機械仕掛けの鯨が

読んだ本の紹介など。書いてる人:鯨井久志

逃避としての幻想が牙を剥く瞬間――ドゾワ「海の鎖」とウルフ「デス博士の島その他の物語」

 

 


 〈未来の文学〉叢書の最後を飾るのは、名翻訳家にして名紹介者である伊藤典夫編アンソロジーである。

 人間に擬態した異星人を巡るサスペンス「擬態」、全世界向けの広告としてヒロシマに一〇〇年ぶり二回目の原子爆弾を投下するオールディスの問題作「リトルボーイふたたび」、映画『キングコング』と現実とを祖父から孫への思い出語りという形式で虚実入り交えて描く「キングコング堕ちてのち」など、伊藤訳・セレクトにして単行本未収録だった名作がずらりと並ぶ。

 だが今回は、表題作である「海の鎖」について紙幅を割こう。

 「海の鎖」のあらすじは以下のようなものである。家庭に問題を抱える孤独な少年。彼には"違う人たち"という人間以外の存在が感じられ、彼らと対話することができた。だが、教師や医者からは妄想として一蹴され、彼は問題児としてより孤独を深めていく。その一方、地球には異星人が来襲。AIとの協議の結果、彼らは"違う人たち"を優先すべき知性体とみなし、人類を滅ぼしてしまう……。この経緯を、破滅を予感させる冷たい筆致で描いたのが本作である。
 さて、本作の中心に据えられているのは「孤独な少年の、現実逃避としての幻想」というテーマである。このテーマを見れば、〈未来の文学〉シリーズの愛読者ならば、きっとピンとくるはずだ。そう、〈未来の文学〉の看板作家・ジーン・ウルフによる「デス博士の島その他の物語」である。

 だが、「海の鎖」は「デス博士の島」と、ある点で明らかに異なっている。

 「デス博士の島」においては、少年の幻想=読書体験は、あくまで辛い現実からの逃避として機能する。

「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ」

「きみだってそうなんだ、タッキー」 

 この印象的な最終盤の一節が明示するように、本作の中では、幻想は幻想としていつまでも存在する。われわれ読者がページをめくれば、いつだってまた蘇り、生を再び得るのである。ここに幻想の温かさがある。ウルフは、過酷な状況から生まれるからこそ甘美な(そして脆弱な)幻想の魅力を、短編「デス博士の島その他の物語」という一種の閉鎖空間(=島)に閉じ込めたと言えよう。

 一方、「海の鎖」では、第三者として外挿された異星人によって、”幻想”は単なる少年の一人称的な幻想ではなく、人を滅ぼすれっきとした三人称の”現実”として顕現してしまう。そこに逃避としての救いはない。

 そして、少年の”幻想”は最終的に”治療” ”矯正”の対象となってしまうが、それと同時に、夢見ていた土台である現実そのものが消滅してしまう。

 つまり――本を最初から読み始めても、「みんな」は帰ってきても、「きみ」は帰ってこないのだ。

 さて、この一見陰惨たる結果を、幻想=読書体験=みんな、夢見る者=読者=きみという図式に当てはめると、何が浮かび上がってくるだろうか。

 幻想を観測する人間(=本を読む読者)が消えたとしても、幻想は残り続ける。つまり、本は、幻想は、人を滅ぼした後も、いつまでも存在し続ける……このような図式になるだろう。つまり、本作はウルフとはまた違った形の、だが結論としては同じく、フィクション讃歌なのである。

 本作が〈未来の文学〉最終巻である『海の鎖』の巻末に置かれたのには、編者伊藤氏の意向があったという。六〇年代〜八〇年代の未訳SFを発掘し続けてきた叢書の最後となる作品として、創作物の尊さ、かけがえのなさ、あるいは野蛮な力、人類をも消滅させうる威力を持った存在としての創作を描いた本作を置くという意図が、ひょっとしたらあったのではないか。

 

 人は死ぬ。いずれ死ぬ。死は避けがたい営みだ。

 だが本は死なない、観測者はいなくなろうとも。

 

 こうした、終末SFめいたビジョンを幻視することも可能だろう。私には、伊藤氏からの虚無的ながらもフィクションの力を信じるという、力強い声が聞こえたような気がした。

 

