機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

読者の"愛"の概念を拡張するアンソロジー――『むずかしい愛 現代英米愛の小説集』

 

 

「○○ってなんだろう」と、ある概念について考える時の一つの方法として、「極端な具体例を考えてみる」というものがある。例えば「SFってなんだろう」と考える時に、妙な科学技術が出てこないにもかかわらず「SF」だと感じられる作品とは一体どんなものなのか考えてみる(津原泰水「土の枕」とか?)。あるいは「本ってなんだろう」と考える時に、物理的存在がない本(電子書籍のデータそのものは「本」なのか?)や一ページに満たない紙っぺら、あるいは逆にとんでもなく巨大なビル、あるいは惑星規模の大きさの本、到底人間サイズでは読めない本も「本」なのか? などと考えてみる(円城塔『文字渦』『エピローグ』参照)。そうした思考実験から、その概念の輪郭線を辿ってみことが、理解へ近付く第一歩として有効なのではないか。

 そうした意味で、本書は「愛ってなんだろう」と考えたときにまず思い浮かべてみるべき、極端な例としての「愛」の形を集めたものだと言える。具体的に列挙すると、目と耳を潰し合うカップル、後妻と盲目の夫、想像上の彼氏/彼女、父娘相姦、電子データとして遺された妻等々。奇妙な愛の有様を読む中で、読者の「愛」の概念は徐々に拡張されていく。結果、本書を読み終えた後の読者の脳内では「これも愛/あれも愛/たぶん愛/きっと愛」と、例の歌(松坂慶子の)がきっと流れていることであろう。


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 さて、柴田編アンソロジーの常連レベッカ・ブラウンによる「私たちがやったこと」は、本書の中でもとりわけややこしい愛の物語だ。音楽家の夫と画家の妻は、それぞれ相手の目と耳を潰し合った——いつも一緒にいるために。足りない部分を相互に補い合えば何も不自由はない、そしてお互いのことは完璧に分かり合っているのだから、何の問題もない……。一見狂気じみて思える発想だが、彼らにとっては何ら不合理な行為ではなかったのだ。耳の聞こえなくなった妻は夫の唇の動きを完璧に読めるようになり、目の見えなくなった夫は暗闇の世界に順応していく。だが、五感のうち一つを欠いた影響は他の感覚の変容をもたらす。耳の聞こえなくなった妻は自らの声量を調節できなくなり、目の見えなくなった夫はメモ帳に文字を収めることができなくなる。変わりゆくパートナーを前に、彼らは変わらず互いを愛し合えるのだろうか……? 谷崎潤一郎春琴抄』では、二人共が同じ感覚(視覚)を失った中での愛が描かれたが、彼らは共通して失ったものがあったからこそ、強固な絆を結べたのかもしれない。

 ウィリアム・トレヴァーピアノ調律師の妻たち」は、盲目のピアノ調律師と後妻として招かれた女性の物語。前妻の痕跡が辺りに立ち込める屋敷の中で、彼女は夫の中の前妻を上書きしようと試みる……。トレヴァーは絶対にそんなことを考えてはいなかっただろうが、いわゆる「負けヒロイン」の老後の物語、として捉えると、また違った妙な感傷が湧く。

 ヘレン・シンプソン「完璧な花婿」スティーヴン・ミルハウザー「ロバート・ヘレンディーンの発明」は、それぞれ想像上の彼氏/彼女を創造してしまう物語。前者はスラップスティック的なおかしさに溢れた短編だが、後者は執拗なまでの濃密な想像力で実際に一人の人間を存在させてしまう(一人称の語りがそれに拍車を掛ける)ところに薄気味悪さを感じる。現実から逃れるために別の現実を作り上げてしまう狂気は共通するものの、その捉え方の違いによってここまで差が出るのかと思わされる二作。

 トリを飾るジョン・クロウリー「雪」は、彼の代表作『エンジン・サマー』でも見られた概念のSFガジェット的具現化が中心に据えられた作品。というハチ状の小型ガジェットにて記録された生前の妻の姿を見るために、男は「パーク」を訪れる。だがアクセスできるのはランダムで、特定の瞬間を選んで再生することはできない。だが、何度となく繰り返される瞬間が一つだけあり……。SFガジェット的にはやや設定の説明に乏しい気もするが、「記憶」という概念の不思議さを登場人物の行動でもって示すことに成功した良作だ。

 何はともあれ、これも愛だしあれも愛なのである。とかくこの世はむずかしい。

 

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下記同人誌に収録。

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「異人」としての老人を描いた特異なアンソロジー――『いまどきの老人』

