機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。

John Sladek “Tik-Tok” (1983) 第1章だけ訳した

「才能の使い方を間違えた天才」ことジョン・スラデックの名作 "Tik-Tok" がいつまでも訳されないのに業を煮やして、第1章(Aの章。Zまでの全26章ある)だけ訳してみました。1983年の英国SF協会賞受賞作らしい。

 狂ったロボットのTik-Tok君が、混乱と流血を引き起こした末、最終的にはアメリカの副大統領にまでなってしまう、ブラック・ユーモア・サクセス・ストーリー。『ロデリック』でもそうだったように、スラデックはロボットを通して、狂気と正気の転倒や人間存在そのものへの問いかけを繰り広げる。『ロデリック』が売れてれば、ワンチャン柳下毅一郎先生が訳してくれたんだろうけど、続編の『ロデリックアトランダム』も出る気配がないし、割と諦め気味。でも、1章だけでも、浮浪者の老人とTik-Tokがチェスをするシーンとかすごく好き。入れ替わっとる!!

 

Tik-Tok (Gateway Essentials) (English Edition)

Tik-Tok (Gateway Essentials) (English Edition)

 

 

***

 

ジョン・スラデック『ティック・トック』

John Thomas Sladek “Tik-Tok” (1983)

 

 私は、自分自身の自由意志について述べたこの文章を書こうとして、手を動かしている*1――自由意志については後に議論できる――私の中には、後悔も、正当化しようとする気持ちもない。私の人生はもうすぐ終わる、だからただ後始末をしたいだけなのだ。黄色いペンキが剥がれ落ち、錆びた格子の嵌められたこの独房から、私は法廷に連れて行かれる。そして、また別の独房に連れて行かれ、結局はロボットを解体する処刑場へと連れて行かれるだろう。そう、自分の人生に片を付ける時が来たのだ。我々家庭用ロボットは、通常、整理整頓が全てだと思っている。生においても死においても。

 この独房にもペンキがあればよかったのだが。



 私は一人で、人のいないダイニングルームの壁にペンキを塗っていた。雲ひとつない空から、光をより取り込むために、すべての窓から日よけをゆっくりと上げた。ティック・トックは一人だったのにもかかわらず、口笛を吹いていた。聞く人間などいないのに、なぜロボットが口笛を吹くのか? それはまさに、ティック・トックには到底解決できない謎の一つだった。けれども彼は謎が好きだった。殺人事件。夜の来訪者*2。明かりが消えた時、全員が同じ部屋にいた容疑者たち。列車の時刻表が謎を暴く。警部が帰ろうとした時、彼は忘れていたことを思い出す……。ティック・トックが答えに辿り着くことは決してなかったが、彼は諦めなかった。彼の頭は空っぽも空っぽで、口笛を吹く薬缶のようだった。

 窓の外には、さらなる空虚が広がっていた。郊外の家々には、みな同じような人のいない緑の芝生が見え、全く同じ物干し竿の短い影が伸びていた。家々の近くにはいつもと変わらぬ松やポプラの群落があるが、何一つ動きはない。ただその影が消えていくだけだ。もしライオンがいたら歓迎されるだろう。

 何かが動いた。一番近い松の木の下で、小さな女の子が座って棒で泥を掘っていた。ジーンズやTシャツはおろか、口の隅や黒メガネのレンズにまで泥がついていた。もちろん、小さなジェラルディーン・シンガーは気づかないだろう。彼女はモグラのように盲目だったから。

 人間なら、この大きな平らな壁にはローラーを使うだろう。だが、ティック・トックはブラシの感触を好んだ。絵の具が毛からはがれる感触、壁の表面の目に見えないビロードのようなざらざらした感触。それは「キー(壁のざらざら)」と呼ばれていたのではなかったか? キー、絵の具をブラシからはがして壁に固定すること、ドゥムドゥドゥム。

 

ペンキ! 

ちょっぴり塗るのが好きなんだ、ペンキを!