 取り上げた二作以外にも、孤独な少年と逃避としての幻想を描いた作品は多数存在する。〈未来の文学〉内で、例えばハーラン・エリスン「第四戒なし」(『愛なんてセックスの書き間違い』所収)と並べてみるのはどうか。そこから、「SF=毒親文学」であるとか、想像/創造することは、すなわち現実からの解離である、などと考えることもできるだろう。肉体の滅びが全てではない、という考え方から、宗教的萌芽を嗅ぎ取ることも可能だろう。

 物語は誰かによって紡がれる。その物語を読み、また何かを想像することもまた、誰かの自由であり、それこそが読み語り継がれるということなのだ。


 

 

 


 

「『海の鎖』刊行記念&《未来の文学》シリーズ完結記念トークショー」レポ

bookandbeer.com

 《未来の文学》シリーズ完結記念トークショー@本屋B&B、行ってきました。途中から雷と大雨の音が聞こえてきて怖かったです。傘持ってきてなかったし!!

 以下レポ。

※注意:以下、基本的に敬称略だったり付けてたり。オフレコっぽい箇所(インターネットに流すのはヤバそうな箇所)はオミットしています。気になる人はアーカイブを見るか、もう見た人に直接聞いてください。

 

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 出演者:大森望、橋本輝幸、樽本周馬柳下毅一郎(途中から)

  •  《未来の文学》は2004年開始で全20冊(『ダールグレン』が2冊あるため全19作品)。河出書房新社の《奇想コレクション》とほぼ同時期(2003年開始)。
  • 奇想コレクション》と時期が被ってしまったが、ラインナップを見るとほとんど被っていなかった。
  • 最初はラファティを出すつもり(全10冊)で、柳下氏に相談していた。そこから大森さんを紹介してもらい、意見を聞いてラインナップを決めていった。
  • ティプトリーの長編 "Up the Wall of the World" を出すつもりだったが、ティプトリー伊藤典夫氏が訳して早川書房から出るだろうということで取りやめに。
  • 出す時は基本的に早川書房に聞いてから。SFマガジン掲載作を収録することも多いので、仁義を切る意味で。
  • イアン・ワトスン『エンべディング』は若島正氏推薦(『乱視読者のSF講義』に氏の原書レビューが収録されている)。ジーン・ウルフケルベロス第五の首』は柳下氏の『文藝』連載記事の紹介から。『ケルベロス』をやるなら叢書にしよう、ということも《未来の文学》開始のきっかけの一つ。
  • シリーズを通して、期の最初はウルフスタート。看板作家。
  • シリーズ全体で売れたのは、ケルベロス第五の首→ゴーレム100の順。
  • スタージョンは短編集を入れるつもりだったが、晶文社ミステリから藤原編集室氏編集で出た(「お前の考えるようなことはみんな考えてるから」)ので、長編の『ヴィーナスプラスX』に(いちばん他で出なさそうなもの??)。
  • 奇想コレクション》は《20世紀SF》の流れで、中村融氏企画+訳者の持ち込み。《未来の文学》は柳下・若島企画。
  • フリッツ・ライバーは「影の船」を表題作で短編集を出そうとしていたが、中村氏に断られた(→その後「影の船」は竹書房猫SFアンソロジーに収録)。
  • ジーン・ウルフ短編集(ベスト・オブ・ジーン・ウルフ)は若島氏企画・全2冊で企画中。SFマガジン掲載の「アメリカの七夜論」も収録予定(追記:SFM掲載版より長いものが収録予定??)
  • SFは、「この作家ならこの翻訳者」というのが固定されて決まりがち。そういう縛りがない作家は出なくなる。日本における翻訳者の「紹介者」としての役割が大きいことの弊害でもある。
  • 翻訳SFは売れた実績が大事。ウルフは『ケルベロス第五の首』が売れたので、売れなかったとしても〈何かの間違い〉扱いできた。
  • ソウヤー、ストロス、プリースト、ヴァンスなどは、一度売れなかったので出なくなってしまった。ただし、プリーストは東京創元社からは出なくなったが、早川書房では売れたのでまた最近出ている。一度は出禁になったが……みたいな。
  • 伊藤典夫さんに「SFを一時的にではなく、持続的に出せるように」と言われたが、《未来の文学》叢書は終わってしまった。《未来の文学》は古いものから見逃されていたものを発掘していたが、他のSFを出している社はまた違う。
  • 当初はコンセプトとして「60〜70年代のSF」を謳っていたが、『海の鎖』では「60〜80年代SF」になっている。→叢書を出している間に"クラシック" の指す期間が増えた。
  • 大久保譲さんは柴田元幸氏からの紹介。SFプロパーではないが、変な小説好き。結果的に『ダールグレン』も任せることに。
  • 『ダールグレン』は最初山形浩生氏に話を持っていったが、長いのでやるなら複数人で……という話になり、結局単独訳者がいいだろうと大久保氏に。
  • 伊藤典夫さん曰く、「自分が訳そうとしていた作品はみんな他の人がやってしまう」。(←総ツッコミでした)