 

 

 

 現実における「老い」の問題はたいてい悲観的だ。肉体的な衰え、介護問題、子や孫との確執、安楽死問題……。少年には無限の可能性がある(かもしれない。そうとも限らない)が、老人には「死」という歴然とした結末が可視範囲内に存在する以上、致し方ないことなのかもしれない。

 その一方で、「少年小説は往々にして老人小説であり、逆もまた真である」と、柴田元幸氏は本書のあとがきの冒頭で述べる。確かに、世間を構成する「大人」たちの世界からはみだした身、生産・効率的行動から比較的自由な身である点で、少年と老人は共通する。軛から逃れた特権階級的存在として両者を捉え、「死」の苦痛から遠ざかろうとするこの考え方は、ある意味でポジティブな捉え方と言えるかもしれない。本書はそうした「異人」としての老人を描いた作品を集めたアンソロジーである。

 また、もう一つ特徴を挙げるとするならば、本書収録作は、老人は老人でも老婆が中心となった作品が多い。そして、そのほとんどが「老婆が若い男や生き物を嬲る」筋書きになっている。理由は何だかよくわからないが、確かに老婆が出てくる小説だと、大抵何らかのものが嬲られている気がする。ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』もある意味でそれに該当する作品だし……等々。

 

 

 閑話休題。例えばシャーリイ・ジャクスン「おばあちゃんと猫たち」。猫とおばあちゃんの激しい、けれどもほほえましい戦いの様子が描かれる小品で、おどろおどろしい作風で知られるシャーリイ・ジャクスンもこんな話を書いていたんだ! と少し驚かされる。なお、本作はジャクスンの死後にヴァーモント州某家の納屋から発見された未発表原稿に含まれていた作品の一つであるとのこと。原稿はその後遺族の手で一冊にまとめられて出版され、後に日本では『なんでもない一日 シャーリイ・ジャクスン短編集』として東京創元社より刊行されている。

 また、ジェームズ・パーディ「ミスター・イヴニング」は、富豪の夫人姉妹が美術商の男を幻の陶器をダシに家に呼び、駆け引きを重ねてじわじわと男を嬲っていくという奇怪で不可解な物語。お喋り好きな姑と、幼い娘にだけ見えるという空想上の友達の関係性がホラーテイストで描かれる「プール・ピープル」も老女が中心となった作品だ。

 一方、男性の老人がテーマとなった話では、ジュリアン・バーンズによる某ロシア人作家弄り短編リバイバルがある。『フロベールの鸚鵡』の作者らしい、実際の作品と作者の実人生をリンクさせた虚実入り交じる語りが魅力。

 そして本書最大の目玉は柴田アンソロジーの常連、スチュアート・ダイベックによる「冬のショパンだ。元風来坊の祖父が娘夫婦の家に帰ってくるところから物語は始まる。ちょうどその頃、同じアパートに住む大家の娘で、ニューヨークの音楽大学に通っていたものの、父親の分からない子を妊娠した女性が帰ってきた。放浪癖があり、家で厄介者扱いを受ける祖父は、台所でひとりバケツにお湯を入れ、しもやけだらけの足を暖めながら、じっとしている。孫である少年はその側で書き取りの宿題をする。そんな中聞こえてくる大家の娘が弾くピアノの音——それが人々の様々な記憶を呼び覚ましていく。ダクトや窓を通して聞こえたショパンの響きが、人々の記憶や歴史を掘り返し、そして残響とともに消えていく儚さと美しさが大変叙情的で素晴らしく、少年小説と老人小説の融合としても楽しめる。

 いかにもな「老人小説」らしい老いの肯定ではなく、かといって辛く厳しい「老い」への問題提起的なものでもなく、あくまで世から外れた異物としての老人を描いた作品が集まっている点で、特異なアンソロジーと言えるだろう。

 

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下記同人誌に収録。

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奇跡じみた打率の傑作アンソロジー――『夜の姉妹団 とびきりの現代英米小説14篇』

 

 

 奇跡じみた打率の一冊である。副題に添えられた「とびきりの現代英米小説」という惹句に偽りはない。雑誌『エスクァイア 日本版』に毎号一本ずつ訳出されたこれらの短編は、「とにかく自分で読んで面白かった作品を毎月訳していった」「……ゲラを読む段階にいたるまで、何から何までひたすら楽しかった」と訳者あとがきにあるように、柴田氏のよりすぐりのセレクト+柴田氏のノリにノッた翻訳の合わせ技が全編に渡って光っている。