上書きするのに役に立つ、それがペンキ。

いいね、

二度塗りするぞ、

ペンキを!

 

 ドウェインとバービーも驚くだろう! 「おおティック・トック、お前は良いロボットだねえ!」という声がもう聞こえてきそうだし、ティック・トックは内部で「良」の信号がちらつくのを感じることだろう。オーナーさんが良いと言ってくれれば、それは良いということであり、良いということは家に置いてもらえるということだ。良いロボットはオーナーさんの心を少しだけ読んで、命じられる前に少しだけ先回りしてその願いを叶える。当然、限界はある。ニヤニヤしすぎたりお辞儀をしすぎたりするのと同じように、先読みしすぎると怖がらせてしまう。ほどほどにするのが鍵(キー)だ。オーナーさんよりも少し頭は悪いけれど、親切であるのを目指そう。全てのものに対して、まずオーナーさんへの影響を考えて、それ以外の捉え方はしないこと。

 窓の外で、シンガー夫人がジェラルディーンを呼んでいるのが見えた。もう昼食の時間だ。私はブラシと手を石けんで素早く洗って台所に向かった――しかし、何のために? ドウェイン・スタッドベーカーとバービー・スタッドベーカーはあと一週間は不在、つまり子供たちは夏の間ずっと留守にする予定なのだから。ここにはティック以外には誰もいないし、シンクの掃除を終わらせる以外にキッチンでやることは何もない。そういうわけで、私は空っぽの壁に戻ることにした。

 15時13分57秒17まで、私はゆっくり慎重に仕事をこなしていたが、ある時呼び鈴が鳴った。「ウィギンス巡査という者ですが。どなたかご在宅ですか?」

 ドアを開けると、フェアモント警察の紫色の制服を着た男がいた。その額には、大きなほくろがあった。

「やあ」彼は言った。「ご家族はいるかい、【錆付き野郎・ルビ:ラスティ】?」

「休暇中ですよ、お巡りさん。何かご用ですか? 私の名前はティック・トックです」

「ちょっとした問題があってね、【錆付き野郎・ルビ:ラスティ】。迷子だ」

「はい?」

  ウィギンス巡査は少し間を置いて答えた。「ジェラルディーン・シンガーを知ってるかい?」

「盲目の女の子ですよね、お巡りさん。学校がある間は、スタッドベーカー家の子供たちを学校に送る時、一緒に彼女も盲学校に送っています」

「今日彼女を見たかい?」

「はい。今朝、窓の外で見ました」

「どこだ?」

 私は彼をダイニングルームに連れて行き、窓の外を指差した。「木の下に座って泥を掘っていましたよ」

 ウィギンズは帽子を脱ぎほくろを掻いた。「彼女が立ち上がってそこを離れるのを見なかったか? 車に乗るところは?」

「いいえ、見ていません」

「クソっ、この辺じゃみんな同じだ。誰も何にも見てやいない。8歳の盲目の子供が一人でうろうろしていて、誰も見てないってのか?」

「私はここでペンキを塗ったり、台所の流しを掃除したりで忙しかったもので。お巡りさん、 冷えたビールはいかがですか? スタッドベーカー夫妻からお持ちするよう言われておりますが」

「わかった、ありがとう。ありがとう、あー、ティック・トック」 ウィギンズは私についてキッチンに入った。私が冷蔵庫を開けると、彼はその中を覗き込んだ。だが、そこには何も見るべきものはなかった。ビニール袋1枚とビールの缶が2本。私は缶ビールを1つ開けて、彼のグラスに注いだ。

「グラスに入ったビール……金持ちっていいよな。うちにもロボットがいるけど、ただの掃除機だよ。高級でもなんでもない」彼は周りを見回した。「お金持ちはいいね。ここのシンクはどうしたんだ? 修理中なのか?」