 

  • 『海の鎖』の話。企画した後で、ハヤカワ文庫から高橋良平氏編のアンソロジーが出た。ハヤカワのものは版権切れのものがメインだったので、海の鎖は版権ありの作品が多くなった。元々はハーラン・エリスンヒトラーの描いた薔薇」も入れる予定だったが、『死の鳥』が出た後にいい流れでエリスン短編集がハヤカワから出たのでナシに。また、新規訳し下ろしも入れる予定が、伊藤さんが間に合わず。
  • 伊藤さん単独で編訳を担当した本は意外と少ない。自分が訳したものだけで編むと分母が小さくなってしまうから、アンソロジー全体で見ると必ずしもよいものにはならない(大森氏)。
  • 『海の鎖』は全体的に〈戦争&ファーストコンタクト〉アンソロジーっぽい。
  • ドゾア「海の鎖」がラストなのは伊藤さんの(やはり)意向。《未来の文学》の終わり方としてふさわしいと。孤独な少年テーマで、「デス博士の島」を思い出す(柳下氏)。
  • リトルボーイふたたび」は樽本さんからのリクエスト。ここを逃すと収録できそうにないので。宮内悠介は「リトルボーイふたたび」好きすぎ(大森氏)。
  • 伊藤さんの真骨頂は70年代のニューウェーブSFの翻訳だと思うが、あんまり入ってない。もっと入れても良かったのでは。(柳下氏)→意外と他で単行本に入っている。今回はあくまでも「単行本未収録」からのセレクト(樽本氏)
  • 伊藤さんはインターネットでは読書メーターだけは見てる。ファンレターは読書メーターに。
  • フェルミと冬」最終2行の文字数が同じなのは、原文と同じ。「やはり伊藤さんは天才型の訳者」(樽本氏)

 

  • サンリオSF文庫の未刊行作品は意識していなかった。後から指摘されて知ることが多かった。『エンべディング』やラファティ作品など。
  • 未来の文学》には女性作家が1作も入っていない。ラインナップ段階では、ティプトリージョアンナ・ラス、バトラー、ウィルヘルムなども考えていた。キャロル・エムシュウィラー は、《短篇小説の快楽》に移した。《未来の文学》叢書は割とふざけているものが多いので、バトラーはシリアス過ぎるかと思って外した。
  • 反省の意味もあり、ティプトリーの伝記を刊行予定(北川依子訳)。「ジュディス・メリルの伝記も出してほしい」(大森氏)。
  • 伊藤典夫評論集成』は1200ページくらい。箱入り2分冊(分売不可)。
  • 伊藤さんにゲラを見せると、赤入れで戻ってこなくなるので(前例あり)、『評論集成』のゲラは見せていない。*1
  • ジョン・スラデックミュラーフォッカー効果』は、浅倉久志訳で進めていたが、浅倉さんが亡くなってしまった。その後渡辺佐智江さん訳でやる予定にしていたが、別の仕事をお願いしてそこからそのままになってしまった。「スラデックの中でも一番訳の分からない作品*2。他にもいいのあるのにって当時言った」(柳下氏)。

 

