機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

著者の全てが表れた、奇想と寓意に満ちた神経症的初短編集――フリオ・コルタサル『対岸』

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 しばしば処女作には作家の全てが表れるとされるが、フリオ・コルタサルもその例に漏れない。夭折した親友に捧げられた本短編集は、紆余曲折を経た後にお蔵入りとなり、コルタサルの死後(一九九五年)に出版されるまで幻とされていた作品集だ。
 一般にコルタサルは、後年は技巧に走り、徐々に本来の持ち味である奇想や怪奇性が失われていった……とされるが、処女短編集である本作に収められた短編はどれも荒削りながら全盛期を思わせる切れ味を兼ね備えている。その点で本作は後の作風を既に胚胎したものだと言えるだろうし、そして何よりも「とっつきやすい」ことが特徴だ。後の作品で散見される神経症的で執拗な描写や技巧が幾分先走った文体も本作では鳴りを潜めている。そういう訳で、その辺りでコルタサルを敬遠する向きにもおすすめしたい。
 例を挙げると「大きくなる手」では、突如手が巨大化した男の当惑と周囲の混乱を不条理譚的に描く奇想が最後の一文で世界を反転してみせる鮮やかな文章技巧で描かれており、後の短編職人コルタサルとしての萌芽が顔を覗かせる。
 その他にも「夜の帰還」「遠い鏡」「転居」では、後の作品でも度々用いられる「分身」「悪夢」「鏡」などのモチーフが、あたかも後の原型を思わせる形で描かれる。こうしたモチーフによって打ち破られる論理と理性が支配する世界、開通された異世界への通路と変哲のない現実とが織りなす奇妙さがコルタサルの持ち味であり、この意味で表題の「対岸」は彼の作風を的確に表現したものと言えるだろう。
 また、「天体間対称」「星の清掃部隊」「海洋学単講」など、以降の作品では見られないSF的な作風が垣間見えるのは、初期作品ならではといったところか。
 そして最も奇想と寓意性に溢れた「手の休憩所」。筋を端的に言えば、主人公が手を飼う話である。
 ある日庭に入ってきた「手」をペットのように愛玩する主人公。だがある晩、寝ている隙に「手」が自分の手を切り落とし「駆け落ち」するのではないかという妄想に取り憑かれる……という、後のコルタサル作品に顕著な神経症的なオブセッションと奇想とが両立された傑作である。思わず「人体の一部が動き出す短編アンソロジー」を編みたくなってしまう(バリントン・J・ベイリー「ブレイン・レース」はマスト)。
 その他にも、コルタサル自身が自分の短編小説観を語ったハバナでの講演「短編小説の諸相」も併録されており、コルタサルファン必読の一冊と言えるだろう。

 最後に、本書の序文を引用して紹介を終えよう。

「……この本によって一つのサイクルを閉じれば、同じように不純な新しいサイクルが目の前に開けている。一冊本を出し、これで自分の仕事は一冊分減った。頂点へ登りつめる究極の作品に向けて少しずつ歩みを進めていくだけだ……」

 処女短編集の序文でこんな事書ける奴、ズルくない?
 

 

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バリントン・J・ベイリー「ブレイン・レース」が収録されている短編集はこちら。