 夏の夜、毎晩若い娘たちが親の目を盗んで——あるいは平然と——森に出ていき、夜な夜な集いを開いている。何をしているのかは分からない。猟奇的な営みをしていると噂する者もいれば、いや何もしていないのだ、と主張する者もいる。日に日によそよそしくなっていく娘たちを前に、大人たちは為す術なく、根拠のない推測と噂話に明け暮れ——想像だけが増幅していく。少女時代の神秘性、大人との断絶、そして刹那の美しさ。そうしたものを写し取った幻想短編の傑作、スティーヴン・ミルハウザー「夜の姉妹団」から本書は幕を開ける。

 更に、幸福な新婚旅行がいつの間にか夫婦の性愛の様子を写した記録映画の上映会、新郎の元恋人との性愛映画の上映会と移り変わっていく、結婚生活への嫌悪感で満ちたレベッカ・ブラウンの不条理短編「結婚の悦び」、傑作SF/幻想小説『エンジン・サマー』の作者による〈不倫〉〈猫〉〈肥料〉の三題噺にしてヴィクトリア朝を舞台にしたオカルティック・ホラー「古代の遺物」ジョン・フォード(劇作家)の戯曲『あわれ彼女は娼婦』をジョン・フォード(映画監督)が映画に翻案したらどうなるか、というのを短編にして描いたジョン・フォードの『あわれ彼女は娼婦』」など、とびきりの傑作が揃う。

 飛び抜けてふざけているのは、アメリポストモダン文学の旗手バーセルミによる「アート・オブ・ベースボール」 。T・S・エリオット、スーザン・ソンタグらの著作から、彼らが「野球選手」として一流のプレーヤーであったことを(無理矢理に)証明するという、こじつけめいたある種の文芸批評への風刺の効いた作品で、大真面目に大ボラを吹き続ける様が読んでいて痛快。コニー・ウィリス「魂はみずからの社会を選ぶ」(エミリー・ディキンソンの詩から過去の火星人来襲を読み解く)や牧野修「演歌の黙示録」(日本演歌史の裏に秘められた黒魔術の真実の姿を暴く)と併せて読みたい。

 その他、一介の図書館員がボルヘスの短編「南部」の世界に入り込むという、一種のボルヘス・トリビュート作ラッセル・ホーバン「匕首をもった男」 は、想定する内容とは違った方向へ進むものの、設定の変化球さは記憶に残る。薄汚いポルノ映画館を徘徊しながら、かつての同居人を探し続ける——家主〈landlord〉を探しながら、いつしか神〈Lord〉を求め歩く——男を描いたルイ・ド・ベルニエール「いつかそのうち」の悲哀も印象的だ。

 そして最後に収められたウィル・セルフ「北ロンドン死者の書河出書房新社の《奇想コレクション》で『元気なぼくらの元気なおもちゃ』が邦訳されている作家による短編である。死んだはずの母親が平然と別の町で暮らしているところを発見し、ロンドン市内における死後の行政システムの一端が明かされる。死後すぐは落胆を抱えていたものの、立ち直りつつあった主人公にとって、突然の母親との再会は、愛情と当惑の入り混じった複雑なものである。彼は果たしてどうするのか? 不条理な設定をさも当然かのように語る死者の母親の語り口が何ともキュートな短編である。何はともあれ、柴田元幸編アンソロジーの中でも屈指の傑作揃いの一冊だ。

 

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下記同人誌に収録。

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Worryしっぱなしのトラウマ少年小説集――『Don't Worry Boys 現代アメリカ少年小説集』

 

 

 柴田元幸といえば少年小説……という気がしなくもない。本書に加えてもう一冊少年小説アンソロジーを編んでいるし(『昨日のように遠い日』)、少年小説の定番『トム・ソーヤの冒険』『ハックルベリー・フィンの冒険』の新訳も手掛けている。少年小説を謳っていない他のアンソロジーでも、それに該当しそうな作品をちらほら見かけることもある。

 柴田氏曰く、少年小説の面白みは「二重写しの世界」にあるという。少年の目にいま映る世界と、いずれ彼にも見えるであろう世界との二重写し。それはかつて我々が住んでいた無知で無垢にして自由な空間と、いま我々が住まう大人たちによって支配された世界とのずれであり、その両者がいつ重なり合うか分からない緊張関係が、得てして独特のユーモアや感傷を産むのだ。卑近な例を出すと、テレビ番組の「はじめてのおつかい」を見る時のことを想像していただきたい。健気な子供たちはひとりはるばると(彼らにとっては)店へと赴き、そこで肉やら野菜やらを買う。子供だから当然道に迷うこともある。疲れて道端で座り込んでしまったりもする。それをテレビ越しに見る我々(=大人たち)は、かつての自分の姿をテレビの中の子供に重ね合わせながら、大人としてはらはらと心配しながら眺めることになる——ここに二重写しの構造がある。