  • それぞれのベスト:
  • 橋本さん→『ゴーレム100』。《未来の文学》らしい作品。渡辺さんの超絶翻訳。
  • 柳下さん→自分が訳した作品を抜くと、『エンべディング』。でも訳者あとがき(山形氏)がよくない。元々はもっとひどかった(樽本氏)。
  • 大森さん→星5つを付けたのは『デス博士の島その他の物語』『ドリフトグラス』。
  • 奇想コレクションは読みたい!1位取ってない。未来の文学はデス博士で取った。
  • ドリフトグラスの装丁→「ここまでする必要なかった……」(樽本氏)
  • ドリフトグラスの真っ白な装丁は、光の角度で文字が浮かび上がる「ドリフトグラス」オマージュ仕様。ただそんなことは分かるわけもなく……(悲しい)。
  • 樽本氏の思い入れの1冊:『ダールグレン』のゲラを読んでいた日に、東日本大震災が起きた。ちょうど『ダールグレン』の最後も同様の大災害が起こるので、そうしたリンクを起こすディレイニーは「やはりすごい」。

 

  • 20冊揃ってる内に、買える内に買ってほしい。(樽本氏)
  • 全揃いで一気に買った人はまだいない。全部で5万円……!!

 

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 貴重なお話ありがとうございました。個人的には、「海の鎖」収録順はやっぱり意向通りなんだ! とか、ミュラーフォッカー効果の顛末が聞けて、大変嬉しかったです。あと、やっぱりイベントはいいですね。久しぶりに参加できて楽しかったです。

f:id:hanfpen:20210711112222j:image

 

*1:読書メーターしか見ていらっしゃらないなら、書いてもいいだろうという判断。いいのか?

*2:原文で読んでいて、「分かんねえ〜自分の語学力のせいか??」と思っていたんですが、やっぱりそうなんですね。ちょっと安心しました。

〈ハヤカワ文庫JA総解説 PART1〉に参加しました

 S-Fマガジン2021年8月号

www.hayakawa-online.co.jp

 

本日発売のSFマガジン8月号〈ハヤカワ文庫JA総解説PART1〉に参加しております。

担当作品はJA0016『宇宙のあいさつ』(星新一)とJA0030『アルファルファ作戦』(筒井康隆)の2作。読書体験のルーツみたいな作品を担当することになって感無量でございました。筒井作品の方は、下村(思游)さんのレビューと期せずして被っているので、その辺も読み比べるとまた面白いかも。我ながら「こりゃキマったな……」とレビューを書き上げた時思っていたので、献本で読んでオチの被り具合にビビリました。妙なシンクロニシティを感じます。

PART2にも参加予定なので、また何卒よろしくお願いいたします。

唖然とするような怪作と歴史的名訳との臨界点——アルフレッド・ベスター『ゴーレム100』

 

 

 怪作である。真っ赤な表紙とぶ厚めの背表紙。過剰なまでのタイポグラフィと、ロールシャッハ・テストを思わせる不可思議な挿画たち。何しろ開始二〇ページ目から出てくるのがヘブライ語の楽譜である。パラパラとめくるだけで、その異様さは否が応でも伝わってくる。

 だが異様なのは、そうした視覚的な面だけではない。水の欠如した22世紀のスラム都市で、妖しく集う八人の有閑マダム「蜜蜂レディ」たち。行われる悪魔的儀式。そして召喚される人智を超えた怪物・ゴーレム100と、それがなす邪智暴虐の数々。彼を追いドラッグを注射して無意識の世界へ飛び込む特殊知覚の持ち主、そして二重人格者である天才香水デザイナーとの恋愛……。

 ワイドスクリーン・バロックの古典的名作であり、SF史上のマイルストーン『虎よ、虎よ!』をベスターが書いたのは一九五六年。以後二〇年ほどのブランクを経て、『コンピュータ・コネクション』でSFへ復帰を果たした後の長編第二作目*1となる今作も、その絢爛豪華なヴィジョンと詰め込まれたありったけのアイディア、そして躁的なまでのプロット展開は健在だ。ただし、これらをどう取るかは読者次第であろう。野蛮なまでの力技とペダンティックすれすれの展開を評価する向きもあれば、「唖然とするようなクズ小説なのか壮大な傑作なのか見分けがつかない」(若島正*2、「ガラクタ以下で完全にぶっ壊れている」(殊能将之*3と記す向きもある。だがいずれにせよ、ベスター作品の、本書の秘める力は本物だ。作品をぶっ壊すにも、ぶっ壊すだけの力がなくては成し得ないのだから。