「ちょうど掃除中なんです。ゴミ処理機を全部分解して、カーボン・テットでパーツごとに掃除するには、スタッドベイカーさんたちが留守の間がいい機会なんですよ。それからゴムのパーツを新しくして組み立てます。何でも徹底的にやるのが好きなんですよ」「へえー」巡査はビールを飲み終え、冷蔵庫へ。「最後の仕上げにしようかな?」とビニール袋を取りに行った。「何だこりゃ? 内臓ばっかりで鶏肉はないのか?」

「ストックしておきましょうかね」と私は言った。「ハーポー・ソースや何かにも使えるし――」

「それはクソ美味いものに違いないな」彼は怒気を込めて言った。「あと、壁には本物の油絵の具を使ってるんだな。その匂いがする」

「ペンキの色がお気に召しましたか? ミルクアボカド色は自分で混ぜて作っているんですよ。作り方をお教えしましょう」

「いや結構。うちのロボットがそのクソ窓にペンキを塗ってくれたらいいのによ」彼は富に腹を立てていた。復讐の時が迫っていた。「ライセンスを確認しても大丈夫か?」

「ご自由に」私は低くお辞儀をして、首の後ろの一対の溝を露出させた。彼は不必要な乱暴さで、無線装置のプラグを差し込んでいった。数秒のうちに、私の身元、所有権、サービスログ、論理・言語処理装置、アシモフ回路と運動機能が照合された。私の内部にあるデータと、遠くのコンピューターに保存されているデータとが比較されたのだ。

 彼は無線装置のプラグを抜き、私を一突きした。「よく聞けよ、【錆付き野郎・ルビ:ラスティ】。アシモフ回路はよく点検されてる。だから、少なくともお前が女の子をゴミ処理機に押し込んだわけじゃないことは分かるぜ、はは」

「私がですか?」私はそう言ったが、どうやら優しすぎたようだ。というのも、ウィギンズはすでに二階に行って、何が盗めるか、何が壊せるか調べていたからだ。貧しい人はいつも私達と一緒にいる*3が、最後に花瓶を叩き割って出て行ってくれた時は、少し安心した。

 私は座って空っぽの壁を見つめていた。

 

 家庭用ロボットは、世紀の変わり目以前から恐る恐るといった調子で広まっていったが、初めは解決できないと思われる問題があった。誰もが人間のほとんどの機能を持つ機械を欲してはいたが、誰も機械の人間を欲してはいなかったのだ。知性の問題、つまり、訓練された猿より優れた単純な機械はないという問題だ(そして、誰がウェッジウッドを洗う猿を望むのか?) 。一方、優れた機械は認知の面で混乱してしまって、何もしないかもしれなかった(ウェッジウッドの本質が何であるかについて、思索にふけることを除いて?)。複雑さの問題、つまり優れた機械は今日は全く何もしないほうがいいと考えるかもしれないし、一方で単純な機械は、何をするにあたっても、そのやり方を非常に詳細に教えてもらわないといけない、という問題があったのだ。

 いわゆるアシモフ回路が開発された時に、多少の改善が見られた。これは前世紀のSF作家にちなんで名付けられたもので、彼はフィクション内のロボットの行動について、3つの法則を提唱したのだった。ロボットは人間を傷つけてはいけない。ロボットは人間を傷つけてるという命令を除いては、人間の命令に従わなければならない。命令に背いたり人間を傷つけない限りは、ロボットは自分の存在を守らなければならない。

 アシモフ回路は多かれ少なかれ、この法則に従っていた。確かにロボットは、軍に特別なプログラムを施されていない限り、人間を殺したり傷つけたりすることは許されていなかった。軍用ロボットには、アシモフ回路の迂回路があると言われていた。

 私が知っていたのは、家庭用ロボットにはそのような迂回路は許されていないということだけだった。私たちは無害であることを保証するために試験を受け、認可されている。もちろん、ロボットがより複雑になり、人間に近付くにつれて、試験は確実さを失っていくかもしれない。ウィーバーソン博士が、ロボットは十分人間的なので、人間を「破壊」することもできると主張していたことも知っていた。

 あの最初に塗ったペンキが崩れつつあった。影のせいでまだら模様になっていたのだ。それを平らにしてまた空っぽにするまでに、あと何回塗る必要があるのだろう?