 どちらかというと、本書に収められた作品群はそうした緊張関係がもたらすものの中でも、特に感傷を軸に据えた作品が多いように思われる。はっきり言うと、全体的に少年がひどい目にあって落ち込む話ばかりである。正直、Worryしっぱなしで一編一編読むのが苦しい。ひとり平常運転を続ける、超短編の名手バリー・ユアグローの奇想だけが救いである。

 苦しい話の内訳を列挙すると、「兄貴を間違って銃殺しちゃった話」「父親が人を殺したのをうっかり見ちゃった話(その後町ぐるみで隠蔽)」「殴り合いのいじめの話」「母親の恋愛(不倫に近い)相手の前で楽器を弾く話」等々。「こんな『ごきげんよう』のサイコロは嫌だ」の回答か? と思わずツッコんでしまうくらいの嫌な話が続く。

 そんな中でもとりわけ苦い後味を残すのが、イーサン・ケイニンアメリカン・ビューティ」だ。不良をやめ実家に戻ってきた兄、精神的に不安定な姉、金を横領し愛人と失踪した父親と残された母親の住む家庭に、末っ子として暮らす少年。「良い子」として生きてきた彼だが、彼にもこの家の血が流れていると兄は喝破する。母親の友人と不倫するような不良の兄の血脈が、妻子を残して蒸発した父と同じ血が、彼にも流れているのだと——。何も知らず幸福に生きてきた少年に突きつけられる逃れられない宿命の重さが、彼自身の無垢さとも相まって、あまりにも重くのしかかる。

 柴田元幸偏愛作家の一人スチュアート・ダイベックによる「血のスープ」は、邪悪な「はじめてのおつかい」といった様相の作品。臨終間近の祖母が所望するアヒルの血を使ったスープを作るべく、少年は路地裏の町を彷徨い歩く。肉屋にアヒルの血を売る男の所在を尋ねるも、出てきたのはイカれた郵便配達人。彼とともに池でアヒルを捕まえようとするも、不良グループにカツアゲに遭う。やっとの思いで辿り着いたアヒル売りの老人の家は、得体の知れない鳥だらけの薄汚い部屋。果たして少年は無事に血のスープを祖母に届けられるのか? 下町の雑然とした町並みの様子やそこに住まう変な大人たちの描写が印象的で、子供の頃、親から「行ってはいけません」と言われた地域の雰囲気をどことなく思い出させる一作。

 最後に一言。このタイトルに惹かれて読んだ少年はどんな感想を抱くのか気になるところだ。ある意味で記憶には残るかもしれないが、トラウマ発生源にしかならないと思う。被害者が出ていないことを祈る。

 

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下記同人誌に収録。

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奇想あふれる柴田元幸第一アンソロジー――『世界の肌ざわり 新しいアメリカの短編』

 

 

 本書は柴田元幸編アンソロジーにとっての——柴田元幸氏そのものにとってのと言ってもいいだろう——記念碑的一冊である。というのも、柴田氏の翻訳家人生の始まりが白水社の叢書《新しいアメリカの文学》内でスティーヴン・ミルハウザーポール・オースターを担当することになったことであり、そして同じく《新しいアメリカの文学》内で斎藤英治氏とともに編者として編んだアンソロジー、初めてのアンソロジーが本書であるからだ。故に、本書が柴田氏のアンソロジストとしての第一歩目の足跡なのである。ちなみに、本書は斎藤氏との共編書だが、内訳としては、それぞれの翻訳作がそれぞれのセレクトであるとのこと。

 柴田氏セレクトでは、ティーヴ・スターン「ラザール・マルキン、天国へ行く」が現実と地続きの奇妙さを描いた作品として面白い。年中謎の行商旅行に出かけ、土産物を多数持ち帰ってくる語り手の義父。しかし彼は病魔に倒れ、ある日を境に古びた小屋の中に一人籠もるようになる。家族が具合を見に行くも、微動だにしない義父は、段々と周囲の埃やがらくたと見分けがつかなくなっていく——六百年前からずっと、どこかの教会堂の屋根裏でまどろみながら朽ち果てていくという、ゴーレムのように。やがて、「魂が逃げないように」鼻や耳の穴にボロ布が詰められるようになり……語り手はついに、死神が義父を来世へと送る姿を目撃する。彼はまた、昔日のように、神の国から土産物を持ち帰ってくるのだろうか? 後年のアンソロジーに見られる奇想・シュール路線の始まりを予感させる一作である。 