 さて、本書を本書足らしめているのは、原文の力のみならず、渡辺佐智江氏の翻訳によるところも大きい。蜜蜂レディたちの口語の訳し分けは見事の一語だし(余談だが、本書は雑誌『百合姫』内で取り上げられたことがある。蜜蜂レディたちの妖しいサロンめいた集いが百合愛好者に刺さったのであろう)、数々の俗語や言葉遊びを生き生きとした日本語に訳しのけている。ベスター流のジョイス語も、しっかりと柳瀬尚紀訳を踏襲した総ルビで訳されているところも流石。まさに力と力のぶつかり合い、その臨界点に生み出されたのが本書『ゴーレム100』なのだ。

 かつてブライアン・オールディスは、ワイドスクリーン・バロック=「時間と空間を手玉に取り、気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛びまわる。機知に富み、深遠であると同時に軽薄」*4と定義した。本書もまさしくその特徴を満たす小説だ……ただし、空間が三次元的な現実空間ではなく、ニューウェーブSF的な内宇宙【インナー・スペース】であることを除けばの話である。そして本書に登場するゴーレム100もまたその特徴を満たす——何と言っても、彼は「蜜蜂」レディによって召喚されたのだから……というのは、私の牽強付会だろうか。果たしてベスターがどこまで狙っていたのかは分からないが、これは彼なりのワイドスクリーン・バロックの再話であり、ベスター不在のSF界への返歌でもあったのだ。それはまさに、ラストシーンのゴーレム100の言葉、そして新人類の誕生にも繋がる話である。

 

*1:なお原型となった短編として一九七四年発表の The Four-Hour Fugue があるが、登場人物の名前が異なる以外はほとんど全て『ゴーレム100』内に取り込まれている。

*2:『乱視読者の英米文学講義』(研究社、二〇〇三年)

*3:殊能将之読書日記 2000-2009』(講談社、二〇一五年)

*4:ブライアン・W・オールディス『十億年の宴』(東京創元社、一九八〇年、浅倉久志

著者の全てが表れた、奇想と寓意に満ちた神経症的初短編集――フリオ・コルタサル『対岸』

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 しばしば処女作には作家の全てが表れるとされるが、フリオ・コルタサルもその例に漏れない。夭折した親友に捧げられた本短編集は、紆余曲折を経た後にお蔵入りとなり、コルタサルの死後(一九九五年)に出版されるまで幻とされていた作品集だ。
 一般にコルタサルは、後年は技巧に走り、徐々に本来の持ち味である奇想や怪奇性が失われていった……とされるが、処女短編集である本作に収められた短編はどれも荒削りながら全盛期を思わせる切れ味を兼ね備えている。その点で本作は後の作風を既に胚胎したものだと言えるだろうし、そして何よりも「とっつきやすい」ことが特徴だ。後の作品で散見される神経症的で執拗な描写や技巧が幾分先走った文体も本作では鳴りを潜めている。そういう訳で、その辺りでコルタサルを敬遠する向きにもおすすめしたい。
 例を挙げると「大きくなる手」では、突如手が巨大化した男の当惑と周囲の混乱を不条理譚的に描く奇想が最後の一文で世界を反転してみせる鮮やかな文章技巧で描かれており、後の短編職人コルタサルとしての萌芽が顔を覗かせる。
 その他にも「夜の帰還」「遠い鏡」「転居」では、後の作品でも度々用いられる「分身」「悪夢」「鏡」などのモチーフが、あたかも後の原型を思わせる形で描かれる。こうしたモチーフによって打ち破られる論理と理性が支配する世界、開通された異世界への通路と変哲のない現実とが織りなす奇妙さがコルタサルの持ち味であり、この意味で表題の「対岸」は彼の作風を的確に表現したものと言えるだろう。
 また、「天体間対称」「星の清掃部隊」「海洋学単講」など、以降の作品では見られないSF的な作風が垣間見えるのは、初期作品ならではといったところか。
 そして最も奇想と寓意性に溢れた「手の休憩所」。筋を端的に言えば、主人公が手を飼う話である。
 ある日庭に入ってきた「手」をペットのように愛玩する主人公。だがある晩、寝ている隙に「手」が自分の手を切り落とし「駆け落ち」するのではないかという妄想に取り憑かれる……という、後のコルタサル作品に顕著な神経症的なオブセッションと奇想とが両立された傑作である。思わず「人体の一部が動き出す短編アンソロジー」を編みたくなってしまう(バリントン・J・ベイリー「ブレイン・レース」はマスト)。
 その他にも、コルタサル自身が自分の短編小説観を語ったハバナでの講演「短編小説の諸相」も併録されており、コルタサルファン必読の一冊と言えるだろう。