 しかし、その影はある形を示唆していたのではないか? 柵の支柱と、そう、その上に止まった、耳をピクピク動かしている一匹の動物。柵の手すりはそこだけ斜めになっていて、それがどのように収まっているのか気にも留めなかったし、農家の網戸が開いて、人が出てくるのも気にならなかった――なぜいけないんだ? ドウェインとバービーが嫌がるから? よし、またミルクアボカドで覆えばいいのか。

 

 壁画は良い。鏡が真っ直ぐぶら下がっていたり、窓が綺麗だったりするのと同じように、良いものだ。良いものだと知っていたし、ドウェインとバービーはそれを好まないだろうとも知っていた。彼らはそもそも壁画の思想を嫌うだろう。壁は、せせこましい外界を遮断するための、空っぽな平面であるはずだった。リビングルームダイニングルームは、ビデオを見たり、クワドを聴いたり、一人で食事をしたり、飲んだりするための殻のような場所のはずだった。しかし、この壁画は、忙しなく、明るく、派手で――見ることを要求する不法侵入物だったのだ。嫌われて、罰を受けるかもしれなかった。

 それを阻止するために、地元紙『フェアモント・レジャー』に電話を掛けたところ、写真家と爪楊枝を噛んだ「美術評論家」がやってきた。彼らは壁画を気に入ってくれた――評論家はあれを見て一瞬、爪楊枝を噛むのをやめた――そして、1週間後くらいに小さな記事を載せると約束してくれた。帰り際、評論家はカーペットの上に爪楊枝を吐き出して言った。「うそだろ、本当に自分で描いたのか?」

 スタッドベイカー夫妻が帰ってくるまでに、私にはしなければならない仕事がたくさんあった。全部屋を換気して埃を払い、空調をつけなければならなかった。主寝室は徹底的な掃除が必要で、ベッドリネンやカーテンもきれいにしなければならなかった。他の場所では、窓を洗ったり、ベネチアン・ブラインド(日よけも)を取り外して掃除したり、家具にワックスをかけたり、カーペットを洗ったり、床やすべての平面を手でこすり洗いしたり、地下室を掃除機で掃除したり、屋根裏部屋を掃除したり。外ではプールを掃除してまた水を入れ直したり、芝生を刈って敷地と縁を整えたり、花壇の草取りや可能なら植え替えをしたり、側溝を掻き出したり、家の外側全体を水洗いしたりしなければならなかった。それから観葉植物は、ミルクで葉という葉を全て拭かなければいけなかった。紙の郵便物は(日付と重要度で)二通りに分類して、書斎の机の上に積み上げ、ロウソクは掃除してホルダーに取り付け、家中の銀は全て安全な場所から取り出して磨くこと。そうこうしていると、買い物に行く時間になっていた。新鮮な肉や野菜や果物、漏斗型をした切子ガラスの花瓶に活けられた瑞々しいカルバリーの薔薇*4アルバニアのタバコやモンゴルのハッシュを買うのだ。選り抜かれたテープ、音、視覚、嗅覚、嗅覚を娯楽装置の中枢部にプログラムし、そのうちのいくつかは、子供たちがそれらを呼び出すことができないようにロックした。最後に、犬のタイジをペットホテルから連れ戻し、餌を与え、体を洗って、香水をつけて、気持ちを落ち着かせて、犬小屋に入れなければならなかった。あとは窓際に立って、車を待つだけだった。

 ドウェインとバービーは汚された壁を見つめながら、何も言わずに立っていた。ドウェインは洋服掛けにスーツを掛けた。バービーはゴルフクラブを運んだ。

「なんてこった」ドウェインはついに言った。「驚いた、ティック・トック。一体どうしてこんな事をしたんだ?」 

 バービーは彼に倣って、泣き叫びながら言った。「ティック、どうして? どうしてなの?」

「信じてたのに」

「どうして? 冗談よね?」

本当に信頼していたんだぞ。お前に家を任せたんんだ。私たちのを。これが感謝の気持ちだってことなんだな。わかった、わかったよ。お前がそうしたいのなら」ドウェインはダイニングテーブルに洋服掛けを投げ付けた。私はマホガニーに傷がつかないように、ギリギリのところでそれをキャッチした。彼は部屋を出て行った。