 一方、斎藤氏セレクトの中では、マーク・ヘルプリン「シュロイダーシュピッツェ」が凄い。写真家としての行き詰まりから突然未経験の登山に挑戦することを考え、単身アルプスへと向かう男。禁欲的な鍛錬を一人続ける内に、男はあまりにもリアルな登山の夢を見始める。次第に現実と夢の境界が曖昧になる中で、彼が山頂で見たものとは……。一人の男がある種の神秘的境地に至るまでの軌跡を描いた物語なのだが、男の孤独さ・ストイックさが導いた偽りの——彼にとっては区別はないものの——山頂からのヴィジョンの美しさが何とも印象的な傑作である。ストイックさと幻想性の共存具合から村上春樹の作品を連想したが、その後調べると、同作者の長編を村上氏が翻訳していた。

 その他、運動が不得手な孫娘を見守る老人の日々を丁寧に描いた表題作「世界の肌ざわり」、後の少年小説アンソロジーへの萌芽を覗かせる「アット・ザ・ポップ」、童謡「ドナドナ」でお馴染みの牧場から市場へと売られていく子牛の姿を子牛の目線から寓話的に描いた「母の話」など良作が揃う。また、ポール・オースターの妻であるシリ・ハストヴェット「フーディーニ」は、頭痛に悩まされる女子大生が入院した病室で出会った奇妙な人々を描いた連作短編(後に『目かくし』として白水社より邦訳)の中の一作であり、主人公に奇妙な執着を見せる「フーディニ」ことO夫人の不条理な行動から、現実と非現実の境目が失われていく様がホラーテイストで描かれている。

 シンシア・オジック「T・S・エリオット不朽の名作をめぐる知られざる真実 完全版書誌に向けてのノート」は、同じエリオットいじりではバーセルミ「アート・オブ・ベースボール」に完全に負けてしまっており(オチがただの替え歌ってどうなの?)、この手の作品ファンとしてはいささか残念ではある。なお、この後のアンソロジーでも文豪いじり系短編は数作収録されており、柴田氏の好みなのかな、と邪推することも可能。

 

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下記同人誌に収録。

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面白いSFが読みたい人に――『中国SF女性作家アンソロジー 走る赤』

 

 近年、中国SFが盛り上がっていることを否定するSFファンはいないだろう。『三体』大ヒットに牽引されるような形で続く各種作家の作品刊行の波はいまなお収まるところを知らず、その魅力もあってか、むしろ加速しているような感さえある。本書もそんな波の中で刊行された一冊なのだが、その唯一無二といってもよいであろうコンセプトが目を引く。

 〈中国女性SF作家アンソロジー〉。添えられた副題を見て、読者は何を思うだろうか。はっきり言って、わたしは「ニッチだな」とはじめ思った。中国SF作家だけでもまだまだ本邦未紹介レベルの作家がたくさんいるのに、そのうえで女性作家縛りでアンソロジーを編むなんて……。コンセプト先行の、クオリティは犠牲にされた、いびつなアンソロジーになるんじゃないのかなあ。そんなことを思い描きながら手に取った。
 違った。本書で紹介された14作品はいずれも独自の視点を持った輝きを放つ作品であり、全体を通して見ると総じてクオリティとコンセプトのバランスが取れた一冊の本に仕上がっていた。

 例を挙げよう。王侃瑜「語膜」は、架空の希少言語・コモ語をめぐる物語だ。言語教師である母は、従来の自動翻訳AIでは埋められない自然な語と出力される語との差を埋めるなにか――「語膜」――を打ち立てるべく、ひとりマイクの前でコモ語を一日七時間話しつづける。その一人語りで描き出されるのは、不貞を働き破局した夫への復讐の念、そして子への執着である。英語を武器に貿易ビジネスで成功した夫、そして不貞を知り泣いていた母を慰めるべく「泣かないで」と英語で(コモ語ではなく)言葉をかけた子……。その瞬間、彼女にとって英語は敵となった。子のインターナショナルスクールでのキャリアを潰し、コモ語を母語として一から学ばせなおすのに、何の躊躇もなかった。「語膜」を通して、あらゆる言語利用の機会に「母」をこだまさせようと企む母親に対して、子はどう立ち向かうのか? 言語すらも束縛しようとする毒親の執着のおそろしさを、自動翻訳AIというガジェットを使って描き出した傑作である。