 最後に、本書の序文を引用して紹介を終えよう。

「……この本によって一つのサイクルを閉じれば、同じように不純な新しいサイクルが目の前に開けている。一冊本を出し、これで自分の仕事は一冊分減った。頂点へ登りつめる究極の作品に向けて少しずつ歩みを進めていくだけだ……」

 処女短編集の序文でこんな事書ける奴、ズルくない?
 

 

***

バリントン・J・ベイリー「ブレイン・レース」が収録されている短編集はこちら。

 

創作とは、一種の「悪魔祓い」である――フリオ・コルタサル『八面体』

 

 人は変わらずにはいられない。コルタサルも七〇年代以降は政治活動に身を投じ、創作への熱意をそのぶん政治へ転換した。寺尾隆吉氏の訳者解説にもある通り、政治転向以降のコルタサルの評判は芳しいものではない。そんな中で、本書『八面体』はコルタサルが文学に注力していた時期の最後の短編集とされている。

 巻末に併録されたエッセイ「短編小説とその周辺」に記されるように、コルタサルにとって創作とは、迫りくる妄想を「書く」という行為で日常から切り離す、一種の「悪魔祓い」だった。それを示すかのように、本書に収録された短編で描かれる幻想の風景には、現実との継ぎ目がない。息の詰まる緊張感と神経症的な描写が世界を支えているような、そんな印象を一読して受ける。

 例えば、子供にしか見えない謎の子供を題材にした「シルビア」。不規則に眠り、突然発汗し、家族に謎めいた数字を付していく家長を淡々と受け容れる「セベロの諸段階」。鏡に写った自分の視線と電車内の女性の視線との重なり合いを一種のゲームとして楽しむ男のストーカー譚「ポケットの中の手記」。これらの作品に共通するのは、何の変哲もない日常の中に突如現れた夢・妄想のイメージであり、まさしく短編を書く作業がコルタサルにとっての「悪魔祓い」であったのだろうと思わせる。

 また、詩人についての自伝を記すことで名声を手に入れる伝記作家を描く「手掛りを辿ると」は、収録作の中では珍しくリアリズム調の話で、バルガス=リョサ『マイタの物語』を短編に圧縮したような形の作品であり、枠物語の使い方という意味でもすこぶる面白い作品だ。

 ここまでに紹介した以外の作品は、前衛的な文体が過ぎて大層読み辛く、正直薦めにくいのだが、そうした文体が最大限に活きた作品として、そして本書で最も評者が推す作品として、最後に「そこ、でも、どこ、どんなふうに」を紹介したい。  殴り書きのように書き連ねられた語り手の断片的なモノローグ。そこに描き出されるのは、夭折した友人の在りし日の姿と、今現在夢に見る友人の姿だ。現実と妄想と夢の継ぎ目のないこの文体で描かれる、既に夢でしか会えなくなった友人への切実な追慕と哀悼の念。「こちら側」にいる以上何をすることもできない自らへのもどかしさ。そうした複雑な思いを読者の脳に直接インプットするような、乱暴で、しかし繊細な文体が、読む者の心を打つ。コルタサルに夢を題材にした作品は多いが、その中でも白眉と言えるのではないだろうか。