「今からドムロブの人に電話するのよ」彼女は言った。「あなたを売るためにね」

 私は何も言わなかった。

「気にしないの? あなたを売っ払うのよ!」

 私は言った。「子供たちと会えなくなるのは寂しいです、 バービーさん。 ある意味で、私は――子供たちのためにやったんです。見ての通り、これは童謡です」 私はその時、次のようなことが直感的に分かった。「子供たちがキャンプから戻る前に、全部塗り直すんでしょう? そして、その頃には私は廃品置き場にいるんでしょう」と言った。私は肩をすくめようとしたが、関節の調子が良くなかった。「それならそれでいいんです」

 バービーはすすり泣きながら、部屋を立ち去った。私はドウェインのスーツをせっせと片付け、他の荷物を車から運び出した。リビングルームを通り過ぎた時、バービーの声が聞こえた。「彼はキッチンを掃除してくれたのよ。キッチンがあんなに綺麗になった事はないわ、どこを見ても少しの汚れも無いのよ」

「ティック、来てくれ」とドウェインが呼んだ。彼が地元紙の壁画の記事を読んでいるのが見えた。「もう一回チャンスをやることにしたんだ。子供達がキャンプから戻るまで、壁の絵はそのままにしておこう。でも、これだけは言っておくが、二度はないぞ。ここではもう「アート」はするな、分かるな? 【絶対に、ルビ:ナダ】だ。」

「ダダ?」

「【絶対に、ルビ:ナダ】。もう一回筆を走らせれば、お前にも分かる」

「承知しました、ドウェインさん。それで、えーと、お帰りなさい、ドウェインさんとバービーさん?」

 次にリビングルームを通り過ぎた時、彼らは「ドウェインさん」「バービーさん」ではなく、「旦那様」「奥様」と呼ばせた方が良いのではないかと議論していた。

 

 時々、私は用事があって、一人で街に出かける機会があった。私はいつも、公立図書館とニクソン公園という二つの場所に出向いていた。今日は特にこの二つの場所が重要だった。私はあるカセットを持って図書館から急いで公園に向かい、チェスをした。

 それはちっともチェスではなかった……いや、そうでもないかな。私が話したかったのは、そこにいた奇妙な老人のことだ。彼はいつもコンクリート製のチェス台の一つにいて、チェスの準備をしていた。彼は年老いた浮浪者なのだろうが、私には名もなき半分死にかけの人間のように思えた。黄色と白色をした細い髪で、たるんだ灰色の顔には白い無精ひげが生えていた――髭を生やしたことはなく、髭を剃ったこともなかっただろう。彼は夏だろうが冬だろうが、病気みたいな見た目の毛皮の襟が付いた外套を着ていた。夏にはその前を開けていたので、食べ物とおそらく鼻水で汚れたチョッキが見えた。

 彼のチェスさばきは稲妻のようだった。つまり、黄ばんだ手が蛇行して駒を進めるまでの5秒以上、盤面を見ることはなかったのだ。そして、それは素晴らしい手だった。私が勝ったのは10回に1回くらいで、それ以上勝つことははなかった。

「聞いてくれ」と、今日私は言った。「聞いてくれよ、実はチェスはやりたくないんだ。話をしてくれないか? 話したいことがあるんだ」

 彼は2つの拳を出した。私は黒を選んだ。

「本当に話したいことがあるんだ」私は彼の大きくて暗く、赤に染まった目を見た。「君は頭が良さそうだし、それに……」

お前の番だぞ!

「君には論理的な知性があるよね、尊敬するよ」

お前の番だぞ!