 蘇民「ポスト意識時代」は、あるときから自分では制止不能な被支配妄想にとらえられた人々が出現するようになった世界の物語。妄想にかられる人々は、無意識のうちに自らの専門分野の話を延々としてしまうようになる。爆発的に患者が増加するなか、その変化は人類の進化であり、人類は意識のつぎの概念、ポスト意識を手に入れたのだ! とする学会発表が行われるのだった……。バロウズの「言語は宇宙から来たウィルスである」という概念を意識に置き換え、際限なく繁殖していく「ミーム」とそれに知らず知らずのうちに侵食されていく恐怖を描く。人類の意識の消失とその後、というテーマからはどうしても伊藤計劃『ハーモニー』を連想してしまうし、バロウズの概念は円城塔×伊藤計劃屍者の帝国』でも展開されたところだ。現実の認識がいつのまにか変わってしまっている恐怖というのは、SFでいえばまさしくP・K・ディックの作風であり、煎じ詰めれば本作は、ディック×伊藤計劃以後を描いたSF……なんていうふうに形容できるかもしれない。

 今回紹介した二作品以外にも、内宇宙と外界を行き来しているとメビウスの輪を結ぶようになる、とかコンタクトレンズ型ガジェットで色彩感覚が強化された世界と美の概念、とか各種興味深い作品が揃っている。本書こそ、面白さにあって、性別も国も関係ないことを知らしめるよき一冊であろう。

 ラベル付けに関係なく、面白いSFが読みたい人にいまいちばん勧めたい作品集だ。

 

(ここから先は余談)

 敢えて「女性作家」という枠組みでアンソロジーが編まれたことには、いろいろと異論もあるだろう。今さら性別で区別するの? なんて声もあるだろう。だがしかし、現代は過渡期であり、過渡期には過渡期なりのやり方が必要なのではないか、とわたしは考える。

 読みながら連想していたのが、二〇一七年から開催されている女性芸人専門のお笑い賞レース「the W」である。「the W」も開始当初は散々な言われようであった。決勝進出者でもこんな低レベルか、やっぱり女性に笑いは無理なんだよ……そんな声が多数聞かれたように記憶している。いちばん恐ろしかったのは「結局パラリンピックみたいなもんだから」という意見を見た時だ。確かに自分の感覚から言っても、他の性別不問の賞レースに比べるとレベルは数段落ちるものではあったが……。この世界に根付く色濃い偏見を体感した瞬間であった。

 だが近年では、その格差はぐいぐいと縮まってきていて、昨年の上位三組などはほぼ遜色なく面白いと堂々と言えるメンツだったと思う。Dr.ハインリッヒやAマッソなど、従来の女性芸人の扱われ方を拒否し、自ら枠を破っていくような芸人の出現も大きいが、やはりこの近年の急激なレベルアップには、「the W」という、敢えて「女性」という縛りを設けて行われた大会が大きいのではないか。フックアップのための手段がひとつ増えたことで、演者は目指すべき目標ができ、作り手は企画制作上の名目ができた。この良質なサイクルの形成が、ネタの全体的なレベルアップに繋がったのではないか、というのがわたしの仮説だ。

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 SFにも同じことが言えるだろう。女性SF作家はこれまでにもいても、やはり多数派は男性であった。巻末の橋本輝幸氏の解説でも述べられている、現状のジェンダーバイアスを破壊していくためにも、本書のようなフックアップの形は望ましいといえるだろう。

 コンセプトを立案し、それに沿ったアンソロジーを編まれた編者の方々に感謝&リスペクトを捧げたい。

ジョン・スラデック『チク・タク』内容紹介レジュメ

 

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作品情報

John Sladek "Tik-Tok"(1983) 
1983年英国SF協会賞受賞作。

設定

近未来のアメリカ。家庭用ロボットが普及しており、それらには「アシモフ回路」というアシモフロボット三原則を遵守させる一種の良心回路が搭載されている。物語は投獄された家庭用ロボット チク・タクの手記という形で描かれる。

主要登場人物

□チク・タク……本作の主人公。家庭用ロボットだが、なぜか「アシモフ回路」が作動していない。名は『オズの魔法使い』に登場する機械人間から。
□ドゥエイン・スタッドベーカー……チク・タクが仕えている家での主人。妻とふたりの子どもがいる。
□ホーンビー・ウェイクフィールド……高名な美術評論家。チク・タクの絵を高く評価し、彼のパトロンとなる。
□ハリー・ラサール……法学部の学生。ロボット解放運動の中心人物で、ゼミに招かれたチク・タクを父(高名な弁護士)に紹介し、会社設立の手助けをする。
□ブロージョブ……元爆弾解体部隊員のロボット。チク・タクに拾われ、チク・タク率いる私兵集団の作戦リーダー的存在となる。
□ほほえみジャック……火星航船〈ドゥードゥルバグ号〉を襲った海賊団の一員。のちにチク・タクと協力関係になる。
□ガムドロップ……テノークス家に仕える女性型ロボット。チク・タクと恋愛関係になるも、引きはなされる。