 政治活動に身を投じて以降のコルタサルを惜しむ声は少なくない。倒錯した文学青年の純真さとキューバへの盲信から、噴飯ものとすら言える幼稚な政治理念だけを盾に政治参加を続けたコルタサルの姿は、多くの読者や友人には理解不能なものだった。だが、彼が目指したのは、あくまでも「現実」へのコミット――幻想的要素を持ち込み、「現実」のままでは見えない「現実」の秘められた諸相を明らかにする――であった。「悪魔祓い」をしてまでも「現実」を直視しようとした誠実さこそが、コルタサルを貫いている。

現実認識を変えるために脳6つを要求する異星人を巡る、異色言語SF――イアン・ワトスン『エンべディング』

 

 

 バベルの塔の崩壊以来、言語の統一は人類の悲願である。だからこそ人類は、「言語」という謎めいた、しかしありふれたものについて学術的興味を抱き続けてきた。本作で下敷きにされており、他の数多の言語SFでもモチーフに使われているサピア=ウォーフ仮説もその一つの結実である。
 サピア=ウォーフ仮説とは、簡単に言えば、我々の思考・認識は使う言語に影響されているということだ。言い換えれば、言語が違えば同じものに対してであっても、異なる認識を得るということである。本作の主人公は、その考えに則り、隔離された研究所の環境内で子供たちを育てるという人権ド無視の仕事に就く言語学者である。彼を含めた研究チームは、『ロクス・ソルス』で知られるフランスのシュルレアリスム文学者レーモン・ルーセルの『新アフリカの印象』内の言語体系のみを子供たちに教育し、彼らがどういった現実認識を抱くのかを調査している。この『新アフリカの印象』というのが難物で、多重括弧内で繰り広げられる超絶技巧の韻文であり今なお邦訳はないという代物だ(英訳はかろうじてある)。こうした既存の言語体系ではあり得ない構造――自己再帰〈エンべディング〉――を持つ言語を幼児期から刷り込むことで、あらゆる言語の源である普遍文法の構造を探ろうとしている訳である。
 ところ変わってアマゾン奥地では、そうした埋め込み構造を持った言語を話す部族がいた。彼らは言語を通常時とドラッグ使用時で二種類の言語を使い分け、「現実」の概念を変容させている。そしてその言語の中では時間の概念がなく、過去も未来も全て現在のものとして表現されてしまう――だから、彼らには直線的な時間認識は存在しないという。この辺りはテッド・チャンあなたの人生の物語」を参照すると分かりやすい。
 さて、そこに現れたるは何と異星人。彼らは高度な技術を地球人に供与する見返りに、強い埋め込み構造を持った人間の脳を6つ雁首(?)揃えて持ってこい、と奇妙な注文を付ける。彼ら曰く、現実が言語に規定されている以上、〈この現実〉から〈別の現実〉へと脱出するには、通常の言語以上に埋め込みの強い言語が必要であり、その習得には稼働状態にある生きた脳が必要なのだという。脳の確保に奮闘する人々。アマゾンのダム建設を巡る政治的駆け引き。サピア=ウォーフ仮説から現実認識の変容へと飛躍する壮絶な奇想の行方は果たしていかに。
 紙幅が尽きたので詳しくは述べられないが、最終章付近での『新アフリカの印象』をブチ込まれた子供の現実認識描写は、統合失調症の発症段階の一つであるアポカリプス期(知覚されるものの意味の連続性が破綻した状態)を連想させ興味深い。この悪夢的描写は見事。はっきり言ってアマゾンの民族を巡る文化人類学的描写はカルペンティエールを思わせて面白くない(西洋文明のカウンターとしてアマゾンとか持ち出すのはもういいでしょ)し、そもそもサピア=ウォーフ仮説というのは今となってはかなり眉唾ものではある。だが、SF小説としては出発点がウソであっても、以後の論理展開が本当らしく描かれていればそれでいいのであって、本作では割合それに成功していると言えよう。

 

 

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全レビュー用。字数制限がきつい(自分が設定してるのに……?)。

アポカリプス期云々のところはいつかもう少し掘り下げたい気持ち。