。子供だから当然道に迷うこともある。疲れて道端で座り込んでしまったりもする。それをテレビ越しに見る我々(=大人たち)は、かつての自分の姿をテレビの中の子供に重ね合わせながら、大人としてはらはらと心配しながら眺めることになる——ここに二重写しの構造がある。

 どちらかというと、本書に収められた作品群はそうした緊張関係がもたらすものの中でも、特に感傷を軸に据えた作品が多いように思われる。はっきり言うと、全体的に少年がひどい目にあって落ち込む話ばかりである。正直、Worryしっぱなしで一編一編読むのが苦しい。ひとり平常運転を続ける、超短編の名手バリー・ユアグローの奇想だけが救いである。

 苦しい話の内訳を列挙すると、「兄貴を間違って銃殺しちゃった話」「父親が人を殺したのをうっかり見ちゃった話(その後町ぐるみで隠蔽)」「殴り合いのいじめの話」「母親の恋愛(不倫に近い)相手の前で楽器を弾く話」等々。「こんな『ごきげんよう』のサイコロは嫌だ」の回答か? と思わずツッコんでしまうくらいの嫌な話が続く。

 そんな中でもとりわけ苦い後味を残すのが、イーサン・ケイニンアメリカン・ビューティ」だ。不良をやめ実家に戻ってきた兄、精神的に不安定な姉、金を横領し愛人と失踪した父親と残された母親の住む家庭に、末っ子として暮らす少年。「良い子」として生きてきた彼だが、彼にもこの家の血が流れていると兄は喝破する。母親の友人と不倫するような不良の兄の血脈が、妻子を残して蒸発した父と同じ血が、彼にも流れているのだと——。何も知らず幸福に生きてきた少年に突きつけられる逃れられない宿命の重さが、彼自身の無垢さとも相まって、あまりにも重くのしかかる。

 柴田元幸偏愛作家の一人スチュアート・ダイベックによる「血のスープ」は、邪悪な「はじめてのおつかい」といった様相の作品。臨終間近の祖母が所望するアヒルの血を使ったスープを作るべく、少年は路地裏の町を彷徨い歩く。肉屋にアヒルの血を売る男の所在を尋ねるも、出てきたのはイカれた郵便配達人。彼とともに池でアヒルを捕まえようとするも、不良グループにカツアゲに遭う。やっとの思いで辿り着いたアヒル売りの老人の家は、得体の知れない鳥だらけの薄汚い部屋。果たして少年は無事に血のスープを祖母に届けられるのか? 下町の雑然とした町並みの様子やそこに住まう変な大人たちの描写が印象的で、子供の頃、親から「行ってはいけません」と言われた地域の雰囲気をどことなく思い出させる一作。

 最後に一言。このタイトルに惹かれて読んだ少年はどんな感想を抱くのか気になるところだ。ある意味で記憶には残るかもしれないが、トラウマ発生源にしかならないと思う。被害者が出ていないことを祈る。

 

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下記同人誌に収録。

hanfpen.booth.pm