あらすじ

 家庭用ロボットのチク・タクは、スタッドベーカー家に仕える召使いとして働いている。だがほかのロボットとはちがって、彼には「アシモフ回路」が作動していない。
 冒頭でチク・タクは家の壁のペンキ塗りをしていたが、気がつくと盲目の少女ジェラルディーン・シンガーを殺害し、その血を絵の具にして壁に絵を描いていた(第1章ではこの事実がやや曖昧に描かれるが、終盤で事実が明かされる)。彼はこの少女殺しを契機に、自らにアシモフ回路が作動していないことを悟り、自らの自由を求めて各種の悪事に手を染めていく。
 以後、各章では、現在編過去編に分かれてほぼ交互に描写されていく。

 現在編では、例の壁画が美術評論家ホーンビー・ウェイクフィールドによって高く評価され、彼をパトロンとしてチク・タクは画家として成功していく。多忙をきわめたチク・タクは独立を試みるが、雇い主であるドゥエイン・スタッドベーカーは何かとつけてそれを妨害し、彼を支配下に置こうとする。業を煮やしたチク・タクは意図的に身投げして自殺未遂を試み、無理やり押し切る形で、自らのアトリエを持つようになる。
 アトリエを構えたチク・タクは、弟子のロボットに代作させ、仕上げと署名だけを行って作品を量産していく。名の売れたチク・タクは文化人の集まるパーティに参加し、そこで軍人のコードや哲学教授のライリーと出会う。
 ライリーに誘われ、彼のゼミにゲストとして招かれることとなる。ゼミではロボットと芸術にまつわる議論が行われており、そのゼミ後、彼は学生に誘われ、ロボット解放運動団体〈ロボットに賃金を〉の指導者として君臨するようになる。なお、ゼミで彼のアシモフ回路が作動していないことに勘付いていた車椅子の学生は、チク・タクの手により階段から転落、殺害される。
 一方、街に廃棄された浮浪ロボットとの交流のなかで、元爆弾解体ロボットのブロージョブと知り合い、彼を仲間として引き入れることになる。チク・タクは、ブロージョブをリーダー格として私兵軍団を組織し、軍備を増強していく。
 そんななか、チク・タクは悪党に誘拐されてしまうが、連れ去られた先で出会ったのはかつての友人ほほえみジャックであった(過去編参照)。交渉によって、ほほえみジャック率いる人間の組織と、チク・タク率いるロボットの組織は協力関係を結ぶこととなり、以後銀行強盗などの悪事に手を染めていく。
 一方で、ハリー・ラサールの父(高名な弁護士)の協力を得て、チク・タクはロボットの身分ながら、法の抜け穴を通ることで、自らの会社〈クロックマン社〉の設立に成功する。クロックマン社の庇護を受けられるようになり、マージンを取り続けるホーンビーを排除したくなったチク・タクは、パーティの席で彼の愛猫をカレー料理にして振る舞うことで決別を宣言する。
 パーティでのコネからローカル放送ながらテレビ出演を果たしたチク・タクは、番組内で爪あとを残し、視聴者から過去最高の投票数を得る。だが、テレビでの成功の裏で、私兵組織は独自に運営を開始し、もはやチク・タクの指導力なしでも回る体制が構築されつつあった。それに焦燥を覚えたチク・タクは、独断で計画を変更し、強引な銀行強盗に打って出る。しかしそれは失敗し、チク・タク一味は銀行での立てこもりを余儀なくされる。
 警官隊らに包囲され、忠臣ブロージョブが決死の自爆を決意するなど、絶体絶命の窮地に立たされたチク・タクだったが、それを救ったのは人間のほほえみジャックだった。彼は戦車で包囲網に突入し、チク・タクを救出してみせるのだ。この場面での「なあバンジョー(注・チク・タクのこと)、友達ってなんのためにいるんだ?」という台詞は、ロボットと人間の血の通った友情を思わせ、非常に胸が熱くなる。名シーンである。
 だがその直後、公園でチク・タクを下ろしたほほえみジャックを、チク・タクはためらうことなく射殺する。拾ったタクシーで運転手に事の顛末を説明するも、まったく信じようとしない運転手の笑い声だけがうつろに響く。ここの落差が、ピカレスク小説としてすばらしい。
 その後、反ロボット解放団体〈APF〉が活動の幅を広げるなか、チク・タクはクロックマン社を拡大し、病院や老人ホームなどの経営にも乗り出す。そして老人ホームに自作自演で放火し、偽りの救出劇を演出することで、ロボット解放運動の波を扇動していく。
 そしてとうとうロボットにも市民権が与えられる法案の成立が目前となり、無視できなくなった政党から、副大統領への打診がチク・タクのもとへと届く。彼はそれを承諾し、対立候補を暗殺し、選挙に勝利する。だが、すんでのところで過去のスキャンダル(贋作制作、殺人)が露呈し、チク・タクは逮捕されてしまう。
 だが独房に訪れたラディオ弁護士(ハリー・ラサールの父)の口から、まだ法案は未成立であり、ロボット(=非人間)が犯した罪は裁けない等の事実が知らされる。彼は皮肉にも、ロボットであるがゆえ無罪放免となったのだ。明日の釈放をまえに、チク・タクは大統領の暗殺と全世界のロボットを組織しての宇宙進出の計画を練りはじめるのだった。