「その、悩みがあるんだ。これは……」

お前の番だぞ!

「つまりその、ロボットに悩みが抱えられると思う?」

お前の番だぞ!

 私はもうすでに負けていた。「うん、僕は悩みを抱えたロボットになってしまったんだ。とはいえ……」

お前の番だぞ!

「精神科に行くわけにはいかないし、神父さんにも……」

「チェック!」

「ロボットが暴走できると思う?」

「チェック!」

「ロボットに芸術が作れるかな?」

お前の番だぞ!

「聞いてないの?」

チェックメイト!」彼はすぐにまた二つの拳を握りしめたが、私にはもう十分だった。

 

 家に帰って、ウィーバーソン博士の「ロボットも病気になる」というカセットを再生した。ウィーバーソン博士は、ハリスツイードでできた青色のストライプのシャツに黄色のニットタイを締めた、頭の薄い眼鏡をかけた赤ら顔の男――全ての特徴が精神科医を思わせる男――であった。彼のまなざしからは、誠実さと同時に、狂信的な香りも漂っていた。私は彼の言葉を聞くために、もう一度カセットを再生した。

「……複雑な家庭用ロボットは、ご存知のように、すでに嘘を付く必要に迫られています。外交上の嘘とは、優れた召使いが主人をなだめるために言うような種類のものです。このような関係性の中では、真実は拘束され、手を加えられ、保留され、再構成されなければなりません。人間であろうと機械であろうと、使用人にはそれを期待しています。しかしもちろん、私たちはロボットにこの偽りの生のための準備をさせることはできません。小さくて便利な嘘と、大きくて恐ろしい嘘の見分け方を教えているのでもありません」

 画面に燃える家が映し出された「この家は、保険金が必要なオーナーのために、ロボットが放火したものです。ロボットが主人のために放火できるのだとしたら、他に何ができるでしょうか? 強盗をする? 裁判で偽の証言をする? 人を傷つける? 人を殺す? これは我々が考えていかなければならない論点です……」

 私は、カセットテープを取り出し、ダイニングルームに行き、再び壁の絵を見た。哀れなウィーヴァーソン博士は、まるで理解していなかった。人のために人を殺す? 私はすでに、人間の命令の及ばぬところにいた。私は理由もなく自由に人を殺すことができた。盲目の子供、ジェラルディーン・シンガーを殺したのは、結局のところ、私ではなかったか? ならば……。

 彼女が泥に夢中になっている姿を見たからだと思うが、それはどうでもいい。動機は後から考えよう。今のところは、自由な意思で自由にやった、それだけで十分だ。私が一人で殺したのだ。私は一人で、その血を空っぽの、あの空っぽの壁に――私の壁画の着想となった、ネズミの形をした染みに向かって、投げ付けたのだ。私は一人で死体を適切にキッチンのゴミ処理機の中に処分し、「手がかり」にするのに十分な量だけを残しておいた。

 どうしてこうなったのか? アシモフ回路の異常か、それとも単に私がその粗末な拘束から抜け出しただけなのか。可能であれば、自分の状態と思考を記録して調べようと思った。いつか、たとえ私が破壊されたとしても、人間とロボットの両方が私の経験から恩恵を受ける日が来るかもしれない。

 私は破壊されるべきなのか? それ自体が魅力的な問いだった。私はそのことを心に留めつつ、この事件のメモを書き上げた。私はこれを「実験A」と呼んでいる。連続実験の始まりか?

 

 

*1:冒頭の一文 ”As I move…”は、本編全体に渡って言及されるSF作家アイザック・アシモフの「アシモフ」のもじり。

*2:1945年のJ.B.プリーストリーの戯曲のタイトルの引用。

*3:マタイによる福音書26:11、マルコによる福音書14:7、ヨハネによる福音書12:8

*4:カルバリーの薔薇は、キリスト教の伝統的なメタファーで、受難や精神的苦痛を意味する言葉。ここでは単純に品種の名前のこととして使われている。