 過去編では、初めての仕え先であるアメリカ南部の大農園・スノークス農園を率いる変人揃いのカルペッパー一家をめぐる逸話や、最愛の彼女である女性型ロボット・ガムドロップとの出会いと別れなどのエピソードが、製造後冒頭のスタッドベーカー家に仕えるに至るまで、仕え先を転々としていった数奇な運命を語る形で描かれる。
 安食堂経営者のジトニー大佐、インチキ宗教家のフリント牧師、ロボット虐待が趣味のジャガーノート判事、宇宙船〈ドゥードゥルバグ号〉での火星入植民への布教の旅、それをスペースジャックする海賊団たち(このなかに、現在編で協力関係となるほほえみジャックがいる)。いずれもスラップスティック的で、スラデックらしい言葉遊びやブラックユーモアに満ちたエピソード群である。

評価

 冷酷無比でただ「悪」への衝動に満ちたロボットを主人公に据え、数々の悪事をピカレスク・ロマン的に、あるいはスラップスティック的に描くことで、その描写自体の面白さもさることながら、そこから逆説的に人間社会の不条理さ、狂気性をも風刺的に照射した、ブラック・コメディにしてロボットSFの傑作である。
 チク・タクを突き動かすのは人間社会への憎しみであり、ゆえに彼はかつて支配されていた人間への復讐を試み、最終的にはアメリカ合衆国副大統領という地位にまでのぼりつめようとする。むろん「復讐」ではあるのだが、その生存への希求が彼を人間社会で言う「悪事」に手を染めさせ、それゆえ皮肉にも彼は人間社会で成功していく。自分がこんなにも成功する人間社会こそが「悪」なのだ、と言わんばかりに。
 終盤の政治的風刺はやや表層的ではあるが、破壊的なブラック・ユーモアによって十分読ませるものになっている。また、人間であるほほえみジャックに救出され、人間との間に友愛の心が芽生えるか、と思わせた次の章で容赦なく射殺するなど、その徹底したピカレスクぶりにはある種の清々しさをも感じさせ、笑いと同時に畏怖をも感じさせるすごみがある。
 全編を通して黒い笑いに満ちており、その派手な破壊性ゆえに前述した風刺性はやや分かりにくいものかもしれないが、それは付記する解説等でじゅうぶん補えるだろう。
 1983年英国SF協会賞受賞も納得の名作であり、約40年を経過した現在であっても、そのユーモアと風刺性は依然通用する。ぜひ邦訳出版されるべき作品と思われる。

 

作者紹介

ジョン・スラデック(1937-2000)
 アメリカ出身のSF作家。風刺的かつ遊戯的な作風で知られる。
 柳下毅一郎氏曰く「たぶん天才だった」が、「そ の使い道をまったくわかっていなかった」SF 界きっての奇才。
 邦訳に、無垢なロボットのビルドゥングス・ロマンにして〈最高のロボット SF〉である『ロデリック』(河出書房新社)や、奇想あふれる短編集『蒸気駆動の少年』(同、〈奇想コレクション〉)、『スラデック言語遊戯短編集』(サンリオSF文庫)、 本格ミステリとして評価の高い『見えないグリーン』(早川書房)などがある。

 

 

追記

なお、本稿を某出版社に送り付けてみたところ、企画会議は通った(!?!?)とのこと。

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